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2023年6月29日 (木) 00:02時点における版

川畑真人
基本情報
国籍 日本の旗 日本
生年月日 (1977-10-15) 1977年10月15日(47歳)
出身地 日本の旗 日本大阪府
D1グランプリでの経歴
デビュー 2002
所属 Team TOYO TIRES DRIFT
車番 88
過去所属 TOYO TIRES GLION TRUST RACING
Team TOYO TIRES DRIFT with GP SPORTS
TRUST
優勝回数 17
シリーズ最高順位 1位 (2007年、2013年、2015年)
選手権タイトル
2007, 2013, 2015 D1グランプリ


川畑 真人(かわばた まさと、1977年10月15日 - )は、大阪府出身のドリフトレーサー。D1グランプリに参戦している。既婚。愛称は「川ちゃん」「マサト」など。

2021年現在は、大阪府四條畷市にガレージ「TRUE MAN RACING」を構え、自らのマシン開発の傍ら自動車整備業・中古車販売業も営んでいる。

来歴

中学生の頃、ビデオオプションを見てドリフトに憧れ、峠やサーキットに行きドリフトを見学するようになる[1]。高校時代はバイクに熱中し[1]、また当時アルバイトをしていた走り屋が集まるガソリンスタンドで、当時店の走り屋常連客であった黒井敦史と出会い、後にドリフトの師弟関係を築く。

免許取得後すぐにドリフトを始める。20代前半に出場したエビスサーキットの走行会で、GPスポーツの駒形行春社長から自社製エアロ装着を提案され、パーツの協賛を受けるようにになる。2003年には大阪から新潟に引っ越し、同社の社員になった。(2014年8月末で退社)[2]。当時はゴールドにペイントした180SXを使用していた。

2002年6月にエビスサーキットで開催された第1回アドバンドリフトミーティングで優勝し、D1のライセンスを獲得する[3]。D1グランプリ初参戦は2002年第4戦。当初は勤め先であるGPスポーツ製作の180SXで参戦していた。2004年平岡英郎が離脱したワークスチームのトラストに抜擢され、シルビア(S15)に乗りシーズン後半になって追走に進出するようになる。また、第2回D1団体戦で優勝したことにより、同年のD1開幕戦アメリカ・アーウィンデールに招待された。

2005年は上位入賞を重ね、ランキング5位と飛躍した。2006年は、第7戦富士で初優勝。この勝利がトーヨータイヤ勢としての初勝利でもあった。チャンピオンを争った熊久保信重野村謙風間靖幸に続くランキング4位となる。

2007年は同じトーヨータイヤ勢だった黒井敦史・佐久間達也と「Team TOYO TIRES Drift」を結成。マシンそのものはトラストワークス時代のS15を引き継いだが、黒井・佐久間と共に共通のグラフィックを施したマシンでの出走となった。開幕戦エビスで2位と好スタートを切ったが、第2戦富士の追走ベスト8で300Rからアドバンコーナーへ進入する際に斎藤太吾と高速で接触し、そのままタイヤバリアに激突。川畑本人は軽い打撲で済んだが、マシンは全損。D1最大とも言われる大クラッシュとなってしまった[4]。第3戦鈴鹿には、製作が間に合ったニューマシンのS15シルビアを投入。単走ではD1初の3本全てで100点を獲得し、この年から施行された単走で3本連続100点を獲得した者に贈られる「土屋圭市賞」を初受賞、賞金10万円を獲得。前戦のクラッシュの影響を感じさせない走りを見せた。第4戦SUGOではシーズン初優勝、第6戦オートポリスで2勝目、最終戦ではシーズン初の追走1回戦敗退を喫し、自力でのチャンピオン獲得の可能性が消滅するも、ランキング2位からの逆転連覇を目指していた熊久保が準決勝で敗退。わずか1ポイント差ながら、初のD1シリーズチャンピオンを獲得した。

2008年もTOYOからシルビアで参戦。開幕戦で優勝を飾るものの、最終的なランキングは6位で終えた。2008年第2戦富士からは新規に制作した180SXで参戦しており、毎年のようにチャンピオン争いに加わるものの、なかなかチャンピオンに届かないという展開だったが、2013年に第3戦で単走追走共に優勝してランキングトップに立った後、そのまま逃げ切り2度目のチャンピオンを獲得した(単走ランキングでもチャンピオンを獲得しており、単走ランキングが設定されて以降初の総合及び単走の両チャンピオン獲得となった)。

