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王僧弁

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
王僧辯から転送)

王 僧弁(おう そうべん、生年不詳 - 承聖4年9月27日[1]555年10月27日))は、南北朝時代南朝梁の将軍。君才太原郡祁県の人。本来の表記は王僧辯

生涯

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天監年間(502年 - 519年)に、父の王神念に従って北魏から梁へ亡命。湘東王蕭繹に仕え湘東国左常侍・竟陵郡太守となる。太清2年(548年)、侯景の乱が起き、梁は大混乱となるが、王僧弁は蕭繹に仕え、大宝元年(550年)河東王蕭誉を討伐した功により、左衛将軍ついで領軍将軍となる。翌年さらに大都督に進み、江州陳霸先と同盟し、巴陵の地で侯景を破る。大宝3年(552年)には侯景軍の支配下にあった首都建康を奪還するが、軍兵らの大規模な略奪により名声を失う。侯景は逃亡の途中、殺された。

侯景の乱鎮圧および建康陥落の功が認められ、永寧郡公ついで鎮衛将軍・尚書令となり、江陵にとどまっていた蕭繹を皇帝として擁立する(元帝)。さらに西征を行い、湘州陸納や、皇帝を私称した益州の武陵王蕭紀(元帝の弟)を討伐。また、北斉の軍も撃退し、太尉・車騎大将軍となる。

かつて王僧弁に敗れた蕭誉の弟の蕭詧西魏へ亡命し、保護されていたが、この蕭詧こそ梁の正統であるという名分のもと、承聖3年(554年)に西魏は江陵を攻め、元帝を殺害した。西魏の傀儡である蕭詧は即位(後梁の宣帝)するが、建康側はこれを認めず、王僧弁は陳霸先らとともに晋安王蕭方智(敬帝)を擁立し、太宰となった。

いっぽう、西魏と対立する北斉は、侯景の乱の頃(当時は北斉ではなく東魏)に捕らえていた元帝の従兄弟の蕭淵明(閔帝)を梁に送還し、皇帝とするよう迫った。江陵奪回のため、北斉との連携が不可避と考えた王僧弁は、淮南割譲および蕭方智の立太子を条件として、これに応じたが、あくまで蕭方智を皇帝に推す陳霸先と対立。承聖4年(555年)9月、陳霸先に攻められ、建康で敗死した。ライバルを倒した陳霸先は2年後、敬帝から禅譲を受けの武帝となったが、王僧弁の残党は各地で反抗し、結局陳は弱体化を免れ得ず、南朝最後の王朝となる。

子女

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  • 王顗
  • 王頒
  • 王頠
  • 王顒
  • 王頍

脚注

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  1. ^ 『梁書』巻6, 敬帝紀 承聖四年九月甲辰条による。

伝記史料

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参考文献

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  • 柴田宜勝「王僧辯」『東洋歴史大辞典』 上巻、池内宏、矢野仁一、橋本増吉、濱田耕作 監修(縮刷復刻版)、臨川書店、1986年(原著1941年)、354頁。ISBN 4653014701 
  • 森三樹三郎 著「王僧辯」、平凡社 編『アジア歴史事典』 2巻、平凡社、1984年、34頁。