「死海文書」の版間の差分
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英語版2004年10月2日版より訳出。クムランはヨルダン川西岸地区にあたることを加筆。 |
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[[画像:Deadseascrolls.jpg|thumb|200px|ヨルダンの首都アンマンの考古学博物館に展示された写本の断片]] |
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'''死海文書'''('''しかいもんじょ'''、'''死海写本''' - '''しかいしゃほん''')は[[ヘブライ語 |
'''死海文書'''('''しかいもんじょ'''、'''死海写本''' - '''しかいしゃほん''')は[[旧約聖書|ヘブライ語聖書]]の断片を含む約850巻の写本の集まりであり、[[1947年]]から1956年にかけて、[[イスラエル]]の[[死海]]北西の[[要塞]]都市[[クムラン]]の近くの11箇所の洞窟で発見された(クムランは歴史的には[[ユダヤ]]にあたり、文書発見の頃に始まった[[中東戦争]]によってヨルダン川西岸地区([[w:West Bank]])と呼称されるようになった地域にあたる)。文書は、[[ヘブライ語]]のほかに[[アラム語]]、[[ギリシャ語]]で、紀元前2世紀から紀元後1世紀の間に書かれている。この時代に書かれたものとしては事実上唯一の[[旧約聖書|ユダヤ教聖書]]の文書であり、政治的背景と宗教的背景を知ることができるので貴重である。 |
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== 年代と内容 == |
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[[放射性炭素年代測定|炭素年代測定法]]と古文書学によると、この文書は紀元前2世紀の中頃から紀元後1世紀にかけて、様々な時期に書かれたものである。少なくとも一つの文書は、炭素年代測定法により紀元前21年から紀元後61年のものだと判明した。この時期のヘブライ語の文書は、[[エジプト]]から出土した、[[十戒]]の写しを含む[[ナッシュ・パピルス]]が他にあるのみである。同様に書かれた資料は、[[マサダ]]の要塞都市など近隣の場所から発見されている。 |
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断片は少なくとも800巻あり、[[エッセネ派]]の信条から他の宗派の信条まで及ぶほど、異なる視点で書かれている。断片の約30%はヘブライ語聖書で、[[エステル記]]以外の全文にあたる。約25%は、伝統的な[[ユダヤ教]]の宗教文書であり、[[エノク書]]やレビの遺訓など、ヘブライ語の聖書正典には含まれないものである。30%は[[聖書]]の注解や、クムランの辺りに住んでいたと思われるいくつかのユダヤ教の宗派の、信条や規則や入会条件に関する文書である。残りの約15%は、まだ判明していない。ほとんどはヘブライ語で書かれているが、アラム語で書かれたものもあり、また、ギリシャ語で書かれたものも少数ある。 |
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少なくとも800巻もの原本の寄稿が巻き物や巻き物の断片の中に発見された。それには[[ヘブライ語]]で書かれた本文が顕著に含まれているが、中には[[アラム語]]や[[ギリシャ語]]で書かれたものもある。他の数ある発見の中で重要なものは、[[1947年]]に発見された[[イザヤ書|イザヤ]]写本、[[ハバクク書]]の解説書、[[1952年]]に発見されたコッパー写本、「ダマスカス文書」の初期版である。[[スペイン]]の[[イエズス会]]の神父ホセ・オカラハンは、第7洞窟から出土したいくつかのギリシャ語断片が[[新約聖書]]の本文であったと主張、特に問題になったのは断片"7Q5"[http://www.geocities.co.jp/HeartLand-Apricot/6291/jesus/7q5.html][http://members.aol.com/egweimi/7q5.htm][http://thierry.koltes.free.fr/7q5.htm][http://www.aciprensa.com/reportajes/7q5.htm][http://www.breadofangels.com/dssresources/7q5line2/nonu1.html][http://sanlorenzo.dataport.it/7Q5St.Lawrence/7Q5Entrevista.htm]であった。しかし彼が確認したそのかけらはあまりに少なく、決定的な判断を下せられなかった。これらの写本は、マソラ本文よりも七十人訳聖書の方に内容が一致していることが確認されている。 |
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数ある発見の中で重要なものは、[[イザヤ書|イザヤ]]写本(1947年に発見)、[[ハバクク書]]注解(1947年)、いわゆる銅の巻物(隠し持った金と武器のリスト、1952年)、ダマスコ文書の初期版である。 |
