コンテンツにスキップ

英文维基 | 中文维基 | 日文维基 | 草榴社区

土井脩司

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
花の企画社から転送)

土井 脩司(どい しゅうじ、1942年9月27日[1]-2003年5月6日[2])は、花の企画社創業者、社会運動家。

来歴

[編集]

早稲田大学に入学。在学中の1966年に日本東南アジア学生親交会を結成し、団長として戦火のベトナムやカンボジアを訪問し、帰国後難民孤児救済活動を展開した。ベトナムへは5回渡航している[3][4][5]。早稲田大学を卒業[3]

ベトナムでの挫折感とともに、日本で何かできないかと考え、平和のシンボルである花に着目。花を通して世の中を豊かにするべく、1971年に花の企画社を創業した[4]

「反対派と警察の武力衝突を花の力で食い止めたい[2]」との願いから、強制収用対象地に「花のバリケード」と名付けてパンジーを植え[6]1973年成田空港問題に揺れる成田市東峰にパイロットファームを設立[3]成田空港に着く旅客を花で迎えたいとの友納武人千葉県知事の計らいによって県有地の無償供与を受けたほか[注釈 1]山本力蔵新東京国際空港公団副総裁も理解を示し財界にも支援の輪が広がり、翌年三菱銀行会長の田実渉の支持を取り付けて三菱グループ支援のもと全国の小学校に鉢植えを無料で贈る「花の輪運動」を展開した[注釈 2][2][3][5][7][9][8]。当初は空港周辺農家から「県や公団の手先」などとビラや掲示板を建てられたが次第に信頼を勝ち取っていった[7]

その後も、空港反対派農民と政権側の和解や地域の融和に尽力。1982年芝山町で第1回「ハニワ祭り」(現・芝山はにわ祭)の開催に携わっている[10]

1986年には、財団法人「花と緑の農芸財団」の設立に参画。財団には長嶋茂雄を理事長に迎えたのをはじめ財界要人の瀬島龍三安田敬一扇屋ジャスコ会長)が役員に名を連ね、自らも常務理事に就任した。2001年、同財団理事長[2][6]

1993年12月9日の第3回成田空港問題円卓会議で発言している[11]

2003年5月6日、胃がんにより死去。60歳没[2]

人物

[編集]

「花から学べ」「人間は絶望しないことが大事なんだ」が口癖であった。花の力に着目したきっかけは、1966年テトによる束の間の休戦となったサイゴンで花市場が開催されたときに兵士たちが銃を置いて楽しむ姿を見たことだという[2][12]

土井の死後のインタビューでは、三里塚闘争を行っていた者は「成田を第二のベトナムにしてはいけない」と訴えた土井について「多くの死者をベトナムで見てきた男の言葉には説得力があった」「敵か味方かの世界で、どちらでもない不思議な存在だった。空港と地域の両方が良くなることを願う先駆者だったのか」と振り返り[2][12]、瀬島龍三は「純情一路。平和な社会を実現するために、花一筋の人生を全うした」と土井の生涯を讃え、安田敬一も「泥まみれになって花を育てる純真さが魅力だった」と偲んだ[2]

脚注

[編集]

注釈

[編集]
  1. ^ 友納に土井を紹介したのは、千葉三郎山田久就[7]
  2. ^ 土井はこの縁で「大地を守る会」会長の藤本敏夫を田実に紹介している[8]

出典

[編集]
  1. ^ 平成15年7月1日 故土井脩司告別式 財団合同葬”. www.donpu.net. 秋田ふるさと塾. 2020年8月11日閲覧。
  2. ^ a b c d e f g h “最期まで「花で平和を」”. 読売新聞: 31. (2003-07-20). 
  3. ^ a b c d 日外アソシエーツ, ed (1990). 市民・社会運動人名事典. 日外アソシエーツ. p. 289. ISBN 978-4816909160 
  4. ^ a b 隆徳, 藤井. “花の力で、現代人のココロに革命を。 株式会社花の企画社”. ONLY STORY. 2019年12月14日閲覧。
  5. ^ a b 沿革”. www.hananozaidan.or.jp. 花と緑の農芸財団. 2019年12月14日閲覧。
  6. ^ a b 土井脩司氏死去/花と緑の農芸財団理事長”. 四国新聞社 (2003年6月18日). 2019年12月14日閲覧。
  7. ^ a b c 友納武人『続・疾風怒濤』千葉日報社、1984年6月、122-124頁。 
  8. ^ a b 田実渉 (1981-1-12). “自然を愛す元学生運動家との不思議なめぐり合い”. 日経ビジネス 283: 92. 
  9. ^ 平成27年度 第3回台東区総合教育会議会議録”. 台東区 (2016年1月26日). 2021年3月9日閲覧。 “(服部征夫発言)私の友人が荒廃したベトナムに行きまして、同じ民族同時の争いだとか、そういったものはなぜ起きたのだろうかということも考えているなか、荒廃をしたベトナムの大地の中で、一輪の花を見たそうです。その友人は土井脩司という名前で、亡くなりましたが、その一輪の花を見て、これだと思ったそうです。要するに、荒廃した中に本当に可憐でもあるし、たくましくもあるし、その花の命がここにある、咲いている。これを見て感動して帰ってきて、私にもとにかく日本中を花でいっぱいにし、花の心というものを広めていこうということを私に言ってました。当時、成田闘争のこともあったので、当時の友納知事に土井脩司が話をしたところ、成田空港に着くお客さんを花で迎えようという気持ちで県有地を無償で提供していただいたそうです。そしてそこに花を植えて、花を全国に広めていこうと。”
  10. ^ 櫻井, 準也 (2014-03). “遺跡まつりと地域アイデンティティ : 「芝山はにわ祭」の事例分析から”. 尚美学園大学総合政策研究紀要 (24): 39–53. ISSN 1346-3802. https://cir.nii.ac.jp/crid/1050001338458012928. 
  11. ^ 成田空港問題円卓会議記録集|共生委員会記録集”. www.narita-kyousei.gr.jp. 成田空港地域共生・共栄会議. 2019年12月18日閲覧。
  12. ^ a b “「対立より花」思想咲く”. 朝日新聞(夕刊): 10. (2003-07-28). 

外部リンク

[編集]