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「猿神王国」の版間の差分

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モルデは地質学者のローレンス・C・ブラウンと共にモスキティアに入っていき、4ヶ月後の同年7月、サルの彫像を始めとする様々な遺物と共に{{仮リンク|パウラヤ川|en|Paulaya River}}と{{仮リンク|プラタノ川|en|Plátano River}}の間にあるジャングルで猿神王国を発見したとの知らせをもたらした<ref>プレストン(2017年)p.40</ref>。
モルデは地質学者のローレンス・C・ブラウンと共にモスキティアに入っていき、4ヶ月後の同年7月、サルの彫像を始めとする様々な遺物と共に{{仮リンク|パウラヤ川|en|Paulaya River}}と{{仮リンク|プラタノ川|en|Plátano River}}の間にあるジャングルで猿神王国を発見したとの知らせをもたらした<ref>プレストン(2017年)p.40</ref>。


{{quotation|私は小さな崖の上から目に入った光景に足を止めました......(中略)失われた猿神王国だったのです!......(中略)私は先住民から聞いた古い伝説を思い出しました。その伝説によれば、失われた都市では、サルの巨像が神として崇められていたといいます。</br>私は樹木に覆われた巨大な土の山を見ました。いつか、ここを発掘すれば、この場所から猿神が出土するかもしれないと思いました。(中略)</br>ほとんど何にでもサル、つまり猿神が彫られているのです。猿神王国にもう一度戻って新世界の謎を解きたいと思います。|1940年9月10日のCBSのラジオインタビューでのセオドア・モルデ<ref>プレストン(2017年)p.41</ref>}}
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2023年7月11日 (火) 01:11時点における版

1940年9月22日出版のThe American Weeklyに掲載された猿神王国の想像図。(モルデの証言を元にイラストレーターのヴァージル・フィンレイが描いた。)

猿神王国:City of the Monkey God、西:Ciudad de Mono Dios[1])は、ホンジュラスモスキティア英語版地域のジャングルに存在し巨大な猿の像が地中に埋っていると伝えられる失われた都市。

モスキティア地域の伝説の都市シウダー・ブランカ英語版と同一視される[2]

起源

富豪でアメリカ先住民の遺物をコレクションしていたジョージ・グスタフ・ヘイ英語版がニューオリンズの医師からモスキティアの文明が製造したものとされるアルマジロの彫像を購入したことから伝説が始まる[3]

ヘイはこの彫像をきっかけにモスキティアのジャングルに眠る文明に興味を持ち、探検家のF・A・ミッチェル=ヘッジス[i]を雇って、この文明の遺物を探索させることにした[3]

探検

ヘッジスによる探検

1930年、ヘッジスはモスキティアの山奥には地元民から「失われた猿神王国」と呼ばれる、巨大な猿神の像が地中に埋まっている失われた都市が存在するとの情報と、1000点超の遺物を携えてジャングルから帰還した[3][ii]。ヘッジスはこの探検で片目を失い、下痢やマラリアなどにも悩まされた[3]

この情報が引き金となり、大英博物館とヘイの共同出資で猿神王国を目指して2回目の探検が行われることになった。しかし、2度目の探検でヘッジスはモスキティアのジャングルには入らず、バイア諸島のビーチで猿神王国の噂を聴取したに過ぎなかった[iii][5]

マレーによる探検

次にホンジュラス国立博物館、同国大統領、ヘイの3者による探検が計画され、その探検者にカナダ人ジャーナリストのR・スチュワート・マレー(R. Stuart Murray)が選ばれた[6]。マレーは1934年と1935年にジャングルに赴き、動物の彫像で装飾された石臼や象形文字が刻まれた石などの王国に関連すると思われる遺物を発見した[7]

モルデによる探検

リオプラタノ川とその周辺のジャングル。

1940年3月、探検家のセオドア・モルデ英語版が王国を目指した。

モルデは地質学者のローレンス・C・ブラウンと共にモスキティアに入っていき、4ヶ月後の同年7月、サルの彫像を始めとする様々な遺物と共にパウラヤ川英語版プラタノ川英語版の間にあるジャングルで猿神王国を発見したとの知らせをもたらした[8]

私は小さな崖の上から目に入った光景に足を止めました......(中略)失われた猿神王国だったのです!......(中略)私は先住民から聞いた古い伝説を思い出しました。その伝説によれば、失われた都市では、サルの巨像が神として崇められていたといいます。
私は樹木に覆われた巨大な土の山を見ました。いつか、ここを発掘すれば、この場所から猿神が出土するかもしれないと思いました。(中略)
ほとんど何にでもサル、つまり猿神が彫られているのです。猿神王国にもう一度戻って新世界の謎を解きたいと思います。 — 1940年9月10日のCBSのラジオインタビューでのセオドア・モルデ[9]


モルデは盗掘を避けるため、死ぬまで(ヘイに対しても)王国の位置を隠し通した[10]。また、モルデは発掘に戻る予定を立てていたがその希望は叶わなかった。

モルデの証言は数多くの人々を王国の発見に誘ったが、2016年にダグラス・プレストンがモルデの日記のコピーを入手したことで事態は急変した[11]

日記にはモスキティアには王国を探す為ではなく、黄金の採掘に訪れていたことが記されており、王国を発見したとされるパウラヤ川やプラタノ川の周辺に実際には近寄っていない(モルデが実際に赴いたのはブランコ川だった)ことや、持ち帰ってきた遺物も即席で調達した偽物だったことなどが赤裸々に記されていた[12]

脚注

注釈

  1. ^ ヘッジスは自身が語った経歴や探検家としての様々な発見(マヤ文明のルバアントゥン遺跡、クリスタル・スカル、アトランティスなど)に疑問を呈されている。
  2. ^ ヘッジスはニューヨーク・タイムズの取材に対して都市の正確な位置を明らかにせず、単にモスキティア山中のジャングルとだけ述べた[4]
  3. ^ プレストンによると前回の探検で散々な目にあったためだという[5]

出典

  1. ^ Legendary Ciudad de Mono Dios tells important stories”. www.marrder.com (2013年7月21日). 2023年6月28日閲覧。
  2. ^ Karasavvas, Theodoros (2017年1月16日). “Explorers That Found Ancient Lost City of the Monkey God Almost Lose Their Faces to Flesh-Eating Parasite” (英語). Ancient Origins. 2023年6月26日閲覧。
  3. ^ a b c d プレストン(2017年)p.34
  4. ^ プレストン(2017年)p.35
  5. ^ a b プレストン(2017年)p.35
  6. ^ プレストン(2017年)p.36
  7. ^ プレストン(2017年)p.37
  8. ^ プレストン(2017年)p.40
  9. ^ プレストン(2017年)p.41
  10. ^ プレストン(2017年)p.41、p.43
  11. ^ プレストン(2017年)p.43、p.44
  12. ^ プレストン(2017年)p.41、p.53

参考文献

  • ダグラス・プレストン『猿神のロスト・シティ 地上最後の秘境に眠る謎の文明を探せ』2017年、NHK出版。ASIN 414081716X

関連項目