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中日を自由契約となった後はプロ・アマ含めいずれのチームとの契約はなかったものの、[[ガンバレ日本プロ野球!?|テレビ番組]]に出演した際に「引退ではない」と語るなど、現役続行の道を模索して浪人生活を続けていた。
中日を自由契約となった後はプロ・アマ含めいずれのチームとの契約はなかったものの、[[ガンバレ日本プロ野球!?|テレビ番組]]に出演した際に「引退ではない」と語るなど、現役続行の道を模索して浪人生活を続けていた。


中日退団から1年近く経った{{by|2012年}}10月に[[千葉ロッテマリーンズ|ロッテ]]から入団テストのオファーを受け、11月の秋季キャンプにおいてテストを受けたものの、不合格に終わる<ref>{{Cite news |date=2012-11-19|url=https://www.nikkansports.com/baseball/news/f-bb-tp0-20121119-1049084.html |title=【ロッテ】元中日佐伯の不合格を発表|newspaper=日刊スポーツ|accessdate=2013-03-16}}</ref>。その後、21日の[[12球団合同トライアウト]]([[鎌ケ谷市|鎌ケ谷]]・[[ファイターズスタジアム]])にも参加したが、どの球団からも獲得のオファーがなく、{{by|2013年}}2月3日に現役引退を表明<ref name="mainichi 20130204">「毎日新聞」2013年2月4日付朝刊 14新版、19面</ref>。引退にあたり、「結果には後悔ばかりだが、結果を残すためにやってきたことに後悔はない」とのコメントを残している<ref name="mainichi 20130204" />。
中日退団から1年近く経った{{by|2012年}}10月に[[千葉ロッテマリーンズ|ロッテ]]から入団テストのオファーを受け、11月の秋季キャンプにおいてテストを受けたものの、不合格に終わる<ref>{{Cite news |date=2012-11-19|url=https://www.nikkansports.com/baseball/news/f-bb-tp0-20121119-1049084.html |title=【ロッテ】元中日佐伯の不合格を発表|newspaper=日刊スポーツ|accessdate=2013-03-16}}</ref>。その後、21日の[[12球団合同トライアウト]]([[鎌ケ谷市|鎌ケ谷]]・[[ファイターズ鎌ケ谷スタジアム]])にも参加したが、どの球団からも獲得のオファーがなく、{{by|2013年}}2月3日に現役引退を表明<ref name="mainichi 20130204">「毎日新聞」2013年2月4日付朝刊 14新版、19面</ref>。引退にあたり、「結果には後悔ばかりだが、結果を残すためにやってきたことに後悔はない」とのコメントを残している<ref name="mainichi 20130204" />。


=== 現役引退後 ===
=== 現役引退後 ===

2023年6月1日 (木) 03:23時点における版

佐伯 貴弘
中日二軍監督時代
(2015年3月23日 阪神鳴尾浜球場にて)
基本情報
国籍 日本の旗 日本
出身地 大阪府大阪市東成区
生年月日 (1970-04-18) 1970年4月18日(54歳)
身長
体重
186 cm
90 kg
選手情報
投球・打席 左投左打
ポジション 外野手一塁手
プロ入り 1992年 ドラフト2位
初出場 1993年5月23日
最終出場 2011年11月16日(日本シリーズ第4戦)
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)
選手歴
監督・コーチ歴
  • 中日ドラゴンズ (2014 - 2016)

佐伯 貴弘(さえき たかひろ、1970年4月18日 - )は、大阪府大阪市東成区[1]出身の元プロ野球選手外野手内野手、左投左打)・二軍監督コーチ。業務提携先はTCP-ARTIST

