「ベルリン封鎖」の版間の差分
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[[ファイル:C-54landingattemplehof.jpg|thumb|right|250px|西ベルリンの[[ベルリン・テンペルホーフ国際空港|テンペルホーフ空港]]に物資を空輸してきた[[ダグラス DC-4#C-54/R5Dとして就航|C-54輸送機]]を見上げるベルリン市民]] |
[[ファイル:C-54landingattemplehof.jpg|thumb|right|250px|西ベルリンの[[ベルリン・テンペルホーフ国際空港|テンペルホーフ空港]]に物資を空輸してきた[[ダグラス DC-4#C-54/R5Dとして就航|C-54輸送機]]を見上げるベルリン市民]] |
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'''ベルリン封鎖'''(ベルリンふうさ、{{Lang-de|Berlin |
'''ベルリン封鎖'''(ベルリンふうさ、{{Lang-de|Berlin-Blockade}})は、[[第二次世界大戦]]終結後の[[1948年]]6月、[[クレムリン|ソビエト連邦政府]]が、[[西ドイツ]]の[[西ベルリン]]に向かう全ての鉄道と道路を[[封鎖]]した事件である。[[冷戦]]初期を象徴する出来事である。 |
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== 背景 == |
== 背景 == |
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[[ファイル:Map-Germany-1947.svg|thumb|right|250px|連合国各国に分割占領されたドイツ]] |
[[ファイル:Map-Germany-1947.svg|thumb|right|250px|連合国各国に分割占領されたドイツ]] |
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[[ファイル:Berlin Blockade-map.svg|thumb|right|250px|[[ソ連占領地域]]内にある首都ベルリンは、別途4か国で分割占領された]] |
[[ファイル:Berlin Blockade-map.svg|thumb|right|250px|[[ソ連占領地域]]内にある首都ベルリンは、別途4か国で分割占領された]] |
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1945年7月17日から8月2日まで、戦勝国は戦後ヨーロッパの構想を[[ポツダム協定]]に基づいて、[[オーデル・ナイセ線]]の西側を4つに分割し、4か国で臨時統治することを決めた。その4カ国とは、アメリカ、イギリス、フランス、そしてソ連であった。これらの支配地域は都市の場所ではなく、戦勝国の軍の現在位置によって、大まかに決められた<ref name="miller4">{{Harvnb|Miller|2000|p=4}}</ref>。連合国統治評議委員会はベルリンについても、同様に4つに分割されることになり、160 平方キロメートルがソ連統治下に収まった。アメリカ、イギリス、フランスは都市の西側を統治下においた<ref name="miller4">{{Harvnb|Miller|2000|p=4}}</ref>。 |
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第二次世界大戦の戦局が[[連合国 (第二次世界大戦)|連合国軍]]に優勢になると、連合国では戦後処理に関する協議が開始された。[[1943年]]10月には[[モスクワ]]で[[大英帝国|英]][[アメリカ合衆国|米]][[ソビエト連邦|ソ]]の3か国による戦後処理についての外相会談([[:En:Moscow Conference (1943)|モスクワ会談:en]])が行われ、[[ドイツ]]の無条件降伏と[[国家社会主義ドイツ労働者党|ナチス政権]]の潰滅、3か国による暫定分割統治、復興協議機関としてのFACの設立などが合意事項として決定され、[[テヘラン会談]]で具体的なガイドラインが定められた。 |
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東側はソ連が[[ドイツ共産党|共産党]](KPD)と[[ドイツ社会民主党|社会民主党]](SPD)を統合し、[[ドイツ社会主義統一党]](SED)を結成させ、SEDはマルクス・レーニン主義であって、ソ連の傀儡ではないと主張した<ref name="wettig96">{{Harvnb|Wettig|2008|pp=96–100}}</ref>。SEDの指導者たちは反ファシスト且つ民主主義政権、議会制民主主義の確立を要望していたものの、ソ連軍政はその他全ての政治活動を抑圧した<ref name="miller11">{{Harvnb|Miller|2000|p=11}}</ref>。また、ドイツの工場、設備、技術者、経営階層や、熟練工員はソ連へと接収された<ref name="miller12">{{Harvnb|Miller|2000|p=12}}</ref>。 |
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[[1944年]]1月の第一回FAC会議で、イギリスの[[クレメント・アトリー]]副首相からドイツ領土、および特別地域として扱われた首都[[ベルリン]]の共同統治案が出され、承認されたのち9月に調印される。[[1944年]]には共同統治機関として、軍政司令部や管理理事会が設立された。1945年に入って[[フランス]]が解放されると、共同統治国にはフランスが加えられて4か国になった。 |
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1945年6月の会合で、スターリンはドイツの共産主義の指導者たちに、支配地域内のイギリスを徐々に弱体化させていき、アメリカは1年~2年以内には撤収し、影響力が無くなるだろうと語った。これによりソ連による共産主義支配が進み<ref name="miller13">{{Harvnb|Miller|2000|p=13}}</ref>、スターリンらは1946年初めに、ブルガリアとユーゴスラヴィアの代表団を訪れ、ドイツはソ連側に置かなければならないと語った<ref name="miller13"/>。 |
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=== 東西両陣営の対立 === |
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[[1945年]][[4月30日]]、ドイツでは総統[[アドルフ・ヒトラー]]が[[アドルフ・ヒトラーの死|自殺]]し、[[5月7日]]にはドイツは連合国に無条件降伏した。先立ってソ連軍が占領状態に置いていたベルリンには各国の駐留軍が進駐するが、[[独ソ戦]]の賠償や自国の支配圏の拡大を望むソ連政府は、西側の進駐を妨害するなど非協力的で、西ベルリン地域ではソ連の秘密工作や不法行為も起こっていた。東ベルリンはソ連、西ベルリンは米英仏の3か国が統治し、実質的に2分割された。西ベルリンの周囲は全てソ連統治下のため[[飛地]]状態となった。 |
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ベルリン封鎖に至った要因としては、ベルリンへと至る道路や鉄道について、公式協定が無かったことがあげられる。戦争終了時点で、西側指導者はソ連の良識に任せてしまっていた<ref name="miller6">{{Harvnb|Miller|2000|p=6}}</ref>。その時点では、西側はソ連が列車を1日に1線路10便に制限したのは一時的なものだろうと考えていたが、後に、ソ連側は輸送路の拡張には拒絶の意を示した<ref name="miller7">{{Harvnb|Miller|2000|p=7}}</ref>。 |
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賠償問題を巡り、7月の[[ポツダム会談]]を最後に米ソ両国が相互不信となると、共同統治は米英仏の西側諸国と、それに対するソ連との間における対立を生じ、ベルリン市内の東西境界地域は緊張することになった。ドイツの新政府樹立がフランスの拒絶で頓挫すると、アメリカは世界政策として[[共産主義]]勢力の封じ込め([[トルーマン・ドクトリン]])を掲げ、[[1947年]]6月には[[ジョージ・マーシャル]]国務長官がヨーロッパへの経済支援([[マーシャル・プラン]])を発表し、イギリスとフランス(そして西ドイツ)などによる親米国家群による対ソ共同戦線を構想した。これにソ連の[[ヨシフ・スターリン]]は、共産主義国家の連帯組織として[[コミンフォルム]]を結成して対抗した。 |
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ソ連はベルリンへの空路は[[ハンブルク]]、[[ビュッケブルク]]、そして[[フランクフルト・アム・マイン|フランクフルト]]のみに限定していた<ref name="miller7"/>。1946年、ソ連軍は農作物の配送をストップさせ、アメリカ軍司令官[[ルシウス・D・クレイ]]は西ドイツからソ連への解体した工業製品の輸送を止めることで応酬した。ソ連はこの措置に対して、アメリカの政策に反対するキャンペーンを行ない、占領下の行政活動を妨げる措置をとった。 |
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1948年にベルリン封鎖が始まるまで、トルーマンは1949年に予定していた西ドイツ政府の設立後も、アメリカ軍を西ベルリンに駐留させるべきか決めかねていた<ref>Larson (2011)</ref>。 |
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=== 1946年の選挙とベルリン === |
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ベルリンは間もなく、アメリカとソ連のヨーロッパ再興の思惑が交錯する中心地点となった。ソ連の外務大臣、[[ヴャチェスラフ・モロトフ]]はこう記している。「ベルリンで起きることは、ドイツに影響する。ドイツで起きることはベルリンに影響する」<ref name=truback>''Airbridge to Berlin'', "Background on Conflict" chapter</ref>。ベルリンは戦争によりかなりの損害を受けていた。戦争前は430万の人口を誇っていたが、戦後は280万に減っていた。 |
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1945年から1946年にかけて、ソ連領内のドイツ人は強制移住や、政治的抑圧、厳寒を耐え忍び、ソ連に対して、敵意を感じていた<ref name="miller13"/>。1946年の{{仮リンク|1946年ソ連占領地区州議会選挙|label=州議会選挙|de|Landtagswahlen in der SBZ 1946}}・{{仮リンク|1946年ベルリン市議会選挙|label=大ベルリン(東西両地区)の市議会選挙|de|Wahl zur Stadtverordnetenversammlung von Groß-Berlin 1946}}の結果は、特にソ連支配下のベルリンにおいては反共産主義の抗議を表した投票結果となった<ref <ref name="miller13"/>。ベルリン市民は非共産主義者に投票していた<ref group="注釈">西側の社会民主党(当時は東ベルリンでの活動も許されていた)が第一党、[[ドイツキリスト教民主同盟]]が第二党となり、社会主義統一党は第三党にとどまった。</ref>。 |