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Most of the documents were published in a surprisingly prompt manner: all of the writing found in Cave 1 appeared in print between [[1950]] and [[1956]]; the finds from 8 different caves were released in a single volume in [[1963]]; and [[1965]] saw the publication of the Psalms Scroll from Cave 11. Translation of these materials quickly followed. |
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The exception to this speed were the documents from Cave 4, which represented 40[[percentage|%]] of the total material. The publication of these materials had been entrusted to an international team led by Father [[Roland de Vaux]], a member of the [[Dominican Order]] in [[Jerusalem]]. This group published the first volume of the materials entrusted to them in [[1968]], but spent much of their energies defending their theories of the material instead of publishing it. [[Geza Vermes]], who had been involved from the start in the editing and publication of these materials, blamed the delay – and eventual failure – on de Vaux's selection of a team unsuited to the quality of work he had planned, as well as relying "on his personal, quasi-patriarchal authority" to ensure the work was promptly done. |
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「死海文書を書いて隠したのは誰なのか」という点に関しては、クムランに住んでいたエッセネ派の共同体だという見方が1990年代までは一般的だった。その他に、マカバイ(ハスモン)家によって神殿から追放されたザドク家の祭司達([[サドカイ派]])が率いる共同体だという見方も、徐々に受け入れられてきている。 |
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As a result, the finds from Cave 4 were not made public for many years. Access to the scrolls was governed by a "secrecy rule" that allowed only the original International Team – or their designates – to view the original materials. After de Vaux's death in [[1971]], his successors repeatedly refused to even allow the publication of photographs of these materials so that other scholars could at least make their judgements. This rule was eventually broken: first by the publication in the fall of [[1991]], of 17 documents reconstructed from a concordance that had been made in [[1988]] and had come into the hands of scholars outside of the International Team; next, that same month, of the discovery – and publication – of a complete set of [[photograph]]s of the Cave 4 materials at the [[Huntington Library]] in [[San Marino, California]] that was not covered by the "secrecy rule". After some delays, these photographs were published by [[Robert Eisenman]] and [[James Robinson]] (''A Facsimile Edition of the Dead Sea Scrolls'', two volumes, Washington, D.C., [[1991]]). as a result, the "secrecy rule" was lifted, and publication of the Cave 4 documents soon commenced, with five volumes in print by [[1995]]. |
