「ノーマ・タルマッジ」の版間の差分
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| 芸名 = ノーマ・タルマッジ<br />Norma Talmadge |
| 芸名 = ノーマ・タルマッジ<br />Norma Talmadge |
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| 画像ファイル = Norma Talmadge |
| 画像ファイル = Norma Talmadge - Motion Picture Classic, December 1920.jpg |
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| 画像コメント = |
| 画像コメント = ノーマ・タルマッジ(1920年) |
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| 本名 = ノーマ・マリー・タルマッジ(Norma Marie Talmadge) |
| 本名 = ノーマ・マリー・タルマッジ(Norma Marie Talmadge) |
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| 別名義 = |
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| 職業 = [[俳優#性別での分類|映画女優]]・[[映画プロデューサー]] |
| 職業 = [[俳優#性別での分類|映画女優]]・[[映画プロデューサー]] |
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| ジャンル = |
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| 活動期間 = |
| 活動期間 = 1909年 - 1930年 |
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| 配偶者 = {{plainlist| |
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| 配偶者 = [[ジョセフ・M・シェンク]](1916-1934)<br />{{ill2|ジョージ・ジェッセル|en|George Jessel (actor)}}(1934-1939)<br />カーヴェル・ジェームズ(1946-1957) |
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* {{marriage|[[ジョセフ・M・シェンク]]|1916|1934|end=div}} |
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| 著名な家族 = {{ill2|ナタリー・タルマッジ|en|Natalie Talmadge}}(妹)<br />{{ill2|コンスタンス・タルマッジ|en|Constance Talmadge}}(妹)<br />[[バスター・キートン]](義弟) |
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'''ノーマ・マリー・タルマッジ'''(Norma Marie Talmadge<ref>{{cite magazine |url=https://archive.org/stream/PhotoplayMagazineAugust1915/Photoplay0815#page/n97 |title=Norma Talmadge: Post-Impression of a Girl of the Photoplays Who Has Enacted Every Sort of Feminine Role, From Childhood to Old Age |author=Arthur Hornblow Jr. |author-link=Arthur Hornblow Jr. |magazine=[[Photoplay]] |page=99 |date=August 1915}}</ref>、[[1894年]][[5月2日]] - [[1957年]][[12月24日]])は、[[サイレント映画]]時代に活躍した[[アメリカ合衆国]]の[[俳優#性別での分類|映画女優]]・[[映画プロデューサー]]である。1920年代初頭にキャリアのピークを迎え、アメリカ映画界の人気アイドルの一人となった{{sfn|Basinger|2000|p=181}}。 |
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[[File:Autograph Norma Talmadge.svg|thumb|200px|right|]] |
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'''ノーマ・タルマッジ'''(Norma Talmadge、[[1894年]]5月2日 - [[1957年]][[12月24日]])は、[[サイレント映画]]時代に活躍した[[アメリカ合衆国]]の[[俳優#性別での分類|映画女優]]である。 |
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[[メロドラマ]]を得意とし、最も有名な作品である『{{仮リンク|久遠の微笑|en|Smilin' Through (1922 film)}}』(1922年){{sfn|Basinger|2000|p=149}}のほか、[[フランク・ボーゼイギ]]監督作品の『{{仮リンク|秘密 (1924年の映画)|label=秘密|en|Secrets (1924 film)}}』(1924年)や『{{仮リンク|在りし日|en|The Lady (1925 film)}}』(1925年)でも芸術的な成功を収めた。妹の[[コンスタンス・タルマッジ]]も女優である。タルマッジは映画プロデューサーの[[ジョセフ・M・シェンク]]と結婚し、自分たちの映画会社を設立して成功させた。アメリカ東海岸で名声を得た後、1922年に[[ハリウッド]]に進出した。 |
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==生涯== |
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[[File:Norma Talmadge 1920.jpg|thumb|200px|right|ノーマ・タルマッジ(1920年)]] |
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1894年5月2日、[[ニュージャージー州]][[ジャージーシティ]]で生まれた。([[ナイアガラフォールズ (ニューヨーク州)|ナイアガラフォールズ]]出生説は誤りとされる)父親のフレッドは無職でアルコール依存症で家族を養うことは無く、しっかり者でやり手の母親マーガレットが必死に働き家計を支えていた。両親が離婚した後、ノーマは二人の妹・ナタリーとコンスタンスと共に母親に引き取られ[[ブルックリン区|ブルックリン]]に移り、高校を卒業するまでその地で暮らした。 |
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[[File:Talmadges - Aug 1919 EH.jpg|thumb|250px|right|左からコンスタンス、ノーマ、ナタリー(1919 年)]] |
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[[1910年]]にノーマの家庭は経済的に苦しかった事もあり、母親の勧めで当時は舞台女優よりステイタスは遥かに低いがギャラは高い映画女優になり[[ニューヨーク州]]フラットブッシュにあったヴァイタグラフ・スタジオで映画初出演を果たした。ヴァイタグラフには[[1915年]]まで在籍している。この間コンスタンスも映画デビューを果たした。 |
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タルマッジは、[[狂騒の20年代]]を通して、最もエレガントでグラマラスな映画スターの一人だった。しかし、1920年代末に[[トーキー]]が登場すると、タルマッジの人気は衰えていった{{sfn|Lowe|2004|p=517}}。2本のトーキー映画に出演したが興行的に振るわず、1930年に映画界から去った。 |
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1915年秋、初めて[[ハリウッド]]を訪れ、映画1作に主演した後[[トライアングル・フィルム・コーポレーション]]と契約する。契約が完了した16年にはニューヨークに戻った。16年10月20日、ニューヨークでプロデューサーの[[ジョセフ・M・シェンク]]と結婚する。翌年、ノーマ・タルマッジ・フィルムを立ち上げ、夫妻でニューヨークを拠点に映画製作を始めた。[[1920年]]にファースト・ナショナルと提携する。 |
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[[File:Norma Talmadge, Natalie Talmadge, & Constance Talmadge - Dec 1920 EH.jpg|thumb|200px|right|左からノーマ 、コンスタンス、ナタリーとその子供たちからのホリデー グリーティング広告。(1920年)]] |
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『久遠の微笑』(1922)の完成後、[[1922年]]には改めて拠点をハリウッドに移している。これ以降の数年間が彼女にとって人気の全盛期であった。27年には[[ユナイテッド・アーティスツ]]に参加した。この頃から『椿姫』(1926)で共演したギルバート・ローランドと真剣交際を始め、夫のシェンクと離婚を望んだが、彼はノーマは重要なビジネスパートナーだった為、離婚を拒んだ。 |
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==若年期== |
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[[1929年]]、初の[[トーキー]]映画『紐育の囁き』に主演したが、人気が伸び悩んで[[1930年]]の'DuBarry, Woman of Passion'を最後に映画出演が途絶えた。[[1934年]]、7年間の別居生活の後にシェンクと離婚した。同年コメディ俳優のジョージ・ジェッセルと再婚し、夫妻でラジオ出演したのが彼女にとって最後の芸能活動となった。[[1939年]]ジェッセルとも離婚している。 |
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出生証明書によると、タルマッジは1894年5月2日に[[ニュージャージー州]][[ジャージーシティ]]で生まれた<ref>{{cite web |url=http://www.stanford.edu/~gdegroat/NT/NormaTalmadgeBirthCertificate.jpg |title=Birth Certificate |publisher=Stanford University |access-date=2014-03-09}}</ref>{{efn|「[[ニューヨーク州]][[ナイアガラフォールズ (ニューヨーク州)|ナイアガラフォールズ]]生まれ」という話が広く流布しているが、これは「風光明媚な[[ナイアガラの滝]]の近くで生まれた」とすることで出自をよりロマンチックなものにするために、タルマッジと母親がファン雑誌にそのような情報を提供したものであることを、後にタルマッジ自身が認めている<ref>{{Cite book |last=Spears |first=Jack |title=Hollywood: The Golden Era |publisher=A. S. Barnes |year=1971}}</ref>。}}。タルマッジには、[[ナタリー・タルマッジ|ナタリー]]と[[コンスタンス・タルマッジ|コンスタンス]]という2人の妹がおり、どちらも女優になった。 |
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[[File:Norma Talmadge and Constance Talmadge by Witzel.jpg|thumb|upright|ノーマ・タルマッジとコンスタンス・タルマッジ(1920年頃)]] |
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タルマッジ姉妹の子供時代は貧しかった。[[アルコール依存症]]の父フレデリックは、タルマッジが幼いときに、あるクリスマスの朝、食料を買いに家を出たまま戻らなかった<ref name="november1997">{{cite web |url=http://www.csse.monash.edu.au/~pringle/silent/ssotm/Nov97/ |title=Norma Talmadge - Silent Star of November, 1997 |last1=Mavromatis |first1=Kally |last2=Pringle |first2=Glen |publisher=csse.monash.edu.au |access-date=2009-02-13 |url-status=dead |archive-url=https://web.archive.org/web/20081227115123/http://www.csse.monash.edu.au/~pringle/silent/ssotm/Nov97/ |archive-date=2008-12-27}}{{unreliable source?|date=September 2018}}</ref>。残された母マーガレット(愛称ペグ)は、[[ニューヨーク市]][[ブルックリン区|ブルックリン]]で、洗濯を請け負い、絵を教え、部屋を貸すことで生計を立て、3人の娘たちを一人で育てた。 |
