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蘇我安麻呂

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
石川安麻呂から転送)
 
蘇我 安麻呂
時代 飛鳥時代後期
生誕 不明
死没 不明
別名 安麻侶、安摩侶[1]
官位 小花下少納言
主君 天智天皇
氏族 蘇我氏
父母 父:蘇我連子
兄弟 安麻呂、石川虫名、男、男、石川宮麻呂
石川難波麻呂石川子老蘇我娼子 [2]
石川石足
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蘇我 安麻呂(そが の やすまろ)は、飛鳥時代後期の貴族。名は安麻侶安摩侶とも書かれる。大紫蘇我連子の子。子に石川石足がいる。官位小花下少納言

経歴

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天智天皇4年(671年)に天智天皇が病気によって重態となった際、大海人皇子(後の天武天皇)を病床に呼ぶための使者を務める。しかし、安麻呂は以前より大海人皇子と親しくしていたことから、「有意ひて言へ」(よく注意してお話なさいませ)と大海人皇子に忠告した。この安麻呂の一言により、大海人皇子は天智天皇からの譲位の申し出を辞退して出家し、吉野に脱出することができたという[3]

他の蘇我氏一族である蘇我赤兄蘇我果安らが大友皇子側に付いたのとは対照的な行動であり、天武天皇の命の恩人とも言える。また、乙巳の変蘇我田口川堀蘇我倉山田石川麻呂の死亡に見えるような、蘇我氏内部の対立を象徴するものであった[2]。この功労にもかかわらず、天武朝にて重用されるどころか、その後全く史料に安麻呂の名が見えず、没年も未詳である。なお、子・石川石足の死亡記事によると、安麻呂の官位は少納言小花下と見える[4]。小花下は天智天皇3年(664年)以前の冠位制度に基づいた名称であることから、壬申の乱後幾ばくも経たない頃、あるいは乱の最中に早世したと考えられる。

脚注

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  1. ^ 日本書紀』「天武天皇紀」上
  2. ^ a b 倉本一宏『蘇我氏 古代豪族の興亡』(中央公論新社、2015年)
  3. ^ 『日本書紀』天智天皇4年10月17日条,同19日条
  4. ^ 続日本紀』天平元年8月9日条

参考文献

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