モンブラン (洋菓子店)
自由が丘にある「モンブラン」 | |
種類 | 株式会社 |
---|---|
本社所在地 |
日本 〒152-0035 東京都目黒区自由が丘1-29-3 |
業種 | 食料品 |
法人番号 | 4013201005936 |
事業内容 | 洋菓子の製造販売 |
代表者 | 迫田一億 |
外部リンク | https://www.mont-blanc.jp/[1] |
モンブラン(Mont-Blanc)は、東京都目黒区自由が丘にある洋菓子店。自由が丘には1945年に開店。菓子店が密集する自由が丘において[2]、亀屋万年堂と並び称される老舗[3]。店舗は自由が丘のみで、支店は出していない[4]。
沿革
[編集]1930年代に、迫田千万億(さこた ちまお[5])が創業し、ヨーロッパをイメージした菓子の開発に取り組んだ[6]。その後も迫田家が経営している[6]。
モンブランは、終戦後間もない1945年10月に自由が丘に移転した[7]。同社の看板商品であるケーキ「モンブラン」の発売については、創業期とする説と、戦後に自由が丘へ移ってからとする説がある[8]。
同社の歴史は、1950年代の資料と1990年代以降の資料との間で著しく食い違う。迫田千万億本人に取材した伝記としては、1958年の雑誌『実業之日本』の記事と、1960年発行の『日本洋菓子史』がある。
創業
[編集]創業者の迫田千万億(1903年[9]:938-1975年[10])は鹿児島県生まれ。大正13年(1924年)に東京に移り、和洋菓子店「神楽坂・紅谷」に就職し、昭和7年(1932年)に退職した[9]:938[11]:140。
『日本洋菓子史』によれば、退職後に日本国内を旅して回った。新潟、奥州(おうしゅう、東北地方)、静岡の牧場でクリームやバターづくり、山梨で葡萄園見学を経て同年1932年10月に東京に戻る[9]:939。
同じく昭和7年(1932年)[12][11]:140 の10月[9]:939に迫田は西大久保(のちの新宿区内)に「パンの家」という店を創業したが、『実業之日本』によれば2年ほどでつぶれた[11]:140。『日本洋菓子史』は、つぶれたとは言っていない。
『実業之日本』・『日本洋菓子史』によれば、次いで昭和10年(1935年)[11][9]:1275あるいは昭和11年(1936年)[9]:939に迫田は目黒区・三谷町(のちの東急東横線・学芸大学駅近く)に洋菓子店「モンブラン」という店を開業した[11]。移転したのは、西大久保は立地条件が悪かったと考えたからである[11]。
迫田千万億死後の1976年以降の資料では、「モンブラン」の開店年は昭和8年(1933年)に変わった[13][14]。
さらに、モンブランは昭和8年(1933年)当初から自由が丘にあった、という説も出たが[15][J 1]、これに関しては同社は後に否定している[J 2]。
1990年代以降同社は、迫田千万億が戦前のモンブラン創業(この場合1933年説)の前にヨーロッパを旅行したことがある、と主張している[15][J 1]。しかし『実業之日本』と『日本洋菓子史』どちらにも、迫田がヨーロッパに行ったという記述はない。
店名「モンブラン」
[編集]店名の「モンブラン」は、ヨーロッパのモンブラン峰にちなんで命名したものである[11]。
『実業之日本』によれば、迫田は古本屋で買った地図帳を眺めて「モンブラン」を選んだ[11]。『日本洋菓子史』でも、迫田は群馬・新潟・日本アルプスの白一色に感銘し、地図を眺めて「モンブラン」を選んだと言っている[9]:940。
いっぽう1990年代以降同社は、迫田千万億が創業前にヨーロッパを旅行し、本物のモンブラン峰を見て感動したので店名にした、と言っている[15][J 1]。
なお、1930年代には同店以外にも各地に「モンブラン」という名の喫茶店があった[16][17][18]。