経歴

プロ入り前

小学2年生のときに同級生の誘いで野球を始める[2]。その年に父を亡くし、家計を支えるために働き詰めだった母と祖母の姿を見て、この人たちのために自分はプロ野球選手になろうと決心する[3]。子どもの頃から背が高く一学年上のチームでプレーし、投手で4番打者だった[2]。中学時代はボーイズリーグの大阪東ジャガーズに所属。尽誠学園高校時代は2年時に第69回全国高等学校野球選手権大会に「6番・左翼手」で出場し(本来ポジションは一塁か投手だったが先輩に譲り左翼を守った[2])2試合で2安打を記録した[4]。また、高校の1学年先輩に伊良部秀輝(元ロッテほか)、1学年後輩に宮地克彦(元ソフトバンクほか)、2学年後輩に谷佳知(元オリックスほか)がおり、伊良部とは寮で同部屋だった。高校卒業後は大阪商業大学へ進学。関西六大学リーグで通算95試合出場し、330打数104安打、打率.315、12本塁打、57打点を記録。1991年に春季と秋季の二季連続でリーグ戦の三冠王になった[5]。同年は日米大学野球選手権大会の日本代表にも選出された[5]。最優秀選手1回、ベストナイン4回受賞。通算12本塁打、1季4本塁打、3試合連続本塁打(2度)はいずれも新制関西六大学リーグ記録である。投手としても対龍谷大学戦で完封勝利を挙げるなど2勝している。

1992年度プロ野球ドラフト会議にて横浜ベイスターズが2位指名で交渉権を獲得し、契約金7000万円、年俸720万円(金額はいずれも推定)で契約を合意し、入団[6]。横浜はこの年のオフに「横浜大洋ホエールズ」から改称したため、「ベイスターズ」としての初のドラフト指名選手の一人となった。そのため、ドラフト会議当日にベイスターズから指名がかかった事を告げられた際には思わず「どこやそれ!」と言ってしまった[7]

横浜時代

横浜時代(2009年4月30日、阪神甲子園球場)

1993年5月23日の対広島東洋カープ戦に代打で初出場。

1994年は107試合に出場し、プロ入り初の2桁本塁打を記録。

1995年オールスターゲームにファン投票で初選出される[注 1]。辞退を考えていたものの、当時巨人に在籍していた落合博満に「お前を純粋に見たいと思って入れた人もいる。出ろ」と言われて出場を決意した[8]

1996年は開幕スタメン左翼手を勝ち取り、チームの快進撃と相まり、斎藤隆と共に4月の月間MVPに選出される。前半戦は打率ランキングの上位に顔を出し、グレン・ブラッグスがスタメンから外れた時は右翼手として出場し、オールスターゲームにも2年連続で出場。しかし後半戦に入り調子を落とすも、プロ入り初の規定打席に到達した。

1997年は前年まで守っていた左翼手のレギュラーをこの年首位打者を獲得した鈴木尚典に明け渡し、右翼手は新外国人ビル・セルビーとの併用になるなど、出場機会に恵まれず、打率.260、4本塁打という成績に終わる。

1998年近鉄バファローズから移籍してきた中根仁との併用でマシンガン打線の6番打者として活躍した。38年ぶりのリーグ優勝・日本一に貢献した。7月15日の対巨人戦で槙原寛己との打席で右飛となった際、槙原がボークをとられたため、アウトが取り消しとなったが、その仕切り直しの打席で2点本塁打を放った。この試合は当初、7-0で巨人の一方的な展開であったが、この本塁打で12-12の同点となり、この日のサヨナラ勝利を呼び込むきっかけとなった[9]。また、優勝が決まった10月8日の阪神戦では、2-3と1点ビハインドの8回表に二死一塁の場面で四球を選び、その後満塁となり、進藤達哉の2点適時打で逆転。佐伯が決勝の本塁を踏んだ。

1999年も好調を維持し、規定打席には届かなかったがプロ入り初の打率3割台を記録する。また入団年以来の一塁守備に就く。2000年は成績こそ良くなかったものの、正一塁手の駒田徳広の不調により一塁手での出場が増え、1996年以来となる自身2度目の規定打席到達を果たす。

2001年、駒田の退団に伴い、背番号を大学時代にもつけていた10へ変更。3回目のオールスターゲーム出場、140試合フル出場を果たし、初の2桁盗塁と打率ランキングベスト10入りを記録した[10]