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== 政治的地域分布 == |
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=== 西ドイツ移行への動き === |
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アメリカはドイツがソ連支配下に落ちてしまうのは避けられないだろうと見ており、アメリカ大使[[ウォルター・ベデル・スミス]]は[[アイゼンハワー]]に対して「我々の要求事項をソ連の意に添うような妥協した条件で、ソ連からの合意を引き出した結果のドイツ統一は望んでもいないし受け入れない」といった。アメリカ側は極秘裏に西ヨーロッパの経済を再興するために、ドイツを取り込む必要があった<ref>{{Cite book|url=https://books.google.com/books?id=3Gzrfmkw80MC&pg=PA63|title=The Peace of Illusions: American Grand Strategy from 1940 to the Present|last=Layne|first=Christopher|date=2007|publisher=Cornell University Press|isbn=9780801474118|pages=63–67|language=en}}</ref>。 |
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[[ベネルクス三国]]の代表者は1948年前半に2度ロンドンで会合の場を持ち、そこでの決定によって、ソ連がどう出るかは別として、ドイツの今後について議論した<ref name="miller18">{{Harvnb|Miller|2000|p=18}}</ref><ref name="turner23">{{Harvnb|Turner|1987|p=23}}</ref>。結果的にはドイツ対外債務に関するロンドン協定はロンドン債務協定として知られるようになった。1953年の{{仮リンク|ロンドン債務協定|en|London Agreement on German External Debts}}に基づいて、ドイツの賠償金は50 %減の150億マルクに減らされ、支払期限は30年延長され、急速に再興するドイツ経済へのインパクトは軽微であった<ref>Timothy W. Guinnane, "[http://ssrn.com/abstract=493802 Financial Vergangenheitsbewältigung: The 1953 London Debt Agreement]" (Economic Growth Center, Yale University, 2004) pp. 17, 20–21, 27–28, 30</ref>。 |
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この会議の声明に対して、1948年1月下旬、ソ連はベルリンへと運行しているイギリスとアメリカの列車の乗客に対して身分証の提示を求めるために停車させるといったことを始めた<ref name="miller20">{{Harvnb|Miller|2000|p=20}}</ref>。1948年3月7日に、マーシャルプランの延長が決まり、西側諸国のドイツの経済統合が決定し、連邦政府の設立が合意された<ref name="miller18"/><ref name="turner23"/>。 |
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3月9日に、スターリンとその軍事アドバイザーが会議を行ない、会議のメモを1948年3月12日に、モロトフに送付、メモの内容はベルリンへの通行を規制することで、西側の政策をソ連の意に沿うようにするというものだった<ref name="miller19">{{Harvnb|Miller|2000|p=19}}</ref>。連合国軍評議会は1948年3月20日に最後の会議を行ない、[[ワシーリー・ソコロフスキー]]がロンドン会議の結果の共有を要求し、ロンドン会議で交渉にあたった者からは最終結果はまだであるということを聞き、ソコロフスキーは「この会議の継続に意味を見出せないので、閉会を宣言する」と言った<ref name="miller19"/>。 |
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ソ連代表団は立ち上がり、退場した。トルーマンは後に「ドイツの大部分に関しては、以前からそうだったが、4か国による統治が決定的に機能不全となってしまった。ベルリン市にとっては、とてつもない危機になってしまった」<ref name=trueye>''Airbridge to Berlin'', "Eye of the Storm" chapter</ref>と述べている。 |
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== 4月危機と少量空輸 == |
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1948年3月25日、ソ連はアメリカ、イギリス、フランスの占領下にあるドイツとベルリンの軍隊と乗客の往来を制限する命令を発行した<ref name="miller20"/>。この新しい施策は4月1日に始まり、貨物はソ連側の許可なくして、ベルリンから運び出してはならないものだった。各々の列車とトラックはソ連当局のチェックを受けることになった<ref name="miller20"/>。4月2日には、クレイ将軍は全軍用列車の停止を命令し、駐屯部隊は飛行機で移動するよう命令を下し、これは『少量空輸』と呼ばれた<ref name="miller20"/>。 |
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ソ連は1948年4月10日、西側の軍用列車の往来の制限を緩和したものの、引き続き、75日間にわたって、一定周期で鉄道と道路網の妨害を続け、一方のアメリカは貨物輸送機で軍の派遣を続けた<ref name="miller26">{{Harvnb|Miller|2000|p=26}}</ref> 。6月には1日20回の飛行が行われ、ソ連の行動への備えとして、食料品を貯蔵していった<ref name="rgm15">{{harvnb|Miller|1998|p=15}}</ref>。ベルリン封鎖は6月の終わりに始まり、そのころには主な食料品については最低でも18日、物によってはそれ以上に供給されており、以後の空輸までの時間的余裕が構築できた<ref name="rgm2728">{{harvnb|Miller|1998|pp=27–28}}</ref>。 |
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同時に、ソ連軍の飛行機が西ベルリンの空域に侵入し、嫌がらせ行為をおこなった<ref name=times02debert>{{cite news | first=Delbert | last=Clarks | title=Clay Halts Trains | newspaper=[[The New York Times]] | date=2 April 1948 | page=1}}</ref>。4月9日には、ソ連空軍 Yak-3がイギリス空軍ガトゥー飛行場近くでブリティッシュ ヨーロピアン エアウェイズ ビッカース バイキング 1B 旅客機と衝突し、両方の飛行機の乗員が死亡した。この事件はソ連と西側の緊張を高める結果となった<ref name=pci>{{Cite web| publisher=PlaneCrashInfo.com | url=http://www.planecrashinfo.com/1948/1948-26.htm| title= Accident Details| access-date=27 October 2016}}</ref><ref name=asn>{{Cite web| url=http://aviation-safety.net/database/record.php?id=19480405-0&lang=en| title=Accident| access-date=27 October 2016}}</ref><ref name=times06details>{{cite news | first=Delbert | last=Clarks | title=Soviet-British Plane Collision Kills 15; Russian Apologizes | newspaper=[[The New York Times]] | date=6 April 1948 | page=1}}</ref>。 |
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4月のソ連内部の報告では、「我々が課した制限によって、ドイツにおけるアメリカとイギリスの威信にダメージを与えられた」としており、アメリカは空輸には高い犠牲を払うことになるだろうと認めたと報告している<ref name="miller23">{{Harvnb|Miller|2000|p=23}}</ref>。 |
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4月9日、ソ連はアメリカ軍の通信設備のメンテナンス人員の退去を求め、ビーコン装置の使用を阻み、空路の利用を困難にした<ref name="miller26"/>。4月20日、ソ連は、今度は船がソ連支配区域に入る際には入域許可が無ければならないということを要求した<ref name="miller27">{{Harvnb|Miller|2000|p=27}}</ref>。 |
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=== 通貨危機 === |
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西ドイツの安定的な経済の構築のために、[[ライヒスマルク]]の改革を必要としていた。ソ連は戦争中に価値の下がったライヒスマルクを、なおも刷り続けることでインフレを悪化させ、結果的にタバコが事実上の通貨として使われたり、あるいは物々交換で商取引を行なっていた<ref name= "miller31">{{Harvnb |Miller |2000 |p=31}}</ref><ref name= "turner24">{{Harvnb |Turner |1987 |p=24}}</ref>。ソ連は西側の改革には反対していた<ref name= "miller31"/><ref name= "turner24" />。新しい通貨の発行は不当で一方的であると主張し、西ベルリンと西ドイツの陸上交通の接続を全て切断した。ソ連はドイツの新しい通貨はソ連が発行する通貨が有効であると考えていた<ref name= "amandaplease21">{{Citation | last = Thody | first = Phillip Malcom Waller | chapter = Berlin Crisis of 1948–1949 and 1958–1962 | title = Europe since 1945 | place = London | publisher = Routledge | year = 2000}}. N. pag. Print.</ref>。 |
