竹田恒正
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(竹田宮恒正王から転送)
竹田 恒正 恒正王 | |
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竹田家 | |
続柄 | 竹田宮恒徳王第1王男子 |
身位 | 王→(皇籍離脱) |
敬称 | 殿下→(皇籍離脱) |
出生 |
1940年10月11日(84歳) 日本 東京府東京市芝区、竹田宮邸 |
配偶者 | 竹田恭子(旧姓:根津) |
子女 |
恒貴 浩子 |
父親 | 竹田宮恒徳王 |
母親 | 恒徳王妃光子 |
役職 |
東京ゴルフ倶楽部理事長 日本ゴルフ協会会長 |
竹田 恒正(たけだ つねただ、1940年〈昭和15年〉10月11日 - )は、日本の旧皇族。竹田宮第3代当主。竹田宮恒徳王第1王男子。皇籍離脱前の身位は王(恒正王)。明仁(上皇)のはとこにあたる。
経歴
[編集]1940年(昭和15年)10月11日午後1時55分、竹田宮恒徳王の第1王男子として東京府東京市芝区高輪南町17番地(現在の東京都港区高輪)の竹田宮邸で生まれる[1]。母は恒徳王妃光子。同年10月17日に恒正と命名される[2]。皇紀二千六百年を祝う大観艦式の日に生まれたため、「観艦式の日のご誕生だから、将来はぜひ海軍に」と海軍関係者から望まれた。日本国憲法施行後の1947年(昭和22年)10月14日、父や家族とともに皇籍離脱となる。慶應義塾大学経済学部卒業後、三菱商事に入社[3]。入社後、マサチューセッツ工科大学スローンスクールに留学して経営学修士を取得する。根津コンツェルンの総帥で東武鉄道第4代社長を務めた根津嘉一郎の三女の根津恭子と結婚した。1992年(平成4年)5月11日、父の死によって竹田家を継承した。2009年(平成21年)に東京ゴルフ倶楽部理事長に、2012年(平成24年)に公益財団法人日本ゴルフ協会副会長に、2015年(平成27年)に日本ゴルフ協会会長に、それぞれ就任[4]。
エピソード
[編集]- 程ヶ谷カントリー倶楽部、軽井沢ゴルフ倶楽部の会員でもある。ゴルフを始めたのは、学生の頃に軽井沢ゴルフ倶楽部で父・恒徳とラウンドしたことがきっかけであるという。[5]
家族・親族
[編集]- 竹田家
- 親戚
明治天皇 (1852-1912) 在位 1867-1912 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
大正天皇 (1879-1926) 在位 1912-1926 | 竹田宮恒久王 (1882-1919) | 昌子内親王 (1888-1940) | 北白川宮成久王 (1887-1923) | 房子内親王 (1890-1974) | 朝香宮鳩彦王 (1887-1981) | 允子内親王 (1891-1933) | 東久邇宮稔彦王 (1887-1990) | 聡子内親王 (1896-1978) | 昭和天皇 (1901-1989) 在位 1926-1989 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
昭和天皇 (1901-1989) 在位 1926-1989 | 竹田恒徳 (1909-1992) | 永久王 (1910-1940) | 朝香孚彦 (1912-1994) | 盛厚王 (1916-1969) | 成子内親王 (1925-1961) | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
上皇 (明仁) (1933-) 在位 1989-2019 | 竹田恒正 (1940-) | 北白川道久 (1937-2018) | 朝香誠彦 (1943-) | 東久邇信彦 (1945-2019) | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
今上天皇 (徳仁) (1960-) 在位 2019- | 竹田家 | (男系断絶) | 朝香家 | 東久邇家 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
脚注
[編集]注釈・出典
[編集]著作
[編集]- 「昭和天皇のゴルフ史」『日本経済新聞』2007年4月26日付朝刊、40面。
参考文献
[編集]- 第一編集局セオリープロジェクト編 『名家・名門の秘密』 講談社、2009年。
- 竹田恒泰著『語られなかった皇族たちの真実』
外部リンク
[編集]- 『親王・諸王略傳』恒[恆正] - ウェイバックマシン(2019年1月1日アーカイブ分)