戦時中断と自由が丘での開業
[編集]太平洋戦争にともない迫田は徴用され、学芸大学駅近くの店舗も強制疎開のため昭和20年(1945年)に取り壊された[11]。迫田は終戦直後[9]:941の1945年10月に自由が丘に移って営業を再開した[11][J 2]。
ケーキ「モンブラン」
[編集]『日本洋菓子史』は、終戦後の自由が丘での開店の項でケーキ「モンブラン」発売のいきさつを記している。それによると、迫田は白馬で松本高校生[注 1]のスキーヤーと衝突する事故に遭い、入院した[9]:940。その入院中に知り合った田中寿一というフランス帰りの者から[注 2]、田中がイタリアで食べた「モンブラン」というメレンゲ・生クリーム・栗の菓子の話を聞いた。迫田はこれを参考にして作ったケーキを、同じ「モンブラン」という名で売り出した[9]。「時節柄、そうした高級品は作られぬが、カステーラを大きくして」売ったところ好評だったという[9]。
発売年は書かれていないが、『実業之日本』によれば終戦直後は材料不足のため同店はふかし芋と受託加工だけが収入源という状況で、迫田が菓子販売を開始したのは昭和23年(1948年)頃からだったという[11]。
ケーキ「モンブラン」元祖説
[編集]1990年代以降同社は、ケーキ「モンブラン」を日本で初めて発売したのは自社だと主張している[15][J 3]。
同社元祖説を採用した1996年発行のガイドブック『東京名物』(早川光著)によれば、迫田はフランス・シャモニー地方の「ホテル・モンブラン」で出たデザートを参考にしてケーキ「モンブラン」を考案して発売したという[15]。同社元祖説は以後マスメディアにも広く掲載されている[6][19][20][21][22][1]。
日本初かどうかは発売時期による。商品名が「モンブラン」の製品に限って見ても、1935年時点で他社が既に売っていた記録がある。銀座のコロンバン [23]、および本郷・紅谷 [24]である。
『東京名物』に発売年は書かれていないが、早川は2000年に雑誌『東京人』で、同店がモンブランを発売したのは昭和8年(1933年)であると書いた[25]。
2011年発行『自由が丘スイーツ物語』も同社への取材にもとづいているが、モンブラン商品化は1945年としている[22]。迫田千万億と二代目定男(1919年生)による試行錯誤の成果だったという[22]。
商標「モンブラン」
[編集]迫田は商品名の「モンブラン」は商標登録をしていない、という説がある[1]。しかし実際には昭和33年(1958年)に商品名「モンブラン」および「mont Blanc」を商標出願して翌1959年に登録されており、2023年現在[update]も存続中である[26][27]。
迫田千万億のヨーロッパ旅行
[編集]戦後に同店は成長し、1958年には「自由が丘かいわいの新名物」と呼ばれるほど繁盛した[11]:139。 迫田は製菓業の業界団体である日本洋菓子技術協会の幹部に入った[9]:1134。
製菓業界では1959年頃から欧米視察旅行が流行し、1960年にも少なくとも13名の視察が計画された [28]。
昭和35年(1960年)6月に日本洋菓子協会の幹部4名が同時に欧米視察旅行に出発した。迫田千万億もその一人だったが、他3名とは別行動をとり、スイスに滞在した[29]。
出典・脚注
[編集]脚注
[編集]- ^ 「松本高校」という校名が存続した期間は1919年から1950年頃までである: “展示ガイド”. 旧制高等学校記念館. 松本市立博物館. 2022年8月15日時点のオリジナルよりアーカイブ。2023年5月25日閲覧。
- ^ 大川財閥の一族で重役であった田中壽一は大正8年(1919年)頃から何度も欧米へ視察・商談に行っている。