2002年2003年とあまり調子が上がらなかったが、2004年は夏場以降調子を上げていき、最終的にリーグ3位の打率.322を記録するなど自己最高の成績を残した[11]。7月16日の対広島戦でジョン・ベイルから遊撃内野安打で1000本安打達成。9月3日の対ヤクルトスワローズ戦で鎌田祐哉から通算100本塁打を達成。日米野球ではフランシスコ・ロドリゲスから日本人選手では全試合で唯一人本塁打を放った。しかし、シーズン終了後にFA権を行使した場合、球団としては引き留めないという話を球団からされたが、翌年から新しく監督の就任が決まっていた牛島和彦が引き止めて残留した。同年の契約更改ではたくさんの人に来てほしいということから、入場料を安くしてほしいという提案もしている。

2005年タイロン・ウッズの代替として獲得したケビン・ウィットがインフルエンザで欠場したため、新監督の牛島から開幕から4番打者に指名される。ウィット復帰後もウィットの打撃不振により、結果的に4番打者として全試合出場を果たした。結果、自己最多の88打点を記録し、4番の責任を果たした。

2006年も引き続き開幕から4番を任されるが極度の打撃不振で打率が2割前後に低迷。それでも4番での起用が続き「4番・佐伯」とコールされると、対戦相手のファンから拍手が起こってしまった。4月28日の対広島戦では決勝点となる逆転3ランを放ちお立ち台に立ったが、それまでの打撃不振から涙を流す一幕もあった。しかしその後も打撃不振は続き、6月になってからは成長を見せていた村田修一に4番の座を明け渡した。9月7日の対広島戦では延長10回・二死満塁の場面で佐伯に打順が回ってくるが、カウント2ボール1ストライクからファウルを打った際に捕手の石原慶幸のミットが佐伯のバットに当たったため、打撃妨害となり1975年の池辺巌以来31年ぶりとなる「サヨナラ打撃妨害」で勝利するという珍事があった[12]。この年は故障や不調の影響で86試合の出場に留まり、打率も2割台前半と低迷し、5本塁打に終わった。

2007年に初心に返るという意味合いを兼ね、背番号を入団時の26へ変更。一塁は吉村裕基が固定されたため、開幕はベンチからのスタートになった。しかし他の選手の不振もあり3年ぶりに外野で先発起用されると好調な打撃を見せ5番打者に定着し、125試合に出場し、2年ぶりの規定打席に到達し、2桁本塁打、3年ぶりの打率3割を達成した。

2008年は開幕戦から「5番・一塁手」で出場するが不振に陥り、好調の内川聖一にポジションを明け渡した。代打での打率は.304を記録し、中盤からは代打の切り札的存在として活躍。90試合で3割を切る打率で、2本塁打に終わったが、意表を突くバント安打も幾度か成功させるなど代打要員として新たな境地を築いた1年だったが、オフの契約更改では70%ダウンの年俸3000万で更改となった。会見では「税金のこともあるし、これからは缶コーヒー1本買うのにも気をつけなくてはいけない」と冗談を発した[13]

2009年ダン・ジョンソンが一塁で起用されていたため、前年に続いて主に代打の切り札として使われていたが、ジョンソンの不振により交流戦以降は一塁で出ることが多くなった。7月15日には3年ぶりの盗塁をホームスチールで飾り、横浜の2年ぶりの4連勝を演出した。8月9日の対中日戦では中田賢一から通算150本塁打を達成。規定打席には届かなかったが、代打の切り札から「5番・一塁手」のレギュラーに復帰し、2年ぶりの100試合出場・2桁本塁打を記録した。

2010年はチームが世代交代をする中で、開幕前からチャンスを与えられず二軍で過ごす時間が多かった[14]。結局、10試合の出場にとどまり、9月10日には球団側から戦力外通告を受けた。それまでの歯に衣を着せぬ発言で球団フロントとの対立は頂点に達しており、球団幹部はこの日の会談で、佐伯をコーチとして残す考えもないことと、解説者など外部での経験を積んでも将来的に横浜のユニホームを着られる保証はないことなど、球団からの事実上の永久追放を通告した[15]

