伍長
伍長(ごちょう)は、軍隊の階級の一つで、軍曹の下、兵卒の上に位置する。また、軍隊以外の役職名でも「伍長」が用いられることがある。
概説
[編集]伍長は軍曹の下の階級で兵卒の上に位置し、これを下士官として取り扱う場合はその最下級である。また、英語の corporal 或いはこれに相当する諸言語の階級呼称の訳語である[注釈 1]。 国や時代によって、伍長・corporal 又はこれに相当する階級を下士官よりも下の階級として取り扱う場合と、下士官として取り扱う場合とがある[注釈 3]。
「伍長」はもともとは中国の末端の役職名であり、「伍長」の「伍」は文字の作りのとおり5人という意味で、古代の中国の軍隊が5人を最小単位として編成したことに由来する[注釈 4]。後述するように軍隊以外でも5人程度の組織の長の役職名として用いられた。
英語のcorporalなど、欧米各国の階級名はラテン語で胴体を意味する「corpo」が語源である。
各国軍における伍長の階級名
[編集]国の制度による違いであるため、同じ言語を公用語として用いていても国によって伍長の取り扱いに違いがある。
- Corporal に相当する階級を下士官とする国の例:
- オーストラリア(英語:Corporal)
- カナダ(英語:Corporal・フランス語:Caporal)
- スイス(ドイツ語:Korporal・フランス語:Caporal・イタリア語:Caporale)
- ドイツ(ドイツ語:Unteroffizier)[注釈 5]
- 英国(英語:Corporal)
- アイルランド(アイルランド語:Ceannaire・英語:Corporal)
- インド(英語:Naik)
- オランダ(オランダ語:Korporaal)[注釈 6]
- パキスタン(英語:Naik)
- ポーランド(ポーランド語:Kapral)
- 米国(英語:Corporal)
- 中華人民共和国(中国語:下士)
- 中華民国(中国語:下士)[注釈 7]
- ベトナム(ベトナム語:Hạ Sĩ)
- 等。
- Corporal に相当する階級を下士官より下の兵長・上等兵その他の兵に分類する国の例:
- オーストリア(ドイツ語:Korporal)
- ベルギー(フランス語:Caporal・オランダ語:Korporaal)
- ブラジル(ポルトガル語:Cabo)
- ドイツ(ドイツ語:Korporal)[注釈 5]
- スペイン(スペイン語:Cabo)
- フィンランド(フィンランド語:Korpraali・スウェーデン語:Korpral)
- フランス(フランス語:Caporal)
- イスラエル(ヘブライ語:רב טוראי — רב"ט)
- インドネシア(インドネシア語:Kopral)
- イタリア(イタリア語:Caporale)
- オランダ(オランダ語:Korporaal)[注釈 6]
- ノルウェー(ノルウェー語:Korpral)
- ポルトガル(ポルトガル語:Cabo)
- スウェーデン(スウェーデン語:Korpral)
- シンガポール(英語:Corporal)
- 等。
日本陸軍
[編集]1871年(明治3年12月)の陸軍
[編集]版籍奉還の後、1871年2月11日(明治3年12月22日)に各藩の常備兵編制法を定めたときの歩兵大隊や砲兵隊の中の階級で、軍曹の下、兵卒の上にある[8] [9] [注釈 8] [注釈 4]。曹長・権曹長と軍曹を総称して下等士官といいその下に伍長を置き、下等士官と伍長の四職は少佐が選抜して藩庁へ届出させた[8] [9] [注釈 9]。
1871年4月2日(明治4年2月13日)に御親兵を編制して兵部省に管轄させることになり[12]、また同年6月10日(同年4月23日)に東山西海両道に鎮台を置いて兵部省の管轄に属すことになり[13]、明治4年5月には兵部省によって伍長を命じる例や、喇叭伍長・会計書記伍長を命じる例が見られる[注釈 10]。 西海道鎮台小倉本営が定めた規則では長官以下の統率の例として「兵卒は伍長に聴従し、伍長は裨官及び嚮導に聴従し、分隊司令及び半隊司令は小隊司令に聴従し」とあり、伍長は編制上の職名として扱われているように見える[19]。
このときの伍長は下等士官ではないためその待遇は兵卒に近く、陸軍徽章で定めた軍服や階級章は、紐釦並びに帽前面章は伍長は兵卒と同じで下等士官とは区別しており、下等士官の釦は真鍮桜花、前面章は真鍮日章であるのに対して、兵卒・伍長共に釦は真鍮隊号を附け、前面章は塗色日章とした[20]。 下等士官と兵卒は軍帽の周囲黄線、上衣の袖黄線でその階級を区別しており、伍長は軍帽・袖章とも小3条である[21]。 親兵についても伍長は下等士官の下としており、その紐釦・帽前面章、軍帽・袖章は同様の区別をしている[22]。 また、兵部省陸軍下等士官給俸定則でも、曹長以下軍曹以上については衣服は官給、食料は自弁とすることができるのに対し、伍長以下二等兵卒以上は衣服食料とも官給とした[23]。なお、給俸定則では三兵の兵種に従い差等があるとしても当分先ず同様として、代わりに伍長の給俸を3等に分けて一等伍長から三等伍長までとしているが、伍長の軍服や階級章では区別していない[23][21]。