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[[スペイン]]の[[イエズス会]]の[[神父]]ホセ・オカラハンは、第7洞窟から出土した断片"7Q5"[http://www.geocities.co.jp/HeartLand-Apricot/6291/jesus/7q5.html][http://members.aol.com/egweimi/7q5.htm][http://thierry.koltes.free.fr/7q5.htm][http://www.aciprensa.com/reportajes/7q5.htm][http://www.breadofangels.com/dssresources/7q5line2/nonu1.html][http://sanlorenzo.dataport.it/7Q5St.Lawrence/7Q5Entrevista.htm]が[[新約聖書]]の[[マルコによる福音書]](第6章、52-53節)だと主張した。物議を醸したこの主張は、近年になってドイツの学者 Carsten Peter Thiede によって再び取り上げられている。マルコによる福音書の一節であるという主張が正しければ、この断片は現存する新約聖書の中でも最古の紀元後30年から60年のものとなる。 |
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In [[1963]] [[Karl Heinrich Rengstorf]] of the [[University of Münster]] put forth the theory that the Dead Sea scrolls originated at the library of the Jewish [[Temple in Jerusalem]]. This theory was rejected by most scholars during the [[1960]]s, who maintained that the scrolls were written at [[Qumran]] rather than transported from another location. However, the theory was revived by [[Norman Golb]] and other scholars during the [[1990]]s, who added that the scrolls probably also originated from several other libraries in addition to the Temple library. |
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1963年、ミュンスター大学の Karl Heinrich Rengstorf は、死海文書はユダヤ教の[[エルサレム神殿]]の図書館で書かれたという説を発表した。1960年代には、この説は多くの学者に拒否された。学者達は文書がクムランで書かれたという考えを維持し、他の場所から移されたとは考えなかったのである。しかし、1990年代にはノーマン・ゴルブなどの学者がこの説を復活させた。ゴルブらは、神殿の図書館だけでなく他の図書館でも書かれた可能性を付け加えた。 |
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Allegations that the [[Holy See|Vatican]] suppressed the publication of the scrolls were published in the [[1990s]], notably by [[Michael Baigent]] and [[Richard Leigh]], whose book ''The Dead Sea Scrolls Deception'' contains a popularized version of speculations by Robert Eisenman that some scrolls actually describe the early [[Christian]] community, characterized as more fundamentalist and rigid than the one portrayed by the [[New Testament]], and that the life of [[Jesus]] was deliberately mythicized by [[Paul of Tarsus|Paul]], possibly a Roman agent who faked his "conversion" from Saul in order to undermine the influence of anti-Roman messianic cults in the region. (Eisenman's own theories, themselves not always convincing, merely attempt to relate the career of [[James the Just]] and Paul to some of these documents.) Baigent and Leigh allege that several key scrolls were deliberately kept under wraps for decades to prevent alternative theories to the prevailing "consensus" that the scrolls had nothing to do with Christianity from arising. |
