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長岑高名

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
白鳥高名から転送)
 
長岑高名
時代 平安時代初期
生誕 延暦13年(794年
死没 天安元年9月3日857年9月24日
官位 正四位下右京権大夫
主君 嵯峨天皇淳和天皇仁明天皇文徳天皇
氏族 白鳥村主→長岑宿禰
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長岑 高名(ながみね の たかな)は、平安時代初期の貴族氏姓は白鳥村主のち長岑宿禰従五位下・長岑茂智麻呂の義弟。官位正四位下右京権大夫

出自

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長岑氏(長岑宿禰)は百済渡来氏族で、の初代君主・伯禽の後裔とされる[1]

経歴

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平安京右京出身。成人と同時に大学へ入学し、弘仁5年(814年文章生に補せられる。若い頃は義兄・茂智麻呂に養われていたが、家は貧しく全く蓄えがなかった。専ら文友と付き合い、義兄と深く親交したという[2]

弘仁12年(821年式部少録に任ぜられたのち、民部少録少内記を歴任する。家が貧しかったことから地方官への任官を望み、天長元年(824年安房掾に任ぜられる。清廉で正直な性格で、私心を忘れて公務を務めたという[2]。天長7年(830年)右少史、天長9年(832年)左少史、天長10年(833年)左大史と、淳和朝末から仁明朝初頭にかけて太政官を務めた。また、天長年間に白鳥村主から長岑宿禰に改姓している。

承和2年(835年従五位下大膳亮美作権介に叙任される。同年2月に遣唐准判官に任ぜられるが、承和3年(836年)・承和4年(837年)と二度に亘り渡航に失敗する。この間、破損した修理舶使次官に任ぜられ、破損した遣唐使船の修理も担当した。承和5年(838年)三度目の渡航でようやく渡唐に成功する。遣唐大使・藤原常嗣に従って第一船に乗船し、大使からは船上の雑事への対応を委ねられたという[2]。また、同年4月には難波三津浜において、内位の従五位下に叙せられている。なお、遣唐副使・小野篁は病気を理由に渡唐を拒否しており、長安では副使が不在であったことから、高名が代わりに宮中へ上がることを許されている。帰国に際しては渡航ルートを巡って常嗣と対立するが、高名の主張が通された[3]

承和6年(839年)日本に帰国し、従五位上・次侍従次いで伊勢権介に叙任されるが、伊勢権介を務めた際は民衆の要望に非常に沿った統治を行った[2]。翌承和7年(840年)正月に正五位下、同年8月に勅により平安京に呼び戻され、嵯峨院別当に任ぜられて山城守を兼ねた。承和9年(842年嵯峨上皇崩御に伴い阿波守に転任し、翌承和10年(843年)伊勢守として再び伊勢国に赴任するが、在任6年の間国司としての統治に対する名声が高かったという[2]。その後も嘉祥3年(850年播磨守と地方官を務める傍ら、承和15年(848年従四位下仁寿元年(851年)従四位上、仁寿4年(854年)正四位下と、仁明朝末から文徳朝にかけて順調に昇進した。

斉衡2年(855年)右京権大夫に転じ、斉衡3年(856年)山城守を兼ねた。天安元年(857年)9月3日卒去。享年64。最終官位は正四位下右京権大夫兼山城守。

人物

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地方官として厳正で公明な行政を行い、百姓が秩序を乱して騒ぎ立てるようなことがなかった。我が家は清貧で蓄えがないため、自らが死んでも必ず薄葬にするようにと、普段より子孫に命じていたという[2]

官歴

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六国史』による。

脚注

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  1. ^ 続日本後紀』承和2年10月29日条
  2. ^ a b c d e f 日本文徳天皇実録』天安元年9月3日条
  3. ^ 『入唐求法巡礼行記』(唐)開成4年4月1-4日条
  4. ^ 佐伯[1994: 350]

参考文献

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