1871年(明治4年8月)の陸軍
[編集]廃藩置県の後、1871年(明治4年8月)の陸軍においても伍長は、軍曹の下、兵卒の上にある[注釈 11]。 このときの伍長は下等士官ではない[注釈 12]。 官等表に掲載する大尉以下軍曹までを判任としたのに対し、官等表に掲載しない伍長以下兵卒までを等外として扱った[27]。 明治5年1月の官等表改正後も同年2月の陸軍省設置後も軍曹以上は判任で伍長以下は等外である[28] [29] [30]。
陸軍徽章を増補改定しているが下等士官の釦は真鍮桜花、前面章は真鍮日章であるのに対して、兵卒・伍長共に釦は真鍮隊号を附け、前面章は塗色日章とし、伍長は軍帽・袖章とも小3条で変わりない[31]。 また、兵部省陸軍・士官兵卒・給俸諸定則でも、下等士官については食料として毎月金5両を賜るのに対し、伍長以下は現賄を賜るとした[32]。なお、給俸諸定則では兵種に随い日給の差等があるとしても当分先ず同様として、代わりに伍長の給俸を3等に分けて一等伍長から三等伍長までとしているが、伍長の軍服や階級章では区別していない[32][31][注釈 13][注釈 14]。
1873年(明治6年)3月19日の陸軍武官俸給表では、官名として伍長、分課として砲兵・騎兵・歩兵、等級として一等・二等、所属として近衛と鎮台があり、これらの組み合わせで俸給額に違いがあった、また列外増給として会計・書記伍長には増給の規定がある[35]。 このとき、砲兵伍長を除く他の伍長の俸給には一・二等級が置かれて従前の三等以下の級は悉く廃止されたことから、陸軍省達により兵学寮および諸鎮台でこれまで二等給の者は一等に当て、三等以下の者はすべて二等給を以て渡し方を取り計らうこととした[36][注釈 14]。
1873年(明治6年)5月の陸軍
[編集]1873年(明治6年)5月から伍長は陸軍における下士の最下級となる[注釈 12]。軍曹の下、兵卒の上にありその官等は15等のうち十三等であった[25] [注釈 15]。 伍長の人事手続きには軍曹以上との違いがあった[注釈 16]。 伍長一等・伍長二等と表記することがあるが[40]、官名は伍長(曹長・軍曹も同様)であり給料に関係するためやむを得ない場合の表記である[41]。
1874年(明治7年)11月30日改正の部隊編成では、伍長は歩兵大隊書記・病室掛・喇叭長、歩兵中隊炊事掛・中隊附、騎兵大隊炊事掛・病室掛・喇叭長・大隊附、山/野砲兵大隊書記・病室掛・喇叭長、山砲兵小隊(本隊)照準手、山砲兵小隊(予備隊)炊事掛・予備隊附、野砲兵小隊(本隊)弾薬車長・照準手、野砲兵小隊(予備隊)炊事掛・予備隊附、工兵・輜重兵小隊炊事掛・病室掛・喇叭長・小隊附である[42]。
1874年(明治7年)に北海道に屯田憲兵を設置することを定め[43]、1875年(明治8年)3月4日に開拓使の中で准陸軍伍長の官等を定め、その官等は正官と同じとした[44] [45]。
1875年(明治8年)11月24日に改正した陸軍武官服制では、伍長の袖章は内記打3条である[46]。
1875年(明治8年)12月17日に定めた陸軍給与概則では、伍長の俸給は科目として砲・工、騎・輜、歩、等級として一等・二等があり、これらの組み合わせで俸給額が決まる[47]。職務増俸については伍長は書記・炊事掛・病室掛を務める場合に増俸がある[47]。
1877年(明治10年)2月26日に陸軍武官服制を追加並びに改正し、上等卒の服制を追加して袖章を3条として一等卒よりも1条多くして、伍長並びに同相当官の袖章3条を改めて4条とした[48]。
1877年(明治10年)1月に官等を17等に増加しているが[49]、1879年(明治12年)10月10日達陸軍武官官等表では伍長は引き続き十三等としており、このとき官名に憲兵・歩兵・騎兵・砲兵・工兵・輜重兵など各兵科の名称を冠することにした[50]。
1882年(明治15年)2月8日に開拓使を廃止したことから[51]、屯田兵の準陸軍伍長を陸軍省に管轄させた[52] [45]。
1883年(明治16年)5月4日太政官第21号達で陸軍武官官等表を改正し、憲兵・歩兵・騎兵・砲兵・工兵・輜重兵の各兵科伍長の官名から陸軍の二字を除いた[53] [54]