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タルマッジが高校生の時、同級生が[[イラストレイテッド・ソング]](映画館で本編映画の前に上映されていた)のスライドのモデルをしていた。タルマッジがそれを母ペグに話したところ、ペグはそのスライドを撮影した写真家を探し出し、娘と会ってみてほしいと申し入れた。最初は断られたが、後に採用された<ref>{{cite news |url=https://www.nytimes.com/1957/12/25/archives/norma-talmadge-film-star-dead-noted-actress-of-the-silent-screen.html |title=Norma Talmadge, Film Star, Dead |work=The New York Times |date=December 25, 1957 |page=31 |quote=At 13, while she was a student at Erasmus Hall High School in Brooklyn, Norma found that she could help a little by posing for colored slides that illustrated the songs plugged in the pits of the nickelodeons of 1910.}}</ref>。娘のデビュー作を見たペグは、娘を映画界に入れることを決意した<ref name="november1997" />。 |
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[[1946年]]医師カーヴェル・ジェームズと再々婚し、[[1957年]][[12月24日]][[ラスベガス]]で亡くなった。 |
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==キャリア== |
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==主な出演作品== |
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===初期のキャリア=== |
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*疑問の鈕釦 ''The Missing Links'' (1916) |
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タルマッジは母ペグから、映画女優になるよう勧められた{{sfn|Basinger|2000|p=139}}。タルマッジ母子は、ブルックリンの{{仮リンク|フラットブッシュ|en|Flatbush}}にある{{仮リンク|ヴァイタグラフ・スタジオ|en|Vitagraph Studios}}を訪ねた。そこは自宅から路面電車で通える場所にあった<ref name="november1997" />。スタジオの門を通ってキャスティング担当者に会おうとしたが、すぐに追い返された。しかし、たまたまそれを見かけた女性シナリオライターの{{仮リンク|ベータ・ブルイユ|en|Beta Breuil}}がタルマッジの美しさに惹かれ、1909年の映画"''The Household Pest''"に[[端役]]で出演させた<ref name="november1997" />。 |
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*渦 ''[[:en:Going Straight (film)|Going Straight]]'' (1916) |
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*五十と五十 ''[[:en:Fifty-Fifty (1916 film)|Fifty-Fifty]]'' (1916) |
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ブルイユの継続的な支援により、タルマッジは1911年から1912年にかけて100本以上の映画に端役で出演した。ヴァイタグラフは週給25ドルでタルマッジと契約し、タルマッジは安定した仕事が得られるようになった。契約女優としての初めての役は、コメディアンの{{仮リンク|ジョン・バニー|en|John Bunny}}と共演した1911年の"''Neighboring Kingdom''"だった。最初の当たり役は、1911年の映画『{{仮リンク|二都物語 (1911年の映画)|label=二都物語|en|A Tale of Two Cities (1911 film)}}』における、シドニー・カートンの処刑に付き添う無名の裁縫婦役だった{{sfn|Slide|2002|p=374}}。ヴァイタグラフの大スターである主演の[[モーリス・コステロ]]の助けにより、タルマッジの演技は上達した。タルマッジは、主役からエキストラまで、どんな役でも演じて経験を積み、世間にも知られるようになった。1913年にはヴァイタグラフにおける最も有望な若手女優と目されるまでになった{{sfn|Lowe|2004|p=516}}。同年、タルマッジは{{仮リンク|ヴァン・ダイク・ブルック|en|Van Dyke Brooke}}監督の演技ユニットに配属され、1913年から1914年にかけて、{{仮リンク|アントニオ・モレノ|en|Antonio Moreno}}を相手役とした映画に多数出演した。 |
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*パンテア ''[[:en:Panthea (1917 film)|Panthea]]'' (1917) |
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*自業自得 ''[[:en:The Law of Compensation|The Law of Compensation]]'' (1917) |
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1915年、タルマッジはヴァイタグラフで最も有名な長編映画"''[[:en:The Battle Cry of Peace|The Battle Cry of Peace]]''"に出演し、大ブレイクした{{sfn|Slide|2002|p=374}}。しかし、野心的な母ペグは、娘の能力ならさらなる飛躍ができると考え、ナショナル・ピクチャーズ社と2年間、週給400ドルで長編映画8本の契約を結んだ。タルマッジは同年夏にヴァイタグラフを退社した。ヴァイタグラフに在籍した5年間で出演した映画は250本以上だった。 |
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*歓楽に狂ふ女 ''[[:en:The Moth (1917 film)|The Moth]]'' (1917) |
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*嵐の里 ''[[:en:The Secret of the Storm Country|The Secret of the Storm Country]]'' (1917) |
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同年8月、タルマッジ母子は[[カリフォルニア州]]に向かった。タルマッジのナショナル・ピクチャーズでの最初の出演作は"''Captivating Mary Carstairs''"だった。しかし、セットも衣装も安っぽく、新しい小さな会社であるナショナル・ピクチャーズには十分な後ろ盾がなかった。映画は興行的に大失敗となり、ナショナル・ピクチャーズはこの作品の公開後に閉鎖された。映画を1本撮っただけでカリフォルニアに取り残されたタルマッジ母子は、東海岸に戻るよりもより高みを目指したほうが良いと考え、[[D・W・グリフィス]]が製作責任者を務める[[トライアングル・フィルム・コーポレーション]]との契約を目指すことにした。トライアングル社は、"''The Battle Cry of Peace''"でのタルマッジの評判から、傘下の製作会社ファイン・アーツとの契約を結んだ。タルマッジは、トライアングルにおいて8か月で7本の長編映画に出演した。その中には、{{仮リンク|アニタ・ルース|en|Anita Loos}}脚本、{{仮リンク|ジョン・エマーソン (映画監督)|label=ジョン・エマーソン|en|John Emerson (filmmaker)}}監督のコメディ映画"''The Social Secretary''"(1916年)があった。この作品では、男性雇用主からの望まない注目を避けようとする女性の役を演じ、美しさだけではないタルマッジの魅力を広めることとなった{{sfn|Basinger|2000|p=143}}。 |
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*愛人の面影 ''[[:en:The Ghosts of Yesterday|The Ghosts of Yesterday]]'' (1918) |
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*購へる貞操 ''[[:en:By Right of Purchase|By Right of Purchase]]'' (1918) |
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===ニューヨーク=== |
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*其夜から ''[[:en:De Luxe Annie|De Luxe Annie]]'' (1918) |
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[[File:Normatalmadge.jpg|thumb|upright|ノーマ・タルマッジ(1920年代初頭)]] |
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*紅涙の跡 ''[[:en:The Safety Curtain|The Safety Curtain]]'' (1918) |
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トライアングルとの契約期間が終わると、タルマッジ母子はニューヨークに戻った。あるパーティーで、タルマッジは[[ジョセフ・M・シェンク]]と知り合った。当時のシェンクは映画館や遊園地を経営する裕福な興行師で、自分で映画を製作したいと考えていた。タルマッジはすぐにシェンクのことを仕事的にも個人的にも気に入り、シェンクは結婚して映画製作スタジオを設立することを提案した。2か月後の1916年10月20日に2人は結婚した{{sfn|Slide|2002|p=374}}。タルマッジは16歳年上のシェンクのことを"Daddy"と呼んだ。シェンクはタルマッジの母ペグと協力して、タルマッジのキャリアを監督・管理し、女優として育て上げた{{sfn|Basinger|2000|p=144}}。 |
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*恐怖の夜 ''[[:en:Her Only Way|Her Only Way]]'' (1918) |
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*禁断の都 ''[[:en:The Forbidden City|The Forbidden City]]'' (1918) |
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1917年、シェンク夫妻は映画製作会社ノーマ・タルマッジ・フィルム・コーポレーションを設立した。シェンクは妻を、いつまでも記憶に残るような最高のスターにすると誓った。シェンクはタルマッジのために、最高の脚本と豪華な衣装、壮大なセット、才能のあるキャスト、著名な映画監督を用意し、華々しい宣伝を行った。この会社は興行的に大成功し、多くの女性がタルマッジに憧れた。 |
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*高原に咲く花 ''[[:en:The Heart of Wetona|The Heart of Wetona]]'' (1919) |
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*ニュームーン ''[[:en:The New Moon (1919 film)|The New Moon]]'' (1919) |
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シェンクはニューヨークにスタジオを構えた。1階のスタジオではノーマ・タルマッジの映画が、2階では妹の[[コンスタンス・タルマッジ]]のコメディ映画が、3階では[[ロスコー・アーバックル]]のコメディ映画が製作された。妹の[[ナタリー・タルマッジ]]は主に秘書として活動し、ノーマやコンスタンスの主演映画に端役で出演することもあった。アーバックルは、甥の{{仮リンク|アル・セント・ジョン|en|Al St. John}}とボードヴィルのスター、[[バスター・キートン]]をニューヨークに呼び寄せた。キートンは1921年にナタリー・タルマッジと結婚するが、1933年に離婚した。 |
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*仮りそめの妻 ''[[:en:The Probation Wife|The Probation Wife]]'' (1919) |
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*女人の切望 ''The Way of a Woman'' (1919) |
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[[File:Norma Talmadge Picture Play magazine.jpg|thumb|upright|『ピクチャー・プレイ』誌1922年4月号より]] |
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*孤島の烽火 ''[[:en:The Isle of Conquest|The Isle of Conquest]]'' (1919) |
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自身の名を冠したスタジオでタルマッジが初めて出演したのは『{{仮リンク|パンテア|en|Panthea (film)}}』(1917年)だった。この作品では、[[アラン・ドワン]]が監督を、[[エリッヒ・フォン・シュトロハイム]]と{{仮リンク|アーサー・ロッソン|en|Arthur Rosson}}が助手を務めた。この作品はヒットし、タルマッジの女優としての地位を確立した{{sfn|Basinger|2000|p=145}}。 |
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*[[青春の夢 (1920年のワージー監督の映画)|青春の夢]] ''[[:en:She Loves and Lies|She Loves and Lies]]'' (1920) |