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非ソ連区域では、ソ連以外の国によって新通貨が導入されることが予期されたので、ソ連は1948年5月に軍を差し向け新しい通貨を導入し、ソ連支配下のベルリンではソ連以外の国による通貨の使用は認めないとした<ref name= "miller31" />。6月18日、アメリカ、イギリス、フランスは6月21日に、ドイツマルクを導入するとしたが、ソ連はベルリンにおいては法定通貨としては認めないとした<ref name= "miller31"/>。西側は既に2億5000万ドイツマルクをベルリン市に輸送しており、すぐにベルリンの基軸通貨となった。スターリンは西側がベルリンを放棄するように仕向けようとした。 |
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== 封鎖 == |
== 封鎖 == |
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[[ファイル:Potsdam big three.jpg|thumb|200px|ポツダム会談における[[クレメント・アトリー]]と[[ハリー・S・トルーマン]]、[[ヨシフ・スターリン]](左から)]] |
[[ファイル:Potsdam big three.jpg|thumb|200px|ポツダム会談における[[クレメント・アトリー]]と[[ハリー・S・トルーマン]]、[[ヨシフ・スターリン]](左から)]] |
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[[ファイル:BerlinerBlockadeLuftwege.png|thumb|220px|西側占領地域と西ベルリンを結ぶ航空路]] |
[[ファイル:BerlinerBlockadeLuftwege.png|thumb|220px|西側占領地域と西ベルリンを結ぶ航空路]] |
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1948年6月18日にドイツマルクの導入が発表された後、ソ連の警備兵はベルリンとつながっている全旅客列車と高速道路網を封鎖し、西側の航空貨物を遅延させ、水運もソ連側の特別な許可が無ければならないとした<ref name="miller31"/>。6月21日、ドイツマルクが発行され、ソ連軍はベルリンへと向かう軍用列車を停車させ、西ドイツへと送り返した<ref name="miller31"/>。6月22日、ソ連は東ドイツマルクを導入すると発表した<ref name="miller32"/>。 |
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[[1948年]]になると、分割占領された首都の全体をどこが支配するのかを巡って対立が起こった。さらにソ連はドイツとの戦争で甚大な被害が出ていたため取れるものは全てとるという方針をとったことから、早期復興を目指す西側3か国と対立した(当初はフランスもドイツに早期の賠償を課す方針だったが、ソ連への対抗上米英と同調せざるを得なくなった)。そのような対立の中、ソ連は西ベルリンへの交通制限を西側へ通達した。 |
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同日、ソ連側の代表は、西側各国代表に対して、「貴国らとベルリン市民は、ソ連占領下にあるベルリンにおいて、通貨流通を独占しようとしている。そのため、経済制裁並びに行政的制裁を課す可能性があることを警告する。」と述べた<ref name="miller32">{{Harvnb|Miller|2000|p=32}}</ref>。ソ連はイギリス、アメリカ、フランス3か国に対する大規模なプロパガンダをラジオ、新聞、ラウドスピーカーを通じて行った<ref name="miller32"/>。ソ連は巧妙に喧伝された軍事作戦を実施した。ソ連の部隊がベルリンを占領するのではないかという噂が急速に広まっていた。ドイツの共産主義者は、ソ連領内の地方政府に参画している新西ドイツの指導者に対して攻撃を仕掛けていた<ref name="miller32"/>。 |
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[[4月1日]]に、[[在独ソ連軍政府|ソ連軍政当局]]は西ベルリンへ向かう人員や貨物について検問を強行し、西ベルリンへの物資搬入にも制限がかけられた。さらに、5月にソ連が[[6月24日]]に東側領域において通貨改革を実施することを宣言すると、すかさず西側も[[6月20日]]より西側領域でも通貨改革を実施すると公表した。この結果、マーシャルプランに保障される西側通貨(マルクB、[[ドイツマルク]])が力を持つようになり、東側の通貨改革は失敗することとなった。 |
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6月24日、ソ連は非ソ連圏とベルリン間の陸路・水路の接続を供与した<ref name="miller32"/>。同日、ソ連はベルリン内外への鉄道と水運を停止させた<ref name="miller32"/>。西側はイギリスとアメリカの区域から東ドイツへの全鉄道網を停止させるという逆封鎖に打って出た。続く数か月、この逆封鎖策は東ドイツにダメージを与え、石炭と鉄鋼の出荷が滞り、ソ連区域の産業発展を阻害させることに成功した<ref>{{cite web|title=Berlin 1948–1949 A Divided City|url=http://homepages.stmartin.edu/Fac_Staff/rlangill/PLS%20310/Berlin%201948-%20Isaac.htm|access-date=12 August 2017}}</ref><ref>{{cite book|last=Burgan|first=Michael|title=The Berlin Airlift: Breaking the Soviet Blockade|url=https://books.google.com/books?id=NvNRPq_k_U8C&pg=PT36|year=2008|publisher=Capstone|isbn=978-0-7565-3486-8|page=36}}</ref>。6月25日ソ連はベルリンの非ソ連区域の市民への食糧供給をストップさせた<ref name="miller32"/>。ベルリンから西側への自動車での移動は許可されたが、橋の修理が必要であるのを理由として、23 km迂回する必要があった<ref name="miller32"/>。ソ連はまた、ベルリンで稼働していたメインの発電所を支配下に置いて、電力供給を停止するなどした<ref name="turner24"/>。 |
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反発を強めたソ連側は、6月24日より西ベルリンへの陸路の完全封鎖を実施。西ドイツとの間を結んでいた4本の鉄道は閉鎖され、東ベルリンとの間を結んでいた[[ベルリン地下鉄|地下鉄]]も運休し、[[エルベ川]]と運河を経由した船舶輸送も停止され、西ドイツとの間を結んでいた4本の[[アウトバーン]]も閉鎖され、国境の検問所にはバリケードが設置されて物流を完全に停止させた。東側占領地域からの西ベルリンへの電力供給も停止された。さらに政治宣伝を行い、西ベルリン市民の取り込みを図った。ソ連側は、物資不足に反発した西ベルリン市民により暴動や[[ストライキ]]が発生し、やがて社会主義革命が発生することを期待していた。そして、西側に西ベルリンの支配を放棄させることを狙っていた。 |
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非ソ連区域からベルリンへの地上を使った通行は封鎖されていたが、唯一空路は開かれていた<ref name="miller32"/>。ソ連は過去3年間ベルリンの非ソ連区域において、イギリス、フランス、アメリカに道路、トンネル、鉄道、運河の使用許可の法的な要求を突っぱねていた。ソ連の善意に頼っていた3か国はベルリンに入るまでにソ連区域を通る権利を保障する交渉も行わなかった<ref name="miller6"/>。 |
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この状況でもソ連側は、西側占領地域及び西ドイツ国内から西ベルリンまでの航空路については封鎖しなかった。これは1946年2月の取り決めにより、西側からベルリンまでの3本の空路、通称「ベルリン回廊」は、西側諸国による自由な利用が認められていた上に、西ベルリンに居住する市民は200万人に上り、その生活を支えられるだけの物資を空輸だけで運べるとは到底考えられなかったことと、ソ連としても西側と全面的な対決に陥ることは避けたかったということが、空路の封鎖をしなかった理由として挙げられる。 |
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その時点では、西ベルリンの各物資の備蓄状況は、食料は36日分、石炭は45日分があった。軍事的には、アメリカとイギリスは戦後復員を進めており、人員が少なくなっていた。アメリカは他の西側と同様に、多数の部隊を解体し、ヨーロッパ戦域ではかなり小規模になっていた<ref name="wettig168">{{Harvnb|Wettig|2008|p=168}}</ref>。アメリカ陸軍は1948年2月までには552,000人にまで人員を減らされていた<ref name="miller28">{{Harvnb|Miller|2000|p=28}}</ref>。ベルリンの西側の人員はアメリカ軍は8,973人、イギリス軍は7,606人、フランス軍は6,100人であった<ref name="miller33"/>。1948年3月、西ドイツのアメリカ軍の98,000人の内、31,000人だけが戦闘部隊であり、予備1個師団があるのみだった<ref name="jstor2009841">{{cite journal | last1 = Dawson | first1 = R. | last2 = Rosecrance | first2 = R. | year = 1966 | title = Theory and Reality in the Anglo-American Alliance | journal = World Politics | volume = 19 | issue = 1 | pages = 21–51 | doi = 10.2307/2009841 | jstor = 2009841 | s2cid = 155057300 }}</ref>。一方のソ連軍は150万にも上る兵力でベルリンを包囲していた<ref name="miller30">{{Harvnb|Miller|2000|p=30}}</ref>。ベルリンのアメリカ軍2連隊はソ連軍の攻撃に対して、太刀打ちできそうもなかった<ref name="miller29">{{Harvnb|Miller|2000|p=29}}</ref>。アメリカの戦争計画は数百の原子力爆弾に基づいたものであったが、1948年半ば時点でわずか50基のファットマン級の原子力爆弾があるだけであった。1947年の終わりまでには65機の[[シルバープレート]]B-29を製造予定であったが、1948年3月時点で、当初目標の65機があるのみで、パイロットも不足していた。1948年7月、8月には3機のB-29が到着した<ref name="rgm2431">{{harvnb|Miller|1998|pp=24, 31}}</ref>。必要であれば核兵器での報復も辞さないとする姿勢を示す意図があったものの、ソ連側は恐らくは原子力爆弾が搭載されていないことを知っていた。最初のシルバープレートの爆撃機が到着したのは、ベルリン封鎖も終わりになろうかという1949年4月のことであった{{r|young200701}}。 |
