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「鎌倉大地震」の版間の差分

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'''鎌倉大地震'''(かまくらだいじしん)とは、[[正応]]6年[[4月12日 (旧暦)|4月12日]]([[ユリウス暦]][[1293年]][[5月19日]], 以下の西暦換算はユリウス暦)以降に[[関東地方]]南部に被害をもたらした[[地震]]。[[震源域]]は鎌倉周辺、規模はM7以上と推定される。'''永仁の[[関東地震]]'''、'''鎌倉強震地震'''、'''永仁鎌倉地震'''、'''建長寺地震'''などさまざまな名で呼ばれている。



2023年5月17日 (水) 04:43時点における版

鎌倉大地震の位置(日本内)
鎌倉大地震
震央の位置

座標: 北緯35度12分 東経139度24分 / 北緯35.2度 東経139.4度 / 35.2; 139.4 鎌倉大地震(かまくらだいじしん)とは、正応6年4月12日ユリウス暦1293年5月19日, 以下の西暦換算はユリウス暦)以降に関東地方南部に被害をもたらした地震震源域は鎌倉周辺、規模はM7以上と推定される。永仁の関東地震鎌倉強震地震永仁鎌倉地震建長寺地震などさまざまな名で呼ばれている。

概要

正応6年4月12日(1293年5月19日)、関東地方南部で地震が発生。建長寺を代表として多数の神社仏閣が倒壊し、多数の死者が発生した。『鎌倉大日記』では、翌日にも余震と思われる地震の記述が残されており、建造物の倒壊のほか多数の土砂災害などが発生、23,034人もの死者が発生したとされている(『武家年代記裏書』)。また、この震災による混乱を契機とし、鎌倉幕府執権北条貞時は、当時幕府内で専横を振るっていた平頼綱(杲円)邸への襲撃を命令し、頼綱父子の討伐に成功した(平禅門の乱)。朝廷では、地震の発生や、この後(6月から8月)発生した干魃等を重視し、同年8月5日(9月6日)に永仁への改元を行っている[1]

平成20年(2008年)、東京大学地震研究所では、三浦半島小網代湾の堆積物に着目、分析を進めた結果、13世紀頃に発生したと推定される大津波の痕跡を見いだしている[2][3]

この地震の約36年前の正嘉元年8月23日(1257年10月2日)にも関東地方南部に被害をもたらせた正嘉鎌倉地震(M7.0 - 7.5)が発生している。

プレート間の相対速度と、100%に近いと考えられるプレート間の地震滑り率から、相模トラフ沿いではプレート間巨大地震の再来間隔を200-300年程度と考えるのが自然である。しかし、歴史記録上では1923年関東地震と1703年元禄地震以前のプレート間巨大地震が知られていなかった。一方、中世には1241年、1257年、1293年、1433年などM7クラスとされてきた鎌倉付近に被害をもたらした地震がいくつか知られている。これらの内どれかが相模トラフ沿いの巨大地震だった可能性はある。本地震に津波の記載は確認できていないが、『親玄僧正日記』にある由比ヶ浜の鳥居付近で140人もの死体が転がっていた記述は津波による可能性もあり、本地震は相模トラフ沿いの巨大地震の有力な検討候補とされる[4]

2014年、内閣府の地震調査委員会は、M8クラスの相模トラフ地震と評価している[5]。しかし、本地震は相模トラフ巨大地震の有力候補[4]とはされるものの、地震調査委員会は歴史地震学的な検討を充分に行わず本地震をM8級の相模トラフ沿いのプレート間地震と認定したが、1257年の正嘉鎌倉地震もセットで再検討したうえで結論を出す必要があるとされる[6]

2015年4月に政府の地震調査委員会は評価を変更し、相模トラフと分岐断層である国府津(こうづ)-松田断層帯が連動して地震が起こったとした[7]

地震の記録が登場する文献等

『鎌倉大日記』には、正応5年4月12日と正応6年4月12日の両方の日付の地震が記されているが、正応5年の記事は年号の誤りと考えられている[8]。一方、『親玄僧正日記』(『醍醐寺日記』)は、地震の日付を正応6年4月13日刻(午前6時頃)、『北條九代記』は、正応6年4月13日刻(午前4時頃)としている[9]。当時は一日の境界を夜明け前とすることが多く厳密でなかったため、今日では「十三日午前4時」だが、当時は「十二日夜寅刻」といった表記もありうる[10]

備考

  • 鎌倉建長寺は倒壊後に炎上、由比ヶ浜の鳥居付近では140人もの死体が転がり、幾千もの死者が出たと『親玄僧正日記』に記される。『武家年代記裏書』には大慈寺が倒壊したことが記される。
  • 峰岸純夫は『中世 災害・戦乱の社会史』15項において、直下型地震で極浅、震源地は相模陸地の丹沢付近かと記しており、推定マグニチュードは7.1としている。

脚注

参考文献

  • 国立天文台 編『理科年表 平成20年丸善、2007年11月。ISBN 978-4-621-07902-7http://www.rikanenpyo.jp/ 
  • 峰岸純夫『中世 災害・戦乱の社会史』吉川弘文館、2011年6月。ISBN 978-4-642-06372-2 
  • 武者金吉 編『大日本地震史料 増訂 第一巻 自懿徳天皇御宇至元祿七年』文部省震災予防評議会、1941年https://iss.ndl.go.jp/books/R100000001-I069225788-00 
  • 宇津徳治ほか 編『地震の事典』(第2版)朝倉書店、2001年。ISBN 978-4-2541-6039-0 

関連項目