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*明暗の女 ''[[:en:A Daughter of Two Worlds|A Daughter of Two Worlds]]'' (1920) |
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この時期に、タルマッジの演技力は急速に向上した。1917年から1921年にかけて、ニューヨークで年に4から6本の映画を撮影した。シェンクは、{{仮リンク|ユージン・オブライエン|en|Eugene O'Brien (actor)}}を相手役とした"''[[:en:Poppy (1917 film)|Poppy]]''"などの映画も製作した{{sfn|Basinger|2000|p=146}}。このコンビは大当たりし、[[メアリー・ピックフォード]]主演の"''The Secret of the Storm Country''"など、[[競合作品]]が10本作られた。 |
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*女性の賜物 ''[[:en:The Woman Gives|The Woman Gives]]'' (1920) |
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*清濁 ''[[:en:Yes or No?|Yes or No?]]'' (1920) |
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1918年には[[シドニー・フランクリン]]監督とコンビを組み、"''The Safety Curtain''"、"''Her Only Way''"、"''Forbidden City''"、"''The Heart of Wetona''"、"''The Probation Wife''"を撮影した。東海岸で撮影する利点は、マダム・フランシスや[[ルーシー・ダフ=ゴードン|ルシール]]などの、アメリカにおける最高のファッション・デザイナーを利用できたことである。1919年から1920年にかけて、『{{仮リンク|フォトプレイ|en|Photoplay}}』誌のファッション関係のコラムにはタルマッジの名前が毎月のように登場していた。 |
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*刻印の乳房 ''[[:en:The Branded Woman|The Branded Woman]]'' (1920) |
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*情熱の薔薇 ''[[:en:The Passion Flower|The Passion Flower]]'' (1921) |
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タルマッジは1920年代を通して成功を収め続けた。1921年には"''Yes or No''"、"''The Branded Woman''"、"''Passion Flower''"、"''The Sign on the Door''"を撮影した。1922年には、タルマッジの全作品の中でも最も人気の高い{{sfn|Basinger|2000|p=149}}『{{仮リンク|久遠の微笑|en|Smilin' Through (1922 film)}}』(''Smilin' Through'')に主演した。この作品は、サイレント映画時代における最高のロマンス映画と評され、1932年に[[ノーマ・シアラー]]主演、1941年に[[ジャネット・マクドナルド]]主演でリメイクされている。 |
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*秘密の扉 ''[[:en:The Sign on the Door|The Sign on the Door]]'' (1921) |
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*奇蹟 ''The Wonderful Thing'' (1921) |
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===ハリウッド=== |
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*懐しの島へ ''[[:en:Love's Redemption|Love's Redemption]]'' (1921) |
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[[File:Face detail, Norma Talmadge art, from- Eternal Flame lobby card (cropped).jpg|left|thumb|upright|"''The Eternal Flame''"(1922年)の映画ポスターより]] |
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*久遠の微笑 ''[[:en:Smilin' Through (1922 film)|Smilin' Through]]'' (1922) |
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『久遠の微笑』の公開の後、シェンクはニューヨークのスタジオを閉鎖してノーマ、コンスタンスとともに[[ハリウッド]]に移り、バスター・キートン、ナタリー・タルマッジと合流した。ハリウッドでの映画作りは、ニューヨークとは全く違っていた。ハリウッドの映画製作は規模が大きく、撮影本数は少ないが、時代設定や舞台設定がバラエティに富んでいた。タルマッジは、より魅惑的なイメージを出すために、[[撮影監督]]の{{仮リンク|トニー・ゴーディオ|en|Tony Gaudio}}やハリウッドの一流の衣装デザイナーとチームを組んだ。また、[[フランク・ロイド]]、[[クラレンス・ブラウン]]、[[フランク・ボーゼイギ]]などの一流の映画監督とも仕事をした。シェンクがタルマッジの出演作を多数製作したこともあり、タルマッジは1920年代で最も稼いだ女優の一人となった<ref name=timemagazine>{{Cite magazine|url=http://www.time.com/time/magazine/article/0,9171,868138,00.html|archive-url=https://web.archive.org/web/20100724012227/http://www.time.com/time/magazine/article/0,9171,868138,00.html|url-status=dead|archive-date=July 24, 2010|title=Milestones|date=January 6, 1958|magazine=Time}}</ref>。 |
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*不滅の情火 ''[[:en:The Eternal Flame (1922 film)|The Eternal Flame]]'' (1922) |
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[[File:Norma Talmadge (Mar 1923).png|thumb|upright|タルマッジ(1923年)]] |
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*尖塔の声 ''[[:en:The Voice from the Minaret|The Voice from the Minaret]]'' (1923) |
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1923年<!-- 集計・発表は1924年 -->、映画興行主の投票により選ばれる[[トップテン・マネーメイキングスター]]で、タルマッジは第1位となった。タルマッジは週に1万ドルを稼ぎ出し、毎週3千通のファンレターを受け取っていた。フランク・ボーゼイギ監督の"''[[:en:Secrets (1924 film)|Secrets]]''"(1924年)は最高の評価を受け、タルマッジはキャリアの頂点を迎えた{{sfn|Basinger|2000|p=150}}。1924年、シェンクは[[ユナイテッド・アーティスツ]]の幹部になったが、タルマッジは{{仮リンク|ファースト・ナショナル映画|en|First National Pictures}}と配給契約を結んだままだった。フランク・ボーゼイギ監督の"''The Lady''"(1925年)、クラレンス・ブラウン監督のコメディ・ロマンス映画"''[[:en:Kiki (1926 film)|Kiki]]''"{{efn|1931年にメアリー・ピックフォード主演によりトーキー映画として[[お転婆キキ (1931年の映画)|リメイク]]された。}}など、タルマッジは成功作を作り続けた{{sfn|Basinger|2000|p=153}}。 |
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*法に泣く女 ''[[:en:Within the Law (1923 film)|Within the Law]]'' (1923) |
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*秘密 ''[[:en:Secrets (1924 film)|Secrets]]'' (1924) |
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1926年1月5日、タルマッジは[[アンナ・メイ・ウォン]]と共に、[[グローマンズ・チャイニーズ・シアター]]の起工式で鍬入れを行った<ref>{{cite book |last1=Hodges |first1=Graham Russell Gao |author-link=Graham Russell Gao Hodges |title=Anna May Wong: From Laundryman's Daughter to Hollywood Legend |date=2004 |publisher=Chicago Review Press Incorporated |location=Chicago |page=58 |isbn=978-1-64160-883-1 |edition=3rd}}</ref>。チャイニーズ・シアターの[[フォーコート・オブ・ザ・スターズ|前庭]]には、ハリウッドスターなどの[[手形・足形]]を刻んだセメントタイルを埋め込む慣習があるが、この起源について、タルマッジが工事中に誤ってまだ乾いていないセメントに足を踏み入れたためとする説がある<ref>{{Cite news |url=https://www.latimes.com/nation/la-xpm-2014-mar-13-la-sh-throwback-thursday-stars-handprints-hollywood-chinese-theatre-20140312-story.html |title=Throwback Thursday: The story behind stars' handprints in Hollywood |last=Davis |first=Laura E. |date=March 13, 2014 |work=[[Los Angeles Times]] |access-date=April 15, 2019 |issn=0458-3035 |archive-date=November 23, 2020 |archive-url=https://web.archive.org/web/20201123083125/https://www.latimes.com/nation/la-xpm-2014-mar-13-la-sh-throwback-thursday-stars-handprints-hollywood-chinese-theatre-20140312-story.html |url-status=live }}</ref>。しかし、この話については劇場の建設主の[[シド・グローマン]]が様々なバージョンの話をしており{{efn|[[メアリー・ピックフォード]]やグローマン自身、あるいは猫が足を踏み入れてしまったなど。}}、定かではない<ref name="ChineseTheaterOfficial">{{cite web|url=http://www.graumanschinese.org/forecourt.html|title=The Forecourt of the Stars|publisher=The Chinese Theatre|accessdate=2024-03-30}}</ref>。 |
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*激浪逆捲く ''[[:en:The Only Woman|The Only Woman]]'' (1924) |
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*在りし日 ''[[:en:The Lady (1925 film)|The Lady]]'' (1925) |
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===人気の衰退=== |
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*お転婆キキー ''[[:en:Kiki (1926 film)|Kiki]]'' (1926) |
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[[File:Norma Talmadge.png|thumb|upright|タルマッジ(1930年頃)<ref>{{cite web|url=https://wfpp.cdrs.columbia.edu/pioneer/ccp-constance-talmadge-and-norma-talmadge/|title=The Talmadge Sisters|website=Women Film Pioneers Project|publisher=Columbia University|access-date=2018-09-01}}</ref>]] |