1884年(明治17年)に部隊編制の変更があり、従前は軍曹は主として半小隊長の職務を務め伍長は主として分隊長の職務を務める者であるところこれでは差し支えることが多いため、軍曹を一等軍曹に伍長を二等軍曹に任じてともに半小隊長の職務を務めさせて分隊長を上等兵に務めさせることにした。明治17年6月から明治18年7月までの間を予定して編制替えを行いこれが完了するまでは軍曹・伍長と一等・二等軍曹を併用した[55]。
1885年(明治18年)5月5日太政官第17号達により陸軍武官官等表を改正して輜重兵二等軍曹の次に屯田兵伍長を置いた[56]。従前の准陸軍伍長は屯田兵伍長の官名に換えた[57]。
1886年(明治19年)3月9日勅令第4号で陸軍武官官等表を改正して再び官名に陸軍の2字を冠することとし、屯田兵でも伍長を廃止して屯田兵伍長の官名を陸軍屯田兵二等軍曹に改めた[58]。
1889年(明治22年)の陸軍憲兵
[編集]1889年(明治22年)に陸軍で憲兵分隊の編制上の職務として伍長を置いて憲兵下士若干名を以ってこれに充てた[59]。
1895年(明治28年)に陸軍で憲兵分隊の編制を改めて上等伍長(准士官)と伍長を置いて憲兵曹長を以ってこれらに充て、ただし上等伍長を置かないことが出来るとした[注釈 17]。在職中の准士官である憲兵上等伍長の給与・服制は憲兵下副官と同じとした[61] [62]。
1898年(明治31年)には内地の治安が安定しかつ地方警察が発達したことから憲兵の平時定員を削減するとともに編制を改めて、第一乃至第十二憲兵隊の分隊に本部と伍を設けて伍長は憲兵曹長・一等軍曹を以ってこれに充て、第十三乃至第十五憲兵隊の分隊も同様に本部と伍を設けて伍長は憲兵下士を以ってこれに充て、附則により従前の上等伍長である者であって改正勅令施行の際に伍長を命ぜられた者の身分取り扱い及び給与は服役期限満了まで従前の規定によるとした[63]。
1899年(明治32年)に各兵科下士に伍長の官等を設けることになったため、「憲兵伍長」を「憲兵班長」に改めた[64]。
1899年(明治32年)以後の陸軍
[編集]1899年(明治32年)以後の陸軍における下士官の最下級の階級である。 軍曹の下、兵卒の上にある。 明治32年10月25日勅令第411号(同年12月1日施行)により陸軍武官官等表を改正して「二等軍曹」は「伍長」と改称した[注釈 18]。 文武判任官等級表には等級が5等あり[67]、そのうちの四等の欄に陸軍各兵伍長並び相当官を掲載した[68]。
1904年(明治37年)12月13日勅令第236号により陸軍武官官等表を改正し、各兵科下士の欄の中から陸軍屯田歩兵・騎兵・砲兵・工兵伍長を削る[注釈 19]。
1910年(明治43年)6月文武判任官等級令(明治43年勅令第267号)では等級を4等に分け別表の四等の欄に陸軍各兵伍長及び相当官を掲載した[71]。
1925年(大正14年)5月1日に大正14年勅令第160号を施行して陸軍武官官等表を改正し、航空兵を独立した兵科として、陸軍工兵伍長の項の次に陸軍航空兵伍長を加えた[72]。
1937年(昭和12年)2月12日に砲工兵諸工長及び各部下士官の官名を各兵科のものに一致させるように改正し、陸軍砲兵三等火(鞍・銃・鍛)工長は陸軍火(鞍・銃・鍛)工伍長に、陸軍工兵三等木(機・電)工長は陸軍木(機・電)工伍長にそれぞれ改めて、これらを従前の陸軍各兵伍長と併せて陸軍各兵科伍長と称し、経理部の陸軍三等計手は陸軍主計伍長に、陸軍三等縫(靴)工長は陸軍縫(装)工伍長にそれぞれ改め、衛生部の陸軍三等看護長は陸軍衛生伍長に、陸軍三等磨工長は陸軍療工伍長にそれぞれ改め、獣医部の陸軍三等蹄鉄工長は陸軍獣医務伍長に改め、軍楽部の陸軍三等楽手は陸軍軍楽伍長に改め、これらを陸軍各部伍長と称した[73] [74]。
1940年(昭和15年)9月15日に昭和15年勅令第580号を施行して陸軍武官官等表を改正し、兵科の区分を廃止して新たに技術部を設け、各兵科のうち憲兵科を除く陸軍歩(騎・砲・工・航空・輜重)兵伍長は陸軍伍長に改めて陸軍伍長と陸軍憲兵伍長は兵科に属し、砲兵科の陸軍火(鞍・銃・鍛)工伍長及び工兵科の陸軍木(機・電)工伍長は陸軍兵技伍長に改め技術部に属した[注釈 20]。
伍長(判任官四等)になるには概ね次の諸過程があった。
- 教導團卒業者。(のちに廃止)
- 次のような経歴を経て兵から進級した者。
- 一等卒(昭和6年11月10日以後は一等兵)の中から選ばれて上等兵候補者特別教育を受ける。
その後、上等兵候補者特別教育を受けた者のうちで適任と判断された者は、上等兵になった。
- 1927年以後は幹部候補生、中学校卒業者で乙種幹部候補生の教育を受けた者。平時はそのまま除隊し、予備役に編入された。
- 応召兵のうち、下士官適任証書所持者(現役満期時に上等兵以上から選抜)は「志願ニアラサル下士官」として部隊充員の必要に応じて伍長に進級した。
