コンテンツにスキップ

英文维基 | 中文维基 | 日文维基 | 草榴社区

所沢通信基地

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
米軍所沢通信基地から転送)
所沢通信基地
Tokorozawa Transmitter Site
所沢市
基地全体 (2008年) 地図
座標北緯35度48分28秒 東経139度28分21秒 / 北緯35.807882度 東経139.472412度 / 35.807882; 139.472412座標: 北緯35度48分28秒 東経139度28分21秒 / 北緯35.807882度 東経139.472412度 / 35.807882; 139.472412
種類通信基地
施設情報
現況使用中
駐屯情報
駐屯部隊 アメリカ空軍 第5空軍 第374空輸航空団
正面ゲート 2008年撮影
マイクロウェーブ鉄塔 2008年撮影
LPアンテナ 2008年撮影
ディスコーンアンテナ 2008年撮影

所沢通信基地(ところざわ つうしんきち Tokorozawa Transmitter Site)とは、埼玉県所沢市にある在日米軍通信基地アメリカ空軍第5空軍第374空輸航空団所属施設。施設番号はFAC 3049。日米安全保障条約上の正式名称は「所沢通信施設」(米軍側は主に所沢トランスミッターサイトの呼称を用いる)。面積は978,840平方メートル。

以前の歴史は所沢陸軍飛行場大和田通信所を参照

概要

[編集]

アメリカ軍横田基地や大和田通信所との通信用マイクロウェーブ鉄塔1基、米軍航空機との通信用指向性アンテナであるLPアンテナ8基、航空機との通信用無指向性アンテナであるディスコーン・アンテナ13基、LTOアンテナ2基など、各種通信用機器が設置されている。その他中央部に管理施設、倉庫が併設されている。大和田通信所の受信に対し所沢通信基地は米軍機に対する送信が主な役割である。無線局としては日米地位協定に基づき、AFN(米軍放送)同様、日本法(電波法)の適用対象外である。

2005年の報道によれば、米軍資料から所沢通信基地を含む世界14ヶ国にある通信基地を対象に、アメリカ合衆国大統領もしくは国防長官などから核兵器攻撃実施部隊への「緊急行動命令」(en:Emergency Action Message)を米本土から遠隔操作で伝達可能にする近代化計画がある[1]

ヘリコプター垂直離着陸機の離着陸が可能で、2018年7月2日にはV-22オスプレイの初飛来が確認された[2][3]