2014年にトラストに復帰し、D1初となる日産・GT-Rで参戦。この年にはD1GPの特別戦であるD1 ワールドチャンピオンズで優勝を飾り、2015年にはD1で再びシリーズ総合チャンピオンとなった。

2016年には1380馬力の日産・GT-Rをドライブし、ドリフト最高速の304.96km/hを記録してギネスブックに登録された[5]

2017年にはドリフト初の国際自動車連盟(FIA)格式イベントとなったFIA インターコンチネンタル・ドリフティング・カップに参戦、総合優勝を飾り記念すべき初代チャンピオンとなった[6]。その後、2018年限りで長年関係のあったトラストから離脱となる。

2019年からは再びチームTOYOとしての体制に戻ったが、マシンはこの年の目玉マシンだったトヨタ・GRスープラでの参戦となった。シーズン前のエキシビションラウンドでの投入を目指したが、初日には間に合わず、プライベート仕様の180SXで参戦。2日目にはスープラが間に合い、ここでの出走となった。エンジンは当初2JZ-GTEであったが、最終戦ではV型8気筒3UZ-FEに変更[7]。また8月にはアジアクロスカントリーラリー2019に俳優の哀川翔率いる、FLEX SHOW AIKAWA Racing with TOYO TIRESからトヨタ・ランドクルーザープラドで参戦、クロスカントリーラリー初挑戦ながらT1-G(改造クロスカントリー車両ガソリンエンジンクラス)2位入賞を果たす。

2020年、D1GP開幕戦奥伊吹にて日比野哲也を下し優勝[8]。川畑にとって2017年以来の優勝であり、GRスープラD1初優勝でもある。

2021年も引き続きGRスープラで参戦したが、第9戦オートポリスの4位が最高でシリーズ総合18位に終わった。また、同年12月に長野県で開催された第1回のジャパン・クロスカントリーラリー(JCCR)では総合優勝を果たした[9]

2022年もTOYOに所属するが、WISTERIAが制作した2JZ-GTE搭載のトヨタ・GR86にマシンチェンジ。突貫制作となったことでスペアパーツをほぼ持たない状態での開幕となったが、開幕戦富士にて優勝。GR86のデビューウィンに貢献した。その後も第7戦オートポリスでの優勝を含めコンスタントにポイントを積み重ね、自身3度目となる単走シリーズチャンピオンに輝き、総合でもシリーズ2位となった。

