小峰義名
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(白河義名から転送)
時代 | 戦国時代 - 安土桃山時代 |
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生誕 | 不明 |
死没 | 天正20年(1593年)? |
別名 | 善七郎 |
官位 | 左近大夫、左近亮 |
氏族 | 小峰氏 |
父母 | 結城顕頼 |
兄弟 | 結城義綱、義親、義名、柏木義雄 |
子 | 白河義綱 |
小峰 義名(こみね よしな)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。小峰氏10代当主。
略歴
[編集]小峰氏を継いでいた兄・小峰義親が白河結城氏の当主となったため、義名が小峰氏の跡を継いだ。
天正2年(1574年)に佐竹義重と通じて和田昭為(当時、白河結城氏に亡命していた)らと反乱を起こした白河善七郎(白川膳七郎)と同一人物とされている[1]。ただし、善七郎については、結城義顕説[2]や中畠上総守説[3]もある。なお、善七郎が石川昭光に充てた書状における諱が「常広」となっている[4][5]。
天正3年(1575年)、義親が佐竹氏に捕縛されると、佐竹義重は白河領内を安定させるため義名を白河結城氏の名代に指名した。
天正5年(1577年)頃に白河善七郎(常広・義名?)が佐竹氏と対立して一時期出奔しているが、蘆名盛氏に受け入れを拒まれたため窮したという。その後、石川昭光の働きかけによって間もなく帰国を許されたとされる[6]。
天正17年(1589年)、伊達政宗が二階堂氏の須賀川城を攻めた際は、義親は援軍として義名を出陣させている。
死没した際、子・義綱は僅か2歳であったため、義綱は義親の養嗣子となった。小峰氏の名跡は後に義綱の子・朝景が継いでいる。
脚注
[編集]- ^ 戸谷、2023年、P104・113-115.
- ^ 今泉徹「白川天正の変再考」『戦国史研究』四一、2001年
- ^ 市村、2008年、P45.
- ^ 市村、2008年、P41-44.
- ^ 戸谷、2023年、P106-107.
- ^ 戸谷、2023年、P106-112.
参考文献
[編集]- 市村高男「白河結城文書の形成と分散過程」村井章介 編『中世東国武家文書の研究』高志書院、2008年 ISBN 978-4-862-15040-0
- 戸谷穂高「天正期における白河一族善七郎と南陸奥の地域秩序」『戦国史研究』七九、2020年/戸谷『東国の政治秩序と豊臣政権』吉川弘文館、2023年 ISBN 978-4-642-02980-3