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[[山形県]][[酒田市]]で生まれ、実家は紳士服の仕立て屋だった。子供の頃から絵を描くこと、芝居・映画を鑑賞することが好きで、高校時代に所属していた美術部の顧問の推薦で宣伝美術を経験し、デザインの仕事に就くことを志望し上京する。昼間にアルバイトをしながら、夜間に[[日本デザインスクール]]で学び1967年に卒業<ref>布川(2013)、pp.225-227</ref>。
[[山形県]][[酒田市]]で生まれ、実家は紳士服の仕立て屋だった。子供の頃から絵を描くこと、芝居・映画を鑑賞することが好きで、高校時代に所属していた美術部の顧問の推薦で宣伝美術を経験し、デザインの仕事に就くことを志望し上京する。昼間にアルバイトをしながら、夜間に[[日本デザインスクール]]で学び1967年に卒業<ref>布川(2013)、pp.225-227</ref>。


専門学校卒業後に青山のデザイン事務所に就職するが、すぐに退職。「絵の好きな人募集」という新聞の求人広告を見て、同年にTCJ動画センター(現・[[エイケン (企業)|エイケン]])の下請けをしていた朋映プロの契約スタッフとなってアニメ業界入りした。彩色スタッフを経て<ref>布川(2013)、pp.228-231</ref>、『[[宇宙少年ソラン]]』で動画を描くアニメーターとなり、『[[ロボタン]]』では[[原画]]に昇格。その後、ネズプロへ。[[円谷皐]]の[[円谷エンタープライズ]]で[[日本万国博覧会]]などイベント関係の仕事をした後、フリーのアニメーターとして[[スタジオじゃっく]]、[[虫プロダクション]]などスタジオを渡り歩く<ref name="noda">[[野田真外]]編著『前略、押井守様。』フットワーク出版、1998年、p.191</ref><ref name="insider">[[原口正宏]]、長尾けんじ、[[赤星政尚]]『タツノコプロ・インサイダーズ』講談社、2002年、pp.94-97</ref>。
専門学校卒業後に青山のデザイン事務所に就職するが、すぐに退職。「絵の好きな人募集」という新聞の求人広告を見て、同年にTCJ動画センター(現・[[エイケン (アニメ制作会社)|エイケン]])の下請けをしていた朋映プロの契約スタッフとなってアニメ業界入りした。彩色スタッフを経て<ref>布川(2013)、pp.228-231</ref>、『[[宇宙少年ソラン]]』で動画を描くアニメーターとなり、『[[ロボタン]]』では[[原画]]に昇格。その後、ネズプロへ。[[円谷皐]]の[[円谷エンタープライズ]]で[[日本万国博覧会]]などイベント関係の仕事をした後、フリーのアニメーターとして[[スタジオじゃっく]]、[[虫プロダクション]]などスタジオを渡り歩く<ref name="noda">[[野田真外]]編著『前略、押井守様。』フットワーク出版、1998年、p.191</ref><ref name="insider">[[原口正宏]]、長尾けんじ、[[赤星政尚]]『タツノコプロ・インサイダーズ』講談社、2002年、pp.94-97</ref>。


アニメーターとして参加した虫プロダクションの経営危機の際には、のちのサンライズの前身となる創映社の立ち上げに誘われるも和光プロダクションから演出をやってほしいと誘いを受けて、[[タツノコプロ]]作品『[[カバトット]]』の演出に携わり、演出家デビューを果たした。この時にタツノコプロの監督の[[笹川ひろし]]に才能を見込まれ、和光プロから移籍し、1971年11月にタツノコプロの社員となる。それまでは作品ごとの契約だったのが初めての正社員だったという<ref name="noda" /><ref>布川(2013)、pp.232-235</ref>。1972年に始まった後番組の『[[かいけつタマゴン]]』では[[キャラクターデザイン]]や色指定までてがけた<ref>布川(2013)、p.214</ref>。
アニメーターとして参加した虫プロダクションの経営危機の際には、のちのサンライズの前身となる創映社の立ち上げに誘われるも和光プロダクションから演出をやってほしいと誘いを受けて、[[タツノコプロ]]作品『[[カバトット]]』の演出に携わり、演出家デビューを果たした。この時にタツノコプロの監督の[[笹川ひろし]]に才能を見込まれ、和光プロから移籍し、1971年11月にタツノコプロの社員となる。それまでは作品ごとの契約だったのが初めての正社員だったという<ref name="noda" /><ref>布川(2013)、pp.232-235</ref>。1972年に始まった後番組の『[[かいけつタマゴン]]』では[[キャラクターデザイン]]や色指定までてがけた<ref>布川(2013)、p.214</ref>。

