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留守遠江守

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
留守義氏から転送)
 
留守遠江守
時代 戦国時代 - 安土桃山時代
生誕 不明
死没 元和5年9月20日
別名 今井留守
戒名 心清院前遠州今山浄井留守永君大居士
官位 遠江守
主君 最上義光上杉景勝
氏族 須藤氏→留守氏→今井氏
父母 父:留守遠江守、母:丸岡民部大輔妹
朝日山城池田讃岐守
大炊之助
特記
事項
諱は伝わっておらず不詳
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留守 遠江守(るす とおとうみのかみ)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将出羽留守氏第5代当主。出羽国新田目城[注 1]最後の城主となった。

生涯

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留守遠江守は留守家4代当主留守遠江守と丸岡民部大輔妹の子として生まれ、父同様留守遠江守を称した[1][2]

天正13年(1585年)に先代留守遠江守同様最上家に仕えたが、天正14年(1586年大宝寺義興と東禅寺前森蔵人の争いでは義興側に付いた為前森の武将平藤仙右衛門により新田目板橋にて一門衆の今井兵庫が討ち取られた[3][4][5]

天正16年(1588年)、大宝寺義勝を擁する本庄繁長が庄内に侵攻(十五里ヶ原の戦い)すると留守遠江守は尾浦城に籠城するが落城[6][7][8]。庄内を上杉勢が支配すると甘粕備後守景継の配下となった[6][7][8]。その後上杉景勝に従い小田原征伐九戸政実の乱文禄の役を来次氏と共に従軍した[9][10]慶長出羽合戦の際は東禅寺城の城代で上杉家武将志駄義秀の配下となり奮戦し、留守遠江守は来次氏ら川北勢と共に六十里越より最上領に侵入、寒河江の白岩を落とすなど功を上げるが東禅寺城に籠城となり落城[9][10]。庄内が最上領となったため浪人となり[11][10][12]元和5年(1619)9月20日同地にて死去した[9][10]

脚注

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注釈

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  1. ^ 現:酒田市本楯新田目。

出典

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  1. ^ 斉藤美澄 1923, p. 110.
  2. ^ 新田目名刀考, p. 10.
  3. ^ 斉藤美澄 1923, pp. 109–110.
  4. ^ 阿部正己 1932, p. 45.
  5. ^ 新田目名刀考, p. 9.
  6. ^ a b 斉藤美澄 1923, pp. 110–111.
  7. ^ a b 阿部正己 1932, p. 46.
  8. ^ a b 新田目名刀考, p. 11.
  9. ^ a b c 斉藤美澄 1923, p. 113.
  10. ^ a b c d 本楯村 今井家文書寫 附大物忌神社関係, p. 5.
  11. ^ 斉藤美澄 1923, p. 51, 111-112.
  12. ^ 新田目名刀考, pp. 10–12.

参考文献

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書籍

史料