- 戦時の進級
- 陸軍士官学校予科(後年「予科士官学校」)を修了した士官候補生。士官学校生徒は本科進学の前に6ヶ月間(太平洋戦争末期は2ヶ月間)隊付を経験する義務があった。
陸軍廃止時には
- 陸軍伍長(兵科)[75]
- 陸軍憲兵伍長(兵科)[75]
- 陸軍技術伍長(技術部)[76]
- 陸軍主計伍長(経理部)[75] [77]
- 陸軍経技伍長(経理部)[77]
- 陸軍建技伍長(経理部)[77]
- 陸軍衛生伍長(衛生部)[75] [77]
- 陸軍療工伍長(衛生部)[75] [77]
- 陸軍獣医務伍長(獣医部)[75] [77]
- 陸軍法務伍長(法務部)[78] [79]
- 陸軍軍楽伍長(軍楽部)[75] [77]
が存在した[75] [77] [76] [78] [79] [80]。
日本海軍
[編集]大日本帝国海軍では三等兵曹(1942年からは二等兵曹)の官階が陸軍伍長の官等に相当した。海軍では兵曹等の職名に伍長があった[81]。
明治初期の日本海軍
[編集]海軍はイギリス式[注釈 21]を斟酌して編制する方針を1870年10月26日(明治3年10月2日)に示しており[10]、明治5年に海軍省は下等士官以下の官名を英国海軍官名録に倣い改正することを布告したことから[83]、英国海軍官名録の中から適切な職名を採用して改めることにしたが、それまでは曹長・権曹長・軍曹・伍長の職名が使われることがあった[84] [注釈 23] [注釈 24]。
1871年2月11日(明治3年12月22日)に海軍服制を制定して軍服や階級章を定めたときに下等士官以下は帽で曹長・権曹長・軍曹・伍長・卒を区別して、伍長の帽は無条、伍長の肘上章により一等水夫と一等火夫を区別した[92]。
1872年2月20日(明治5年1月12日)に兵部省が定めた外国海軍武官に対応する国内の海軍武官の呼称では、リーヂング・シーメンを一等伍長に、ヱーブル・シーメンを二等伍長に対応させている[93][94] [注釈 26]。
1872年5月21日(明治5年4月15日)から降級・昇級等については軍曹よりも下は所轄の艦船において伝達させることにする[97]。
1872年9月27日(明治5年8月25日)の軍艦乗組官等表の下士三等・伍長相当欄に在るものはすべて下士判任と海軍省は認定しているいる[注釈 27]。 軍艦乗組官等表では中端舟長・小端舟長・甲板長属・檣樓長属・按針長属・信号長属・帆縫長属・造綱長属・槙筎師・塗師・桶師・火夫長属・鍛冶長属・兵器師・厨宰介・病室厨宰・看病人長を三等下士に分類して伍長相当とした[102]。
1872年10月30日(明治5年9月28日)に海軍中等士官曹長以下の禄制を定めたときに、一等中士以下を乗艦の官員に充て、伍長を含む曹長以下を海兵官員に充てることとした[103]。
伍長並びに伍長相当の官名ではないがこれに関連するものがある。 1872年5月23日(明治5年4月17日)に海軍の官名について諸艦船とも英国海軍官名録[95]の通りに唱えさせることにしており[104] [注釈 25]、この英国海軍官名録に掲載されている中に伍長に関連する官名として小監補 (Ship’s Corporal) がありこれを一等下士 (First-class Petty officer) に分類し、その上に小監 (Master-at-arms) がありこれを上頭下士 (Chief petty officer) に分類している[108]。 なお、海軍諸表便覧の皇国英国海軍官名比較表では英国の小監・小監補に対応するものとして肝煎・肝煎介を掲げており[107]、明治5年8月に定めた軍艦乗組官等表では肝煎は二等中士に分類し曹長相当とし、肝煎介は一等下士に分類し権曹長相当としている[102] [注釈 29]。 英米海軍に於いては下士官の職務であり、Master-at-arms は先任衛兵伍長・先任警衛兵曹・先任警衛海曹など、Ship’s Corporal は衛兵伍長などの和訳がある。
日本の海兵隊
[編集]海兵隊は1871年(明治4年8月)から募集編隊を始めており続いて隊中に伍長を置いてる[115]。
海兵隊の軍曹・伍長は諸艦の裨官[注釈 30]並びに押伍官[注釈 31]に準じ取り扱うとし[115]、1872年4月12日(明治5年3月5日)に各艦乗組押伍官・各艦乗組野砲海兵押伍官・各艦乗組伍長は改めて伍長を命じている[118]。
明治5年10月に海軍省官等表に十四等として掲載したことで伍長は正式な官名となる[115] [119]。
1873年(明治6年)5月8日に陸軍と揃えるために海軍武官官等表を改正して伍長を十三等にした[120]。この際に海軍省が定めた曹長以下の外国名との比較によると伍長をコルポラルに、一等卒の中で伍長副をランス・コルポラルに対応させている[121]。