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1990年代には、[[ローマ教皇庁|ヴァチカン]]が文書の公表を差し止めているという疑惑が発表された。特に、マイケル・ベイジェントとリチャード・リーは自著『死海文書の謎』(1992年、ISBN 4760108890)で、ロバート・アイゼンマンの憶測を一般向けに紹介した。憶測は次のような内容である。「いくつかの文書を実際に書いたのは、新約聖書に描かれた姿より[[原理主義]]的で厳格な初期[[クリスチャン|キリスト教徒]]の共同体である。[[イエス・キリスト|イエス]]の生涯は[[パウロ]]によって神話的に歪められている。パウロは、その地域の反[[ローマ]]の[[メシア]]主義的[[カルト]]の影響力を弱めるためにサウロから改宗した振りをした、ローマの[[スパイ]]だった可能性がある。」(アイゼンマンの説は、必ずしも納得できるものではない。[[ヤコブ (イエスの兄弟)|主の兄弟ヤコブ]]の経歴とパウロを、いくつかの文書に関連付けたいだけである。)ベイジェントとリーは、いくつかの主要な文書が数十年間に渡って意図的に隠されている、と主張する。なぜ隠されているのかというと、「文書はキリスト教に大きな影響を与えるものではない」という一般的な合意とは異なった、新しい説の出現を防ぐためだと言う。 |
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Because they are frequently described as important to the history of the [[Bible]], the scrolls are surrounded by a wide range of [[conspiracy theories]], charging, for example, that they were entirely fabricated or planted by [[extra-terrestrials]]. |
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死海文書は聖書の歴史にとって重要なものだと頻繁に書かれるため、文書について様々な陰謀説がささやかれる。例えば、死海文書の作者は[[地球外生命]]だ、といったものだ。 |
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== 発見 == |
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多くの文書が驚くべき早さで公表された。第1洞窟で発見された全文書は1950年から1956年までに公刊され、8つの洞窟で発見された文書は一冊にまとめられて1963年に公刊され、第11洞窟で発見された[[詩編]]写本は1965年に公刊された。次いで、これら資料の翻訳も早急に行われた。 |
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第4洞窟で発見された文書だけは例外で、全体の40%しか公表されなかった。これらの資料の公刊は、[[エルサレム]]の[[ドミニコ会]]の神父ロラン・ドゥ・ヴォーが率いる、国際チームに任されていた。このグループは委託された資料の1巻目を1968年に公刊したが、公刊よりも、資料についての自説の弁護に多くの力を費やした。これら資料の編集・出版に開始当初から関わっていたゲザ・ヴェルメシュは、公刊のための作業が遅れ最終的に失敗したことについて、ドゥ・ヴォーが人選したチームが、彼が行おうとしていたようなレベルの仕事をこなすだけの能力を欠いており、また、作業を速やかに遂行するにあたって、ドゥ・ヴォー個人のほとんど家父長的な権威に寄りかかってしまったからだと批判した。 |
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結果として、第4洞窟で発見された文書は長年にわたって公開されなかった。文書へのアクセスは「守秘ルール」によって制限されていた。そのルールは、オリジナルの国際チーム(または彼らが指名した者)のみにオリジナルの資料の閲覧を許可するものだった。1971年にドゥ・ヴォーが死去した後も、彼の後継者達は、外部の学者に判断させるための資料写真の公開要求さえ拒みつづけた。結局、このルールは破られた。まず、1988年に作られたコンコーダンスが国際チームの外部の学者の手に渡り、そこから再構築された17個の文書が1991年秋に公表された。続けて同じ月に、第4洞窟の資料すべての写真が[[カリフォルニア州]]サンマリノにあるハンティントン図書館で発見・公表された。この図書館は「守秘ルール」の範囲外だった。いくらか遅れたものの、これらの写真はロバート・アイゼンマンとジェームズ・ロビンソンによって公刊された(''A Facsimile Edition of the Dead Sea Scrolls''、2分冊、Washington, D.C.、1991年)。その結果「守秘ルール」は無くなり、第4洞窟の文書はすぐに公刊に向けて準備され、1995年に5分冊で公刊された。 |
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== 参照 == |
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== 参考文献 == |
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*『死海写本の謎を解く』(エドワード M. クック著、太田修司・湯川郁子共訳) ISBN 4764266105 |