中日時代

2010年11月14日に韓国球団からコーチ兼任で契約の打診はあったが[16]、それを断り、15日に中日ドラゴンズに移籍した[17]

2011年は開幕から代打で起用されるも1か月以上が経過して13打数0安打と結果が残せなかったが、5月20日の対西武戦で移籍後初のスタメン出場を果たし、逆転2点適時打を含む4安打を打ちチームの逆転勝利に貢献した。41歳としての4安打は球団史上初の記録であった[18]。また、この年には当時の球団の三塁打及び本塁打の最年長記録を更新した(後に、山崎武司がこの記録を更新)。しかし、64試合の出場で打率.202、1本塁打、6打点に終わるなどシーズンを通しての活躍はできず、11月11日に前年に続き、二度目の戦力外通告を受けたが、その後もソフトバンクとの日本シリーズ終了まではチームに帯同した。12月2日に自由契約公示された[19]

中日退団後

中日を自由契約となった後はプロ・アマ含めいずれのチームとの契約はなかったものの、テレビ番組に出演した際に「引退ではない」と語るなど、現役続行の道を模索して浪人生活を続けていた。

中日退団から1年近く経った2012年10月にロッテから入団テストのオファーを受け、11月の秋季キャンプにおいてテストを受けたものの、不合格に終わる[20]。その後、21日の12球団合同トライアウト鎌ケ谷ファイターズ鎌ケ谷スタジアム)にも参加したが、どの球団からも獲得のオファーがなく、2013年2月3日に現役引退を表明[21]。引退にあたり、「結果には後悔ばかりだが、結果を残すためにやってきたことに後悔はない」とのコメントを残している[21]

現役引退後

2014年から中日へ復帰すると、現役時代の同僚だった監督・谷繁元信の下で、中日二軍監督兼打撃コーチを務めた[22]

2015年には二軍監督へ専念した。

2016年に一軍守備コーチを務めたが、最下位に低迷し、8月9日付で谷繁と共に休養。事実上の解任のため、シーズン終了後に退団。なお、本人曰く「谷繁をいつか優勝させたい」との理由から、退団後も谷繁を「監督」と呼んでいる。

2017年以降はTBSチャンネルテレビ神奈川DAZNの野球解説者を務めている。

選手としての特徴・人物

勝負強い打撃で「マシンガン打線」の一角を担い、1998年の横浜ベイスターズの日本一に貢献した中距離打者[23][24]。その後も4番を任されるなど長きにわたりチームを支えた[25]

横浜に入団後、巨人に同期入団した松井秀喜の向こうを張って、自ら松井の愛称「ゴジラ」から由来する「メカゴジラ」という愛称を名づけ、ヘルメットに"MECHA"と書かれたシールを貼り付けていた。しかし、ファンにはあまり浸透しなかった(チームメイトからは「メカ」と呼ばれている)[26]

練習の虫であり、毎朝6時には球場入りし、トレーニングを欠かさなかった[27]。ベテラン選手になっても、試合では誰よりも率先して声を出し、二軍では打席を終えた後輩のバットを拾いに行っていた[27]

横浜時代はチームマスコットのブラックホッシーや阪神タイガースのマスコットであるトラッキーにプロレス技の"ジャイアントスイング"をかけるパフォーマンスを行ってファンを沸かせた[28]

現役時代は横浜市の社会福祉協議会を通じて、母子支援施設や一人親家庭にシーズンシートを寄付し横浜スタジアムに招待していた[29][30]。佐伯自身も幼い頃に父を亡くし、一人親家庭で育っている[3]

横浜スタジアムで試合前の練習中にファンの少年から「今日打ってよ」と声をかけられ、佐伯はその少年に「(今日)打つから見ておけ」と言い、その日試合で代打出場。有言実行となるフェンス直撃のタイムリーツーベースを放って少年を喜ばせた。なお、その少年は後にプロ入りし、チームメイトになる内藤雄太であった[31]