- 「大日本人造肥料に光る少壮新取締役 田中壽一君」『実業之世界』第26巻、実業之世界社、東京、1929年、71頁、doi:10.11501/10293124、全国書誌番号:00010150, NCID AN00266923。(要登録)
- 顔写真
- 「田中栄八郎君の御曹子で一粒種」
- 大正8年に関東酸曹会社に入り、間もなく欧米視察に派遣された。
- 大正10年再び社命で欧米視察し、大正15年9月に日本に帰国。
- 「昭和七年二月十四日」『化学工業年鑑』(1933版)化学工業時報社、東京、1932年12月3日、344頁。doi:10.11501/1218105。 NCID BA51134642。全国書誌番号:46084424 。「大日本人肥田中壽一氏社用にて米国経由渡欧」
- 「昭和八年一月廿六日」『化学工業年鑑』(1934版)化学工業時報社、東京、1933年12月1日、428頁。doi:10.11501/1218130。 NCID BA51134642。全国書誌番号:46084424 。「大日本人肥取締役田中壽一氏欧米視察より帰る」
- 大川財閥の田中壽一は、同姓同名かつ同学校卒かつ同じ頃に渡欧経歴のある、名城大学創設者 田中壽一とは別人。
- 蔵前校友誌
- 郡正一「田中壽一君 四二電」『蔵前校友誌』蔵前校友誌編纂所、東京、1926年9月30日、明治時代 タの部7頁。doi:10.11501/1020829。 NCID BN12884043。全国書誌番号:43052688 。「浜松高等工業学校教授 明治四十二年七月東京高等工業学校電気科を卒業」
- 郡正一「田中壽一君 六応化」『蔵前校友誌』蔵前校友誌編纂所、東京、1926年9月30日、大正時代 タの部3頁。doi:10.11501/1020829。 NCID BN12884043。全国書誌番号:43052688 。「大日本人造肥料会社 大正六年東京高等工業学校応用化学科を卒業」
- 帝国発明協会 編「有功賞 名古屋高等理工科学校 田中壽一」『帝国表彰発明の解説』帝国発明協会、東京、1933年4月22日、292-293頁。doi:10.11501/1234778。 NCID BA5273477X。全国書誌番号:47009535 。「明治四十二年東京高等工業学校電気科を卒業し、[…]大正十一年独逸に留学、同十三年帰朝後浜松高等工業学校教授に任ぜられしが其後私立名古屋高等理工科学校を設立し、同校々長として今日に及べり」
- p23 田中壽一君 顔写真
- 蔵前校友誌
- 「大日本人造肥料に光る少壮新取締役 田中壽一君」『実業之世界』第26巻、実業之世界社、東京、1929年、71頁、doi:10.11501/10293124、全国書誌番号:00010150, NCID AN00266923。(要登録)
同社発信
[編集]出典(その他)
[編集]- ^ a b c “モンブラン【目黒区・自由が丘】洋菓子の歴史に名を刻む。日本初の至高のモンブラン 〜ぐるり東京 名品さんぽ〜”. 東京新聞 (2022年8月9日). 2022年8月9日時点のオリジナルよりアーカイブ。2023年4月12日閲覧。
- 「モンブラン公式サイト https://mont-blanc.jp」
- ^ 清水, 泰博「東京・自由が丘に見る、都心部商店街の現状とこれから」『デザイン学研究 特集号』第28巻第2号、日本デザイン学会、東京、2020年、6頁、doi:10.11247/jssds.28.2_4、ISSN 2433-300X、NAID 130008025803。
- ^ “第4回自由が丘調査 自由が丘・代官山・二子玉川・吉祥寺・下北沢 高感度エリアのイメージ比較を中心に”. 東京: 産業能率大学 (2010年). 2023年5月11日時点のオリジナルよりアーカイブ。2023年5月11日閲覧。
