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== 関連項目 ==
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*[[地震年表 (日本)]]
*[[日本の地震年表]]
*[[連動型地震]]
*[[連動型地震]]
*[[慶長大地震]] - 慶長に改元された後も、この年間には[[巨大地震]]が多発した。
*[[慶長大地震]] - 慶長に改元された後も、この年間には[[巨大地震]]が多発した。

2024年2月11日 (日) 23:40時点における最新版

慶長伊予地震
本震
発生日 1596年9月1日 (JST)
震央 日本の旗 日本 愛媛県
規模    マグニチュード (M)7.0
プロジェクト:地球科学
プロジェクト:災害
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慶長伊予地震(けいちょういよじしん)は、1596年9月1日文禄5年7月9日刻)頃の夜に伊予国(現在の愛媛県)で発生したと仮定される地震である。慶長伊予国地震とも呼ばれる。

概要

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中央構造線断層帯の川上断層セグメント(岡村断層・石鎚断層・川上断層・北方断層・重信断層・伊予断層)のトレンチ調査で確認されている最新の断層活動の有力候補[1]とされる地震である。また、これらの断層の東方延長の池田断層・父尾断層も同時期(16世紀)に活動したという調査結果があるが、これを否定する見解もある[2]。断層の長さから推定される地震の規模はマグニチュード7前後[3]であるが、被害記録は限られており正確な規模は不明である。

3日後の1596年9月4日に豊予海峡を挟んで対岸の大分で発生した慶長豊後地震(本地震による連動型地震とされる)と、4日後の1596年9月5日に発生した慶長伏見地震(ともにM7.0規模と推定)を合わせて、中央構造線上及び、その周辺断層帯で発生した一連の地震活動の一つとされる[4]。こうした天変地異の多発によって同年中に文禄から慶長へと改元がなされた。

伊予地震単独説と豊後地震と同一地震説

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本地震は伊予に及んだ慶長豊後地震の余波と考えられていたものが分離され、単独の地震として仮定されたものである[5][6]

慶長豊後地震は1596年9月1日19時頃(文禄5年閏7月9日酉戌刻)に起こったとされる説と[7][8][9]、1596年9月4日16時頃(文禄5年閏7月12日申刻)に起こったとされる説[10][11][12]がある。

前者の場合は豊後地震の余波として伊予地震も含み、豊後地震が閏7月12日とする後者の場合は閏7月9日を伊予地震とすれば説明がつくとするものである[5][6]。しかし、豊後地震の史料は閏7月9日とするものは当時の文書が多いが、閏7月12日とするものは後世の編纂物であることが多く、伊予地震はやはり豊後地震と同一地震であり、その一部であるとする説が再び浮上している[13][14]

被害

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  • 伊予郡保免村(現松山市保免)の薬師寺の本堂や仁王門が崩壊(『薬師寺大般若経奥書』『伊予温故録』)。
  • 周布郡北条村(現西条市北条)の鶴岡八幡宮の宮殿が転倒、宝蔵、神器、記録が地中に没す(『小松邑誌』)。
  • 周布郡広江村(現西条市広江)で人家に被害[1]。村宅が湮没したため村民らは今の地に移住した(『小松邑誌』)。
  • 板島城(現在の宇和島城郭)で破損。[15]
  • 豊後奥浜(沖の浜)が海没、人畜二千余死亡[16]。豊後府中で寺社倒壊、津波[17]
  • 薩摩で大地震[18]
  • 『言経卿記』や『孝亮宿禰日次記』には閏七月九日亥刻に地震があったと記され、京都でも有感であったとされる。しかし『由原宮年代略記』や『大般若波羅蜜多経奥書』など豊後の地震を閏7月9日とする史料も存在し、かつては伊予被害記録も豊後地震の一部とされていた[8][9]。文禄5年の地震による、伊予における被害記録はあまり知られておらず、確認されている記録も限定的なものである[19]

脚注

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  1. ^ a b 堤浩之、岡田篤正、後藤秀昭、松木宏彰 - 活断層研究, 2000 中央構造線活断層帯川上断層の完新世後期における活動履歴 (PDF) 活断層研究会
  2. ^ 徳島県の中央構造線は大地震を伴って動いて来たか(2) (PDF)
  3. ^ セグメント区分と想定地震規模 (PDF) 愛媛県資料
  4. ^ 都司嘉宣歴史上の内陸被害地震の事例研究 東京大学地震研究所
  5. ^ a b 松岡祐也, 2015, [講演要旨]文禄五年(1596)地震における瀬戸内海周辺での被害状況 (PDF) , 歴史地震, 第30号, 213.
  6. ^ a b 中西一郎・弘瀬冬樹, 2015, 1596年慶長伊予豊後地震:伊予地震と豊後地震への分離, 日本地震学会講演要旨集, S10-08.
  7. ^ 『大日本地震史料』, p187.
  8. ^ a b 大森房吉, 1913, 本邦大地震概説 震災豫防調査會報告 1913年 68巻 2号 p.1-180, NAID 110006605117
  9. ^ a b 『日本被害地震総覧』, p50.
  10. ^ 『大日本地震史料 増訂』, p589.
  11. ^ 今村明恒, 1929, 慶長元年閏七月の豊後大地震史料(序説, 同地震に関する史料, 大分市史, 速見郡史, 佐賀関史, 雉城雑誌), 地震, 1, 1, 289-299.
  12. ^ 『地震の事典』p582.
  13. ^ 榎原雅治, 2019, [講演要旨]文禄5年豊後地震関係史料の再検討 (PDF) , 歴史地震, 第34号, 232.
  14. ^ 石橋克彦, 2019, [講演要旨]文禄五年(1596)の豊後地震と伊予地震が同一地震(閏七月九日)である可能性 (PDF) , 歴史地震, 第34号, 231.
  15. ^ 中西一郎、「文禄五年 (1596) 閏七月豊後・伊予地震による伊予国板島城 (現宇和島城) の被害 : 藤堂虎高の遺帖」 北海道大学地球物理学研究報告 2009年 3月15日 72巻 p.383-386, doi:10.14943/gbhu.72.383
  16. ^ 「興導寺大般若経奥書」
  17. ^ 「由原宮年代略記」、「柴山勘兵衛記」
  18. ^ 「椛山紹劔自記」
  19. ^ 中西一郎(2002)、「文禄五年閏七月九日 (1596年9月1日) の地震による伊予での被害を示す史料」 地震 第2輯, Vol.55, No.3, 311-316, doi:10.4294/zisin1948.55.3_311

参考文献

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  • 震災予防調査会編 編『大日本地震史料 上巻』丸善、1904年。  p.187 国立国会図書館サーチ
  • 武者金吉 編『大日本地震史料 増訂 一巻』文部省震災予防評議会、1941年。  pp.569-605 国立国会図書館サーチ
  • 東京大学地震研究所 編『新収 日本地震史料 第二巻 自慶長元年至元禄十六年』日本電気協会、1982年。  pp.1-58
  • 東京大学地震研究所 編『新収 日本地震史料 補遺』日本電気協会、1989年。  pp.91-96
  • 宇佐美龍夫『日本の歴史地震史料 拾遺三』東京大学地震研究所、2005年3月。  p.78
  • 宇佐美龍夫 『最新版 日本被害地震総覧』 東京大学出版会、2003年
  • 宇津徳治、嶋悦三、吉井敏尅、山科健一郎『地震の事典』朝倉書店、2001年
  • 小松町誌編さん委員会 編『小松町誌』小松町、2002年10月。  p.591

関連項目

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