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* 『井上栄一博士業績目録』農業技術研究所気象科[編]、[[農業環境技術研究所|農業技術研究所]]、1977年。
* 『井上栄一博士業績目録』農業技術研究所気象科[編]、[[農業環境技術研究所|農業技術研究所]]、1977年。
* 「私の農業気象遍歴」『農業氣象』第49巻特別号、5頁、井上栄一[著]、[[日本農業気象学会]]、1993年。
* 「私の農業気象遍歴」『農業氣象』第49巻特別号、5頁、井上栄一[著]、[[日本農業気象学会]]、1993年。
* 「{{PDFlink|[https://www.metsoc.jp/tenki/pdf/1989/1989_05_0323.pdf L. プラントルさんとG. I. テイラーさんのこと]}}」『天気』第36巻第5号、323-324頁、井上栄一[著]、[[近藤純正]][[https://www.asahi-net.or.jp/~rk7j-kndu/kenkyu/ke214.html 加筆]]、[[日本気象学会]]、1989年。
* 「{{PDFlink|[https://www.metsoc.jp/tenki/pdf/1989/1989_05_0323.pdf L. プラントルさんとG. I. テイラーさんのこと]}}」『天気』第36巻第5号、323-324頁、井上栄一[著]、[[近藤純正]][https://www.asahi-net.or.jp/~rk7j-kndu/kenkyu/ke214.html 加筆]、[[日本気象学会]]、1989年。
* 「[https://doi.org/10.5359/jawe.1984.21_95 風研究の三十年 (III)]」『日本風工学会誌』第21号、95-102頁、井上栄一[著]、[[日本風工学会]]、1984年。
* 「[https://doi.org/10.5359/jawe.1984.21_95 風研究の三十年 (III)]」『日本風工学会誌』第21号、95-102頁、井上栄一[著]、[[日本風工学会]]、1984年。
* 「[https://doi.org/10.5359/jawe.2007.97 風の計測]」『日本風工学会誌』第32巻第2号、97-98頁、[[内藤玄一]][著]、日本風工学会、2007年。
* 「[https://doi.org/10.5359/jawe.2007.97 風の計測]」『日本風工学会誌』第32巻第2号、97-98頁、[[内藤玄一]][著]、日本風工学会、2007年。

2023年1月11日 (水) 01:11時点における版

井上 栄一(いのうえ えいいち、1917年大正6年)1月1日 - 1993年平成5年)3月3日)は、日本農林技官気象学者、農業気象学者、微気象学者。理学博士。元農林省農業技術研究所物理統計部気象科科長。日本農業気象学会名誉会員。

略歴

新潟県新潟市出身[1][2][3]新潟尋常小学校を経て[3]1934年昭和9年)3月に新潟中学校を卒業、1937年(昭和12年)3月に第一高等学校を卒業、1941年(昭和16年)3月に東京帝国大学工学部航空学科を卒業[2][4][注 1]

1941年(昭和16年)4月に陸軍航空技術学校に入校、軍曹に任官、6月に見習士官に任官、8月に陸軍技術中尉に任官、陸軍航空本部に配属[4][5]

航空技術将校として、太平洋戦争の戦地や大日本帝国軍の占領地に出向き、そこに残された戦闘機スーパーマリン スピットファイアや戦闘機P-40 キティホークなどの敵国の航空機や文書などを調査した[5]

奥田教久亘理厚とともに、撃墜したアメリカ軍の航空機の搭乗員を尋問したり、東京大学航空研究所糸川英夫[注 2]と話をしたりして、大型戦略爆撃機B-29などのアメリカ軍やイギリス軍の未見の新型航空機の性能を計算して推定した[6]

1945年(昭和20年)8月15日に太平洋戦争が終戦、最終階級は陸軍技術大尉[4][7]朝日新聞社の航空雑誌『航空朝日』に記事を執筆していた縁で、奥田教久とともに朝日新聞社の学芸部に科学記者として入社[8]

1946年(昭和21年)5月から1951年(昭和26年)5月まで東京大学理学部大学院地球物理学教室の気象学研究室で正野重方のもとで小倉義光岸保勘三郎とともに研究[4][9]

