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「蒙古襲来絵詞」の版間の差分

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== 関連書籍 ==
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*[[石井進 (歴史学者)|石井進]] 『鎌倉びとの声を聞く』 [[日本放送出版協会|NHK出版]]、2000年。
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*大倉隆二 『「蒙古襲来絵詞」を読む』 [[海鳥社]]、2007年。
*大倉隆二 『「蒙古襲来絵詞」を読む』 [[海鳥社]]、2007年。
*[[太田彩]]編 『日本の美術414 絵巻=蒙古襲来絵詞』 [[至文堂]]、2000年、11月。
*[[太田彩]]編 『日本の美術414 絵巻=蒙古襲来絵詞』 [[至文堂]]、2000年、11月。

2023年8月11日 (金) 00:02時点における版

文永の役において、が飛び交い、てつはうが炸裂する中をモンゴル帝国高麗王国連合軍へ斬り込んでいく竹崎季長と応戦・逃亡する蒙古兵

蒙古襲来絵詞(もうこしゅうらいえことば)は、筆者不明の全2巻の絵巻物竹崎季長絵詞蒙古襲来絵巻[1]とも。鎌倉時代後期の作で、肥後国御家人竹崎季長元寇における自分の戦いを描かせたものとされている。旧御物で、現在は宮内庁の所蔵となっている。国宝[2]

概要

竹崎家衰退後、大矢野家に伝えられた。季長を中心に元寇での実戦の様子が描かれており、元側の軽装兵や軍船、使用した「てつはう」などが描かれた唯一の画像史料として知られ、歴史の教科書に掲載されている事が多い。[要出典]

ストーリーは、前巻は季長が8名の郎党を率いて文永の役に出陣して戦い、その後、一番駆けの武功に対する恩賞が出ないことを不服として鎌倉へ赴き、安達泰盛と直談判を行って恩賞地と馬を与えられる様子が描かれ、後巻では、海東郷の地頭として出世を果たした季長が弘安の役に出陣して戦う様子が描かれており、末尾には家訓とともに「永仁元年二月」(1293年)の日付が記されている(「永仁」への改元は同年8月)。

なお、絵巻物自体は中世のものと考えられているが、蒙古兵と日本騎馬武者の描写の違いなどから、後世の加筆、改竄、または編纂があったとする説も提唱されている。特に、季長と対峙する3人の蒙古兵(上の画像)は同じ絵巻の他の蒙古兵と装備や絵のタッチが明らかに異なり、またこの部分の紙が上下にずれて貼り合せてあるのに絵はずれておらず、近世に加筆されたと考えられており、九州国立博物館の文化交流展示室ではこの説が紹介されている。一方、後世の加筆や改竄ではなく、季長自身の指示による追加・手直しとの見方もある(大倉隆二『「蒙古襲来絵詞」を読む』)。

史料としての価値

宮本常一は、この絵巻について次の点を指摘する[3]

  • 絵の中に軍船が描かれ、中には武士の他に水夫(櫂を操る者)が乗っている場合と、雑兵が舟を漕いでいる場合があること。
  • 日本軍は陣鐘も陣太鼓も用いていない。それに対して蒙古軍はすでに集団戦法が発達していること。
  • 日本軍と蒙古軍の弓の違い。
  • 蒙古軍は多く投げ槍を使っているが、日本軍はほとんど用いず、長刀を使うのは雑兵に限られる。
  • 蒙古軍はこの時、鉄砲を使っている。

季長の詞

詞十五「やすもり(泰盛)の御事」 現代語訳(判読不明の箇所を除く)

「およそ皆勤に預かった人は百二十余人であったけれども、直に御下文を賜り、御馬を賜ったのはただ季長一人である。弓箭の面目を施す事である。この後も再び君の御大事あらん時は、一番に先駆けをしなければならない。これを今日の決意とする。」

永仁元年(正応6年)2月9日1293年3月18日

ギャラリー

前巻1 「文永の役」 詞一〜四、絵一〜七
前巻2 「文永の役」 詞五、絵五〜八
前巻3 「鎌倉」 詞六〜九、絵九,十
後巻1 「弘安の役」 詞十、絵十一〜十二
後巻2 「弘安の役」 詞十一〜十三、絵十二〜十七
後巻3 「弘安の役」 詞十三〜十六(奥書)、絵十八〜二十一(最後)

関連書籍

脚注

  1. ^ 山川出版社『新詳日本史B』より。
  2. ^ 令和3年9月30日文部科学省告示第161・162号。
  3. ^ 宮本常一『絵巻物に見る日本庶民生活誌』中公新書、1981年、P.106頁。 

関連項目

外部リンク