*『死海写本の謎を解く』(エドワード M. クック著、太田修司・湯川郁子共訳) ISBN 4764266105 |
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*Frank Moore Cross, ''The Ancient Library of Qumran'', 3rd ed., Minneapolis: Fortress Press, 1995. ISBN 0800628071 |
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*『死海文書は誰が書いたか?』(ノーマン・ゴルブ著、前田啓子訳) ISBN 4881355910 |
*『死海文書は誰が書いたか?』(ノーマン・ゴルブ著、前田啓子訳) ISBN 4881355910 |
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*『はじめての死海写本』(土岐健治著) ISBN 406149693X |
*『はじめての死海写本』(土岐健治著) ISBN 406149693X |
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*[http://religion.rutgers.edu/iho/dss.html Timetable of the Discovery and Debate about the Dead Sea Scrolls] |
*[http://religion.rutgers.edu/iho/dss.html Timetable of the Discovery and Debate about the Dead Sea Scrolls] |
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*[http://www.flash.net/~hoselton/deadsea/deadsea.htm Dead Sea Scrolls & Qumran] |
*[http://www.flash.net/~hoselton/deadsea/deadsea.htm Dead Sea Scrolls & Qumran] |
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*[http://farms.byu.edu/dss/index.html?selection=&cat=0 The Dead Sea Scrolls] (''[[FARMS]]'') |
*[http://farms.byu.edu/dss/index.html?selection=&cat=0 The Dead Sea Scrolls] (''[[w:FARMS]]'') |
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[[fr:Manuscrits_de_Qumrân]] |
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[[pl:Rękopisy_z_Qumran]] |
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[[pt:Pergaminhos_do_Mar_Morto]] |
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2004年10月3日 (日) 13:52時点における版
死海文書(しかいもんじょ、死海写本 - しかいしゃほん)はヘブライ語聖書の断片を含む約850巻の写本の集まりであり、1947年から1956年にかけて、イスラエルの死海北西の要塞都市クムランの近くの11箇所の洞窟で発見された(クムランは歴史的にはユダヤにあたり、文書発見の頃に始まった中東戦争によってヨルダン川西岸地区(w:West Bank)と呼称されるようになった地域にあたる)。文書は、ヘブライ語のほかにアラム語、ギリシャ語で、紀元前2世紀から紀元後1世紀の間に書かれている。この時代に書かれたものとしては事実上唯一のユダヤ教聖書の文書であり、政治的背景と宗教的背景を知ることができるので貴重である。
年代と内容
炭素年代測定法と古文書学によると、この文書は紀元前2世紀の中頃から紀元後1世紀にかけて、様々な時期に書かれたものである。少なくとも一つの文書は、炭素年代測定法により紀元前21年から紀元後61年のものだと判明した。この時期のヘブライ語の文書は、エジプトから出土した、十戒の写しを含むナッシュ・パピルスが他にあるのみである。同様に書かれた資料は、マサダの要塞都市など近隣の場所から発見されている。
断片は少なくとも800巻あり、エッセネ派の信条から他の宗派の信条まで及ぶほど、異なる視点で書かれている。断片の約30%はヘブライ語聖書で、エステル記以外の全文にあたる。約25%は、伝統的なユダヤ教の宗教文書であり、エノク書やレビの遺訓など、ヘブライ語の聖書正典には含まれないものである。30%は聖書の注解や、クムランの辺りに住んでいたと思われるいくつかのユダヤ教の宗派の、信条や規則や入会条件に関する文書である。残りの約15%は、まだ判明していない。ほとんどはヘブライ語で書かれているが、アラム語で書かれたものもあり、また、ギリシャ語で書かれたものも少数ある。
数ある発見の中で重要なものは、イザヤ写本(1947年に発見)、ハバクク書注解(1947年)、いわゆる銅の巻物(隠し持った金と武器のリスト、1952年)、ダマスコ文書の初期版である。
解釈
