「鰊粕」の版間の差分
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[[安政]]年間、[[越中国]]の北前船寄港地である東岩瀬(現[[富山市]])では、鰊肥料を扱う業者は30軒を数えるほど需要があった。当地では、鰊肥料を屎物(くそもの)、これを扱う商売を屎物商売(くそものしょうばい)と呼んでいた。理由は鰊粕の臭いが糞の臭いだったためである。実際に鰊粕を生業としていた人の話では製造中は匂わないものの、乾燥中にどんどん臭くなっていくという。作業中に嘔吐してしまうことは日常茶飯事であった。衣服が糞の臭いになる、食事中も糞の臭いがして食欲が無くなる、風呂に入っても臭いが取れないので就寝時も糞の臭いがして眠れない等、生活にも影響があった。対策として鼻に炊いた米を潰して粘土状にしたものを詰めて生活していたという<ref>[『大山町史』p176 第3章大山の近世 大山町史編纂委員会編1964年発行]</ref>。 |
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== 製造方法 == |
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2023年9月10日 (日) 05:42時点における版
概要
江戸時代後期から昭和初期まで、現在の北海道日本海沿岸地域を中心に大規模に生産されていた。
北海道における和人のニシン漁は、文安4年(1447年)陸奥国の馬之助なる者が松前郡白符村(現在の松前町)で行ったものを嚆矢とする。時代が下って寛政年間(1790年ごろ)には北海道北端の宗谷地方にまで和人が進出し、ニシンの刺網漁に従事していた。しかし、当初のニシン漁はあくまでも食用目的だった。
内地における商品作物の栽培が盛んになるにつれ、干鰯のような金肥として、ニシンの搾りかす「鰊粕」の肥料効果が着目されることとなる。安永年間(1770年ごろ)には地曳網や笊網などの導入で大量の捕獲が可能となり、本格的な鰊粕の製造が始まる。しかし、鰊粕は北海道の沿岸部どこでも製造されていた訳ではなく、天保年間(1830年ごろ)までは東蝦夷地においては根室や国後などの奥地、日本海側では雄冬岬から樺太にかけてが産地だった。これは、松前藩の目を憚って奥地でのみ製造していたものらしい。しかし産地は順次南下し、幕末の慶応年間には和人地でも生産が始まる。
ニシンが産卵のため北海道近海を訪れる春が鰊粕の生産のピークである。鰊粕は北前船交易で北陸地方や西日本各地に輸出され、ミカン、菜種、藍、綿花栽培などの商品作物栽培に重要な役割を果たした。
呼称
安政年間、越中国の北前船寄港地である東岩瀬(現富山市)では、鰊肥料を扱う業者は30軒を数えるほど需要があった。当地では、鰊肥料を屎物(くそもの)、これを扱う商売を屎物商売(くそものしょうばい)と呼んでいた。理由は鰊粕の臭いが糞の臭いだったためである。実際に鰊粕を生業としていた人の話では製造中は匂わないものの、乾燥中にどんどん臭くなっていくという。作業中に嘔吐してしまうことは日常茶飯事であった。衣服が糞の臭いになる、食事中も糞の臭いがして食欲が無くなる、風呂に入っても臭いが取れないので就寝時も糞の臭いがして眠れない等、生活にも影響があった。対策として鼻に炊いた米を潰して粘土状にしたものを詰めて生活していたという[1]。
製造方法
まず、直径1.8m、深さ1.2mほどの大釜に淡水か海水を八分目まで満たして沸騰させる。ここにニシンを1000尾ほど投入し、火力を強くして30分ほどで煮上げる。
煮上がったニシンをタモ網で掬い上げ、テコの原理を利用した木製の圧搾機「角胴」に入れ、次のニシンが煮あがるまでの間20分ほどの時間をかけて圧搾する。搾り汁は樋で「ハチゴ」という桶に導いて水分と魚油を分離する一方、角胴を反転させて内部の搾りかす「粕玉」を取り出す。明治中期以降は、ネジの原理を利用した金属製の圧搾機「キリン」が順次普及した。朝4時から1人が一釜を担当し、15、16玉を締め上げるのが一日の仕事量とされた。
重さ100kgはある粕玉を数人がかりで干場に運び、巨大な包丁や木製の鍬で細かく粉砕する。夜間は筵で覆うなどして数日間かけ乾燥させたのち、20貫入りの俵に詰めて出荷する。
ニシン以外にサケやマス、イワシも同様の工程を経て肥料に加工された。魚を煮沸、圧搾、乾燥して製造される肥料は総称して〆粕(しめかす)と呼ばれる。
産地における影響
鰊粕の製造には大量の薪を必要とするため、北海道の沿岸部では森林破壊が進んだ。また、先住民族のアイヌは和人商人のもとで鰊粕製造その他の労働に従事させられ、従来の民族コミュニティの変容や破壊がもたらされた。
脚注
- ^ [『大山町史』p176 第3章大山の近世 大山町史編纂委員会編1964年発行]
参考文献
- 『北海道の生業2 漁業・諸職』明玄書房 昭和56年
外部リンク
ニシン漁の栄華と夢 - ウェイバックマシン(2015年10月23日アーカイブ分)