真下珂十郎
真下 珂十郎(眞下、ましも かじゅうろう、1843年(天保14年9月[1][2])- 1898年(明治31年)[3][4][注釈 1])は、明治期の公吏、政治家、実業家。衆議院議員、群馬県碓氷郡原市町長。号・虚斎[3]。
経歴
[編集]上野国碓氷郡、のちの群馬県[1]碓氷郡原市町[2][3][4][5][6](安中町を経て現安中市[3][4])で、真下利七[3][注釈 2]、しゅん の長男として生れた[3]。佐々木愚山に師事し漢学、詩文を修めた[1][2][3][4]。1856年(安政3年9月)安中藩士分となり[3][5][6]、のち新徴組に加わり国事に奔走した[3][4][5][6]。
1875年(明治8年)熊谷県雇となり[3][4]、暢発学校(のち群馬県師範学校)俗務係を務め、北第21大区碓氷郡37カ町村と甘楽郡5カ村誌の編纂を担当[3][5][6]。1876年(明治9年)北第21大区副区長に就任し、第19番中学区取締、医務取締、碓氷郡書記、学務委員、衛生委員、勧業委員などを務めた[1][2][3][4][5][6]。
1881年(明治14年)群馬県会議員に選出され3期在任[1][2][3][4][5]。この間、「娼妓廃絶ノ建議」の起草を担当した[3][4]。その他、1884年(明治17年)原市町連合戸長に就任し、人見村外3カ村連合戸長、碓氷郡徴兵参事員、原市町会議員を務め、1889年(明治22年)原市町長に就任した[1][2][3][4][5][6]。
1890年(明治23年)7月、第1回衆議院議員総選挙(群馬県第5区、自由党)では次点で落選[7]。1894年(明治27年)9月、第4回総選挙(群馬県第5区、自由党)で当選し[3][4][8]、衆議院議員に1期在任した[1][2]。
実業界では、碓氷社頭取、原市銀行頭取を務め、繭競優会を主宰した[1][2]。
脚注
[編集]注釈
[編集]出典
[編集]参考文献
[編集]- 山中啓一編『上毛衆議院議員候補者小伝』白峰堂、1890年。
- 山中啓一『上毛近世百傑伝 上』山中啓一、1891年。
- 『衆議院議員総選挙一覧 上巻』衆議院事務局、1915年。
- 『総選挙衆議院議員略歴 第1回乃至第20回』衆議院事務局、1940年。
- 『群馬県人名大事典』上毛新聞社、1982年。
- 衆議院・参議院『議会制度百年史 - 衆議院議員名鑑』大蔵省印刷局、1990年。
- 『群馬新百科事典』上毛新聞社、2008年。