マルティン1世 (アラゴン王)
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(老マルティンから転送)
マルティン1世 / マルティー1世 Martin I / Martí I | |
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アラゴン国王 | |
ポブレー修道院にあるマルティン1世像 | |
在位 |
アラゴン王・マヨルカ王:1396年 - 1410年 シチリア王:1409年 - 1410年 |
別号 |
マヨルカ国王 シチリア国王 |
出生 |
1356年7月29日 カタルーニャ君主国、ジローナ |
死去 |
1410年5月31日(53歳没) カタルーニャ君主国、バルセロナ |
埋葬 | カタルーニャ君主国、ポブレー修道院 |
配偶者 | マリア・デ・ルナ |
マルガリータ・デ・プラデス | |
子女 | シチリア王マルティーノ1世 |
家名 | バルセロナ家 |
王朝 | バルセロナ朝 |
父親 | アラゴン王ペドロ4世 |
母親 | レオノール・デ・シシリア |
マルティン1世(西:Martin I, 1356年7月29日 - 1410年5月31日)は、アラゴン王、バレンシア王、およびバルセロナ伯(在位:1396年 - 1410年)。カタルーニャ語名ではマルティー1世(Martí I)。また、晩年にシチリア王位にもついた(マルティーノ2世(伊:Martino II)、在位:1409年 - 1410年)。アラゴン王ペドロ4世と3番目の王妃レオノール・デ・シシリア(シチリア王ピエトロ2世の娘)の次男。同名の息子に対して老マルティン(西:Martín el Viejo, 伊:Martino il Vecchio)と呼ばれる。またユマニスト王(西:el Humano, 伊:l'Umanista)と呼ばれる。
生涯
[編集]1396年、兄フアン1世が男子を残さずに死去すると、アラゴン王位を継承した。
1373年に結婚した王妃マリア・デ・ルナとの間の息子マルティン(若マルティン)はシチリア王マルティーノ1世となったが、1409年にマルティーノ1世が嗣子なしに死去すると、マルティーノ2世として息子の王位を継承した。
翌1410年には自身も嗣子なしに死去し、後継者も定めていなかったため、マルティン1世の君主位の継承者が定まるまでには2年を要した。1412年にカスペの妥協で、アラゴン、バレンシア、カタルーニャ、シチリアなどの君主位は、妹レオノールとカスティーリャ王フアン1世の子であるフェルナンド1世が継承した。なお、死因については消化不良 (en) 及び笑い死にとされる[1][2]。
脚注
[編集]- ^ Norris, Paul N.. “Morris.pdf Patronage and Piety”. Mirator Lokakuu. 18 May 2011閲覧。[リンク切れ]
- ^ John Doran, The History of Court Fools (Boston: Francis A. Niccolls & Co., 1858), 377-378.
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