2023年11月18日 (土) 05:20時点における版

ぬのかわ ゆうじ
布川 ゆうじ
プロフィール
本名 布川ぬのかわ 郁司ゆうじ
別名義 坂田 ゆう
生年月日 (1947-02-11) 1947年2月11日
出身地 日本の旗 日本山形県酒田市
没年月日 (2022-12-25) 2022年12月25日(75歳没)
出身校 日本デザインスクール
職業 アニメーター
アニメ演出家
アニメーションプロデューサー
実業家
所属 ぴえろ(取締役最高顧問)
活動期間 1968年 - 2022年
ジャンル アニメーション
受賞 東京都産業推進功労賞
第22回日本映画批評家大賞アニメーション功労賞
文化庁長官表彰
秋の藍綬褒章
その他東北芸術工科大学大学院仙台スクール教授
日本動画協会理事長
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布川 ゆうじ(ぬのかわ ゆうじ、本名: 布川 郁司[1](読みは左記と同一)、1947年2月11日 - 2022年12月25日[2])は、日本アニメーターアニメ演出家アニメーションプロデューサー実業家。株式会社ぴえろ創業者[1]・取締役最高顧問、元東北芸術工科大学大学院仙台スクール教授、元日本動画協会理事長。ペンネームに坂田ゆう。

来歴

山形県酒田市で生まれ、実家は紳士服の仕立て屋だった。子供の頃から絵を描くこと、芝居・映画を鑑賞することが好きで、高校時代に所属していた美術部の顧問の推薦で宣伝美術を経験し、デザインの仕事に就くことを志望し上京する。昼間にアルバイトをしながら、夜間に日本デザインスクールで学び1967年に卒業[3]

専門学校卒業後に青山のデザイン事務所に就職するが、すぐに退職。「絵の好きな人募集」という新聞の求人広告を見て、同年にTCJ動画センター(現・エイケン)の下請けをしていた朋映プロの契約スタッフとなってアニメ業界入りした。彩色スタッフを経て[4]、『宇宙少年ソラン』で動画を描くアニメーターとなり、『ロボタン』では原画に昇格。その後、ネズプロへ。円谷皐円谷エンタープライズ日本万国博覧会などイベント関係の仕事をした後、フリーのアニメーターとしてスタジオじゃっく虫プロダクションなどスタジオを渡り歩く[5][6]

アニメーターとして参加した虫プロダクションの経営危機の際には、のちのサンライズの前身となる創映社の立ち上げに誘われるも和光プロダクションから演出をやってほしいと誘いを受けて、タツノコプロ作品『カバトット』の演出に携わり、演出家デビューを果たした。この時にタツノコプロの監督の笹川ひろしに才能を見込まれ、和光プロから移籍し、1971年11月にタツノコプロの社員となる。それまでは作品ごとの契約だったのが初めての正社員だったという[5][7]。1972年に始まった後番組の『かいけつタマゴン』ではキャラクターデザインや色指定までてがけた[8]

タツノコプロでは1975年開始の『タイムボカンシリーズ』より企画に加わり[9]、笹川ひろしを恩師と仰ぎ、同シリーズの他、『いなかっぺ大将』『みなしごハッチ』『科学忍者隊ガッチャマン』などの演出を担当する。その中でも印象深いのは『新造人間キャシャーン』だという[10]。タツノコ時代には生活費のため、坂田ゆうのペンネームを用いて他社の仕事をアルバイトで手掛けたり[11]押井守らタツノコの若手演出家を指導して多くの演出家を輩出した[12][13]

タツノコプロには6年在籍した後、1977年4月に正社員から契約社員となり[5]、1977年開始の和光プロの『激走!ルーベンカイザー』で初のチーフ・ディレクター[6]。1978年に上梨満雄ときたひろこら4名でスタジオぴえろ(現:ぴえろ)の前身の演出家グループを結成して吉祥寺のマンションの一室で活動を開始[14][15]。タツノコプロを離れた。タツノコプロをやめたのは同社の社長である吉田竜夫の死去がショックだったこと、生活が厳しくフリーになって稼ごうと思ったからであると語る[16]

1979年に『ニルスのふしぎな旅』を制作するため、鳥海永行案納正美らと共に株式会社スタジオぴえろ(現:ぴえろ)を設立し、社長に就任した[17]

2002年、日本動画協会の設立に携わる[18][19]

2008年、日本動画協会の副理事長として東京都協力の元「アニメ人材育成・教育プログラム製作委員会」を組成し、委員長に就任する。また、産業界初の「アニメの教科書」を作成した。

2009年から2014年まで日本動画協会理事長を務める。

2012年7月、代表権を引き続き保持しながらぴえろ会長に就任し[20]、後に代表権を持たない取締役最高顧問となっている[21]

