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胆沢公阿奴志己

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
胆沢阿奴志己から転送)

胆沢公 阿奴志己(いさわのきみ あぬしこ、生没年不詳)は、古代東北地方の人物。胆沢は地名であり、公は古代日本の律令国家朝廷)で認めた蝦夷(えみし)の族長の尊称である。斯波の蝦夷として記録されているが、大墓公阿弖利爲と同時期の胆沢の蝦夷族長であったとみられている。

史料による事績

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類聚国史延暦11年1月11日ユリウス暦792年2月7日)条にのみ見える。それによれば、斯波村(志波村)の夷である胆沢公阿奴志己等は使者を陸奥国府(多賀城)に送り、王化[注 1]に帰したいと日頃考えているが、伊治村の俘等が道を遮っているので、国家の力でそれらを制して蝦夷が帰降するための「降路」[注 2]を開いて欲しいと申し出た[原 1][1][2]

陸奥国司は阿奴志己等に物を与えて放還したので、報告を受けた政府は「夷狄の性、虚言にして不実なり。常に帰服を称すれども、唯に利のみ是れ求む。今より以後、夷の使者有れども、常賜に加ふること勿れ」と命じている[原 1][1][2]

関連資料

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胆沢公阿奴志己が記録される資料

脚注

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原典

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  1. ^ a b 『類聚国史』延暦十一年正月丙寅(十一日)条

注釈

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  1. ^ 王化とは、王者の徳の恩恵に浴すること。
  2. ^ 続日本紀宝亀8年(777年)3月是月条に「陸奥の夷俘の来り降る者、道に相望り」とあるなど、陸路を歩行して国府や城柵へ達すること自体が服属儀礼の重要な一部分であると認識されていた。

出典

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  1. ^ a b 高橋 1986, pp. 126–127.
  2. ^ a b 樋口 2013, pp. 249–250.

参考文献

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  • 高橋崇『坂上田村麻呂』(新稿版)吉川弘文館人物叢書〉、1986年7月1日。ISBN 4-642-05045-0 
  • 樋口知志『阿弖流為 夷俘と号すること莫かるべし』ミネルヴァ書房ミネルヴァ日本評伝選 126〉、2013年10月10日。ISBN 978-4-623-06699-5 

関連項目

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外部リンク

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菅原道真 (1913). 六国史 : 国史大系.  類聚國史. 経済雑誌社. p. 1251. https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/950692/646 2022年10月1日閲覧。 (国立国会図書館デジタルアーカイブによる原文)