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ベル・ロンドン(Belle London、1866-1924)は、アメリカ・ユタ州にあった売春宿の女性経営者。

生涯

ベル・ロンドン

1866年、ケンタッキー州に生まれたロンドンは、1889年からユター州オグデンの有名な売春宿番人であり、「ドーラ・B・トップハム」の別名でも知られる毒婦であった[1]。オグデンユニオンステーション25丁目の近くにあった[2]エレクトリック・アレー10番地に、「ロンドンアイスクリームパーラー」という名のアイスクリーム店を装い、ビルの上階に売春宿を設けていた[1]。当時、ソルトレイクシティの政府指導者らは、ロンドンを公認売春街の運営に選出し、ロンドンはユタ州史上たったひとりの公娼宿経営者となった[3]。 ロンドン本人にとって売春業は不本意なものであり、良心の呵責に苛まれていたが、当時女性が参入できるビジネスが非常に少なかった時代に、売春宿の経営はその貴重な選択肢のひとつであった[1]。また、ロンドンは公娼制度をビジネスチャンスであると同時に「売春を制限することによって性病を減らし、社会に善を寄与することが出来る」と考えたという。ロンドンは娼婦らが1日あたり1ドル~4ドルの家賃を払う『ストックエイド』という約100の小さなプレイルームを設けた[3]

ストックエイド開業から僅か3年も経たぬまま、施設は閉鎖され、即取り壊された。ロンドンは16歳の少女をストックエイドに誘い込んだ罪で、18年の懲役刑を命じられたが、後にユタ州最高裁判所は有罪判決を覆した[3]

ロンドンは1890年に、ユニオン・パシフィック鉄道のボイラー製造、トップハム・トマスと結婚した。トップハムはすぐサルーンキーパーになり、ロンドンと一緒にオグデンにて影響力を得る。ロンドンはトップハム・エテルという名の養女含め2人の娘をもうけた[2]

1912年、25丁目の売春を摘発するため、警察の検挙があった。過去の生活を忘れたいと望んだベルは娘と共に、1914年頃オグデンからサンフランシスコ市へと引っ越し、名前を「ローズ・マキシン」に変えた。売春産業で働き続け、ホテルを購入した[2]

1925年サンフランシスコにて、怪我を負った従業員の車を牽引する際、2台の車が滑りロンドンは押しつぶされ、数年後に亡くなった[2]。 ビジネス関係者が彼女について書いたところによると、ロンドンは常に貧しい人々を助けたいと願い、寛大な心を持ち、忌まわしい職業をスピークイージーのように変えたいという願望があったとされている[3]

脚注

  1. ^ a b c Belle London | Historic 25th Street”. www.historic25.com. 2019年4月25日閲覧。
  2. ^ a b c d Holley, Val.. 25th Street confidential : drama, decadence, and dissipation along Ogden's rowdiest road. Salt Lake City. ISBN 9781607812685. OCLC 846846850. https://www.worldcat.org/oclc/846846850 
  3. ^ a b c d London belle Supper Club”. ロンドンベルサパークラブ. 2023年8月6日閲覧。