「死海文書を書いて隠したのは誰なのか」という点に関しては、クムランに住んでいたエッセネ派の共同体だという見方が1990年代までは一般的だった。その他に、マカバイ(ハスモン)家によって神殿から追放されたザドク家の祭司達(サドカイ派)が率いる共同体だという見方も、徐々に受け入れられてきている。
スペインのイエズス会の神父ホセ・オカラハンは、第7洞窟から出土した断片"7Q5"[1][2][3][4][5][6]が新約聖書のマルコによる福音書(第6章、52-53節)だと主張した。物議を醸したこの主張は、近年になってドイツの学者 Carsten Peter Thiede によって再び取り上げられている。マルコによる福音書の一節であるという主張が正しければ、この断片は現存する新約聖書の中でも最古の紀元後30年から60年のものとなる。
1963年、ミュンスター大学の Karl Heinrich Rengstorf は、死海文書はユダヤ教のエルサレム神殿の図書館で書かれたという説を発表した。1960年代には、この説は多くの学者に拒否された。学者達は文書がクムランで書かれたという考えを維持し、他の場所から移されたとは考えなかったのである。しかし、1990年代にはノーマン・ゴルブなどの学者がこの説を復活させた。ゴルブらは、神殿の図書館だけでなく他の図書館でも書かれた可能性を付け加えた。
1990年代には、ヴァチカンが文書の公表を差し止めているという疑惑が発表された。特に、マイケル・ベイジェントとリチャード・リーは自著『死海文書の謎』(1992年、ISBN 4760108890)で、ロバート・アイゼンマンの憶測を一般向けに紹介した。憶測は次のような内容である。「いくつかの文書を実際に書いたのは、新約聖書に描かれた姿より原理主義的で厳格な初期キリスト教徒の共同体である。イエスの生涯はパウロによって神話的に歪められている。パウロは、その地域の反ローマのメシア主義的カルトの影響力を弱めるためにサウロから改宗した振りをした、ローマのスパイだった可能性がある。」(アイゼンマンの説は、必ずしも納得できるものではない。主の兄弟ヤコブの経歴とパウロを、いくつかの文書に関連付けたいだけである。)ベイジェントとリーは、いくつかの主要な文書が数十年間に渡って意図的に隠されている、と主張する。なぜ隠されているのかというと、「文書はキリスト教に大きな影響を与えるものではない」という一般的な合意とは異なった、新しい説の出現を防ぐためだと言う。
死海文書は聖書の歴史にとって重要なものだと頻繁に書かれるため、文書について様々な陰謀説がささやかれる。例えば、死海文書の作者は地球外生命だ、といったものだ。
発見
この写本は若い羊飼い Muhammed edh-Dhib によって発見された。洞窟からヤギを出そうとして洞窟に石を投げ込んだところ、その石が、およそ二千年間巻き物を収めていた多くの陶器の一つに当たったのだ。後に行われた考古学的な発掘と、ベドウィンの現地住人の調査により、11の洞窟から資料が発見・回収された。1955年2月13日にイスラエルは7つの主な死海文書のうちの4つを手に入れた。
公表
多くの文書が驚くべき早さで公表された。第1洞窟で発見された全文書は1950年から1956年までに公刊され、8つの洞窟で発見された文書は一冊にまとめられて1963年に公刊され、第11洞窟で発見された詩編写本は1965年に公刊された。次いで、これら資料の翻訳も早急に行われた。
第4洞窟で発見された文書だけは例外で、全体の40%しか公表されなかった。これらの資料の公刊は、エルサレムのドミニコ会の神父ロラン・ドゥ・ヴォーが率いる、国際チームに任されていた。このグループは委託された資料の1巻目を1968年に公刊したが、公刊よりも、資料についての自説の弁護に多くの力を費やした。これら資料の編集・出版に開始当初から関わっていたゲザ・ヴェルメシュは、公刊のための作業が遅れ最終的に失敗したことについて、ドゥ・ヴォーが人選したチームが、彼が行おうとしていたようなレベルの仕事をこなすだけの能力を欠いており、また、作業を速やかに遂行するにあたって、ドゥ・ヴォー個人のほとんど家父長的な権威に寄りかかってしまったからだと批判した。
結果として、第4洞窟で発見された文書は長年にわたって公開されなかった。文書へのアクセスは「守秘ルール」によって制限されていた。そのルールは、オリジナルの国際チーム(または彼らが指名した者)のみにオリジナルの資料の閲覧を許可するものだった。1971年にドゥ・ヴォーが死去した後も、彼の後継者達は、外部の学者に判断させるための資料写真の公開要求さえ拒みつづけた。結局、このルールは破られた。まず、1988年に作られたコンコーダンスが国際チームの外部の学者の手に渡り、そこから再構築された17個の文書が1991年秋に公表された。続けて同じ月に、第4洞窟の資料すべての写真がカリフォルニア州サンマリノにあるハンティントン図書館で発見・公表された。この図書館は「守秘ルール」の範囲外だった。いくらか遅れたものの、これらの写真はロバート・アイゼンマンとジェームズ・ロビンソンによって公刊された(A Facsimile Edition of the Dead Sea Scrolls、2分冊、Washington, D.C.、1991年)。その結果「守秘ルール」は無くなり、第4洞窟の文書はすぐに公刊に向けて準備され、1995年に5分冊で公刊された。
参照
参考文献
- 『死海写本の謎を解く』(エドワード M. クック著、太田修司・湯川郁子共訳) ISBN 4764266105
- Frank Moore Cross, The Ancient Library of Qumran, 3rd ed., Minneapolis: Fortress Press, 1995. ISBN 0800628071
- 『死海文書は誰が書いたか?』(ノーマン・ゴルブ著、前田啓子訳) ISBN 4881355910
- 『はじめての死海写本』(土岐健治著) ISBN 406149693X