1947年(昭和22年)2月から1952年(昭和27年)2月まで東京大学理工学研究所[注 3]河田三治研究室で研究生として河村龍馬竹山寿夫内田茂男小口伯郎とともに研究[10][11]

1951年(昭和26年)5月に農林省農業技術研究所物理統計部気象科物理第二研究室室長に就任[10][12][13]、1952年(昭和27年)10月に東京大学から理学博士号を取得[10]

1954年(昭和29年)に小倉義光とともに「大気乱流の研究」で第1回日本気象学会賞を受賞[14]1962年(昭和37年)に「穂波に関する研究」で第10回日本農業気象学会賞を受賞[15]

1966年(昭和41年)4月に農林省農業技術研究所物理統計部気象科科長に就任[10][16]1970年(昭和45年)6月に農林省農業技術研究所物理統計部気象科主任研究官に就任[1][17][注 4]

1973年(昭和48年)1月に発行の日本農業気象学会の学術誌『農業氣象』第28巻第3号で "Aerobiology"「空中生物学」を日本で最初に紹介した[18][19][注 5]

1977年(昭和52年)7月に農林省農業技術研究所を退官[10][21]

農業気象研究の近代化に大きな業績を上げ、日本における農業気象学の知名度を世界的に高めた[4][22]

表彰

著書

  • 『流れと渦』目黒書店、1948年。

論文

脚注

注釈

  1. ^ 1938年昭和13年)4月に東京帝国大学工学部航空学科に入学。
  2. ^ 大日本帝国陸軍の戦闘機や爆撃機などを設計。のちに「日本の宇宙開発・ロケット開発の父」と呼ばれる。
  3. ^ 太平洋戦争後、航空研究は禁止のため、1946年(昭和21年)3月に東京大学航空研究所東京大学理工学研究所に改組。
  4. ^ 管理職は予算のことや人事のことで忙しいという理由で気象科科長から主任研究官に希望降任[17]
  5. ^ 1971年(昭和46年)10月に開催の日本気象学会秋季大会と1972年(昭和47年)6月に発行の日本農芸化学会の学術誌『化学と生物』第10巻第6号で既に紹介している[20]

出典

  1. ^ a b 農業氣象』第49巻第1号、巻頭。
  2. ^ a b 日本風工学会誌』第19号、84頁。
  3. ^ a b 青山同窓会報』第33号、3面。
  4. ^ a b c d e 天気』第40巻第9号、709頁。『農業氣象』第49巻第1号、巻頭。
  5. ^ a b 日本風工学会誌』第19号、85頁。
  6. ^ 日本風工学会誌』第19号、85-86頁。『零戦燃ゆ 熱闘篇』530-538頁。
  7. ^ 日本風工学会誌』第19号、86頁。『終戦時 帝國陸軍全現役将校職務名鑑』244頁。
  8. ^ 日本風工学会誌』第19号、86頁。
  9. ^ 日本風工学会誌』第19号、87頁。『ながれ』第20巻第6号、453頁。
  10. ^ a b c d e 天気』第40巻第9号、710頁。『農業氣象』第49巻第1号、巻頭。
  11. ^ 日本風工学会誌』第19号、88頁。
  12. ^ 日本風工学会誌』第19号、89頁。
  13. ^ 日本風工学会誌』第21号、87・92頁。
  14. ^ a b 日本気象学会賞 歴代受賞者一覧 | 公益社団法人 日本気象学会
  15. ^ a b 日本農業気象学会賞 受賞者一覧 (PDF)日本農業気象学会
  16. ^ 日本風工学会誌』第22号、48・50頁。
  17. ^ a b 日本風工学会誌』第22号、50頁。
  18. ^ Kawashima 2004, p. 2.
  19. ^ 農業氣象』第28巻第3号、193-194頁。
  20. ^ 天気』第18巻第8号、438-439頁。『化学と生物』第10巻第6号、414頁。
  21. ^ 日本風工学会誌』第21号、92頁。『日本風工学会誌』第23号、57頁。
  22. ^ 論文紹介: 穂波に見る大気の乱流 - 伊川浩樹 - 農業環境技術研究所

参考文献

関連文献