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*椿姫 ''[[:en:Camille (1926 feature film)|Camille]]'' (1926) |
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タルマッジは、1926年の"''[[:en:Camille (1926 feature film)|Camille]]''"を最後にファースト・ナショナルとの契約を終え{{sfn|Basinger|2000|p=156}}、ユナイテッド・アーティスツ(UA)に移籍した。この作品の撮影中、タルマッジは主演の{{仮リンク|ギルバート・ローランド|en|Gilbert Roland}}と恋に落ちた<ref name="november1997" />。タルマッジはシェンクに離婚を申し出たが、シェンクは受け入れなかった。タルマッジとローランドの組み合わせは人気が出たため、シェンクは個人的な感情は別にして、UAからリリースされたタルマッジの3作品にローランドを出演させた。タルマッジとシェンクは別居を始めたが、シェンクはタルマッジの作品のプロデュースを続けた。シェンクはUAの社長に就任した。以降のタルマッジの出演作品は全てUAから配給されたが、UAは名門ではあるものの作品を公開する映画館が少なかった。これにより、タルマッジの人気は低下し始めた。UAに移籍してからの作品、"''[[:en:The Dove (1927 film)|The Dove]]''(1927年)と"''[[:en:The Woman Disputed|The Woman Disputed]]''"(1928年)は興行的に失敗し、これがタルマッジの最後のサイレント映画作品となった。 |
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*赤い鳩 ''[[:en:The Dove (1927 film)|The Dove]]'' (1927) |
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*噂の女 ''[[:en:The Woman Disputed|The Woman Disputed]]'' (1928) |
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1928年には[[トーキー]]の公開が始まっており、タルマッジもトーキーに出演するために、声を出しての演技のレッスンを受け始めた。1929年の"''[[:en:New York Nights (film)|New York Nights]]''"で初めてトーキーに出演した。この作品でタルマッジはトーキーでも演技ができることを示したが{{sfn|Basinger|2000|p=157}}、作品は興行的には振るわなかった。翌1930年には"''[[:en:Du Barry, Woman of Passion|Du Barry, Woman of Passion]]''"で主役の[[デュ・バリー夫人]]を演じた。{{仮リンク|ウィリアム・キャメロン・メンジーズ|en|William Cameron Menzies}}が手の込んだセットを作り上げたにもかかわらず、この役どころに求められる高いレベルの声の演技をタルマッジができなかったことと、無能な演出により、この作品は失敗作となった。 |
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*紐育の囁き ''[[:en:New York Nights (film)|New York Nights]]'' (1929) |
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1928年3月29日、UAは[[メアリー・ピックフォード]]の別荘にタルマッジ、ピックフォード、[[ダグラス・フェアバンクス]]、[[チャーリー・チャップリン]]、[[グロリア・スワンソン]]、[[ジョン・バリモア]]、[[ドロレス・デル・リオ]]、[[D・W・グリフィス]]を集め、トーキーへの挑戦について語るラジオ番組"''The Dodge Brothers Hour''"を収録した<ref>{{cite book|last=Ramon|first=David|title=Dolores del Río|publisher=Clío|year=1997|isbn=968-6932-35-6}}</ref>。 |
|||
時が経つにつれ、世間はタルマッジを過去の象徴とみなすようになり、興味を示さなくなった。タルマッジはトーキーへの挑戦以前から映画製作に飽き始めており、トーキー作品での2作品続けての失敗が、さらなる挑戦を思いとどまらせた。 |
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UAとの契約はあと2作品残っていた。1930年末、[[サミュエル・ゴールドウィン]]が[[ゾーイ・エーキンズ]]の喜劇"''The Greeks Had a Word for It''"の映画化の権利をタルマッジのために手に入れたと発表した。タルマッジはニューヨークでリハーサルはしたと伝えられているが、数か月もしないうちにUAに契約解除を申し出た。そして、二度とスクリーンに登場しなかった。なお、ゴールドウィンが映画化権を手に入れたエーキンズの喜劇は、1932年に[[ジョーン・ブロンデル]]主演で"''[[:en:The Greeks Had a Word for Them|The Greeks Had a Word for Them]]''"として公開された。 |
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==引退後== |
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映画界を去ったタルマッジは、スターとしての義務や責任から解放された。街でタルマッジを見かけてサインを求めるファンもいたが、タルマッジは「あっちへ行ってください。私はもうあなた達を必要としていないし、あなた達も私を必要としていないのだから」と言って断った{{sfn|Slide|2002|p=374}}{{sfn|Lowe|2004|p=516}}。 |
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母のペグは病気により1925年12月に死去した。1932年半ば、タルマッジは11歳年下のギルバート・ローランドがいつか自分のもとを去ることを恐れ、ローランドとの結婚を断念した。1932年後半、タルマッジはシェンクのポーカー仲間でコメディアンの[[ジョージ・ジェッセル]]との交際を始めた。1934年4月、7年間別居していたシェンクはタルマッジとの離婚を認めた。その9日後、タルマッジはジェッセルと結婚した{{sfn|Basinger|2000|p=1175}}。シェンクは離婚後も、タルマッジ姉妹の財務アドバイザーとして、タルマッジが行っていた事業の指導を続けた。1937年には、タルマッジはシェンクと共同で、カリフォルニア州[[ロングビーチ (カリフォルニア州)|ロングビーチ]]の歴史的建造物{{仮リンク|ヴィラ・リヴィエラ|en|Villa Riviera}}を150万ドルで購入した<ref name=NT>{{cite news|title=Large Realty Deal Told: Sale of Villa Riviera at Long Beach; Property Here Purchased|work=Los Angeles Times|date=1937-10-17}}</ref><ref>{{cite news |last1=Pool |first1=Bob |title=Villa Riviera's Gothic Walls Have Tales to Tell |url=https://www.latimes.com/archives/la-xpm-2003-jun-12-me-surround12-story.html |work=Los Angeles Times |date=12 June 2003}}</ref>。 |
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タルマッジの芸能界における最後の仕事は、ジェッセルのラジオ番組への出演だった。この番組は聴取率の低迷によりすぐに終了した。ジェッセルとの結婚生活も長続きせず、1939年に離婚した。1946年、[[ビバリーヒルズ]]の医師カーヴェル・ジェームズ(Carvel James)と結婚した<ref>{{cite web |url=http://www.stanford.edu/~gdegroat/NT/video.htm |title=Woman Disputed: Who was Norma Talmadge, and why aren't more of her films available? |publisher=Stanford University |access-date=2014-01-15}}</ref>。長年の芸能生活により、タルマッジの元には莫大な財産が残り、生涯お金に困ることはなかった。 |
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==晩年と死去== |
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[[File:Talmadge Grave.JPG|thumb|upright|ハリウッド・フォーエバー墓地のタルマッジ姉妹の[[地下聖堂|納骨所]]]] |
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タルマッジはセレブリティの重荷に馴染むことができず、晩年には家に引き籠もるようになった。[[関節炎]]を患い{{sfn|Lowe|2004|p=517}}、痛みのために鎮痛剤に依存するようになり<ref name="november1997" />、温暖なラスベガスに移住した。アニタ・ルースの手記によれば、鎮痛剤への依存から、最後の夫となった医師のカーヴェル・ジェームズと付き合うようになったという{{sfn|Loos|1978|p=108}}。1956年、1925年以前の女性スタートップ5の一人に選ばれたが、病気のためニューヨーク州ロチェスターで開かれた授賞式に参加できなかった。 |
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1957年に[[脳卒中]]を発症し、同年12月24日に[[肺炎]]により死去した。死去時、その遺産は100万ドル(2020年の物価換算で890万ドル)以上と評価された<ref name=timemagazine /><ref>{{Cite book|last=Golden|first=Eve |title=Golden Images: 41 Essays on Silent Film Stars|publisher=McFarland|year=2001|page=174|isbn=0-7864-0834-0}}</ref>。遺体は、2人の妹とともに、{{仮リンク|ハリウッド・フォーエバー墓地|en|Hollywood Forever Cemetery}}の三姉妹専用の[[地下聖堂|納骨所]]に埋葬された。 |
|||
映画界への功績により、[[ハリウッド・ウォーク・オブ・フェーム]]のヴァイン通り1500番地にタルマッジの星が設置された。 |
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ロサンゼルスの{{仮リンク|ロス・フェリズ|en|Los Feliz, Los Angeles}}地区には、ノーマ・タルマッジに因んだ「タルマッジ通り」がある。[[サンディエゴ]]の{{仮リンク|タルマッジ (サンディエゴ)|label=タルマッジ|en|Talmadge, San Diego}}というコミュニティはタルマッジ姉妹に因んで名付けられたもので、通りの一つは「ノーマ」と名付けられている<ref>{{Cite book|url=https://books.google.com/books?id=VpXVmTfHNZEC&q=talmadge+park+real+estate&pg=PA152|title = The First Female Stars: Women of the Silent Era|isbn = 9780275982591|last1 = Menefee|first1 = David W.|year = 2004| publisher=Bloomsbury Academic }}</ref>。 |
|||
==フィルモグラフィ== |
|||
{| border="2" cellpadding="5" cellspacing="0" style="margin: 1em 1em 1em 0; background: #f9f9f9; border: 1px #aaa solid; border-collapse: collapse; font-size: 90%;" |
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|- bgcolor="#B0C4DE" align="center" |
|||
! 年 |
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! タイトル |
|||
! 役 |
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! class="unsortable" | 備考 |
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! 保存状態<ref name=GG>{{cite web |url=https://web.stanford.edu/~gdegroat/NT/filmography.htm |title=The Feature films [sic] of Norma Talmadge |author=Greta de Groat (Electronic Media Cataloger at Stanford University Libraries)|accessdate=2024-04-03}}</ref> |
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|- |
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| 1911 |
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| <br/>''[[:en:The Child Crusoes|The Child Crusoes]]'' |
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|- |
