「京町 (台北市)」の版間の差分
表示
削除された内容 追加された内容
BOT: Category:日本統治時代の台北市の行政区画からCategory:日本統治時代の台北市の町・字へ変更 (議論場所) (ID: 01H9R5Z2KMG6B4HQJGZNAFQV4V) |
m Bot作業依頼: 改名に伴うリンク修正依頼 (Template:日本統治時代の台北市の町・字) - log |
||
104行目: | 104行目: | ||
* [[京町]] |
* [[京町]] |
||
{{台北市 |
{{日本統治時代の台北市の町・字}} |
||
{{デフォルトソート:きようまち}} |
{{デフォルトソート:きようまち}} |
||
[[Category:日本統治時代の台北市の町・字]] |
[[Category:日本統治時代の台北市の町・字]] |
2023年9月7日 (木) 22:17時点における版
京町 | |
---|---|
北緯25度2分42.7秒 東経121度30分40.9秒 / 北緯25.045194度 東経121.511361度 | |
国 | 大日本帝国 |
州・庁 | 台北州 |
市 | 台北市 |
人口 (1935年10月1日現在)[1] | |
• 合計 | 2,199人 |
等時帯 | UTC+9 (日本標準時) |
京町(きょうまち[2])は、日本統治時代の台湾に存在した台北州台北市の町丁。京町一丁目から京町四丁目までで構成された。人口は2,199人、世帯数は382世帯(1935年10月1日現在)[1]。
地理
かつての台北市中心部、本町の西に位置する。
現在の博愛路、開封街一段、武昌街一段、永綏街、沅陵街の各一部が京町に含まれる。博愛路は日本統治時代に「京町通」という名であった。開封街一段は「宝通」、漢口街一段は「中通」、武昌街一段は「春日通」、永綏街は「公会堂通」、沅陵街は「都通」であった。
歴史
年表
- 1922年(大正11年)4月1日 - 町名改正が実施され、京町一丁目・京町二丁目・京町三丁目・京町四丁目が誕生する。
- 1937年(昭和12年)10月1日 - 従来の西部標準時(グリニッジ標準時+8)が廃止され、日本標準時(グリニッジ標準時+9)に変更される[3]。
- 1945年(昭和20年)10月25日 - 日本が中華民国に降伏(台湾光復)したことにより、日本の町丁として事実上廃止される。同時に台湾省行政長官公署下の台北市が成立し、同市の町名となる。
- 1946年(民国35年)
町名の変遷
町名の変遷は以下の通りとなる[7]。
実施後 | 実施年月日 | 実施前(各町名ともその一部) | |
---|---|---|---|
京町 | 1922年4月1日 | 台北城内 | 北門街 |
府直街 | |||
府後街 | |||
府前街 | |||
石坊街 | |||
撫台街 | |||
西門街 |
施設
公共
- 台北電信局(京町四丁目8)
脚注
注釈
出典
- ^ a b 『台湾昭和十年国勢調査結果概報』台湾総督官房臨時国勢調査部、1935年12月、6頁。doi:10.11501/1281972。
- ^ 新道満『ローマ字発音台湾市街庄名の読み方』東都書籍、1938、11頁。doi:10.11501/1239821。
- ^ “明治二十八年勅令第百六十七号(標準時ニ関スル件)”. e-Gov法令検索. 2023年8月31日閲覧。
- ^ 「除去日本色彩省垣改正街路名稱」『民報』1946年1月1日。2023年9月1日閲覧。
- ^ 臺北市文獻委員會 編『臺北市 志卷三 政制志 行政篇』臺北市政府、1962、31-35頁 。2023年9月1日閲覧。
- ^ 臺北市文獻委員會 編『臺北市志 卷三 政制志 行政篇』臺北市政府、1987年6月15日、148-150頁 。2023年9月1日閲覧。
- ^ a b 臺北市文獻委員會 編『臺北市志 卷一 沿革志 封域篇』臺北市政府、1988、122頁 。2023年9月1日閲覧。