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生野団六

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生野團六から転送)

生野 団六(團六、しょうの だんろく、1878年明治11年)2月1日[1][2] - 1973年昭和48年)3月1日[1])は、日本の鉄道官僚・技師、土木技術者、鉄道実業家。台湾総督府交通局総長、京浜電気鉄道社長。

経歴

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大分県大分郡、のちの稙田村(大分村、大分町を経て現大分市)で生野米蔵[注 1]の長男として生まれる[2][3]。大分尋常高等小学校、京都府立中学校(現京都府立洛北高等学校・附属中学校)、第四高等学校を経て、1902年(明治35年)東京帝国大学工科大学土木工学科を卒業した[1][2][3]

逓信省に入省し鉄道作業局に配属された[1][3]。1909年(明治42年)欧米に留学し1911年(明治44年)に帰国[3]鉄道院運輸局に配属され、1912年(明治45年)3月のジャパン・ツーリスト・ビューロー(現日本交通公社)創立に際して幹事に就任[1][2][3]。1918年(大正7年)までビューローの実務を担い、木下淑夫が「生みの親」、生野が「育ての親」とされている[1][3]。1915年(大正4年)鉄道院運輸局庶務課長、1919年(大正8年)東京鉄道管理局運輸課長を歴任[1][3]。1923年(大正12年)6月、名古屋市電気局(現名古屋市交通局)長に転じた[1][3]。1925年(大正14年)4月、台湾総督府交通局総長に就任[1][3]。1927年(昭和2年)4月、東京市電気局(現東京都交通局)長に転じたが[1]、同年12月、西久保弘道東京市長の退任に伴い辞職した[3]

1928年(昭和3年)12月、京浜電気鉄道(現京浜急行電鉄)副社長、湘南電気鉄道取締役に就任[3]。以後、京浜電鉄社長、湘南電鉄専務を務めた[1][3]。この間、品川駅への乗り入れ、京浜電鉄全線の改軌、品川-浦賀間の直通運転などを推進した[3]。1941年(昭和16年)5月に京浜電鉄、湘南電鉄を退任した[3]

戦後は、日本ホテル会社相談役、日本交通公社常任顧問、京浜急行電鉄相談役などを務めた[1][3]

著作

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  • 述、大日本普通学講習会編『工業大意』嵩山堂、1913年。

脚注

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注釈

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  1. ^ 『大分県人士録』326頁では米造。

出典

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  1. ^ a b c d e f g h i j k l 『近代日本土木人物事典』150-151頁。
  2. ^ a b c d 『大分県人士録』326-327頁。
  3. ^ a b c d e f g h i j k l m n o 『鉄道史人物事典』235-236頁。

参考文献

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  • 佐藤巌『大分県人士録』大分県人士録発行所、1914年。
  • 高橋裕、藤井肇男共著『近代日本土木人物事典: 国土を築いた人々』鹿島出版会、2013年。
  • 鉄道史学会編『鉄道史人物事典』日本経済評論社、2013年。


公職
先代
後藤文夫
日本の旗 台湾総督府交通局総長
第2代:1925 - 1927
次代
木下信
ビジネス
先代
青木正太郎
京浜電気鉄道社長
第8代:1930 - 1941
次代
五島慶太