積丹半島沖地震
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(神威岬沖地震から転送)
積丹半島沖地震 | |
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地震の震央の位置を示した地図 | |
本震 | |
発生日 | 1940年(昭和15年)8月2日 |
発生時刻 | 午前0時8分22.1秒(JST) |
震央 | 日本 北海道 積丹半島北西沖 |
座標 | 北緯44度21.5分 東経139度49.0分 / 北緯44.3583度 東経139.8167度座標: 北緯44度21.5分 東経139度49.0分 / 北緯44.3583度 東経139.8167度[1] |
規模 | マグニチュード(M)7.5 |
最大震度 | 震度4:北海道 羽幌町 |
津波 | 奥尻島 3m |
地震の種類 | 逆断層型 |
被害 | |
死傷者数 | 10人 |
被害地域 | 北海道西部 |
出典:特に注記がない場合は気象庁による。 | |
プロジェクト:地球科学 プロジェクト:災害 |
積丹半島沖地震(しゃこたんはんとうおきじしん)(別名:神威岬沖地震)は、1940年8月2日0時8分に発生した。積丹半島沖の日本海を震源とするM7.5(Mw7.4-7.6)の地震で、震央は北緯44°21.53’ 東経139°49.03’の忍路海山付近である[1]。この地震の後、付近では1943年積丹半島北西沖地震(M6.1)や、1947年留萌西方沖地震(M6.7)などが発生している。更に、南の領域では1993年北海道南西沖地震(M7.8)も発生した。
被害の記録
[編集]戦時体制下で且つ人口の少ない地域の地震であったため、1944年の東南海地震(昭和東南海地震) と同様に残る記録は少ないが、死者10人、住家全壊26、半壊7の記録が残る[2]。死者は、天塩川河口で溺死したもの[3]。最大震度は羽幌、留萌、幌延、岩内、乙部などの震度4。津波は利尻島で3m、天塩、羽幌で2m、京都府でも1mを記録した[4]。
地学的見知
[編集]1987年7月に行われた潜水調査で3500mの海底から得られた試料により、発生間隔は500~1000年と推定されている[5]。ユーラシアプレートと北アメリカプレートの境界域(日本海東縁変動帯)で発生した地震。積丹半島沖地震と北海道南西沖地震の間には、地震の空白域が残る。
自然災害伝承碑
[編集]天塩町には石碑「追悼碑」があり、2019年に自然災害伝承碑として国土地理院のウェブ地図に登録された[6]。
脚注
[編集]- ^ a b 1940/08/02の地震 - 気象庁震度データベース
- ^ 過去に発生した道内各地域の主な地震被害 北海道庁
- ^ 島村英紀、森谷武男『北海道の地震』北海道大学図書刊行会、1994年、p43頁。
- ^ 積丹半島沖地震(1940年) 内閣府 北海道南西沖地震教訓情報資料集[リンク切れ]
- ^ 池原研、板木拓也、保柳康一、深海底タービダイトからみた 1940 年積丹半島沖地震震源域周辺の地震発生間隔 日本地質学会学術大会講演要旨 110, 27, 2003-09-10, doi:10.14863/geosocabst.2003.0_27_2
- ^ “「世界津波の日」に合わせて津波災害の教訓を確認”. 国土地理院北海道地方測量部. 2020年1月2日閲覧。
参考文献
[編集]- 中村一明「日本海東縁新生海溝の可能性」『東京大学地震研究所彙報』第58巻第3号、東京大学地震研究所、1984年1月、711-722頁、ISSN 00408972。
- 一條和宏・村井芳夫(北大理)・高波鐵夫(カーネギー研)・三浦 亮(日本海洋事業)・町田裕弥(東大地震研)・西村裕一・中村有吾(北大理)海底地震観測によって得られた1940年積丹半島沖地震震源域付近における地震活動 (PDF) 東京大学地震火山情報センター
- 羽鳥徳太郎、1940年8月北海道積丹沖津波の波源とその考察 東京大学地震研究所彙報. 第47冊第6号, 1969.12.20, pp.1063-1072
関連項目
[編集]外部リンク
[編集]- 歴史地震研究会
- 山本明彦、石川春義、北海道渡島半島南部の重力異常と浅部地殻構造 北海道大学地球物理学研究報告 2002年 3月25日 65巻 p.247-290
- 鏡味洋史:北海道西方沖・北西沖における被害地震の文献調査 日本建築学会技術報告集 Vol.13 (2007) No.25 P.347-350
- 宇津徳治、北海道およびその周辺の地震活動 北海道大学地球物理学研究報告 1968年9月20日 20巻, P.51-75