子どもの頃から大の鉄道ファン撮り鉄)で、中でも近鉄電車が大好きだった[7]。また、プロ野球は近鉄バファローズの大ファンで、その他にも子どものころは阪神タイガースと、野球を始めるきっかけをくれた友人がファンだった広島東洋カープを応援していた[7]

指揮者の西本智実とは小学校の同級生で、佐伯が生徒会長で西本が副会長を務めていた[32][33]

お笑い芸人の山崎まさやとは親交があり、お互いを「山ちゃん」、「メカちゃん」と呼び合う仲である。またその縁で、山崎が司会を務めるTV番組「今夜もドル箱」にゲスト出演することもあった。山崎は佐伯を「野球に対して、いつも真面目でストイック。空気を大事にしていてやるときはやる。ふざける時はふざける。けじめのある人」とブログで語っている[34]

これまでに2001年、2010年と二度の車上荒らしに遭い、愛車のタイヤとホイールを盗まれた経験がある[35]。2001年の車上荒らしは、4月13日の巨人戦で清原和博相手に隠し球を仕掛け、「卑怯な手でやりたくなかったが、どうしても勝ちたかった」と言い訳した3日後の出来事だったため、「怒ったファンが報復したのでは」という声も挙がった[36]

詳細情報

年度別打撃成績

















































O
P
S
1993 横浜 55 146 131 5 26 4 1 2 38 12 1 2 1 0 12 1 2 27 2 .198 .276 .290 .566
1994 107 318 283 31 73 20 0 11 126 44 3 0 0 2 30 1 3 59 7 .258 .333 .445 .779
1995 103 246 212 27 56 17 1 7 96 29 0 1 2 2 29 2 1 45 1 .264 .352 .453 .805
1996 114 438 390 49 113 23 5 6 164 59 3 4 6 7 33 3 2 55 11 .290 .343 .421 .763
1997 106 303 265 20 69 12 1 4 95 25 6 2 5 2 29 1 2 62 5 .260 .336 .358 .694
1998 108 341 304 44 88 20 2 9 139 55 1 2 2 2 31 1 2 54 2 .289 .357 .457 .814
1999 112 401 363 49 112 17 1 10 161 53 1 2 0 3 34 1 1 49 7 .309 .367 .444 .810
2000 122 486 440 46 114 23 0 6 155 52 2 2 1 1 41 3 3 69 7 .259 .326 .352 .678
2001 140 555 490 58 148 18 2 14 212 73 11 7 12 3 46 1 4 73 12 .302 .365 .433 .797
2002 62 225 209 15 62 11 0 2 79 23 4 2 3 1 11 1 1 36 6 .297 .333 .378 .711
2003 104 287 268 24 73 12 1 11 120 41 1 3 0 2 14 0 3 64 1 .272 .314 .448 .761
2004 127 511 463 63 149 16 2 19 226 57 2 4 3 3 39 0 3 100 12 .322 .376 .488 .864
2005 146 640 578 74 157 28 2 19 246 88 5 3 0 2 57 1 3 119 18 .272 .339 .426 .765
2006 86 343 307 25 69 13 0 5 97 37 1 2 2 1 27 1 5 78 6 .225 .297 .316 .613
2007 125 447 404 49 122 25 3 16 201 67 0 1 4 2 34 0 3 54 8 .302 .359 .498 .856
2008 90 208 186 14 50 11 0 2 67 19 0 0 7 1 13 0 1 30 2 .269 .318 .360 .679
2009 114 402 361 32 93 16 0 12 145 55 1 1 0 3 35 0 3 90 9 .258 .326 .402 .728
2010 10 10 9 0 1 0 0 0 1 0 0 0 0 0 1 0 0 0 0 .111 .200 .111 .311
2011 中日 64 118 109 4 22 4 1 1 31 6 0 0 3 0 5 0 1 22 3 .202 .243 .284 .528
通算:19年 1895 6425 5772 629 1597 290 22 156 2399 795 42 38 51 37 521 17 43 1086 119 .277 .339 .416 .755
  • 各年度の太字はリーグ最高