- ^ 株式会社モンブラン(1963年創業、1989年株式会社化)が経営する神戸の洋菓子店チェーン「モンブラン」は、別企業であり、ウェブサイトなどでは「モンブランKOBE」と称している。:“ごあいさつ (株)モンブラン 代表取締役 松田安正”. モンブラン. 2013年7月4日閲覧。
- ^ 福島県立図書館 (2013年4月9日). “東京の自由が丘にある洋菓子店「モンブラン」の初代店主、「迫田千万億」の名前の読み方を知りたい”. レファレンス協同データベース. 2023年5月9日閲覧。
- ^ a b c “しにせ探訪 モンブラン 今でも人気、名菓の「元祖」”. 読売新聞・東京夕刊: p. 08. (2003年4月1日) - ヨミダス歴史館にて閲覧
- 取材先:三代目の妻、取締役 迫田晶子
- 「ケーキの定番の一つ『モンブラン』の元祖だ」
- 「創業 1933年(昭和8年)」
- 「営業拠点 自由ケ丘の店舗のみ」
- 「ホームページ http://cake-cake.net/mont-blanc 」
- ^ 澁川祐子 (2012年4月13日). “「黄色いモンブラン」は日本の発明 アルプスの山々に思いを馳せて自由が丘で誕生 (2/5)”. 日本ビジネスプレス. 2013年7月4日閲覧。
- ^ 澁川祐子 (2012年4月13日). “「黄色いモンブラン」は日本の発明 アルプスの山々に思いを馳せて自由が丘で誕生 (4/5)”. 日本ビジネスプレス. 2013年7月4日閲覧。
- ^ a b c d e f g h i j k l 池田文痴菴『日本洋菓子史』日本洋菓子協会、東京、1960年9月1日、941頁。doi:10.11501/2500175。 NCID BN09071954。全国書誌番号:63007929 。(要登録)
- 迫田千万億(モンブラン創業者)関連:
- pp938-941: 迫田千万億の伝記(本人に取材)
- p938(昭和7年(1932年)):紅谷で昭和7年まで勤務した。
- p939(昭和7年(1932年)):紅谷を退職後、体力強化のために「新潟から奥州をと廻り」、静岡の牧場でクリームやバター作りをし、甲州の葡萄園を見学した。同昭和7年(1932年)10月に「上京して西大久保(伊勢丹通り池袋への道)に開業。」(店名不記)
- p939(昭和11年(1936年)):「ミッチリ二年間、人の世話になったが、貯蓄も出き、[…]学芸大学の傍に移つて、"モンブラン"を商号とした。」
- p940:「自由ケ丘に開業したが、白馬にスケート〔ママ〕に行った時、松本高校生の無茶なスキーヤーに衝突されて転倒。[...]その後、東京駿河台の名倉病院に入院中、旧財閥・大川平三郎の一族、田中寿一と懇意になつた。」
- p941:「田中は、パリ帰りの趣味人で、菓子も詳しく、かつてイタリーに居た頃、メレンゲ・生クリーム・栗で造った、"モンブラン"を食つたというのにヒントを得て、時節柄、そうした高級品は作られぬが、カステーラを大きくして、その名を謳つて販売した処、好評を得、[...]」
- p1275(年表): 昭和10年(1935) 「迫田千万億、モンブラン開業」
- pp938-941: 迫田千万億の伝記(本人に取材)
- 迫田定男(モンブラン二代目社長)関連:
- 凡例V: 本書の内容は原則として昭和35年(1960年)5月時点まで。
- 迫田千万億(モンブラン創業者)関連:
- ^ 「迫田千萬億氏」『製菓製パン』第42巻第1号、製菓実験社、東京、1976年1月、317頁、全国書誌番号:00012901。「十一月二十一日午前五時永眠[...]享年七十二歳」
- ^ a b c d e f g h i j k l 稲毛, 宮夫「焼跡のバラックから一流菓子店を築いた モンブラン社長 迫田千万億氏の半生」『実業之日本』第61巻、1958年1月、140頁、ISSN 04468147、全国書誌番号:00010152。
