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=== 画家・仏教徒としての業績 === |
=== 画家・仏教徒としての業績 === |
2024年1月24日 (水) 13:21時点における版
王一亭 | |
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Who's Who in China 4th ed. (1931) | |
プロフィール | |
出生: |
1867年12月4日 (清同治6年11月13日) |
死去: |
1938年(民国27年)11月13日 中華民国上海市 |
出身地: | 清江蘇省松江府青浦県 |
職業: | 実業家・書画家・銀行家・政治家 |
各種表記 | |
繁体字: | 王一亭 |
簡体字: | 王一亭 |
拼音: | Wáng Yìtíng |
ラテン字: | Wang I-t'ing |
和名表記: | おう いってい |
発音転記: | ワン・イーティン |
王 一亭(おう いってい)は、清末民初に活躍した実業家・書画家・銀行家・政治家である。上海を中心に活動した実業家・銀行家として著名である一方、中国同盟会にも参加した革命派の人物である。また、画家としても優れた業績を残し、仏教徒としての活動も顕著であった。名は震だが、字の一亭で知られる。法名は覚器。号は梅花館主・海雲楼主・白龍山人。
事績
上海商業会での台頭と中国同盟会への参加
13歳の時に、上海の慎余銭荘で徒弟となり、業務の合間に広方言館で外国語を学んだ。その後、商業界で着実に地歩を固め、海運業務の商店・天与号で経理にまで昇進した[1][2]。
1906年(光緒32年)に王一亭は上海予備立憲公会会董となり、翌年には、日清汽船上海支店でコンプラドール(買弁)となった。その後も日商大阪郵船のコンプラドール、さらには三井洋行が所有する上海製造絹糸社社長も務めている。このほかにも多方面に投資活動を行い、1909年(宣統元年)に滬南商務総会総理に選出された。同年、上海商務総会議董、上海自治公所に任ぜられ、上海の地方自治事務に取り組んでいる[1][3]。
1910年(宣統2年)、王一亭は中国同盟会に加入し、同盟会上海分会機関財務科科長となる。さらに機関紙『民立報』の創刊を支援するなど同盟会への資金援助を展開した。武昌起義(辛亥革命)が勃発すると、王も陳其美らの蜂起に参加し、さらに商団を革命派に付かせる工作に従事している。上海軍政府が成立すると、交通部部長や農業部部長を歴任した[1][4]。
民国成立後の活動
1912年(民国1年)4月、王一亭は黄興らと南京で拓殖学校を創設した。翌年、第二革命(二次革命)で革命派が敗北すると、王一亭はイギリス租界に逃れ、絵画に没頭している。1915年(民国4年)、中国商業儲蓄銀行董事として復帰し、1917年(民国6年)に同行董事長に昇進した[1][4]。
1925年(民国14年)夏、王一亭は、逝去した孫悟空(孫悟空)を葬る中山陵の図案選定顧問を務めた。1927年(民国16年)冬、国民政府中央救災準備金保管委員会委員長となり[5]、さらに振務委員会常務委員などに任ぜられている。1932年(民国21年)1月には、国難会議に招聘された。1937年(民国26年)に第二次上海事変が勃発すると香港へ逃れたが、まもなく上海に戻っている。1938年(民国27年)11月13日、上海で死去。享年72(満70歳)[1][4]。
画家・仏教徒としての業績
学徒の時代から書画熱が高じ、この頃に任頤に就いて絵を学ぶ。山水画は呉鎮に師法した。人物画・花鳥画・仏画に優れ晩年にはほとんど毎日仏像を画いた。呉昌碩とは師友となって親しく交わった。また、上海昌明芸術専科学校校長にも任命されている。
1929年(民国18年)6月、王一亭は太虚大師と上海で中国仏教会を設立し、王一亭も同会の執行委員兼常務委員に任ぜられた。以後も仏教学出版社の理事長、世界仏教居士林の副林長、林長を歴任している。売画によって得られた所得の大部分は慈善事業に寄付した。梓園を建てそこに広く名画を蒐集したが、後に散逸した。著書に『白龍山人詩稿』・『王一亭書画集』がある。
脚注
参考文献
- 徐友春主編『民国人物大辞典 増訂版』河北人民出版社、2007年。ISBN 978-7-202-03014-1。
- 劉国銘主編『中国国民党百年人物全書』団結出版社、2005年。ISBN 7-80214-039-0。