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| 1913 |
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| <br/>''[[:en:The Doctor's Secret (1913 film)|The Doctor's Secret]]'' |
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| Elsa |
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| |
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|'''[[失われた映画|喪失]]''' |
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|- |
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| rowspan=3|1915 |
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| <br/>''Captivating Mary Carstairs'' |
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| Mary Carstairs |
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| |
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| '''喪失''' |
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|- |
|||
| <br/>''[[:en:The Battle Cry of Peace|The Battle Cry of Peace]]'' |
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| Virginia Vandergriff |
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| |
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| '''[[フィルムが部分的に現存している映画|不完全]]'''{{efn|{{仮リンク|スウェーデン映画協会|en|Swedish Film Institute}}シネマテーケットに全9巻のうちの1巻が、{{仮リンク|ジョージ・イーストマン博物館|en|George Eastman Museum}}には戦闘シーンの断片が所蔵されている。}} |
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|- |
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| <br/>''The Crown Prince's Double'' |
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| Shirley Rives |
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| |
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| '''喪失''' |
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|- |
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| rowspan=7|1916 |
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| 疑問の鈕釦<br/>''[[:en:The Missing Links (1916 film)|The Missing Links]]'' |
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| Myra Holburn |
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| |
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| '''喪失''' |
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|- |
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| <br/>''Martha's Vindication'' |
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| Martha |
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| '''喪失''' |
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|- |
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| <br/>''The Children in the House'' |
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| Cora |
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| |
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| '''現存''' |
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|- |
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| 渦<br/>''[[:en:Going Straight (1916 film)|Going Straight]]'' |
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| Grace Remington |
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| '''現存''' |
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|- |
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| <br/>''[[:en:The Devil's Needle|The Devil's Needle]]'' |
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| Renee |
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| |
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| '''現存''' {{efn|[[アメリカ議会図書館]]が、1923年再リリース版のコピーを保有している。}} |
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|- |
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| <br/>''The Social Secretary'' |
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| Mayme |
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| |
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| '''現存''' |
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|- |
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| 五十と五十<br/>''[[:en:Fifty-Fifty (1916 film)|Fifty-Fifty]]'' |
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| Naomi |
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| |
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| '''現存''' |
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|- |
|||
| rowspan=5|1917 |
|||
| パンテア<br/>''[[:en:Panthea (film)|Panthea]]'' |
|||
| Panthea Romoff |
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| プロデューサー兼 |
|||
| '''喪失'''{{efn|1958年にベネチアで上映されたのを最後に発見されていない。}} |
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|- |
|||
| 自業自得<br/>''[[:en:The Law of Compensation|The Law of Compensation]]'' |
|||
| Flora Graham/Ruth Graham |
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| |
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| '''現存''' |
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|- |
|||
| <br/>''[[:en:Poppy (1917 film)|Poppy]]'' |
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| Poppy Destinn |
|||
| |
|||
| '''不完全'''{{efn|アメリカ議会図書館に、この映画の後半を集約した2巻が所蔵されている。}} |
|||
|- |
|||
| 歓楽に狂ふ女<br/>''[[:en:The Moth (1917 film)|The Moth]]'' |
|||
| Lucy Gillam |
|||
| |
|||
| '''不完全'''{{efn|アメリカ議会図書館に、全6巻のうち第1-4巻が所蔵されている。}} |
|||
|- |
|||
| 嵐の里<br/>''[[:en:The Secret of the Storm Country|The Secret of the Storm Country]]'' |
|||
| Tess Skinner |
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| |
|||
| '''喪失''' |
|||
|- |
|||
| rowspan=6|1918 |
|||
| 愛人の面影<br/>''[[:en:The Ghosts of Yesterday|The Ghosts of Yesterday]]'' |
|||
| Ruth Graham/Jeanne La Fleur |
|||
| |
|||
| '''不完全'''{{efn|アメリカ議会図書館に、全6巻のうち第1-4巻と、第6巻の断片が所蔵されている。}} |
|||
|- |
|||
| 購へる貞操<br/>''[[:en:By Right of Purchase|By Right of Purchase]]'' |
|||
| Margot Hughes |
|||
| |
|||
| '''不完全'''{{efn|全6巻のうち最終巻が欠けている可能性がある。}} |
|||
|- |
|||
| 其夜から<br/>''[[:en:De Luxe Annie|De Luxe Annie]]'' |
|||
| Julie Kendal (De Luxe Annie II) |
|||
| プロデューサー兼 |
|||
| '''現存''' |
|||
|- |
|||
| 紅涙の跡<br/>''[[:en:The Safety Curtain|The Safety Curtain]]'' |
|||
| Puck |
|||
| |
|||
| '''現存''' |
|||
|- |
|||
| 恐怖の夜<br/>''[[:en:Her Only Way|Her Only Way]]'' |
|||
| Lucille Westbrook |
|||
| |
|||
| '''喪失''' |
|||
|- |
|||
| 禁断の都<br/>''[[:en:The Forbidden City (film)|The Forbidden City]]'' |
|||
| San San/Toy |
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| |
|||
| '''現存''' |
|||
|- |
|||
| rowspan=5|1919 |
|||
| 高原に咲く花<br/>''[[:en:The Heart of Wetona|The Heart of Wetona]]'' |
|||
| Wetona |
|||
| |
|||
| '''現存''' |
|||
|- |
|||
| ニュームーン<br/>''[[:en:The New Moon (1919 film)|The New Moon]]'' |
|||
| Princess Marie Pavlovna |
|||
| |
|||
| '''不完全'''{{efn|アメリカ議会図書館には、全6巻のうちの最終巻がない<ref>{{cite web |url=https://memory.loc.gov/diglib/ihas/loc.mbrs.sfdb.2060/default.html |title=The New Moon / Chester Withey [motion picture] |year=1919 |publisher=Library of Congress|accessdate=2024-04-03}}</ref>。}} |