1873年(明治6年)6月5日の海軍砲歩兵隊官等并俸給表の左端において砲兵伍長副のフリガナにバンバテアルとあり、砲兵伍長副の日給は砲兵隊の部に掲載された一等砲兵の日給よりも多い[122]。
1875年(明治8年)11月12日に布告した海軍武官及文官服制(明治6年11月改定)の海兵隊服制・下によると、常服の両腕の山形線の数は砲兵・歩兵とも伍長は2本、伍長副は1本である[123]。
1876年(明治9年)8月に海兵を解隊した[124]。 その後、配置転換が完了したことから、1878年(明治11年)2月19日に海軍文武官官等表から海兵部の部目を削除して海兵隊の伍長は完全に廃止された[125]。
日本海軍における職名
[編集]日本海軍では編制上の職名として伍長があり、1886年(明治19年)の横須賀屯営の編制では営長・副長に属する兵曹の職名の中に砲術教授、運用術教授、掌帆長属、掌砲長属、番兵長、小汽船掛などと並んで伍長がある[注釈 33]。
1890年(明治23年)の横須賀鎮守府衛兵規則では、鎮守府衛兵は兵曹水兵を選抜して編制し兵曹を以って衛兵伍長とした[127]。
1891年(明治24年)の鎮守府海兵団の編制では、一等兵曹から三等兵曹までの職名の中に砲術教員、新兵教員、掌砲長属、掌帆長属、掌水雷長属、艇長などと並んで伍長がある[128] [129] [130]。
1911年(明治44年)の軍艦職員服務心得では、衛兵司令が衛兵を編成するに当たっては衛兵伍長は兵曹若しくは一等水兵であって性格厳格な者を選抜するとし[131]、先任衛兵伍長は副長・当直将校及び甲板掛将校の命を承けて、衛兵伍長は当直将校及び衛兵司令の命を承けて艦内警察の任に当たった[132]。
自衛隊
[編集]自衛隊では3曹(3等陸曹、3等海曹、3等空曹)がこれに相当する。
2曹(2等陸曹、2等海曹、2等空曹)が伍長相当、3曹が兵長相当の階級であると誤解されがちだが、兵長はあくまで兵に区分され、曹は下士官に区分されるため、最下級の下士官という意味では、3曹(3等陸曹、3等海曹、3等空曹)が最も当てはまる。ただし、名称には曹(sergeant)を用いているため、伍長(Corporal)には当てはまらないとされる[注釈 3]。なお、3等海曹は旧海軍の二等兵曹に相当するが、英呼称ではPetty Officer 3rd classと1942年以前のものが使用されている。
また、海上自衛隊の教育隊においては、各班の最先任の学生の役職として、伍長が設けられており、一般に学生長、副学生長、分隊甲板に継ぐ役職である。
古代中国の伍長
[編集]伍は五人単位の組織全般に用いられ、古代中国の周の時代には地方支配の末端の役職に伍長があった。五人組の頭、五人一組の隣組の長として、この語が用いられた。
日本の伍長
[編集]- 幕末、新選組で組長の下におかれた役職。
- 明治時代初めの仙台藩では、江戸時代の五人組を引きつぐものとして伍中という単位を設け、伍長を任命して統括させた(伍長 (仙台藩・宮城県))。
- 1871年2月11日(明治3年12月22日)に各藩の常備兵編制法を定めたときの歩兵大隊や砲兵隊の中の階級である[8] [9]。曹長・権曹長と軍曹を総称して下等士官といいその下に伍長を置いた[8] [9]。
- 1871年(明治4年8月)から1873年(明治6年)5月までの陸軍における階級である[注釈 11]。軍曹の下、兵卒の上にあるが伍長は下等士官ではない[注釈 12]。
- 1871年(明治4年8月)から募集編隊を始めた海兵隊における下士の最下級の階級である[115]。軍曹の下、砲兵・歩兵の上である。1876年(明治9年)8月に海兵を解隊し[124]、配置転換が完了したのち1878年(明治11年)2月19日に海軍文武官官等表から海兵部の部目を廃止した[125]。
- 1873年(明治6年)5月から1884年(明治17年)まで陸軍における下士の最下級の階級である[注釈 12] [55]。軍曹の下、兵卒の上にある[25]。
- 1889年(明治22年)から1899年(明治32年)まで陸軍で憲兵分隊に置かれた職名である[59] [64]。
- 1899年(明治32年)以後の大日本帝国陸軍における下士官の最下級の階級である。軍曹の下、兵卒の上にある。明治32年10月25日勅令第411号(同年12月1日施行)により陸軍武官官等表を改正して「二等軍曹」は「伍長」と改称した[65]。
- 海軍(海上自衛隊でも準用)においては、各部隊等の先任下士官等の職名又は俗称の一つ(先任伍長等)。
- 消防伍長 宮内省皇宮警察消防科職員の階級の一つ。
脚注
[編集]注釈