2013年、阿部記之水野和則若林厚史、岡田勲と共にアニメプロデューサー・演出家育成塾「NUNOANI塾」を設立し、塾長兼講師を務めている[22]。他に、各教育機関で客員教授として「日本のアニメとビジネス戦略」をテーマに講演活動を行っている[21]

2021年12月、布川ゆうじ「本日の漫画です」展開催[23]

2022年11月、「布川ゆうじの仕事」展開催[24]

2022年12月25日死去。75歳没[2]

人物

笹川ひろしと並び、三悪のうちの頭脳系の手下(グロッキー、ボヤッキーなど)のモデルと言われる[25]

全社一丸となってオリジナル作品を作っていた全盛期のタツノコプロを理想とし[6]、笹川ひろしを演出の師匠としていた[6]。しかし、スタジオぴえろ発足時に深く考えずに結果的にタツノコプロのスタッフを引き抜く結果となり、タツノコ側から悪感情を抱かれてつらいを思いをした、後に和解したものの苦い経験をした、としている[26]

グラフィックデザイナー経験者ということで『新造人間キャシャーン』などのタイトル画面のスタッフの文字を書いていた[6]

参加作品

タツノコプロ

ぴえろ

他多数

その他

著書

  • 『クリィミーマミはなぜステッキで変身するのか? 愛されるコンテンツを生むスタジオの秘密』(日経BP社、2013年12月19日) ISBN 978-4822249922
  • 『「おそ松さん」の企画術 ヒットの秘密を解き明かす』(集英社、2016年7月16日) ISBN 978-4087860726
  • アニメ人材育成・教育プログラム委員会 著、日本動画協会 編『アニメの教科書』アニメ人材育成・教育プログラム委員会(原著2009-1-7)。ISBN 978-4990445508 

受賞歴

脚注

  1. ^ a b c 読売新聞 2022年12月28日 22面
  2. ^ a b “「クリィミーマミ」ら手掛けた、ぴえろ創立者の布川郁司さん急逝、75歳”. 日刊スポーツ. (2022年12月26日). https://www.nikkansports.com/entertainment/news/202212260000980.html 2023年1月15日閲覧。 
  3. ^ 布川(2013)、pp.225-227
  4. ^ 布川(2013)、pp.228-231
  5. ^ a b c 野田真外編著『前略、押井守様。』フットワーク出版、1998年、p.191
  6. ^ a b c d e f g h 原口正宏、長尾けんじ、赤星政尚『タツノコプロ・インサイダーズ』講談社、2002年、pp.94-97
  7. ^ 布川(2013)、pp.232-235
  8. ^ 布川(2013)、p.214
  9. ^ オトナアニメ編集部編著『オトナアニメCOLLECTION いまだから語れる80年代アニメ秘話 美少女アニメの萌芽』洋泉社、2012年、p.169。布川ゆうじと高田明美との対談より。
  10. ^ 布川(2013)、pp.235-238
  11. ^ 布川(2013)、p.240
  12. ^ 布川(2013)、p.245。笹川ひろしインタビューより。
  13. ^ アニメージュ編集部編『ロマンアルバム イノセンス押井守の世界』PERSONA増補改訂版、2004年、徳間書店、p.38。押井守インタビューより
  14. ^ 野田真外編著『前略、押井守様。』フットワーク出版、1998年、p.258。押井守インタビューより
  15. ^ 布川(2013)、p.25
  16. ^ 布川(2013)、pp.239-240
  17. ^ 布川(2013)、pp.21-22
  18. ^ 布川(2013)、pp.250、258
  19. ^ 日本動画協会、新理事長にサンライズ内田健二氏が就任 アニメ!アニメ!ビズ 2014年4月2日
  20. ^ 株式会社ぴえろ 新社長に本間道幸氏 布川郁司氏は代表取締役会長に アニメ!アニメ!ビズ 2012年8月14日
  21. ^ a b 布川(2013)、p.258
  22. ^ ワンランク上の映像制作を目指す人のためのアニメプロデューサー・演出育成塾「NUNOANI塾[1]
  23. ^ 布川ゆうじ「本日の漫画です」展”. キチジョウジギャラリー (2021年11月7日). 2023年1月15日閲覧。
  24. ^ 「布川ゆうじの仕事」展”. MIRAINI (2022年11月7日). 2023年1月15日閲覧。
  25. ^ 笹川ひろし『ぶたもおだてりゃ木にのぼる 私のマンガ道とアニメ道』ワニブックス、2000年、p.154
  26. ^ 布川(2013)、pp.28-30

関連項目

外部リンク