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クレイ将軍は、ドイツのアメリカ占領地域の責任者で、1948年6月13日、ワシントンDCにドイツから撤退すべきではない旨を要約した内容の電報を送った。 |
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{{quote|「ベルリンで我々アメリカが現在の立ち位置を維持することは難しいが、それを基に決断を下してはならない。我々はベルリンにとどまり続けなくてはならず、そしてそれがドイツ並びにヨーロッパでの威信を明示することになる。善かれ悪しかれ、アメリカの意図を知らしめることになる」<ref name=tru11>''Airbridge to Berlin'', Chapter 11</ref>}} |
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ドイツのソ連軍政府はイギリス、フランス、アメリカには黙認する以外選択肢がないと考え、ベルリン封鎖の開始を祝った<ref name="miller35">{{Harvnb|Miller|2000|p=35}}</ref>。 クレイ将軍は、ソ連が第三次世界大戦を始めるとみられなくないため、ハッタリを掛けているのだろうと考えた。クレイの見立ては、スターリンは戦争を望んでおらず、西側は慎重であり、戦争回避の道を選択し、西側から譲歩を得ることを目的としているとした<ref name="miller33">{{Harvnb|Miller|2000|p=33}}</ref>。 アメリカ空軍司令官のカーティス・ルメイは、地上部隊がベルリンへの到達を試みている間、護衛戦闘機を伴ったB-29をソ連空軍基地に接近させ、封鎖への抗議行動を支持したとされるが、ワシントン側は却下した<ref name="young200701">{{cite journal | jstor=30036432 | title=US 'Atomic Capability' and the British Forward Bases in the Early Cold War | author=Young, Ken | journal=Journal of Contemporary History |date=January 2007 | volume=42 | issue=1 | pages=117–136 | doi=10.1177/0022009407071626| s2cid=159815831 }}{{page needed|date=January 2017}}</ref>。 |
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=== 「ベルリン大空輸」開始 === |
=== 「ベルリン大空輸」開始 === |
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[[ファイル:C-47s at Tempelhof Airport Berlin 1948.jpg|thumb|200px|テンペルホーフ空港で物資を降ろすC-47輸送機]] |
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[[ファイル:Berlin Blockade Milk.jpg|thumb|200px|輸送機に搭載された牛乳]] |
[[ファイル:Berlin Blockade Milk.jpg|thumb|200px|輸送機に搭載された牛乳]] |
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地上ルートに関しては交渉されたことはなかったが、空路についてはそうではなかった。1945年11月30日、3つの25マイル幅のベルリンへの空中回廊が合意に至っていた<ref name=spirit>[http://www.spiritoffreedom.org/airlift.html spiritoffreedom.org: ''The Berlin Airlift'']</ref>。 |
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ソ連による完全封鎖の開始後、西ベルリンでは燃料や食糧だけでなく、[[石鹸]]や[[トイレットペーパー]]などの生活用品や、薬品までが短期間で欠乏し、市民生活が危機に陥ることが予想された。そこでアメリカやイギリスを中心とする西側は、[[アメリカ空軍]]の[[カーチス・ルメイ]]戦略空軍司令官らが立案した物資の空輸作戦を実施することにした。アメリカの空輸作戦の名前は「糧食作戦」(オペレーション・ヴィットルズ Operation Vittles)とされた。一方イギリスの空輸作戦は「プレインフェア作戦」(Operation Plainfare) とされたが、イギリスの空輸部隊もアメリカ側の指揮の下で活動した。一般には「ベルリン大空輸」(Berlin Airlift) として知られる。 |
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空輸を行なうか否かは、効果と規模にかかっていた。もし、物資が迅速かつ十二分に供給できなければ、ベルリン市民の餓死を避けるためにはソ連に頼らざるをえなくなる。クレイはルメイから空輸が可能かどうかアドバイスを得てはどうかと相談された。当初は、石炭を運べるかという質問に対して、ルメイは驚いたものの、「何であっても運べる」と答えた<ref name=spirit/>。 |
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6月26日、[[ヴィースバーデン]]と[[フランクフルト空港|ラインマイン]]の両基地から[[ダグラス・エアクラフト|ダグラス]][[C-47 (航空機)|C-47]]輸送機が45 [[トン|t]]の物資を[[ベルリン・テンペルホーフ空港|テンペルホーフ空港]]に輸送し、空輸作戦が開始された。C-47輸送機は100機以上がかき集められ、ベルリンまでの輸送任務に就いた。C-47より大型の[[ダグラス DC-4|ダグラスC-54]]輸送機もアメリカ本土などから派遣された。イギリスはC-47と同型のダグラスダコタや[[アブロ ヨーク]]などを派遣した。7月に入ると、アメリカ空軍の軍航空輸送隊(MATS: [[:en:Military Air Transport Service|Military Air Transport Service]]、後に[[軍事空輸軍団]]を経て[[航空機動軍団]])のウィリアム・タナー少将 ([[:en:William H. Tunner|William H. Tunner]]) が臨時空輸任務群(Airlift Task Force, Provisional、11月に第1空輸任務群 1st Airlift Task Forceに改編)の司令官に就任し、空輸作戦の指揮を執った |
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{{efn|彼が,着任後まず売店と食堂のカードを渡そうとしたベルリンの進駐軍司令部に,「我々はここに仕事に来た.机も椅子も |
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電話もないが,まずは現場の調査から始める」と言って現場に向ったような実務家だったことが,空輸成功の原動力であった<ref>Tunner 1998, p.167.</ref> |
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アメリカ軍がイギリス空軍に共同空輸の可能性を相談したところ、イギリス空軍はすでにベルリンでイギリス軍への空輸を実施していた。クレイ将軍の仲間である[[ブライアン・ロバートソン]]将軍は、空輸に必要な物資の具体的な量の算出を準備していた。1948年4月の小規模空輸の際<ref name="miller20"/>、イギリスのレジナルド・ウェイト空軍准将は、都市全体を空輸するのに必要な資源を計算していた<ref>{{cite web |url=http://www.rafweb.org/Biographies/Waite.htm |title=Air of Authority – A History of RAF Organisation, Air Commodore R N Waite (16017) |website=rafweb.org |access-date=April 11, 2020}}</ref>。 |
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6月30日にアメリカのマーシャル国務長官が「我々はベルリンを放棄するつもりはない。市民への食料、物資の補給は可能な限り実施されるだろう」と言明し、米英は西ベルリンを放棄せず、空輸作戦により市民生活を断固として支える決意を示した。 |
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アメリカ軍政府は、1日の最低配給量1,990キロカロリー(1948年7月)に基づき<ref name="rgm20">{{harvnb|Miller|1998|p=20}}</ref>、1日に必要な物資の合計を、小麦粉と小麦が646 t、穀物125 t、脂肪64 t、肉・魚109 t、乾燥芋180 t、砂糖180 t、コーヒー11 t、粉ミルク19 t、赤ちゃん用ミルク 5 t、生イースト3 t、乾燥野菜144 t、塩38 t、チーズ10 tとしている。200万人以上のベルリン市民を維持するには、合計で1,534トンが毎日必要だった<ref name=spirit/><ref name="rgm28">{{harvnb|Miller|1998|p=28}}</ref>。さらに、電力や暖房のために、石炭、軽油、ガソリンも毎日3,475 tが必要だった<ref name=pbs>[https://www.pbs.org/wgbh/amex/airlift/filmmore/pt.html pbs.org: ''The Berlin Airlift'']</ref>。 |
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西ベルリンの市民が必要とする食料は1日あたり、小麦および小麦粉646 t、穀類125 t、肉・魚介類109 t、油脂類64 t、乾燥ポテト180 t、乾燥野菜144 t、砂糖85 t、コーヒー11 t、粉乳24 t、イースト3 t、塩38 t、チーズ10 tの合計約1,439 tと見積もられた。また、このほかに市内で消費する燃料の石炭やその他の生活必需品などが1日あたり約3,000 t必要であると見積もり、空輸の最低量は1日4,500 tと設定された。これを満たすために、C-54輸送機が続々と追加派遣され、ベルリン大空輸の主力となった。 |
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これら物資を輸送するのは簡単ではなかった。戦後動員解除が進んだため、ヨーロッパに駐留しているアメリカ軍にはC-47がわずか2グループ<ref name="rgm22">{{harvnb|Miller|1998|p=22}}</ref>、公称では96機の航空機が3.5 tだけを輸送できる状態だった。ルメイは全力を尽くして1日100往復の輸送を行ない、1日300 tの物資を輸送できると考えていた<ref name="rgm30"/>。イギリス空軍はドイツの方に航空機を配置していたため、アメリカ軍よりは備えがあり、1日400 tの輸送ができる見込みだった。 |