[編集]- ^ 五国対照兵語字書によると伍長は、フランス語: Caporal、ドイツ語: Korporal、英語: Corporal、オランダ語: Korporaal にあたる[1]。
- ^ 同条約の英語の原文では sergeants
- ^ a b 捕虜の待遇に関する1949年8月12日のジュネーヴ条約(第三条約)第60条では捕虜に対する俸給の支払いについて、「軍曹[注釈 2]より下の階級の捕虜」を第1類とし、「軍曹その他の下士官又はこれに相当する階級の捕虜」を第2類としていることから、「軍曹より下の階級」である伍長は、この条文に基づく取り扱いでは兵卒と同様となり、下士官の取り扱いを受けない[2] [3]。
- ^ a b 伍長は古代中国でも見られる官職名から起用したものであるが、日中両言語における同義部分がある他に日本語の場合はさらに独自の意味を持ち新式軍隊の階級として使用している。しかしこの語義は現代中国語には還流できず、あるいは還流できたとしても最終的に定着しなかったと考えられる[4]。
- ^ a b ドイツ軍における下士官の最下級である Unteroffizier を伍長と和訳することがある。現代は NATO code により英語の sergeant と同等とされているが、歴史的には英国陸軍の corporal とその職務が類似していたことから corporal とされていた(英語版の Unteroffizier の記事)。また、かつてはドイツ軍における Korporal は階級ではなく分隊長を意味していた。しかし、2021年9月15日からドイツ連邦軍において兵 (Mannschaften) の階級として Korporal を導入した[5]。
- ^ a b オランダでは正式には Korporaal を兵 (manschappen) に分類する。ただし、海軍と海兵隊では、Korporaal を下士官 (Onderofficier) に分類する。
- ^ 中華民国政府の全國法規資料庫では陸海空軍軍官士官任官條例における 下士 を Corporal と英訳している[6] [7]。
- ^ 1870年10月26日(明治3年10月2日)に陸軍はフランス式を斟酌して常備兵を編制する方針が示され、各藩の兵も陸軍はフランス式に基づき漸次改正編制させていった[10]。
- ^ 明治3年から明治4年にかけて和歌山藩が和歌山藩戍兵下等伍長、歩兵上等伍長などを任ずる例が見られる[11]。
- ^ 明治4年5月25日に中村勝之助ほか31名に伍長を命じている[14]。 なお、明治4年5月25日に小峯義之助に喇叭伍長を命じ[15]、同日に佐藤誠之進に会計書記伍長を命じ[16]、同日に中村勝之助ほか31名に伍長を命じ[17]、同日に吉田徳造ほか31名に伍長を命じている[18]。
- ^ a b 陸軍恩給令では服役年の始期は明治4年8月を以って始期とするため、その以前より勤仕の者であったとしても総て同月を始期とした[24]。
- ^ a b c d 1873年(明治6年)5月8日の陸海軍武官官等表改正で伍長を判任の下士と改定してその官等を十三等としたため[25]、改定前に元教導隊及青年舎生徒より伍長拝命の者は1873年(明治6年)5月16日から下士になったことにした[26]。
- ^ 正規の給俸とは別に、下士の心得勤と同様に伍長心得の日給も定めれた[33][34]。
- ^ a b 明治4年の給俸諸定則の伍長の日給と明治6年の陸軍武官俸給表の伍長の俸給1日分とを比較する。このとき明治4年の給俸諸定則において永1000文が金1両と同額でこれと金4分あるいは金16朱も同額であり、また明治6年の陸軍武官俸給表において100銭が1圓と同額で従前の金1両と1圓が同額であるとする。
- 従前の三等軍曹の日給永150文は、
- 従前の四等軍曹の日給永134文は、
- 軍曹の分課が歩で等級が二等で鎮台の俸給1日15銭よりも少ない、また、
- 伍長の分課が砲で等級が一等で近衛の俸給1日14銭1厘1毛よりも少なく、
- 伍長の分課が騎で等級が一等で近衛の俸給1日12銭9厘4毛よりも多い
- 従前の軍曹心得の日給永122文は[33]、
- 軍曹の分課が歩で等級が二等で鎮台の俸給1日15銭よりも少ない、また、
- 伍長の分課が騎で等級が一等で近衛の俸給1日12銭9厘4毛よりも少なく、
- 伍長の分課が歩で等級が一等で近衛の俸給1日11銭7厘6毛よりも多い、また、
- 兵卒の分課が砲で等級が火工で近衛の俸給1日12銭1厘に近い
- 従前の一等伍長の日給永92文は、
- 伍長の分課が歩で等級が一等で近衛の場合は増額、鎮台の場合は減額、
- 伍長の分課が騎で等級が一等で近衛の場合は増額、鎮台の場合は俸給1日9銭2厘4毛にやや増額、
- 伍長の分課が砲で等級が一等の場合は近衛・鎮台とも増額、また、