|||
|- |
|||
| 仮りそめの妻<br/>''[[:en:The Probation Wife|The Probation Wife]]'' |
|||
| Josephine Mowbray |
|||
| プロデューサー兼 |
|||
| '''不完全'''{{efn|アメリカ議会図書館には、全5巻のうちの第2巻がない<ref name=ProbWife>{{cite web |url=https://www.silentera.com/PSFL/data/P/ProbationWife1919.html |title=The Probation Wife |website=www.silentera.com|accessdate=2024-04-03}}</ref>。ジョージ・イーストマン博物館は、1巻<ref name=GG/>もしくは2巻<ref name=ProbWife/>を保有している。}} |
|||
|- |
|||
| 女人の切望<br/>''[[:en:The Way of a Woman|The Way of a Woman]]'' |
|||
| Nancy Lee |
|||
| |
|||
| '''不完全'''{{efn|ロンドンの{{仮リンク|イギリス国立メディア博物館|en|National Science and Media Museum}}がラストシーンのみを保有している<ref>{{cite web |url=https://www.silentera.com/PSFL/data/W/WayOfAWoman1919.html |title=The Way of a Woman |website=www.silentera.com|accessdate=2024-04-03}}</ref>。}} |
|||
|- |
|||
| 孤島の烽火<br/>''[[:en:The Isle of Conquest|The Isle of Conquest]]'' |
|||
| Ethel Harmon |
|||
| プロデューサー兼 |
|||
| '''喪失''' |
|||
|- |
|||
| rowspan=5|1920 |
|||
| 明暗の女<br/>''[[:en:A Daughter of Two Worlds|A Daughter of Two Worlds]]'' |
|||
| Jennie Malone |
|||
| |
|||
| '''現存''' |
|||
|- |
|||
| [[青春の夢 (1920年のワージー監督の映画)|青春の夢]]<br/>''[[:en:She Loves and Lies|She Loves and Lies]]'' |
|||
| Marie Callender, aka Marie Max and June Dayne |
|||
| |
|||
| '''不完全'''{{efn|アメリカ議会図書館には、全6巻のうちの第2巻がない<ref>{{cite web |url=https://memory.loc.gov/diglib/ihas/loc.mbrs.sfdb.2208/default.html |title=She Loves And Lies / Chester Withey [motion picture] |year=1920 |publisher=Library of Congress|accessdate=2024-04-03}}</ref>}} |
|||
|- |
|||
| 女性の賜物<br/>''[[:en:The Woman Gives|The Woman Gives]]'' |
|||
| Inga Sonderson |
|||
| |
|||
| '''現存''' |
|||
|- |
|||
| 清濁<br/>''[[:en:Yes or No? (1920 film)|Yes or No ?]]'' |
|||
| Margaret Vane/Minnie Berry |
|||
| プロデューサー兼 |
|||
| '''現存''' |
|||
|- |
|||
| 刻印の乳房<br/>''[[:en:The Branded Woman|The Branded Woman]]'' |
|||
| Ruth Sawyer |
|||
| プロデューサー兼 |
|||
| '''現存''' |
|||
|- |
|||
| rowspan=4|1921 |
|||
| 情熱の薔薇<br/>''[[:en:The Passion Flower|The Passion Flower]]'' |
|||
| Acacia, The Passion Flower |
|||
| プロデューサー兼 |
|||
| '''現存''' |
|||
|- |
|||
| 秘密の扉<br/>''[[:en:The Sign on the Door|The Sign on the Door]]'' |
|||
| Ann Hunniwell/Mrs. 'Lafe' Regan |
|||
| プロデューサー兼 |
|||
| '''現存''' |
|||
|- |
|||
| 奇蹟<br/>''[[:en:The Wonderful Thing|The Wonderful Thing]]'' |
|||
| Jacqueline Laurentine Boggs |
|||
| プロデューサー兼 |
|||
| '''現存''' |
|||
|- |
|||
| 懐しの島へ<br/>''[[:en:Love's Redemption|Love's Redemption]]'' |
|||
| Jennie Dobson, aka Ginger |
|||
| プロデューサー兼 |
|||
| '''喪失''' |
|||
|- |
|||
| rowspan=2|1922 |
|||
| 久遠の微笑<br/>''[[:en:Smilin' Through (1922 film)|Smilin' Through]]'' |
|||
| Kathleen/Moonyeen |
|||
| プロデューサー兼 |
|||
| '''現存''' |
|||
|- |
|||
| 不滅の情火<br/>''[[:en:The Eternal Flame (film)|The Eternal Flame]]'' |
|||
| Duchesse de Langeais |
|||
| プロデューサー兼 |
|||
| '''不完全'''{{efn|アメリカ議会図書館には、全8巻のうちの第3巻と第8巻がない。}} |
|||
|- |
|||
| rowspan=4|1923 |
|||
| 尖塔の声<br/>''[[:en:The Voice from the Minaret|The Voice from the Minaret]]'' |
|||
| Lady Adrienne Carlyle |
|||
| プロデューサー兼 |
|||
| '''喪失''' |
|||
|- |
|||
| 法に泣く女<br/>''[[:en:Within the Law (1923 film)|Within the Law]]'' |
|||
| Mary Turner |
|||
| プロデューサー兼 |
|||
| '''現存''' |
|||
|- |
|||
| <br/>''[[:en:Ashes of Vengeance|Ashes of Vengeance]]'' |
|||
| Yolande de Breux |
|||
| プロデューサー兼 |
|||
| '''現存''' |
|||
|- |
|||
| <br/>''[[:en:The Song of Love (1923 film)|The Song of Love]]'' |
|||
| Noorma-hal |
|||
| プロデューサー兼 |
|||
| '''現存''' |
|||
|- |
|||
| rowspan=2|1924 |
|||
| 秘密<br/>''[[:en:Secrets (1924 film)|Secrets]]'' |
|||
| Mary Carlton |
|||
| プロデューサー兼 |
|||
| '''現存''' |
|||
|- |
|||
| 激浪逆捲く<br/>''[[:en:The Only Woman|The Only Woman]]'' |
|||
| Helen Brinsley |
|||
| プロデューサー兼 |
|||
| '''現存''' |
|||
|- |
|||
| rowspan=2|1925 |
|||
| 在りし日<br/>''[[:en:The Lady (1925 film)|The Lady]]'' |
|||
| Polly Pearl |
|||
| プロデューサー兼 |
|||
| '''不完全'''{{efn|アメリカ議会図書館には、全8巻のうちの第2巻がない。}} |
|||
|- |
|||
| <br/>''[[:en:Graustark (1925 film)|Graustark]]'' |
|||
| Princess Yetive |
|||
| プロデューサー兼 |
|||
| '''不完全'''{{efn|アメリカ議会図書館には、全7巻のうちの第1巻と第7巻がない。}} |
|||
|- |
|||
| rowspan=2|1926 |
|||
| お転婆キキー<br/>''[[:en:Kiki (1926 film)|Kiki]]'' |
|||
| Kiki |
|||
| プロデューサー兼 |
|||
| '''現存''' |
|||
|- |
|||
| 椿姫<br/>''[[:en:Camille (1926 feature film)|Camille]]'' |
|||
| Marguerite Gautier (Camille) |
|||
| プロデューサー兼 |
|||
| '''不完全''' |
|||
|- |
|||
| 1927 |
|||
| 赤い鳩<br/>''[[:en:The Dove (1927 film)|The Dove]]'' |
|||
| Dolores |
|||
| プロデューサー兼 |
|||
| '''不完全''' |
|||
|- |
|||
| 1928 |
|||
| 噂の女<br/>''[[:en:The Woman Disputed|The Woman Disputed]]'' |
|||
| Mary Ann Wagner |
|||
| プロデューサー兼 |
|||
| '''現存''' |
|||
|- |
|||
| 1929 |
|||
| 紐育の囁き<br/>''[[:en:New York Nights (film)|New York Nights]]'' |
|||
| Jill Deverne |
|||
| プロデューサー兼(クレジットなし) |
|||
| '''現存''' |
|||
|- |
|||
| 1930 |
|||
| <br/>''[[:en:Du Barry, Woman of Passion|Du Barry, Woman of Passion]]'' |
|||
| [[デュ・バリー夫人]] |
|||
| |
|||
| '''現存''' |
|||
|} |
|||
<gallery mode="packed"> |
<gallery mode="packed"> |
||
The Law of Compensation.jpg|『自業自得』 ''The Law of Compensation'', 1917 |
The Law of Compensation.jpg|『自業自得』 ''The Law of Compensation'', 1917 |
||
File:Ghost of Yesterday.jpg|『愛人の面影』 ''The Ghost of Yesterday'', 1918 |
File:Ghost of Yesterday.jpg|『愛人の面影』 ''The Ghost of Yesterday'', 1918 |
||
File:The Forbidden City 1918.jpg|『禁断の都』 ''The Forbidden City'', 1918 |
File:The Forbidden City 1918.jpg|『禁断の都』 ''The Forbidden City'', 1918 |
||
File:Norma Talmadge Photoplay.jpg|雑誌『{{ |
File:Norma Talmadge Photoplay.jpg|雑誌『{{仮リンク|フォトプレイ|en|Photoplay}}』1917年2月の表紙 |
||
File:Photoplay January 1920.jpg|『フォトプレイ』1920年1月 |
File:Photoplay January 1920.jpg|『フォトプレイ』1920年1月 |
||
File:Norma Talmadge Photoplay cover.jpg|『フォトプレイ』1929年12月 |
File:Norma Talmadge Photoplay cover.jpg|『フォトプレイ』1929年12月 |
||
File:Norma-DOLLS.jpg|ノーマ[[着せ替え人形]] |
File:Norma-DOLLS.jpg|ノーマ[[着せ替え人形]] |
||
</gallery> |
</gallery> |
||
==脚注== |
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===注釈=== |
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===出典=== |
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==情報源== |
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* {{cite book |last=Loos |first=Anita |author-link=Anita Loos |title=The Talmadge Girls: A Memoir |url=https://archive.org/details/talmadgegirlsmem00loos |url-access=registration |location=New York |publisher=[[Viking Press]] |year=1978 |isbn=0-670-69302-2 }} |
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* {{cite book |last=Lowe |first=Denise |title=An Encyclopedic Dictionary of Women in Early American Films: 1895–1930 |publisher=[[Haworth Press]] |year=2004 |isbn=0-7890-1843-8 |url-access=registration |url=https://archive.org/details/isbn_9790874369709_b7n2 }} |
