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浄福寺城

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由井城から転送)
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浄福寺城
東京都
浄福寺城遠景
浄福寺城遠景
別名 新城、案下城、松竹城、千手山城、由井城
城郭構造 連郭式山城
天守構造 なし
築城主 大石信重
築城年 至徳元年(1384年)か
主な改修者 北条氏
主な城主 大石氏北条氏
廃城年 天正18年(1590年
遺構 土塁、堀
指定文化財 八王子市指定史跡
位置 北緯35度40分15.72秒 東経139度14分47.96秒 / 北緯35.6710333度 東経139.2466556度 / 35.6710333; 139.2466556座標: 北緯35度40分15.72秒 東経139度14分47.96秒 / 北緯35.6710333度 東経139.2466556度 / 35.6710333; 139.2466556
地図
浄福寺城の位置(多摩地域内)
浄福寺城
浄福寺城
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浄福寺城(じょうふくじじょう)は、東京都八王子市下恩方町にあった日本の城山城)。城跡は1972年(昭和47年)1月27日に八王子市指定史跡となっている[1]

概要

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中世山城である。新城(にいじょう)、案下城(あんげじょう)、松竹城(まつたけじょう)、千手山城(せんじゅさんじょう)など様々な別称で呼ばれていた。城の南側、陣馬街道に沿って、大石氏によって開基された浄福寺がある。この寺は、当時武将が待機する居館との説もある。

八王子市教育委員会の説明板によれば、大石氏は系図(山木伊藤家伝)によれば木曾義仲の後裔が信濃国大石郷に住んでいたが、1356年(延文元年)入間多摩に十三郷を得て多摩に移住し、二宮(現・あきる野市)から浄福寺城、高月城長禄2年)、滝山城(大永元年)と次第に大豪族となり城を移したといわれ、大石氏の経緯を知る上でも貴重な城跡であるという。

歴史

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沿革

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1384年(至徳元年)大石信重によって築城されたと言い伝えられる。一方、『新編武蔵風土記稿』によれば、「大石源左衛門尉入道道俊と云もの当所に居城を構へし」(道俊は大石定久といわれる)との記述もある[2]

後北条氏の時代になると、八王子城出城として使用されたとされる。また、後述のように、八王子城以前にあったとみられる所在地不明の後北条氏の支城の1つである由井城を浄福寺城に比定する説がある。

1590年(天正18年)の豊臣秀吉による八王子城攻め、落城とともに浄福寺城も落城、廃城となった。

「油井領」「由井衆」と浄福寺城

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永禄2年(1559年)に後北条氏にて作成されたとされる『小田原衆所領役帳』には支城領ごとに家臣名と役高が記されているが、そのうちの「他国衆」の中に「油井領」と呼ばれている地域の記載がある。また、北条氏照が発給した文書に「由井衆」[3]「由井領」[4]と記されたものがあり、前者は元々旧大石氏の家臣であった者に宛てて出された書状であるため、「油井領」「由井領」は旧大石氏あるいは氏照の支配地域であり、「由井衆」は旧大石氏家臣を含む氏照の家臣団であったと推定される[5]。つまり、旧大石氏と関わりの深い地域に油井城・由井城と称すべき後北条氏の支城が存在していたことになる(ただし、『小田原衆所領役帳』作成段階の大石氏は公式には「他国衆」に属する従属国衆で、氏照はその養子として家督を継いだ扱い)。

これについて、齋藤慎一が同地域に関する古文書や浄福寺城の遺構に関する分析から、従来の大石氏に関する伝承を否定して、浄福寺城こそが後の「由井領」の由来ともなった大石氏の本拠である由井城(ゆいじょう)であり、大石氏を継承した北条氏照も当初はここを本拠としており、永禄6年(1563年)から10年(1567年)頃に初めて滝山城を築いて本城を移したとする説を提示している[6]

考古資料

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遺構

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標高360メートル(比高約150メートル)の山の尾根上に曲輪堀切土橋虎口土塁のなど遺構が残る。

観光

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アクセス

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脚注

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  1. ^ 「浄福寺城跡(新城跡)」八王子市公式HP
  2. ^ 『新編武蔵風土記稿』 巻ノ104多磨郡ノ16.下恩方村 浄福寺、内務省地理局、1884年6月。NDLJP:763991/47 
  3. ^ 永禄9年6月付来住野大炊助宛書状(「武州文書」多摩郡)
  4. ^ 天正8年閏3月6日付星谷寺宛朱印状
  5. ^ 加藤哲「〈油井領〉の性格」(初出:『戦国史研究』16号(1988年)/所収:浅倉直美 編著『シリーズ・中世関東武士の研究 第三一巻 北条氏照』(戒光祥出版、2021年)ISBN 978-4-86403-377-0 2021年)
  6. ^ 齋藤慎一「戦国期『由井』の政治的位置」(初出:『東京都江戸東京博物館研究報告』第6号(2001年)/所収:齋藤『中世東国の道と城館』(東京大学出版会、2010年)第13章)

関連項目

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