- 兵卒の分課が砲で等級が火工で近衛の俸給1日12銭1厘よりも少なく、
- 兵卒の分課が砲で等級が火工で鎮台の俸給1日8銭6厘4毛よりも多い、また、
- 兵卒の分課が砲で等級が二等馭者で近衛の俸給1日9銭8厘3毛よりも少なく、
- 兵卒の分課が砲で等級が一等馭者で鎮台の俸給1日8銭4毛よりも多い
- 従前の二等伍長の日給永84文は、
- 伍長の分課が歩で等級が一等で近衛の場合は増額、鎮台の場合は俸給1日8銭4厘で同額、
- 伍長の分課が騎および砲で等級が一等の場合は近衛・鎮台とも増額、また、
- 兵卒の分課が砲で等級が一等卒で近衛の俸給1日8銭4厘と同額
- 従前の三等伍長の日給永75文は、
- 伍長の分課が歩で等級が二等で鎮台の場合は俸給1日7銭5厘で同額、
- 伍長の分課が騎で等級が二等で鎮台の場合は増額、また、
- 兵卒の分課が騎で等級が一等で近衛あるいは
- 兵卒の分課が砲で等級が二等卒で近衛の俸給1日7銭7厘よりも少なく、
- 兵卒の分課が歩で等級が一等で近衛の俸給1日7銭よりも多い、また、
- 兵卒の分課が砲で等級が一等馭者で鎮台の俸給1日8銭4毛よりも少なく、
- 兵卒の分課が砲で等級が二等馭者で鎮台の俸給1日7銭2毛よりも多い
- 伍長の分課が歩で等級が二等で鎮台の俸給1日7銭5厘よりも少ない、また、
- 兵卒の分課が歩で等級が一等で近衛の俸給1日7銭よりも少なく、
- 兵卒の分課が砲で等級が一等卒で鎮台の俸給1日6銭に近い
- 従前の一等兵卒の日給永67文は、
- 伍長の分課が歩で等級が二等で鎮台の俸給1日7銭5厘よりも少ない、また、
- 兵卒の分課が歩で等級が一等で近衛の俸給1日7銭に近く、
- 兵卒の分課が砲で等級が一等卒で鎮台の俸給1日6銭よりも多い
- 従前の二等兵卒の日給永50文は、
- ^ このとき陸軍武官官等表で官等十一等から十三等までに相当する曹長・軍曹・伍長を下士と表記した[25]。
- ^ 1873年(明治6年)7月8日から曹長と軍曹の採用・離職はその所管長官(近衛都督・鎮台長官・兵学頭)が行うことにする[37]。ただし、伍長の採用・離職は従前の通り大隊長限りとした[38] [39]。また、1874年(明治7年)1月1日から曹長と軍曹は本省、伍長は各所管長官に於いて採用・離職を命じることにした[39]。
- ^ 閣議の趣旨説明によると、伍長に上等伍長(准士官)を設けたのは姫路・福岡のような軍隊屯在地及び新潟・長崎のような開港場に分屯する伍長に在っては遠く分隊長のもとを離れ、一つは軍人に対し、一つは外国人に対し交渉する事件に関し独断専行機算の措置を行わなけれればならずその責任は重大になることが伍長に准士官の伍長を設ける理由になるとした[60]。
- ^ 従来は下士の出身が同一であり同一の種類の下士であることから軍曹を一等・二等に区分してきたが、下士制度を改正し1年服役の短期下士と長期下士を設けたことから、短期下士に伍長の官名を用いて平時は軍曹に進級させないことにして、長期下士は初任は伍長として軍曹に進級させることにした[65]。短期下士については、1903年(明治36年)11月30日勅令第185号による陸軍補充条例の改正により廃止して伍長勤務上等兵を設けた[66]。
- ^ 閣議の趣旨説明によると、陸軍屯田歩兵・騎兵・砲兵・工兵伍長の官名を削除したのは、第7師団の編成が完成し現役の屯田兵は明治37年4月1日に悉く後備役に編入したことから屯田兵条例改正の結果とした[69] [70]。
- ^ 閣議の趣旨説明によると、陸軍武官の各兵科の区分を廃止し、別に陸軍技術に従事する武官のため新たに技術部を設ける必要があるためとした[75]。
- ^ 1870年6月1日(明治3年5月3日)には、横須賀・長崎・横浜製鉄場総管細大事務委任を命ぜられた民部権大丞の山尾庸三に対して、思し召しにより海軍はイギリス式によって興すように指示している[82]。
- ^ 水兵本部は専ら海軍海兵隊及び砲兵隊を管轄する[85]。
- ^ 明治5年8月9日に海軍省内で諸工水火夫掛より軍務局へ伺いがあり、曹長・権曹長・軍曹・伍長の職名は英国海軍官名録にはないため、諸工水火夫掛において管轄になるものは海軍官名録の中から適切な職名に改めたいこと、また、曹長以下の職名のものはすべて水兵本部[注釈 22]において管轄になる理解していると申し入れがあり、これに対して軍務局は追って改正するまでは従前の通りと答えている[84]。
- ^ 海軍では下士以下は箱館を平定した明治2年5月以前[86]は服役年に算入しないが[87]、明治元年から明治3・4年の際に政府直隷の艦船及び旧諸藩より献納した艦船における乗組員の官職名のうち実地軍人の職務に従事していたものは、官等表に掲載する純然たる本官ではなくとも服役年計算の際に総て軍人として取り扱うことにしている[88]。艦船乗組員の官職名のうち下士以下には一等下士官・二等下士官・機関士補・水火夫小頭・水火夫小頭助・楽手・一二三等水火夫等がある[89] [90] [91] [88]。