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* {{cite book |last=Slide |first=Anthony |author-link=Anthony Slide |title=Silent Players: A Biographical and Autobiographical Study of 100 Silent Film Actors and Actresses |publisher=[[University Press of Kentucky]] |date=2002 |isbn=0-8131-2249-X |url-access=registration |url=https://archive.org/details/biographicalauto00slid }} |
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==参考文献== |
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==外部リンク== |
==外部リンク== |
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*{{imdb name|id=0848232|name=ノーマ・タルマッジ}} |
*{{imdb name|id=0848232|name=ノーマ・タルマッジ}} |
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*[https://www.nytimes.com/2010/03/14/movies/homevideo/14kehr.html New York Times: "An Independent Woman, Nobly Suffering in Silents"] |
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*[https://www.tcm.com/tcmdb/person/1481269|118301/Norma-Talmadge#overview Norma Talmadge] at [[Turner Classic Movies]] |
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*{{Amg name|69702}} |
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*[http://www.stanford.edu/~gdegroat/NT/home.htm Norma Talmadge Website] |
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*[http://film.virtual-history.com/person.php?personid=749 Photographs and bibliography] |
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2024年10月7日 (月) 19:27時点における版
ノーマ・タルマッジ Norma Talmadge | |
---|---|
ノーマ・タルマッジ(1920年) | |
本名 | ノーマ・マリー・タルマッジ(Norma Marie Talmadge) |
生年月日 | 1894年5月2日 |
没年月日 | 1957年12月24日(63歳没) |
出生地 | ニュージャージー州ジャージーシティ |
死没地 | ネバダ州ラスベガス |
国籍 | アメリカ合衆国 |
職業 | 映画女優・映画プロデューサー |
活動期間 | 1909年 - 1930年 |
配偶者 | |
著名な家族 |
|
主な作品 | |
『久遠の微笑』 『秘密』 『椿姫』 |
ノーマ・マリー・タルマッジ(Norma Marie Talmadge[1]、1894年5月2日 - 1957年12月24日)は、サイレント映画時代に活躍したアメリカ合衆国の映画女優・映画プロデューサーである。1920年代初頭にキャリアのピークを迎え、アメリカ映画界の人気アイドルの一人となった[2]。
メロドラマを得意とし、最も有名な作品である『久遠の微笑』(1922年)[3]のほか、フランク・ボーゼイギ監督作品の『秘密』(1924年)や『在りし日』(1925年)でも芸術的な成功を収めた。妹のコンスタンス・タルマッジも女優である。タルマッジは映画プロデューサーのジョセフ・M・シェンクと結婚し、自分たちの映画会社を設立して成功させた。アメリカ東海岸で名声を得た後、1922年にハリウッドに進出した。
タルマッジは、狂騒の20年代を通して、最もエレガントでグラマラスな映画スターの一人だった。しかし、1920年代末にトーキーが登場すると、タルマッジの人気は衰えていった[4]。2本のトーキー映画に出演したが興行的に振るわず、1930年に映画界から去った。
若年期
出生証明書によると、タルマッジは1894年5月2日にニュージャージー州ジャージーシティで生まれた[5][注釈 1]。タルマッジには、ナタリーとコンスタンスという2人の妹がおり、どちらも女優になった。
タルマッジ姉妹の子供時代は貧しかった。アルコール依存症の父フレデリックは、タルマッジが幼いときに、あるクリスマスの朝、食料を買いに家を出たまま戻らなかった[7]。残された母マーガレット(愛称ペグ)は、ニューヨーク市ブルックリンで、洗濯を請け負い、絵を教え、部屋を貸すことで生計を立て、3人の娘たちを一人で育てた。
タルマッジが高校生の時、同級生がイラストレイテッド・ソング(映画館で本編映画の前に上映されていた)のスライドのモデルをしていた。タルマッジがそれを母ペグに話したところ、ペグはそのスライドを撮影した写真家を探し出し、娘と会ってみてほしいと申し入れた。最初は断られたが、後に採用された[8]。娘のデビュー作を見たペグは、娘を映画界に入れることを決意した[7]。
キャリア
初期のキャリア
タルマッジは母ペグから、映画女優になるよう勧められた[9]。タルマッジ母子は、ブルックリンのフラットブッシュにあるヴァイタグラフ・スタジオを訪ねた。そこは自宅から路面電車で通える場所にあった[7]。スタジオの門を通ってキャスティング担当者に会おうとしたが、すぐに追い返された。しかし、たまたまそれを見かけた女性シナリオライターのベータ・ブルイユがタルマッジの美しさに惹かれ、1909年の映画"The Household Pest"に端役で出演させた[7]。
ブルイユの継続的な支援により、タルマッジは1911年から1912年にかけて100本以上の映画に端役で出演した。ヴァイタグラフは週給25ドルでタルマッジと契約し、タルマッジは安定した仕事が得られるようになった。契約女優としての初めての役は、コメディアンのジョン・バニーと共演した1911年の"Neighboring Kingdom"だった。最初の当たり役は、1911年の映画『二都物語』における、シドニー・カートンの処刑に付き添う無名の裁縫婦役だった[10]。ヴァイタグラフの大スターである主演のモーリス・コステロの助けにより、タルマッジの演技は上達した。タルマッジは、主役からエキストラまで、どんな役でも演じて経験を積み、世間にも知られるようになった。1913年にはヴァイタグラフにおける最も有望な若手女優と目されるまでになった[11]。同年、タルマッジはヴァン・ダイク・ブルック監督の演技ユニットに配属され、1913年から1914年にかけて、アントニオ・モレノを相手役とした映画に多数出演した。
1915年、タルマッジはヴァイタグラフで最も有名な長編映画"The Battle Cry of Peace"に出演し、大ブレイクした[10]。しかし、野心的な母ペグは、娘の能力ならさらなる飛躍ができると考え、ナショナル・ピクチャーズ社と2年間、週給400ドルで長編映画8本の契約を結んだ。タルマッジは同年夏にヴァイタグラフを退社した。ヴァイタグラフに在籍した5年間で出演した映画は250本以上だった。
同年8月、タルマッジ母子はカリフォルニア州に向かった。タルマッジのナショナル・ピクチャーズでの最初の出演作は"Captivating Mary Carstairs"だった。しかし、セットも衣装も安っぽく、新しい小さな会社であるナショナル・ピクチャーズには十分な後ろ盾がなかった。映画は興行的に大失敗となり、ナショナル・ピクチャーズはこの作品の公開後に閉鎖された。映画を1本撮っただけでカリフォルニアに取り残されたタルマッジ母子は、東海岸に戻るよりもより高みを目指したほうが良いと考え、D・W・グリフィスが製作責任者を務めるトライアングル・フィルム・コーポレーションとの契約を目指すことにした。トライアングル社は、"The Battle Cry of Peace"でのタルマッジの評判から、傘下の製作会社ファイン・アーツとの契約を結んだ。タルマッジは、トライアングルにおいて8か月で7本の長編映画に出演した。その中には、アニタ・ルース脚本、ジョン・エマーソン監督のコメディ映画"The Social Secretary"(1916年)があった。この作品では、男性雇用主からの望まない注目を避けようとする女性の役を演じ、美しさだけではないタルマッジの魅力を広めることとなった[12]。
ニューヨーク
トライアングルとの契約期間が終わると、タルマッジ母子はニューヨークに戻った。あるパーティーで、タルマッジはジョセフ・M・シェンクと知り合った。当時のシェンクは映画館や遊園地を経営する裕福な興行師で、自分で映画を製作したいと考えていた。タルマッジはすぐにシェンクのことを仕事的にも個人的にも気に入り、シェンクは結婚して映画製作スタジオを設立することを提案した。2か月後の1916年10月20日に2人は結婚した[10]。タルマッジは16歳年上のシェンクのことを"Daddy"と呼んだ。シェンクはタルマッジの母ペグと協力して、タルマッジのキャリアを監督・管理し、女優として育て上げた[13]。
1917年、シェンク夫妻は映画製作会社ノーマ・タルマッジ・フィルム・コーポレーションを設立した。シェンクは妻を、いつまでも記憶に残るような最高のスターにすると誓った。シェンクはタルマッジのために、最高の脚本と豪華な衣装、壮大なセット、才能のあるキャスト、著名な映画監督を用意し、華々しい宣伝を行った。この会社は興行的に大成功し、多くの女性がタルマッジに憧れた。
シェンクはニューヨークにスタジオを構えた。1階のスタジオではノーマ・タルマッジの映画が、2階では妹のコンスタンス・タルマッジのコメディ映画が、3階ではロスコー・アーバックルのコメディ映画が製作された。妹のナタリー・タルマッジは主に秘書として活動し、ノーマやコンスタンスの主演映画に端役で出演することもあった。アーバックルは、甥のアル・セント・ジョンとボードヴィルのスター、バスター・キートンをニューヨークに呼び寄せた。キートンは1921年にナタリー・タルマッジと結婚するが、1933年に離婚した。
自身の名を冠したスタジオでタルマッジが初めて出演したのは『パンテア』(1917年)だった。この作品では、アラン・ドワンが監督を、エリッヒ・フォン・シュトロハイムとアーサー・ロッソンが助手を務めた。この作品はヒットし、タルマッジの女優としての地位を確立した[14]。
この時期に、タルマッジの演技力は急速に向上した。1917年から1921年にかけて、ニューヨークで年に4から6本の映画を撮影した。シェンクは、ユージン・オブライエンを相手役とした"Poppy"などの映画も製作した[15]。このコンビは大当たりし、メアリー・ピックフォード主演の"The Secret of the Storm Country"など、競合作品が10本作られた。
1918年にはシドニー・フランクリン監督とコンビを組み、"The Safety Curtain"、"Her Only Way"、"Forbidden City"、"The Heart of Wetona"、"The Probation Wife"を撮影した。東海岸で撮影する利点は、マダム・フランシスやルシールなどの、アメリカにおける最高のファッション・デザイナーを利用できたことである。1919年から1920年にかけて、『フォトプレイ』誌のファッション関係のコラムにはタルマッジの名前が毎月のように登場していた。
タルマッジは1920年代を通して成功を収め続けた。1921年には"Yes or No"、"The Branded Woman"、"Passion Flower"、"The Sign on the Door"を撮影した。1922年には、タルマッジの全作品の中でも最も人気の高い[3]『久遠の微笑』(Smilin' Through)に主演した。この作品は、サイレント映画時代における最高のロマンス映画と評され、1932年にノーマ・シアラー主演、1941年にジャネット・マクドナルド主演でリメイクされている。
ハリウッド
『久遠の微笑』の公開の後、シェンクはニューヨークのスタジオを閉鎖してノーマ、コンスタンスとともにハリウッドに移り、バスター・キートン、ナタリー・タルマッジと合流した。ハリウッドでの映画作りは、ニューヨークとは全く違っていた。ハリウッドの映画製作は規模が大きく、撮影本数は少ないが、時代設定や舞台設定がバラエティに富んでいた。タルマッジは、より魅惑的なイメージを出すために、撮影監督のトニー・ゴーディオやハリウッドの一流の衣装デザイナーとチームを組んだ。また、フランク・ロイド、クラレンス・ブラウン、フランク・ボーゼイギなどの一流の映画監督とも仕事をした。シェンクがタルマッジの出演作を多数製作したこともあり、タルマッジは1920年代で最も稼いだ女優の一人となった[16]。
1923年、映画興行主の投票により選ばれるトップテン・マネーメイキングスターで、タルマッジは第1位となった。タルマッジは週に1万ドルを稼ぎ出し、毎週3千通のファンレターを受け取っていた。フランク・ボーゼイギ監督の"Secrets"(1924年)は最高の評価を受け、タルマッジはキャリアの頂点を迎えた[17]。1924年、シェンクはユナイテッド・アーティスツの幹部になったが、タルマッジはファースト・ナショナル映画と配給契約を結んだままだった。フランク・ボーゼイギ監督の"The Lady"(1925年)、クラレンス・ブラウン監督のコメディ・ロマンス映画"Kiki"[注釈 2]など、タルマッジは成功作を作り続けた[18]。
1926年1月5日、タルマッジはアンナ・メイ・ウォンと共に、グローマンズ・チャイニーズ・シアターの起工式で鍬入れを行った[19]。チャイニーズ・シアターの前庭には、ハリウッドスターなどの手形・足形を刻んだセメントタイルを埋め込む慣習があるが、この起源について、タルマッジが工事中に誤ってまだ乾いていないセメントに足を踏み入れたためとする説がある[20]。しかし、この話については劇場の建設主のシド・グローマンが様々なバージョンの話をしており[注釈 3]、定かではない[21]。
人気の衰退