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空輸作戦に使用された航空機はC-54が中心となり、搭載量の少ないC-47は早期に撤退した。他に[[C-74 (航空機)|C-74]]・[[C-82 (航空機)|C-82]]・[[C-97 (航空機)|YC-97A]]などの大型の輸送機が少数のみ試験的に投入された。機数が少なかったためこれらの大型航空機は主力とはならなかったが、以降の輸送機の発展の方向性を示すことになった。 |
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イギリスは短期的にはベルリン空輸のため、あらゆる航空輸送を一時停止することで1日750 tの輸送が期待された<ref name="rgm30">{{harvnb|Miller|1998|p=30}}</ref>。長期間の作戦のため、アメリカは可及的速やかに航空機を追加し、ベルリンの空港への飛行量を増やす必要があった。唯一適した航空機が、4発エンジンのC-54スカイマスターとアメリカ海軍の[[ダグラス DC-4|R5D]]で、そのうち、565機を保有しており、{{仮リンク|軍事航空輸送部|en|Military Air Transport Service}}には、268機があり、兵員輸送団には168機、その他80機がアメリカ海軍にあった。そして、ドイツ向けに発注しているC-54に加え、民間で運用中のC-54、447機が緊急時に備えて飛行可能な状態であった<ref name="rgm50">{{harvnb|Miller|1998|p=50}}</ref>。 |
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このほかにもイギリスが民間の航空会社からチャーターした輸送機を派遣したことから、[[アブロ ランカスター|アブロ ランカストリアン]]、[[ハンドレページ ハリファックス|ハンドレページ ホールトン]]、[[ショート サンダーランド|ショート ヒース]]、[[ビッカース ヴァイキング]]などの雑多な輸送機が作戦に投入された。大量の物資を運ぶこれらの輸送機は、ベルリン市民から「[[ロジーネン・ボンバー]]」のニックネームで呼ばれた。 |
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イギリスよりベルリン空輸が実現可能である裏付けが取られ、ベルリン空輸が最良の手段と思われた。唯一の懸念点はベルリンの人口の多さにあった。クレイはベルリン市長の[[エルンスト・ロイター]]と彼の側近[[ヴィリー・ブラント]]を招集した。クレイはロイターに「この通り、空輸を行う予定ですが、うまくいくかどうかは保証しかねます。うまくいったとしても、ベルリン市民が寒さと飢えに苦しむとは思います。そして、ベルリン市民が耐え抜くことができなければ失敗に終わります。私はベルリン市民がこの空輸を受け入れるというあなたの保証がなければ、実行に移したくありません。」といった。ロイターは、疑念を抱いたものの、クレイにベルリンは必要な犠牲を被る覚悟があり、ベルリン市民はクレイの行動を支援する用意があると保証した<ref name=tru11/>。 |
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ベルリン大空輸に際しては、英米のほかにフランスも当初参加していた。しかしフランスは戦勝国とはいえ大戦中には長くドイツの占領を受けて、地上戦の被害も大きく、国自体が復興の途上にあった。このため輸送機の数を確保できなかったことやその参加機も事故で失われたことなどから、早期に作戦から外れた。これ以外に[[イギリス連邦]]の[[オーストラリア]]と[[ニュージーランド]]、[[南アフリカ]]が乗務員を派遣している。 |
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[[アルバート・ウェデマイヤー]]将軍は、ベルリン封鎖が起きたとき、視察のためヨーロッパにいた。彼は1944年から1945年まで中国・ビルマ・インド戦線の司令官で、インドからヒマラヤ山脈のハンプを越えて、中国への空輸を行ったことがあった。彼はベルリンの空輸に賛同し、強力な後押しを得た<ref name=tru11/>。イギリスとアメリカは直ちに共同作戦を開始することに同意した。アメリカはヴィタル作戦<ref>{{Harvnb|Miller|2000|p=58}}</ref>と名付け、イギリスはプレインフェア作戦<ref>{{Harvnb|Miller|2000|p=65}}</ref>と名付けた。オーストラリア軍による空輸の参加は1948年9月に始まり、これはペリカン作戦と名付けられた<ref>{{Cite web|url=http://airpower.airforce.gov.au/Publications/Details/226/Operation-Pelican-The-Australian-Air-Force-in-the-Berlin-Airlift-with-companion-CDROM.aspx|title=Operation Pelican: The Australian Air Force in the Berlin Airlift|author=Dr Chris Clark|date=March 2008|access-date=14 February 2010}}</ref>。 |
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=== 空輸体制の整備 === |
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空輸が開始されると、それに伴う支援体制の整備も進められた。輸送機自体の数もさることながら、それを飛ばす乗務員を訓練することも重要であった。アメリカ合衆国本土の[[モンタナ州]]グレートフォールズ空軍基地に、ベルリン回廊を想定した飛行訓練コースが開設され、ここで乗務員の訓練が開始された。乗務員は疲労の蓄積を避けるため45日で次の乗務員と交代するローテーション配備の体制が敷かれた。 |
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イギリスはカナダに飛行機と乗組員の供与を求めたが、カナダは戦争のリスクと事前に相談を受けていないとして却下されてしまった<ref>James Eayrs, ''In Defence of Canada: volume 4: Growing Up Allied'' (1980) pp. 39–51</ref>。 |
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また、アメリカ合衆国本土と西ドイツの航空基地を結ぶ航空路線が開設され、交代の乗務員の派遣や連絡任務に用いられた。輸送機のエンジンの整備と交換、燃料の手配、ベルリンへ輸送する物資の手配と貨物の保管・積み込み・積み降ろしなどのさまざまな業務について急速に支援体制が構築され、徐々にベルリンへの空輸量は増加していった。 |
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6月27日、クレイは[[ウィリアム・ヘンリー・ドレイパー・ジュニア|ウィリアム・ドラッパー]]に現在の状況を要約した電報を打った。 |
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{{quote|既に、6月28日月曜日に最大規模の空輸が開始するよう手配しております。我々は70機のC-47を利用可能で、これによって空輸が持続できます。イギリスが利用可能な機数につきましては不明ではありますが、ロバートソン将軍は本当にそれだけの機数が利用できるか懐疑的であります。我々ベルリンの2つの空港は一日につき50機の追加の航空機が利用できる状態です。空輸に使用する航空機はC-47、C-54ないしそれに類似する着陸特性をもった航空機でなければならず、サイズが大きい航空機は欲しておりません。ルメイは2つのC-54のグループを編成するよう促しました。この空輸でもって、我々は1日に600ないし700 tを輸送できなくてはなりません。通常の食料で1日2000 tが必要でありますが、1日に600 tの輸送(輸送効率を最大限に活用するため乾燥食品)は、ドイツ国民の士気を高め、ソ連の封鎖に対して、妨害することにつながります。これを達成するためにも、ドイツへ最速で50機の追加輸送機を送って下さい。一日一日の遅れが、我が国のベルリンでの地位を低下させることにつながります。これら輸送機を最大限に生かすためにも乗組員も必要です。クレイ、1948年6月<ref name=tru11/>。}} |
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イギリス軍は、ハンブルク地域のいくつかの飛行場から南東へと飛行し、イギリス支配地域の{{仮リンク|ガートー|en|RAF Gatow External Debts}}へと飛行し、ハンブルクへと帰還もしくはハノーヴァーへと着陸した。しかし、アメリカとは異なり、イギリスは南東の飛行回廊を使って、往復飛行を行なった。時間節約のために、ベルリンに着陸せず、石炭といった物資を空中から飛行場に向けて投下したこともあった。7月6日、[[ショート サンダーランド|ショート ヒース]]も加わった。ハンブルク近くのエルベ川のフィンケンヴェルダーからガートー近くのハーフェル川へと着陸し、機体の腐食の強さを生かして、粉ミルクと塩の輸送任務にあてがうことができた<ref>{{Cite book|title=The World That Came in from the Cold|last=Partos|first=Gabriel|publisher=Royal Institute of International Affairs|year=1993|location=London|page=33}}</ref>。オーストラリア空軍も、イギリス軍に貢献した。 |
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様々な飛行特性を持ち、かつ多数のフライトを行うためには、緊密な連携が必要であった。スミスとそのスタッフはブロックシステムと呼ばれる複雑な航空タイムテーブルを構築した。C-54とC-47のベルリン空輸を8時間3シフトで構成した。輸送機は4分毎に離陸し、1,500 m上空の飛行を始点として、次に飛行する航空機は、その300 m上空を飛ぶというサイクルを5回繰り返した。この積み重ねた飛行システムは後に梯子と呼ばれた<ref name="miller2000_90">{{Harvnb|Miller|2000|p=90}}</ref><ref name="miller116">{{Harvnb|Miller|2000|pp=116–117}}</ref><ref name=mac>''MAC and the Legacy of the Berlin Airlift''</ref>。 |
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空輸の第1週目は一日平均して90 tの輸送にとどまっていたが、第2週目は1,000 tに達した。これにより、当初考えられていたわずか2週間では十分な量となった。東ベルリンの共産主義の新聞は、この計画を一蹴し、アメリカの面目とベルリンにおける地位を保つだけの無駄な試みと報じている<ref name=indiana>[http://www.indianamilitary.org/ATTERBURYAAF/History/BerlinAirlift.html ''Fifty years ago, a massive airlift into Berlin showed the Soviets that a post-WW II blockade would not work''], C.V. Glines</ref>。 |
