「李朝 (蜀)」の版間の差分
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<span style="font-size:90%;">「完訳 華陽国志」([[常璩]] 著、中林史朗 訳) 志学社 ISBN 4909868097 ISBN-13 978-4909868091</span> |
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2023年6月29日 (木) 00:09時点における版
李 朝(り ちょう、生年不詳 - 222年)は、後漢末期から三国時代の蜀漢の政治家。字は偉南。益州広漢郡郪県の人。弟に李邵。子は李旦、孫は西晋に仕えて武功を挙げた李毅、曾孫に李釗・李秀がいる。
概要
郡の功曹となって孝廉に推挙され、臨邛県の令となって成都に戻り別駕従事となった。
219年、群臣が献帝に上表し、劉備を漢中王に推挙したが、その際の文章は李朝が書いたものだった(華陽国志)。
222年、劉備に付き随って夷陵の戦いに参加したが、敗戦後永安にて死去した。
陳寿の書いた『益部耆旧雑記』によると、李朝と弟の李邵と若死にした別の弟はそれぞれ才能と名声があり、当時の蜀漢の人々によって李氏の三龍と呼ばれていた。蜀の名臣を讃える楊戯の『季漢輔臣賛』では、李朝を篤厚不動であり、心ばえよく、蜀の誉れとなる人と評価している。また華陽国志・先賢志では広漢郡の優秀な人材として、弟の李邵・王士・王甫らと並べ取り上げられている。
子の李旦は字を欽宗と言い、光禄郎中主事を務めた。
参考文献
「正史 三国志 5 蜀書」(陳寿 著、裴松之 注、井波律子 訳)ちくま学芸文庫 ISBN 4-480-08045-7
「完訳 華陽国志」(常璩 著、中林史朗 訳) 志学社 ISBN 4909868097 ISBN-13 978-4909868091