田尾城
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田尾城 (徳島県) | |
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別名 | 多尾城、白地山城 |
城郭構造 | 山城 |
築城主 | 小笠原頼清 |
築城年 | 南北朝時代 |
主な改修者 | 大西覚養 |
主な城主 | 大西頼信 |
廃城年 | 天正5年(1577年) |
指定文化財 | 市史跡 |
位置 | 北緯33度57分44.5秒 東経133度44分6.3秒 / 北緯33.962361度 東経133.735083度座標: 北緯33度57分44.5秒 東経133度44分6.3秒 / 北緯33.962361度 東経133.735083度 |
地図 |
田尾城(たおじょう)は、徳島県三好市山城町岩戸にある日本の城跡。別名は多尾城、白地山城。三好市指定史跡[1]。
概要
[編集]中世の山城で、南城と北城がある。
南北朝時代、池田城の小笠原義盛は南朝方として、北朝側の細川頼春と争うが利あらず、細川氏に服した。これに長男の小笠原頼清は従わず、讃岐国から侵攻してきた南朝の山岳武士集団・脇屋義助に呼応し、田尾城を築いて八ツ石城と連携して拠点とした[2]。
天正5年(1577年)春、長宗我部元親の侵攻を防ぐため、白地城主であった大西覚養によって改修が行われ、弟である大西頼信(当時13歳)を城主とした。この際、城の正面が南城となる[2]。
同年、長宗我部元親が率いる3000の軍勢が攻め寄せ、寺野武次が率いる300の兵で2日間に渡る力攻めに耐え元親を苦戦させるが、火攻めにより落城した[2]。
現在城があった場所には城壁の狭間を復元したものや説明板があるが、当時の遺構はほとんど残っていない。
脚注
[編集]- ^ 「三好市指定文化財一覧」三好市教育委員会公式HP
- ^ a b c 田尾城址案内
関連項目
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