- 記事全体: pp139-141
- p139: 本人写真
- p140:「モンブラン」という新店名に妻は反対した。覚えにくいし「何となくおちつかない」というのが理由である。しかし迫田は押し切った。
- 記事全体: pp139-141
- ^ 「パンの家 迫田千萬億」『東京市・横浜市・川崎市菓業大名鑑』東京菓麭協会、東京、1933年11月12日、510頁。doi:10.11501/1212887。全国書誌番号:47011527 。「パンの家 迫田千萬億 創業昭和七年」(要登録)
- ^ 「現代の名工 白松、北浜、迫田の三氏に決まる」『製菓製パン』第42巻第1号、製菓実験社、東京、1976年1月、312頁、全国書誌番号:00012901。「迫田千万億氏は[...]昭和八年に目黒・三谷町にモンブランを開店、」
- ^ 金子, 嘉正「トップと語る 製菓盛談 第127回 今月のお客様 モンブラン(東京・自由が丘)専務 迫田一億氏」『製菓製パン』第57巻第8号、製菓実験社、東京、1991年8月、213頁、全国書誌番号:00012901。
- 記事全体: pp212-215
- pp212-214: 創業者:迫田千万億。二代目社長:迫田定男。三代目(迫田定男の子・迫田千万億の孫):迫田一億。
- p213: 二代目定男社長は、元銀座チョコレートショップのシェフ。
- p213: 迫田一億はドイツの菓子店で修業した。
- 記載以外の補足:
- p212: 「『日本洋菓子史』(昭和三十三年刊)」とあるが、実際には昭和35年刊。
- ^ a b c d e 早川, 光「元祖モンブラン」『東京名物』新潮社、東京、1996年11月20日、76-77頁。ISBN 4103989033。 NCID BN1557266X。OCLC 674802288。
- p76:「モンブランはれっきとした東京発祥の洋菓子なのである。」
- p76:「スイス〔ママ〕のシャモニーへ旅行した。[その後]自由が丘に洋菓子店『モンブラン』が誕生した。昭和八年のことである。」
- pp76-77: シャモニーの「ホテル・モンブラン」で出たデザートを参考にしてケーキ「モンブラン」を考案した。
- p77: 同店は「オリジナルはあくまでも当店」だと主張している。
- ^ 「カフエーモンブラン」『職業別電話名簿』(19版)日本商工通信社、東京、1929年、横浜206頁。doi:10.11501/1142643。全国書誌番号:47011011 。「カフエーモンブラン [横浜市中区]、住吉、三ノ三三」
- ^ 「(広告)喫茶 トルキイ」『デイスク年鑑』、グラモヒル社、東京、1933年12月25日、巻末広告、doi:10.11501/1212563、NCID AN10313702, 全国書誌番号:47009486。「姉妹店 モンブラン 高田馬場」
- ^ 「モンブラン」『岡山市商工人名録』岡山市商工協会、岡山、1937年3月27日、227頁。doi:10.11501/1107424。全国書誌番号:44056084 。「[岡山市] 下石井 二八三 モンブラン」
- ^ 吉田素子「モンブラン「白い山」の名、世界各地に(ことばの交差点)」『朝日新聞』2004年12月5日、朝刊、10面。「日本では東京・自由が丘の洋菓子店が最初に広めたとされます」 朝日新聞クロスサーチ閲覧
- 記載以外の補足: 店名は不記。「自由が丘の洋菓子店が[…]昭和初期に欧州旅行で見たモンブランの[…]山の名を店名に創業。」
- ^ 小島正美「モンブラン : 究める(その1)主流は濃厚味、仏産のクリ」『毎日新聞』2005年10月26日、東京朝刊。「モンブランケーキを初めて作ったのは洋菓子の老舗「モンブラン」」 毎索閲覧
- ^ 猫井登, 登『お菓子の由来物語』幻冬舎、2008年9月、17頁。ISBN 978-4779003165。