年度別守備成績


一塁 外野
試合 刺殺 補殺 失策 併殺 守備率 試合 刺殺 補殺 失策 併殺 守備率
1993 3 10 1 0 3 1.000 46 44 0 2 0 .957
1994 - 87 106 2 4 0 .964
1995 - 58 80 1 2 0 .976
1996 - 105 184 5 2 2 .990
1997 - 81 125 4 0 0 1.000
1998 - 87 154 1 4 0 .975
1999 6 53 4 0 2 1.000 94 165 7 1 2 .994
2000 66 519 33 6 42 .989 60 94 4 1 1 .990
2001 114 724 51 6 64 .992 59 90 2 0 0 1.000
2002 55 415 40 5 26 .989 -
2003 47 227 14 1 19 .996 47 55 0 0 0 1.000
2004 53 131 8 1 10 .993 106 140 4 2 0 .986
2005 146 1272 72 6 111 .996 -
2006 82 702 28 4 62 .995 -
2007 7 49 5 0 1 1.000 91 122 4 2 0 .984
2008 30 222 14 2 18 .992 17 20 1 0 0 1.000
2009 99 835 63 9 69 .990 -
2011 22 167 14 1 17 .995 -
通算 730 5326 347 41 444 .993 938 1379 35 20 5 .986
  • 2010年は守備機会なし

表彰

記録

初記録
節目の記録
その他の記録

背番号

  • 26 (1993年 - 2000年、2007年 - 2010年)
  • 10 (2001年 - 2006年)
  • 7 (2011年)
  • 72 (2014年 - 2016年)

登場曲

『Jump Around』 / House Of Pain

脚注

注釈

  1. ^ 横浜スタジアムで開催されるのを受けての組織票が投票された。

出典

  1. ^ プロ野球人名事典 2003(2003年、日外アソシエーツ)、239ページ
  2. ^ a b c 愛称「メカ」佐伯貴弘登場!ベイスターズ日本一に貢献!甲子園時代はどんな選手だった?”. YouTube プロ野球OBクラブチャンネル (2021年12月25日). 2021年12月25日閲覧。
  3. ^ a b クビになっても佐伯貴弘が毎朝6時にグラウンドに現れたワケ”. WEDGE Infinity (2017年6月27日). 2021年12月24日閲覧。
  4. ^ 『シリーズにっぽんの高校野球 vol.6 四国編』(ベースボール・マガジン社) 38頁。ISBN 978-4-583-61544-8
  5. ^ a b 『プロ野球カラー名鑑 2011』(ベースボール・マガジン社) 177頁。ISBN 978-4-583-61763-3
  6. ^ 「朝日新聞」1992年12月13日付朝刊 14版、25面
  7. ^ a b c 【金村義明さんや中根さんは…】野次じゃないですよ!応援です。近鉄話から大谷翔平話、ベイスターズ1年目話まで盛り上がります”. YouTube プロ野球OBクラブチャンネル (2021年12月27日). 2022年1月30日閲覧。
  8. ^ 週刊ベースボールより。
  9. ^ マシンガン炸裂!MKT砲に打ち勝ち34年ぶり首位折り返し
  10. ^ 年度別成績 2001年 セントラル・リーグ
  11. ^ 年度別成績 2004年 セントラル・リーグ
  12. ^ こんなことって…佐伯貴弘“初体験”のサヨナラ勝ち
  13. ^ 缶コーヒーも買えない?佐伯70%減
  14. ^ 私はこうしてプロ野球をクビになった (4/6)”. It Media (2019年1月31日). 2019年2月3日閲覧。
  15. ^ 横浜一筋18年佐伯戦力外今季10戦1安打
  16. ^ 佐伯、万感「すべてが思い出」 - 2010年11月14日
  17. ^ ドラゴンズニュース
  18. ^ 中日ミラクル逆転!主役は「41歳のおっさん」 スポーツニッポン 2011年5月21日付記事。1試合4安打は自身として2007年以来である。
  19. ^ 2011年度 自由契約選手
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関連項目

外部リンク