沿革

[編集]
所沢飛行場総面積360haのうち約300haをアメリカ軍施設として使用開始。
  • 1952年(昭和27年)7月26日 - 所沢兵器分廠(Tokorozawa Ordnance Sub-depot)としてアメリカ軍に提供。
  • 1954年(昭和29年) - 府中兵器廠(東京都府中市)司令部が所沢に移転。
  • 1955年(昭和30年)2月 - 所沢兵器廠(Tokorozawa Ordnance Depot)に名称変更。
  • 1957年(昭和32年)3月15日 - 組織上の名称が変更される。
アメリカ陸軍在日兵站補給廠(U.S. Army Logistical Depot Japan)となる。
  • 1961年(昭和36年)4月19日 - 所沢補給廠(Tokorozawa Depot)に名称変更。
  • 1962年(昭和37年)3月31日 - 兵器修理部門が閉鎖される。
修理機能は相模総合補給廠神奈川県相模原市)へ移転。
  • 1962年(昭和37年)5月15日 - 組織上の名称が変更される。
在日米陸軍兵站センター(U.S. Army Logistical Center Japan)となる。
ベトナム戦争傷病兵用医療物資の貯蔵管理・補給施設として第602医務隊が運用開始。
  • 1968年(昭和43年)6月 - OTHレーダーが完成[4]
アメリカ航空宇宙防衛軍(ADC)隷下の第14通信中隊が運用開始。
  • 1971年(昭和46年)6月30日 - 第一次返還。医療廠は廃止。
  • 1974年(昭和49年)7月19日 - OTHレーダーの設置が新聞で報じられる。
  • 1974年(昭和49年)7月31日 - 衆議院外務委員会で政府がOTHレーダー設置の事実を認める。
  • 1975年(昭和50年)3月15日 - アメリカ航空宇宙防衛軍が日本国内のOTHレーダー運用停止を決定。
  • 1975年(昭和50年)6月 - OTHレーダーの撤去完了。
  • 1975年(昭和50年)9月 - 柏通信所千葉県柏市)から短波無線送信所機能が移転。
空軍通信サービス(AFCS)第1956通信群(1956CG)が運用開始。
  • 1976年(昭和51年)10月 - 所沢補給廠から所沢通信施設に名称変更(政府間協定)。
  • 1978年(昭和53年)3月 - マイクロウェーブ塔を設置。
ジョンソン飛行場(埼玉県入間市)の最終返還に伴う代替施設として設置。
  • 1992年(平成4年)4月 - アメリカ空軍の組織改編により管理・使用部隊が変わる。
第475基地航空団(475ABW)の解散により第374空輸航空団(374AW)の管理下に置かれる。
第1956通信群の解散により使用部隊が第374通信中隊(374CS)となる。
  • 2004年(平成16年)8月31日 - 非常用電源の発電機用ディーゼル燃料漏出事故が発生。
  • 2004年(平成16年)12月4日 - 燃料漏出事故による汚染土壌の撤去完了。
  • 2005年(平成17年)4月 - LPアンテナの老朽化によりLTOアンテナ2基を交換設置。
  • 2008年(平成20年) - 米第5空軍第374空輸航空団所属基地として運用中。
  • 2018年(平成30年)6月 - マイクロウェーブ塔を撤去。

返還

[編集]
  • 1971年(昭和46年)6月30日に1,918,831m2
  • 1978年(昭和53年)6月20日に97,593m2
  • 1982年(昭和57年)6月30日に13,525m2の順序にて、日本へ返還されている。
  • 2012年(平成24年)2月23日 - 日米合同委員会にて、東西連絡道路用地の返還が合意。
  • 2018年(平成30年)東西連絡道路が着工。道路予定地の建築物やマイクロウェーブ塔の解体が始まる。
  • 2020年(令和2年) 3月28日に東西連絡道路が開通[5][6]

現状

[編集]

1982年(昭和57年)の第三次返還以降、市・市議会・基地対策協議会らの再三の要望(米軍基地が有るため付近の県道が分断されている事による弊害や軍事目標となる事を懸念)にもかかわらず返還実現への動きが止まっているのが現状である。対して米軍は通信機能強化に進んでいる為、返還に向けた合意は難しいのが実情である。2012年(平成24年)2月23日、日米合同委員会にて東西連絡道路用地の返還合意があり、2020年(令和2年)3月28日、東西連絡道路が開通した。

脚注

[編集]
  1. ^ 2005年2月14日付『埼玉新聞』1面閲覧。
  2. ^ “所沢にオスプレイ飛来 埼玉に初・事前連絡なく県抗議”. 東京新聞. (2018年7月4日). オリジナルの2018年7月4日時点におけるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20180704004640/www.tokyo-np.co.jp/article/national/list/201807/CK2018070402000132.html 
  3. ^ “所沢市にオスプレイ離着陸で抗議”. NHK 埼玉NEWS WEB. (2018年7月3日). オリジナルの2018年7月3日時点におけるアーカイブ。. https://archive.is/FSy9T 
  4. ^ a b 第73回国会衆議院外務委員会 会議録第2号 1974年(昭和49年)8月2日
  5. ^ 東西連絡道路の開通(令和2年)”. 所沢市 (2022年1月24日). 2022年2月23日閲覧。
  6. ^ 所沢の「東西連絡道路」開通 基地迂回せず直進、市民の利便性高まる”. 東京新聞 (2020年3月29日). 2020年3月29日時点のオリジナルよりアーカイブ。2020年4月1日閲覧。

関連項目

[編集]

外部リンク

[編集]