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乗組員の奮闘と日々日々増える輸送量を華々しく報道していたにもかかわらず、USAFEは空輸の専門知識を持っていないために、空輸が機能していたとは言えない状況だった。メンテナンスはおざなりで、乗組員は効率よく使われていたとはいえず、輸送機も十二分に活用されておらず、飛行記録もきちんととっていなかった。目立ちたがりな一時乗組員が実務的な空気を阻害していた<ref name="wht">{{Harvnb|Tunner|1964|p=160}}</ref>。この問題については、1948年7月22日のクレイとの会議で、長期間の空輸が不可欠であることが明らかになった時、[[アメリカ国家安全保障会議]]によって把握された。ウェデマイヤーは軍事航空輸送局(MATS)の作戦で副司令官の[[ウィリアム・H・ターナー]]をベルリン空輸作戦の司令官に推薦した。ウェデマイヤーは、第二次世界大戦中、中国戦線のアメリカ軍の司令官を務めていたが、航空輸送司令部のインド・中国区域の司令官であったターナーはインドと中国間のハンプ空輸の再編を行い、輸送量と時間数を効率化させた実績があった。アメリカ空軍の[[ホイト・S・ヴァンデンバー]]はウェデマイヤーの推薦に同意した<ref name="miller2000_90"/>。 |
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=== ブラックフライデー === |
=== ブラックフライデー === |
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1948年7月28日、ターナーは作戦を引き継ぐために、ヴィースバーデンに到着した<ref>{{Harvnb|Miller|2000|p=87}}</ref>。彼はアメリカ軍とイギリス軍の両軍の空輸を統合することでルメイと合意に至り、1948年10月中旬に実行に移された。MATSは直ちに 8つのC-54の飛行隊(72機)をヴィースバーデンにラインマインの空軍基地に派遣し、既に派遣済みの54機を増強し、最初の飛行隊は7月30日までに、残りは8月中旬までに合流し、世界中からかき集めてきたC-54の全乗組員の3分の2に当たる人員は輸送機1機につき3人の乗組員を割り当てるべくドイツへと移送が始まった<ref name="miller2000_93">{{Harvnb|Miller|2000|p=93}}</ref>。 |
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1948年8月13日[[金曜日]]、雨天のもとテンペルホーフに着陸したC-54がオーバーラン事故を起こして炎上した。続行していたC-54はこれを避けようとして滑走路上でタイヤをバーストさせてしまい、2機が滑走路上で動けなくなってしまった。混乱を回避するためにこの日の空輸作戦は中止され、飛行中の輸送機も全て引き返すことになった。この日は作戦の中の最悪の日として「ブラックフライデー」として記憶されることになった。こうした混乱の1つの原因には、急速にベルリンへの航空交通量が増大して、航空交通管制が追いついていないということがあった。 |
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ターナー到着後の2週間後の、8月13日、ターナーは、その時点でベルリンへの空輸回数が一番多かったポール・O・ライキンズに叙勲を与えるためにベルリン行きを決断した<ref name="miller1998_62-64">{{Harvnb|Miller|1998|pp=62–64}}</ref>。ベルリンの雲は建物の高さくらいにまで落ち、大雨によりレーダーの視認性が悪かった。C-54が墜落し、滑走路の端で炎上し、その後ろの輸送機も避けようとしてタイヤをパンクさせてしまった。3機目の輸送機は誤って建設中の滑走路に着陸した後、地上を旋回して移動した。発効した標準手順に従って、ターナーの飛行機を含む全飛行機は悪天候下で910 mから3,700 mの高さにまで待機を命じられ、空中衝突の危険性が高まっていた。新たに投入された飛行機は空中衝突を避けるために、離陸が許可されず、地上で支援を行った。誰も死亡することはなかった一方で、ターナーはテンペルホーフの管制塔がターナーが上空をぐるぐる回っているときに、状況を制御できなかったことに戸惑いを感じた。ターナーは自機を除く全飛行機に対して即刻帰投することを無線で命令した。これはブラックフライデーと呼ばれ、ターナーは空輸の成功が始まったのはこの日以降だと述べている<ref name="rgm64">{{harvnb|Miller|1998|p=64}}</ref><ref name="wht155">{{Harvnb|Tunner|1964|pp=153–155}}</ref>。 |
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そこで、最適な航空交通管制業務の研究が行われた。その結果、3本のベルリンへの航空路のうち、南北の2本をベルリンへの往路に、中央の1本をベルリンからの復路に専用に割り当てることになった。輸送機は決められた時刻と高度を守って飛行することが求められ、ベルリンで1度でもアプローチに失敗すると、[[着陸復行|着陸のやり直し]]は許可されず、積荷を積んだまま西ドイツに引き返すことになっていた |
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{{efn|当日たまたまベルリンに向っていたタナー少将が,混乱に巻き込まれた搭乗機から発した指令が最初である<ref>Tunner 1998, p.154.</ref>。}}。また当時最新の[[レーダー]]による着陸管制装置である[[着陸誘導管制]] (GCA) の設備がベルリンの空港に装備され、24時間体制で3分間隔で飛来する輸送機を捌いた。 |
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ブラックフライデーの結果、ターナーは新しいルールを制定した。[[計器飛行方式]]は視界に関わらず、常に動作させること、そして、出撃時のベルリン着陸は一度で行い、アプローチに失敗した場合は反転し帰投することとした。これによりスタックは完全になくなった。直線進入であれば、9機の輸送機を着陸させる時間で30機の輸送機を着陸させられること、300 tの貨物を輸送することができることがわかった<ref name="rgm65">{{harvnb|Miller|1998|p=65}}</ref>。事故発生率と遅延は即時に降下した。ターナーは、C-54で10 tの貨物を降ろせる時間は、C-47の3.5 tの貨物を降ろす時間と同じくらいだったことに気づき、C-47輸送機からC-54輸送機への切り替えを行なうことにした。この効率性の原因としては、C-47の荷下ろしをする場所は傾斜があるためだった。三輪ギアのC-54の貨物デッキは水平に作られており、これにより、トラックがバックして素早く荷下ろしができた。輸送機の切り替えは1948年9月28日以降に実施された<ref name="rgm63">{{harvnb|Miller|1998|p=63}}</ref>。 |
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こうして輸送機・乗務員・地上支援体制・航空交通管制のシステムが完成し、ベルリンへの空輸量は9月には1日4,500 tを超えて、西ベルリン市民を支えられる最低水準を満たした。 |
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7月31日、ターナーは、乗組員達が空港で食事をとってから、輸送機に戻るのに時間がかかり過ぎていることに気づき、ターナーはベルリン赴任中はいかなる理由があっても輸送機を離れてはならないと命じた。その代わり、ジープにスナックバー機能を備え付け、荷下ろし中でも、輸送機で食事がとれるようにした。輸送機のパイロット、ゲイル・ハルボーセンは後に、「ターナーはスナックバーにはきれいなドイツ人女性達を配属していた。彼女らは私たちが忙しくてデートできないのを知っていた。そんなわけで、彼女はとてもフレンドリーだった」と述べている<ref name=pbs/>。作戦将校はパイロットが食事中に滑走許可やその他諸々の情報を渡していた。エンジンが停止するとすぐに荷下ろしが始まり、ラインマイン又はヴィースバーデンに帰投する、離陸前のターンアラウンド時間は30分に短縮された<ref name="wht171">{{Harvnb|Tunner|1964|p=164}}</ref>。 |
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=== 妨害 === |
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ソ連側は空路を飛行する輸送機に戦闘機を近づけ威嚇した他、空路から外れそうになった輸送機に警告射撃を行う執拗な妨害を試みた。航空路内で対空射撃訓練まで実施したこともあった。しかし協定が有効な以上、空路内を飛行していたイギリスやアメリカなどの輸送機を迎撃、および撃墜するなどの手段に出ることは、即座に突発的な軍事対決につながる恐れがあるために実行できなかった{{efn|このため飛行士に,妻や恋人の不倫を知らせる手紙を出す,という間接的な策も取られた<ref>Tunner 1998, p.185-186.</ref>。}}。 |
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イギリス空軍はショートサンダーランドをベルリン近くハーフェル川に係留し、塩を荷下ろししていた。限られた輸送機を最大限に活用するために、ターナーはこれまでの輸送間隔を、3分、150 mごととして、高度の上限も1,800 mにした<ref name="miller116"/>。メンテナンスは25時間、200時間、1000時間での点検が最優先事項となり、より一層輸送機が有効活用されるようになった<ref name="wht169">{{harvnb|Tunner|1964|p=169}}</ref>。ターナーはシフトも6時間に変更し、1日に1,440回着陸させた。 |
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作戦期間中、1948年8月から1949年8月までの間に、[[アメリカ空軍]]が記録した妨害行為の回数は733回に上った。また、いくつかの輸送機が事故を起こしたものの、空輸作戦は絶えることなく続けられた。 |
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1948年8月の終わりまでには、空輸は成功したと言えた。一日に1,500回以上の飛行をこなし、西ベルリンへの供給を十二分に維持できる4,500 t以上の貨物を輸送していた。1949年1月から、225機のC-54機が空輸任務に従事していた<ref name="miller2000_93"/><ref name="rgm92">{{harvnb|Miller|1998|p=92}}</ref>。空輸の量は1日に5,000 tにも達した。 |
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=== テーゲル空港の完成 === |
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西ベルリンにある空港は、テンペルホーフとガトウ ([[:en:RAF Gatow|RAF Gatow]]) があったが、これだけでは輸送量が不足すると考えられた。そこでベルリン市民の協力の下、突貫工事でテーゲルに新しい[[ベルリン・テーゲル空港|テーゲル空港]]が建設され、12月7日に開港した。テーゲル空港はその後、ベルリン最大の空港として使用されていたが、2020年11月8日に[[ベルリン・ブランデンブルク国際空港]](旧[[東ベルリン]]の国際空港であった[[ベルリン・シェーネフェルト空港]]を拡張整備する形で建設された)に役目を譲り閉鎖された。 |