- ^ a b c 阿古, 真理「02 定番ケーキの元祖はここ モンブラン」『自由が丘スイーツ物語: ケーキで人を幸せにする街』NTT出版、東京、2011年10月18日。ISBN 9784757150799 。
- p56: 茶色いモンブラン流行の発信源は1984年ブランタン銀座の創業と同時に店内で開店したサロン・ド・テ・アンジェリーナとい言われている。
- p56: 自由が丘モンブラン三代目社長夫人談: ヨーロッパではモンブランはデザート菓子だった。日本で立体的なケーキにして売り出したのは当社が初。
- p57: モンブランの商品化は1945年。創業者の迫田千万億と二代目定男が試行錯誤した結果。
- p60: 迫田千万億は1932年に神楽坂・紅屋〔ママ〕洋菓子店を退職して、翌年現在の学芸大学駅の近くに商号「モンブラン」開店。迫田は間近で見たモンブラン山に感動して店名にした「と店では語り継がれている」。
- p61: 自由が丘開店は1945年10月。
- p64: 二代目定男社長 1919年(大正8年)生。
- ^ 市島, 謙吉『文墨余談』翰墨同好会、南有書院、東京、1935年8月19日、391頁。doi:10.11501/1236048。 NCID BN15089025。OCLC 674138556 。
- 「銀座の喫茶店コロンバンで西洋菓子を漁ると、日本の蕎麦をグルグル捲いたやうなものを出した。味は蕎麦とは異なつて、寧ろ栗の味であつた。聞けば瑞西の菓子で、名も同所の名山モン、ブランと云うて、その山容を形どつたものらしい、今はこんな菓子の名を知らねば、新人とされない世の中となつた。」
- ^ 鹽澤芳朗「洋菓子 - 店頭から撰んで」『製菓実験』第6巻第6号、製菓実験社、東京、1935年6月5日、p56(本文), p57(写真)、全国書誌番号:00012899。
- ^ 早川, 光「23区名物図鑑」『東京人』第15巻第11号、都市出版、東京、2000年11月、37頁、ISSN 09120173。「昭和八年に日本で初めてモンブランを売り出した「モンブラン」」
- ^ “登録0536710 モンブラン”. 特許情報プラットフォーム. 特許庁. 2023年4月12日閲覧。 “区分 30 出願人 株式会社モンブラン ステータス 存続-登録-継続”
- 登録0536710 クリックで開く文書内「【商品及び役務の区分並びに指定商品又は指定役務】【類似群コード】 30 菓子(甘栗・甘酒・氷砂糖・みつまめ・ゆであずきを除く。),粉末あめ,水あめ(調味料),もち,パン 30A01 31A03 32F03」
- 商標公告昭33-018276 クリックで開く文書内「出願人 迫田千萬億」
- ^ “登録0536711 mont Blanc”. 特許情報プラットフォーム. 特許庁. 2023年4月12日閲覧。 “区分 30 出願人 株式会社モンブラン ステータス 存続-登録-継続”
- 登録0536711 クリックで開く文書内「【商品及び役務の区分並びに指定商品又は指定役務】【類似群コード】 30 菓子(甘栗・甘酒・氷砂糖・みつまめ・ゆであずきを除く。),粉末あめ,水あめ(調味料),もち,パン 30A01 31A03 32F03」
- 商標公告昭33-018277 クリックで開く文書内「出願人 迫田千萬億」
- ^ 「業界から続々と 欧米視察に出発」『製菓製パン』第26巻第6号、製菓実験社、東京、1960年6月、161頁、全国書誌番号:00012901。
- ^ 「佐久間・迫田・高橋・清水 四氏渡欧」『製菓製パン』第26巻第9号、製菓実験社、東京、1960年9月、167頁、全国書誌番号:00012901。「四氏は、さる6月21日[…]羽田をたった。うち迫田氏はスイスに滞在(八月十日帰国予定)であるが、他の三氏は[…]と各地を見学 さる7月23日正午に帰国した」