人物・エピソード

  • 角度とスピードを融合させたアグレッシブな走りが強みであり[10]、単走・追走共に得意とする。一方で激しい走りからD1参戦当初はクラッシュが多かったことやダートに外れてでもドリフト走行を続けたことから、審査委員長の土屋圭市から「川畑、そこはコースじゃない」というコメントが定番化した時期が合った。
    • 2009年第4戦岡山の単走で、進入角度が90度を超える強烈なドリフトを披露。審査員全員が100点を付け、審査委員長の土屋圭市は「物理の法則に反するだろ!」と評した[11]
  • 2015年に行われたお台場のエキシビションでは翌日にロシアのエキシビションに向けた積み込みがあるにもかかわらず、追走で時田雅義のマシンと接触しドアを大きく破損。その後、決勝戦にてコンクリートウォールに激突しマシンは大破。現地で修理するため、メカニックが手持ちでパーツを持ち込むこととなった。
  • 2007年第2戦富士でのクラッシュで運ばれたメディカルセンターでレントゲンを撮ったところ、首の骨が1個多いことが判明した。当時、ぶつかったショックよりも首の骨が多いことの方がショックが大きかった[要出典]
  • 2009年のエキシビジョンお台場の追走にて、コーナーを曲がり切れずスポンジバリアに衝突した先行の川畑のマシンのリアに、後追いの古口美範のマシンの側面が追突し、Tボーンクラッシュとなってしまった[12]。大会の後、川畑が栃木県にある古口の自宅まで謝罪しに行ったところ快く許してもらえたという。
  • 日頃は低姿勢な反面、酒癖が悪いことで有名である。イギリスで行なわれたD1エキシビジョン参戦時、酔ってパスポートを落としたことがある(後にチームTOYOのスタッフが拾って事なきを得た)。また、2006年のD1UKエキシビジョンの打ち上げでは泥酔して野村謙に「ちょっとは人気あるからって調子乗るな。」と言い放った事がある。また、2015年に行われたロシアでのエキシビション戦の翌日に行われた打ち上げでは、前日に優勝した日比野哲也の優勝メダルを海に投げた事がある(日比野自身が着水前にキャッチし、事なきを得た)[要出典]
  • 2007年の途中まで白ヘルメットを使用していたが、第4戦SUGOでの優勝を機にデザインヘルメットに変えた(水色とオレンジを入れ、翼のような白のペイントを施している)。
  • PUMAシューズにこだわりを持つ。仕事用、プライベート用のほか、レーシングシューズもPUMA製。「PUMA以外の靴は絶対に履きません」とのこと[1]
  • 高校3年生の時に買った日産・180SXが最初のドリ車[1]。以来180SXに対しては強烈なこだわりを持っており、2008年からはD1でのマシンを180SXに変更。現在も練習機や自身のショップデモカーとするなど、同車への愛を覗かせる場面が多々見られる。
  • かつてはD1でも屈指のシャコタン派の一人であり、走り屋時代には180SXのシャコタン仕様がフィーチャーされて当時のOPTION2ビデオに出演したほど。しかし2010年代中盤からは角度をつけた状態でのコーナー進入を極めるべく、特にフロントの車高をアップさせる「シャコタカ」を積極的に提唱するようになった(奇しくもそれは師匠・黒井のマシン理論と重なる)[13]。各地の走行会でシャコタカマシンを走らせ、その印象を強めている。

脚注

  1. ^ a b c d 子供の頃から憧れていた夢に向かって! JDM option
  2. ^ GPスポーツ&ギャラリィブログ2014年8月31日『お世話になりました!』
  3. ^ 今季限り D1 エビス 南コース ・D1選手 たちの 思い出【新作】 VIDEO OPTION、2021年12月3日
  4. ^ OPT 159 ⑥ 2007 D1GP Rd.2 FUJI TSUISO BEST8 ① VIDEO OPTION、2017年10月20日
  5. ^ 川畑真人とニッサンGT-Rがドリフト世界最高速でギネス記録を達成AS-web 2016年4月12日
  6. ^ FIA IDC:FIA表彰式にドリフト王者の川畑真人が出席。カテゴリー初の受賞者にAS-web 2017.12.22
  7. ^ 「川畑GRスープラがV型8気筒の3UZにエンジン変更!」FIA IDCのプレスカンファレンスで初お披露目! web option、2019年10月25日
  8. ^ D1GP Rd.1 OKUIBUKI DRIFT 詳細レポート D1 OFFICIAL WEBSITE、2020年7月25日
  9. ^ トップ・ドリフター川畑真人、日本初開催のクロスカントリーラリーで初代チャンプに! clicccar、2021年12月9日
  10. ^ 川畑 真人 DRIFT DRIVER.COM、2022年1月8日閲覧
  11. ^ 2009 D1GP Rd.4 OKAYAMA / 岡山国際サーキット ① D1GP MOVIE CHANNEL、2018年3月26日
  12. ^ 「D1GPのナンバーワンクラッシュはコレ!」業界人が選ぶ壮絶クラッシュランキング【V-OPT】 web option、2020年4月20日
  13. ^ 川畑・谷口の シャコタカのススメ シルビア編 ドリ天 Vol 107 ① / How To High body Masato Kawabata and Nobuteru Taniguchi Part DRIFT STATION、2019年1月24日

外部リンク

先代
2006年
熊久保信重
D1グランプリ
シリーズチャンピオン
(2007年)
次代
2008年
斎藤太吾
先代
2012年
熊久保信重
D1グランプリ
シリーズチャンピオン
(2013年)
次代
2014年
高橋邦明
先代
2014年
高橋邦明
D1グランプリ
シリーズチャンピオン
(2015年)
次代
2016年
斎藤太吾