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=== Operation Little Vittles === |
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=== リトル・ヴィットルズ作戦 === |
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アメリカ空軍のパイロット、{{仮リンク|ゲイル・ハルボーセン|en|Gail Halvorsen}}がキャンディとチューインガムを手製のパラシュートで投下することを思いついた。これは後に、Operation Little Vittlesといわれた。ゲイルは公休時にベルリンへと飛び、カメラで映画を作ることにした。彼は1948年7月17日、テンペルホーフ空港へと到着し、輸送機を見ている滑走路の端に集まった子供たちのところへ行った。彼は自己紹介し、輸送機についてどう思うか尋ね始めた。友好のしるしとして、彼は2本のチューインガムを差し出した。子供たちはチューインガムを分け、紙包みの匂いも嗅いでいた。ゲイルは子供たちの感謝する様子と、我先にチューインガムを奪い合うこともなかったため、感銘を受け、子供たちに、今度はもっと持ってくると言い残した。ゲイルが立ち去る前、1人の子供がどうやったらゲイルが飛んできたことがわかるのか尋ねた。ゲイルは、「飛行機の翼を揺らしているのが、僕の飛行機だよ」と答えた<ref name=spirit />。 |
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アメリカ軍のC-54のパイロットの1人、ゲイル・ハルバースン中尉 (Gail Halvorsen) は、戦災で多くのものを失い、甘いものに飢えているベルリンの子供たちにプレゼントを贈ろうとして、ベルリン到着直前の輸送機の操縦席の開く窓から、キャンディやチョコレートをハンカチで作ったパラシュートで落とす行為を個人的に始めた。これを繰り返したために次第にベルリンの子供たちが菓子を期待して集まるようになり、そしてアメリカ軍の基地に感謝の手紙が送られるようになった |
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{{efn|宛先は「チョコレート飛行士(Der Schokoladen-flieger)」だった<ref>Miller 1998, p.57.</ref>。}} |
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。そこから新聞記者に話が知られ、アメリカ本国でこの行動が報道されると、アメリカ全土からベルリンの子供たちへ送る菓子とそれを落とすためのハンカチが基地に殺到することになった。そしてこれはついに部隊の公式の作戦となり、「[[ロジーネン・ボンバー|オペレーション・リトル・ヴィットルズ]]」と名付けられて、大々的に行われることになった。 |
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翌日、ゲイルは約束通り、輸送機を揺らして、地上にいる子供たちに向かって、パラシュートにチョコレートを括り付けて、投下した。この後毎日子供の数は増えていき、ゲイルはたくさんお菓子を落とすようになった。まもなく、「翼を揺らすおじさん」や「チョコレートおじさん」、「空飛ぶチョコレート」といった宛名で手紙が基地に届くようになった。他のパイロットも参加するようになり、このニュースがアメリカで報道されるや、世界中の子供がキャンディを差し出した<ref>{{Cite news |title=Opinion {{!}} The 'Candy Bomber' showed that in wartime, kindness is a superpower |language=en-US |newspaper=Washington Post |url=https://www.washingtonpost.com/opinions/2022/02/18/gail-halvorsen-candy-bomber-kindness-is-a-superpower/ |access-date=2022-10-31 |issn=0190-8286}}</ref>。まもなく、大手キャンディメーカーも協力するようになった。最終的に、3 t以上のキャンディがベルリンにばらまかれ<ref name=spirit />、作戦はプロパガンダの面で大成功に終わった。ドイツの子供はキャンディをばらまいた輸送機をロジーネン・ボンバーやキャンディー・ボンバーと命名した<ref>Smoler, Fredric (April/May 2003). "[http://americanheritage.com/articles/magazine/ah/2003/2/2003_2_52.shtml Where Berlin and America Meet] {{webarchive |url= https://web.archive.org/web/20080828155615/http://www.americanheritage.com/articles/magazine/ah/2003/2/2003_2_52.shtml |date= 28 August 2008 }}" ''[[American Heritage (magazine)|American Heritage]]''. Retrieved 29 July 2010.</ref>。 |
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これは単に善意に基づく作戦というだけではなく、西ベルリンの市民生活を顧みずに大国の政治的な都合でベルリン封鎖を強行するソ連の非人道的な態度に対して、アメリカの善意を強く印象付けることになり、[[プロパガンダ]]としても絶大な効果があったと評価されている。 |
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== ソ連側の対応 == |
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ソ連は軍事面では優位に立っていたが、戦争で疲弊した経済と社会の復興に専念していた。アメリカはより強力な海軍と空軍があり、核兵器も所有していた。両国は戦争は最早望んでおらず、ソ連は空輸の停止は求めなかった<ref>Michael Laird, "Wars averted: Chanak 1922, Burma 1945–47, Berlin 1948." ''Journal of Strategic Studies'' (1996) 19#3 pp. 343–364.</ref>。 |
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空輸体制が完成し、[[1949年]]1月になると月間輸送量は171,690 tに達し、1日平均で5,540 tとなった。これは、冬期に暖房のために燃料の石炭使用量が増えることを勘案しても、なお西ベルリン市民の生活を支えるに十分な量であった。 |
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=== 当初の反応 === |
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4月16日には1日のフライト回数1,398回、空輸量12,940 tに達し、作戦全期間中を通じて最大を記録して、「タナー少将のイースター・パレードの日」と称されるようになった。 |
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空輸が盛んになるにつれて、西側は不可能とされていた空輸も可能になっていた。それに対して、1948年8月1日、ソ連は東ベルリンへ来た者に対して、無料で食料を提供し、配給カードの登録を行なうようにした結果、1948年8月4日までで2万2000人のベルリン市民がこのカードを受け取っていた<ref>Wetzlaugk U. Berliner Blokade 1948/49. Berlin, 1998. S.54</ref>。1949年には10万人の西ベルリン市民が東ベルリンでソ連の配給を受け取っていた。西ベルリン市民にはソ連の食料の配給を拒絶したものもいた<ref name="turner29" />。 |
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空輸の間、ソ連とドイツの共産主義者は窮地にある西ベルリン市民に対して、心理戦を仕掛けていた<ref name="turner29">{{Harvnb|Turner|1987|p=29}}</ref>。ラジオ放送では、全ベルリンはソ連当局の元にあり、西側はまもなく占領を放棄し立ち去ると放送していた<ref name="turner29">{{Harvnb|Turner|1987|p=29}}</ref>。ソ連は、民主的に選出された行政府のメンバーに対して、ソ連領内にある市民ホールで執務しなければならないと嫌がらせをしてきた<ref name="turner29">{{Harvnb|Turner|1987|p=29}}</ref>。 |
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こうして事前には不可能と思われていた、西ベルリン市民の必要とする物資を航空機のみで輸送するという試みは、成功したことが明白となった。ソ連が西ベルリン市民による社会主義革命を期待していたのとは裏腹に、英米両国による生活物資輸送における必死の努力はベルリン市民に英米との連帯感を高めさせることになり、封鎖前に頻発していたストライキが影を潜めるという結果をもたらした。封鎖以前は英米軍に対し「占領軍」という意識をもっていた市民が多数だったのに対し、封鎖以降は意識が「防衛軍」と決定的に変わった。 |
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空輸の最初の数か月は、ソ連は西側の空輸を様々な手段で嫌がらせをした。例えば、ソ連の飛行機による妨害行為、空中回廊内でのパラシュート降下での妨害、そして、夜間航行中の西側パイロットに対して、サーチライトで照らすなどと言った、嫌がらせ行為をしてきた。西側によると、対空攻撃などを含む733件の嫌がらせ行為があったとしているが、これについては誇張も含まれている。妨害行為は有効に機能しなかった<ref>{{Harvnb|Cherny|2008|pp=129–130}}</ref><ref>{{Harvnb|Canwell|2008|p=200}}</ref>。イギリス空軍パイロットのディック・アルスコットは1件の妨害行為について、「ソ連の航空機が自機の20フィート上空につけてきて、いやな気分になった。ある日なんか3回も妨害飛行を受けた。次の日2回出くわした時点で、いい加減私はうんざりした。そんなわけで3回目の時は、機首を反転させ、奴の飛行機に向けた。幸いにも奴はおじけづいてどっかへ行った」と語った<ref>BBC Radio 4 programme "The Reunion, The Berlin Airlift," first broadcast 22 August 2014</ref>。 |
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なお、この封鎖危機に際してアメリカ合衆国[[国防予備船隊]]からも18隻の船舶が現役復帰し、1970年まで使用され続けた<ref>「2-2 NDRF/RRFの歴史」『米国海軍予備船隊制度に関する調査』シップ・アンド・オーシャン財団 1998年5月</ref>。 |