- ^ a b 太政類典には布達文の後に、海軍省刊本英国海軍官名録[95]により補入した内容と[105]、海軍省刊本海軍諸表便覧[106]により補入した皇国英国海軍官名比較表[107]が掲載されている。
- ^ 明治5年に海軍省が刊行した英国海軍官名録[95]によると、下等官員 (Petty officers) 以上や陪従(Domestic、准卒)に分類しない乗組員である船伴 (Ships Company) の中に俊秀水夫(Leading Seaman、リーヂイング・シイメン)と適応水夫(Able Seaman、エーブル・シーメン)があり、俊秀水夫と並んで修船手 (Shipwright)、貨艙長 (Yeoman of Store-Room)、船艙次長 (Second Captain of the Hold)、造帆徒 (Sailmaker’s Crew) があり、適応水夫と並んで火夫兼搬炭夫 (Stoker and Coal Trimmer)、鍜工徒 (Blacksmith’s Crew)、錫工 (Tinsmith)、兵器工徒 (Armourer’s Crew)、木工徒 (Carpenter’s Crew)、鉛工徒 (Plumber’s Crew)、桶工徒 (Cooper’s Crew) がある[96] [注釈 25]。
- ^ 明治25年12月28日の内閣記録局より海軍省への照会によると、明治5年10月第305号海軍省職制[98]の中で初めて伍長が官等表の十四等に置かれたところであるが伍長を編隊中で初めて置いたのはいつであるか、さらに、明治5年8月25日軍艦乗組官等表[99]の中に三等下士・伍長相当の欄があるけれども三等下士即ち伍長相当は判任であるかの2つを照会した。これに対する海軍省の回答は、前段として判断基準の説明があり、伍長の純然たる官等表への掲載は明治5年10月第305号海軍省職制をもって創始としてこれ以前は隊中の官に止まり伍長を純然たる官としては設けていないことを確認し、伍長の創置は明確にすることはできないが今この時期を定めるには明治18年の太政官への伺定[88]に準拠して下士判任とするべきものとした。後段として結論があり、明治5年8月に定めた軍艦乗組官等表の中の下士三等・伍長相当の欄にあるものは総て下士判任とするとした[100]。 また、海軍省は天長節酒饌料の下され方について陸軍省に照会しその回答を考慮して[29]、1872年10月27日(明治5年9月25日)に大尉以下伍長下士以上は判任、一等卒以下兵卒は等外としている[101]。
- ^ a b 閣議の趣旨説明によると、警吏は軍艦・屯営内にて違反行為を警察させる者になる。これが必要であったのは水火夫には無頼漢が多かったからで、明治22年には適品行不正の者があるけれども軍紀があるので各上級者にこれを糺させる方法があり、別種の警察吏のようなものを軍艦・屯営内に置く必要はないのみならず却ってこれがあるために弊害があるので、警吏を廃止して違反行為を警察し不品行者を糺すのは各上級者の責任に委せることにした[114]。
- ^ 1873年(明治6年)の海軍武官官等表[109]で従前の肝煎・肝煎介の名称を警吏・警吏補に改め[110] [111]、1886年(明治19年)に警吏・警吏補を一等警吏から三等警吏までに改め[112] [113]、1889年(明治22年)に海軍は警吏を廃止した[注釈 28]。
- ^ 裨官は英国のサアヂヱントの訳語[116]。
- ^ 押伍は英国の歩兵に関する訳語としては、隊列が乱れないようにする役割である[117]。
- ^ 明治21年に海軍番兵司令を衛兵司令、番兵副司令を衛兵副司令と改称した[126]。
- ^ 明治19年には兵曹とは別に警吏の官名がまだ在り[112]、衛兵伍長の職名はまだなく番兵司令・番兵副司令[注釈 32]に属する下士には警吏などに加えて番兵長を職名とする兵曹があった[81]。海軍の警吏は明治22年に廃止した[注釈 28]。
出典
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参考文献
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- 「陸軍武官表・四条」国立公文書館、請求番号:太00424100、件名番号:015、太政類典・第二編・明治四年~明治十年・第二百二巻・兵制一・武官職制一
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