タルマッジは、1926年の"Camille"を最後にファースト・ナショナルとの契約を終え[23]、ユナイテッド・アーティスツ(UA)に移籍した。この作品の撮影中、タルマッジは主演のギルバート・ローランドと恋に落ちた[7]。タルマッジはシェンクに離婚を申し出たが、シェンクは受け入れなかった。タルマッジとローランドの組み合わせは人気が出たため、シェンクは個人的な感情は別にして、UAからリリースされたタルマッジの3作品にローランドを出演させた。タルマッジとシェンクは別居を始めたが、シェンクはタルマッジの作品のプロデュースを続けた。シェンクはUAの社長に就任した。以降のタルマッジの出演作品は全てUAから配給されたが、UAは名門ではあるものの作品を公開する映画館が少なかった。これにより、タルマッジの人気は低下し始めた。UAに移籍してからの作品、"The Dove(1927年)と"The Woman Disputed"(1928年)は興行的に失敗し、これがタルマッジの最後のサイレント映画作品となった。
1928年にはトーキーの公開が始まっており、タルマッジもトーキーに出演するために、声を出しての演技のレッスンを受け始めた。1929年の"New York Nights"で初めてトーキーに出演した。この作品でタルマッジはトーキーでも演技ができることを示したが[24]、作品は興行的には振るわなかった。翌1930年には"Du Barry, Woman of Passion"で主役のデュ・バリー夫人を演じた。ウィリアム・キャメロン・メンジーズが手の込んだセットを作り上げたにもかかわらず、この役どころに求められる高いレベルの声の演技をタルマッジができなかったことと、無能な演出により、この作品は失敗作となった。
1928年3月29日、UAはメアリー・ピックフォードの別荘にタルマッジ、ピックフォード、ダグラス・フェアバンクス、チャーリー・チャップリン、グロリア・スワンソン、ジョン・バリモア、ドロレス・デル・リオ、D・W・グリフィスを集め、トーキーへの挑戦について語るラジオ番組"The Dodge Brothers Hour"を収録した[25]。
時が経つにつれ、世間はタルマッジを過去の象徴とみなすようになり、興味を示さなくなった。タルマッジはトーキーへの挑戦以前から映画製作に飽き始めており、トーキー作品での2作品続けての失敗が、さらなる挑戦を思いとどまらせた。
UAとの契約はあと2作品残っていた。1930年末、サミュエル・ゴールドウィンがゾーイ・エーキンズの喜劇"The Greeks Had a Word for It"の映画化の権利をタルマッジのために手に入れたと発表した。タルマッジはニューヨークでリハーサルはしたと伝えられているが、数か月もしないうちにUAに契約解除を申し出た。そして、二度とスクリーンに登場しなかった。なお、ゴールドウィンが映画化権を手に入れたエーキンズの喜劇は、1932年にジョーン・ブロンデル主演で"The Greeks Had a Word for Them"として公開された。
引退後
映画界を去ったタルマッジは、スターとしての義務や責任から解放された。街でタルマッジを見かけてサインを求めるファンもいたが、タルマッジは「あっちへ行ってください。私はもうあなた達を必要としていないし、あなた達も私を必要としていないのだから」と言って断った[10][11]。
母のペグは病気により1925年12月に死去した。1932年半ば、タルマッジは11歳年下のギルバート・ローランドがいつか自分のもとを去ることを恐れ、ローランドとの結婚を断念した。1932年後半、タルマッジはシェンクのポーカー仲間でコメディアンのジョージ・ジェッセルとの交際を始めた。1934年4月、7年間別居していたシェンクはタルマッジとの離婚を認めた。その9日後、タルマッジはジェッセルと結婚した[26]。シェンクは離婚後も、タルマッジ姉妹の財務アドバイザーとして、タルマッジが行っていた事業の指導を続けた。1937年には、タルマッジはシェンクと共同で、カリフォルニア州ロングビーチの歴史的建造物ヴィラ・リヴィエラを150万ドルで購入した[27][28]。
タルマッジの芸能界における最後の仕事は、ジェッセルのラジオ番組への出演だった。この番組は聴取率の低迷によりすぐに終了した。ジェッセルとの結婚生活も長続きせず、1939年に離婚した。1946年、ビバリーヒルズの医師カーヴェル・ジェームズ(Carvel James)と結婚した[29]。長年の芸能生活により、タルマッジの元には莫大な財産が残り、生涯お金に困ることはなかった。
晩年と死去
タルマッジはセレブリティの重荷に馴染むことができず、晩年には家に引き籠もるようになった。関節炎を患い[4]、痛みのために鎮痛剤に依存するようになり[7]、温暖なラスベガスに移住した。アニタ・ルースの手記によれば、鎮痛剤への依存から、最後の夫となった医師のカーヴェル・ジェームズと付き合うようになったという[30]。1956年、1925年以前の女性スタートップ5の一人に選ばれたが、病気のためニューヨーク州ロチェスターで開かれた授賞式に参加できなかった。
1957年に脳卒中を発症し、同年12月24日に肺炎により死去した。死去時、その遺産は100万ドル(2020年の物価換算で890万ドル)以上と評価された[16][31]。遺体は、2人の妹とともに、ハリウッド・フォーエバー墓地の三姉妹専用の納骨所に埋葬された。
映画界への功績により、ハリウッド・ウォーク・オブ・フェームのヴァイン通り1500番地にタルマッジの星が設置された。
ロサンゼルスのロス・フェリズ地区には、ノーマ・タルマッジに因んだ「タルマッジ通り」がある。サンディエゴのタルマッジというコミュニティはタルマッジ姉妹に因んで名付けられたもので、通りの一つは「ノーマ」と名付けられている[32]。
フィルモグラフィ
年 | タイトル | 役 | 備考 | 保存状態[33] |
---|---|---|---|---|
1911 | The Child Crusoes |
|||
1913 | The Doctor's Secret |
Elsa | 喪失 | |
1915 | Captivating Mary Carstairs |
Mary Carstairs | 喪失 | |
The Battle Cry of Peace |
Virginia Vandergriff | 不完全[注釈 4] | ||
The Crown Prince's Double |
Shirley Rives | 喪失 | ||
1916 | 疑問の鈕釦 The Missing Links |
Myra Holburn | 喪失 | |
Martha's Vindication |
Martha | 喪失 | ||
The Children in the House |
Cora | 現存 | ||
渦 Going Straight |
Grace Remington | 現存 | ||
The Devil's Needle |
Renee | 現存 [注釈 5] | ||
The Social Secretary |
Mayme | 現存 | ||
五十と五十 Fifty-Fifty |
Naomi | 現存 | ||
1917 | パンテア Panthea |
Panthea Romoff | プロデューサー兼 | 喪失[注釈 6] |
自業自得 The Law of Compensation |
Flora Graham/Ruth Graham | 現存 | ||
Poppy |
Poppy Destinn | 不完全[注釈 7] | ||
歓楽に狂ふ女 The Moth |
Lucy Gillam | 不完全[注釈 8] | ||
嵐の里 The Secret of the Storm Country |
Tess Skinner | 喪失 | ||
1918 | 愛人の面影 The Ghosts of Yesterday |
Ruth Graham/Jeanne La Fleur | 不完全[注釈 9] | |
購へる貞操 By Right of Purchase |
Margot Hughes | 不完全[注釈 10] | ||
其夜から De Luxe Annie |
Julie Kendal (De Luxe Annie II) | プロデューサー兼 | 現存 | |
紅涙の跡 The Safety Curtain |
Puck | 現存 | ||
恐怖の夜 Her Only Way |
Lucille Westbrook | 喪失 | ||
禁断の都 The Forbidden City |
San San/Toy | 現存 | ||
1919 | 高原に咲く花 The Heart of Wetona |
Wetona | 現存 | |
ニュームーン The New Moon |
Princess Marie Pavlovna | 不完全[注釈 11] | ||
仮りそめの妻 The Probation Wife |
Josephine Mowbray | プロデューサー兼 | 不完全[注釈 12] | |
女人の切望 The Way of a Woman |
Nancy Lee | 不完全[注釈 13] | ||
孤島の烽火 The Isle of Conquest |
Ethel Harmon | プロデューサー兼 | 喪失 | |
1920 | 明暗の女 A Daughter of Two Worlds |
Jennie Malone | 現存 | |
青春の夢 She Loves and Lies |
Marie Callender, aka Marie Max and June Dayne | 不完全[注釈 14] | ||
女性の賜物 The Woman Gives |
Inga Sonderson | 現存 | ||
清濁 Yes or No ? |
Margaret Vane/Minnie Berry | プロデューサー兼 | 現存 | |
刻印の乳房 The Branded Woman |
Ruth Sawyer | プロデューサー兼 | 現存 | |
1921 | 情熱の薔薇 The Passion Flower |
Acacia, The Passion Flower | プロデューサー兼 | 現存 |
秘密の扉 The Sign on the Door |
Ann Hunniwell/Mrs. 'Lafe' Regan | プロデューサー兼 | 現存 | |
奇蹟 The Wonderful Thing |
Jacqueline Laurentine Boggs | プロデューサー兼 | 現存 | |
懐しの島へ Love's Redemption |
Jennie Dobson, aka Ginger | プロデューサー兼 | 喪失 | |
1922 | 久遠の微笑 Smilin' Through |
Kathleen/Moonyeen | プロデューサー兼 | 現存 |
不滅の情火 The Eternal Flame |
Duchesse de Langeais | プロデューサー兼 | 不完全[注釈 15] | |
1923 | 尖塔の声 The Voice from the Minaret |
Lady Adrienne Carlyle | プロデューサー兼 | 喪失 |
法に泣く女 Within the Law |
Mary Turner | プロデューサー兼 | 現存 | |
Ashes of Vengeance |
Yolande de Breux | プロデューサー兼 | 現存 | |
The Song of Love |
Noorma-hal | プロデューサー兼 | 現存 | |
1924 | 秘密 Secrets |
Mary Carlton | プロデューサー兼 | 現存 |
激浪逆捲く The Only Woman |
Helen Brinsley | プロデューサー兼 | 現存 | |
1925 | 在りし日 The Lady |
Polly Pearl | プロデューサー兼 | 不完全[注釈 16] |
Graustark |
Princess Yetive | プロデューサー兼 | 不完全[注釈 17] | |
1926 | お転婆キキー Kiki |
Kiki | プロデューサー兼 | 現存 |
椿姫 Camille |
Marguerite Gautier (Camille) | プロデューサー兼 | 不完全 | |
1927 | 赤い鳩 The Dove |
Dolores | プロデューサー兼 | 不完全 |
1928 | 噂の女 The Woman Disputed |
Mary Ann Wagner | プロデューサー兼 | 現存 |
1929 | 紐育の囁き New York Nights |
Jill Deverne | プロデューサー兼(クレジットなし) | 現存 |
1930 | Du Barry, Woman of Passion |
デュ・バリー夫人 | 現存 |
-
『自業自得』 The Law of Compensation, 1917
-
『愛人の面影』 The Ghost of Yesterday, 1918
-
『禁断の都』 The Forbidden City, 1918
-
雑誌『フォトプレイ』1917年2月の表紙
-
『フォトプレイ』1920年1月
-
『フォトプレイ』1929年12月
-
ノーマ着せ替え人形
脚注
注釈
- ^ 「ニューヨーク州ナイアガラフォールズ生まれ」という話が広く流布しているが、これは「風光明媚なナイアガラの滝の近くで生まれた」とすることで出自をよりロマンチックなものにするために、タルマッジと母親がファン雑誌にそのような情報を提供したものであることを、後にタルマッジ自身が認めている[6]。
- ^ 1931年にメアリー・ピックフォード主演によりトーキー映画としてリメイクされた。
- ^ メアリー・ピックフォードやグローマン自身、あるいは猫が足を踏み入れてしまったなど。
- ^ スウェーデン映画協会シネマテーケットに全9巻のうちの1巻が、ジョージ・イーストマン博物館には戦闘シーンの断片が所蔵されている。
- ^ アメリカ議会図書館が、1923年再リリース版のコピーを保有している。
- ^ 1958年にベネチアで上映されたのを最後に発見されていない。
- ^ アメリカ議会図書館に、この映画の後半を集約した2巻が所蔵されている。
- ^ アメリカ議会図書館に、全6巻のうち第1-4巻が所蔵されている。
- ^ アメリカ議会図書館に、全6巻のうち第1-4巻と、第6巻の断片が所蔵されている。
- ^ 全6巻のうち最終巻が欠けている可能性がある。
- ^ アメリカ議会図書館には、全6巻のうちの最終巻がない[34]。
- ^ アメリカ議会図書館には、全5巻のうちの第2巻がない[35]。ジョージ・イーストマン博物館は、1巻[33]もしくは2巻[35]を保有している。
- ^ ロンドンのイギリス国立メディア博物館がラストシーンのみを保有している[36]。
- ^ アメリカ議会図書館には、全6巻のうちの第2巻がない[37]
- ^ アメリカ議会図書館には、全8巻のうちの第3巻と第8巻がない。
- ^ アメリカ議会図書館には、全8巻のうちの第2巻がない。
- ^ アメリカ議会図書館には、全7巻のうちの第1巻と第7巻がない。
出典
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