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=== ベルリン市政府における、共産主義者による一揆(プッチ)未遂 === |
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=== 封鎖解除 === |
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1948年の秋、ソ連支配下内での市民ホールで開催されるベルリン市議会で非共産系が大多数を占めるのは不可能であった<ref name="turner29"/>。議会は1946年10月20日のベルリン暫定憲法によって選出されていた。SEDの息のかかった警察官が見守る中、共産主義者が市庁舎にある市民ホールへと侵入し、議会の妨害を行い、非共産主義者を脅した<ref name="turner29"/>。ソ連はSEDによる市民ホールの乗っ取りを行う計画的な一揆を計画した<ref name="wettig173">{{Harvnb|Wettig|2008|p=173}}</ref>。 |
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3日後、アメリカ軍占領地区放送局はベルリン市民に抗議を行なうよう呼びかけた。1948年9月9日、ブランデンブルク門で50万人が集まった。空輸はその時点ではうまくいっていたが、西ベルリン市民は西側が空輸を止めてしまうのではないかということを危惧していた。SPDの市議会議員であったエルンスト・ロイターはマイクを持ち、「世界の人々よ!アメリカ、イギリス、フランスの人々よ!この街を見よ!この街のベルリン市民を見捨ててはならないし、見捨てられるはずもないと理解してくれ!」と述べた<ref name=pbs/>。 |
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抗議活動の参加者はソ連占領地区に殺到し、[[ブランデンブルク門]]にかかっているソ連国旗を引きはがした。ソ連の[[憲兵]]は素早く対応し、抗議に参加した者の内1人が死亡した<ref name=pbs/>。張り詰めた状況はますます深刻化し、さらなる流血沙汰もあったが、イギリスが介入し、ソ連の憲兵隊を追い払った<ref>MacDonogh, G "After the Reich" John Murray London 2007 p. 533</ref>。これほど多くのベルリン市民が一同に会することはなかった。世界的な反響を呼び、とくにアメリカでは、ベルリン市民の強固な団結に対して、見捨てずに空輸を続けるべきだいうことが確立された<ref name="wettig173"/>。 |
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ベルリン議会は19.8 %の議席を占めるSEDがボイコットしてしまい、[[ベルリン工科大学]]の食堂で開催することを決定した。1948年11月30日、SEDが選出した議員と1,100人の共産主義者をかき集め、東ベルリンのメトロポル劇場で、選出済みの市政府と民主的に選出された市議会議員を解任し、[[フリードリヒ・エーベルト (息子)|フリードリヒ・エーベルト]]率いる共産主義者にとって変えるという、違憲の臨時市議会を開催した<ref name="wettig173"/>。このような動きに対して、西ベルリンでは法的には有効と見なされなかったが、ソ連側は東側での活動を妨害してきた。 |
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=== 11月の選挙結果 === |
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市議会はSEDによってボイコットされ、1948年11月5日に再選挙が開かれたものの、分離選挙として、SEDから貶められ、東側では選挙の妨害が行われた。民主系の政党が議席を獲得するために立候補する一方で、SEDはこの選挙には誰も候補者は立てず、選挙のボイコットを西側で呼びかけた。しかし、選挙の結果は、西側の有権者の投票率は86.3 %で、[[ドイツ社会民主党|社会民主党]](SPD)が64.5 %(=76議席)を得票し、[[ドイツキリスト教民主同盟]](CDU)は19.4 %(26議席)、LDP(ドイツ自由民主党)は16.1 %(17議席)を獲得した<ref name="turner29"/>。 |
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12月7日、新しい西ベルリン市議会が事実上の西ベルリン市の政府となり、市長はソ連の妨害にはあったものの、1946年初めに着任していたエルンスト・ロイターが再度市長を務めることになった<ref name="wettig173"/>。このように東西2つに分断された市政府が公認されることになった。東側では、家、通り、区単位の首長によって、共産主義体制が構築された。 |
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西ベルリン議会はベルリンの事実上の分断を公表し、1950年10月1日発効のベルリン暫定憲法の実行範囲を西側に限定し、その他市議会、市政府、政府首長の名称を変更していった<ref>Cf. articles 25 and 40 of ''Die Verfassung von Berlin'' (Constitution of Berlin [West]), Berlin (West): Landeszentrale für politische Bildungsarbeit Berlin, 1982, pp. 34, 37.</ref>。 |
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== イースター祭 == |
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1949年4月までには、空輸はスムーズにいくようになったものの、ターナーは慢心しないように司令部にはっぱをかけようと考えた。彼は部隊間の競争精神を信じて、ビッグイベントのアイディアと相まって、より一層の成果を出せると感じた。ターナーは[[復活祭|イースター]]時に、空輸の最高記録を更新することを決定した。これを成し遂げるためには、最大最高の効率が求められ、貨物の取り扱いを簡略化し、石炭のみを空輸した。石炭はこのために貯蔵され、メンテナンススケジュールは輸送機の最大数が利用できるように変更された<ref name="wht222">{{harvnb|Tunner|1964|pp=219–222}}</ref>。 |
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1949年4月15日の正午から、4月16日の正午まで、乗組員は懸命に働いた。そして、4月16日が終わった時には、事故もなく12,941 tの石炭が1,383回のフライトで輸送された<ref name="wht222"/>。この成果の副次的な結果として、輸送作戦が全体的に活発化し、1日の輸送量が6,729 tから8,893 tへと増えた。4月トータルで234,476 t輸送することができた<ref name=indiana/>。 |
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== 封鎖の終了 == |
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[[ファイル:Berlin Tempelhof Luftbrueckendenkmal.jpg|thumb|200px|ベルリン空輸記念碑。空輸作戦を記念したもので、3本の支柱は3本の飛行ルートを表す。テンペルホーフ空港脇にある<ref>{{Cite book|和書 |author= 熊谷徹|authorlink=熊谷徹 (ジャーナリスト) |year = 2009 |title = 観光コースでないベルリン ヨーロッパ現代史の十字路 |publisher = [[高文研]] |page = 79 |isbn = 978-4-87498-420-8}}</ref>。]] |
[[ファイル:Berlin Tempelhof Luftbrueckendenkmal.jpg|thumb|200px|ベルリン空輸記念碑。空輸作戦を記念したもので、3本の支柱は3本の飛行ルートを表す。テンペルホーフ空港脇にある<ref>{{Cite book|和書 |author= 熊谷徹|authorlink=熊谷徹 (ジャーナリスト) |year = 2009 |title = 観光コースでないベルリン ヨーロッパ現代史の十字路 |publisher = [[高文研]] |page = 79 |isbn = 978-4-87498-420-8}}</ref>。]] |
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1949年4月15日、ソ連の[[タス通信]]がソ連による封鎖解除を報道した。次の日、[[アメリカ合衆国国務省]]が、封鎖解除への道が開かれたと述べた。まもなく、4か国が交渉を開始し、西側が提示した条件で決着を見た。1949年5月4日、西側は8日以内に封鎖を終了すると声明を発表した。 |
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空輸作戦の成功が明白となり、さすがのソ連もベルリン封鎖の失敗を認めざるを得なくなった。こうして1949年5月12日に封鎖は解除された。 |
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ソ連によるベルリン封鎖は1949年5月12日午前0時1分に解除された<ref name="turner27">{{Harvnb|Turner|1987|p=27}}</ref>。イギリスの輸送部隊はすぐにベルリンへと向かい、西ドイツからの最初の列車は午前5時32分にベルリンに到着した。その日の遅く、大群衆が封鎖の終了を祝った。1949年5月3日にクレイ将軍の退役がトルーマン大統領によって公表されており、11,000人の米兵と数十機の航空機によって、敬礼された。帰国後、クレイはニューヨークでパレードで歓待され、アメリカの国会での演説を求められ、トルーマン大統領から勲章を授与された。 |
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西ドイツでは、この空輸作戦を称し「ベルリンへの空の架け橋」({{de|Berliner Luftbrücke}}) といった。テンペルホーフ空港の脇には「空の架け橋広場」({{de|Platz der Luftbrücke}}) が造られ、空輸作戦の記念碑が建てられている。これと同様の記念碑は、輸送機の出発地となったラインマインにも造られた。 |
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しかし、空輸については、余裕を見るためにしばらく続けられ、夜間飛行と週末の飛行については十二分に物資が整えば廃止される予定であった。1949年7月24日までには、物資は3ヶ月分が集められ、必要に応じて空輸を再開する十分な時間ができた。 |
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ベルリン空輸は1949年9月30日に公的に終了し、実に15か月に及んだ。アメリカ空軍とイギリス空軍の輸送量は、それぞれ、前者が1,783,573 t、後者が541,937 tに及び、合計で2,326,406 tのおよそ3分の2の輸送貨物は石炭であり、合計の飛行回数は278,228回に及んだ<ref name="tine">[http://www.almc.army.mil/ALOG/issues/SepOct05/Berlinairlift.html ''Berlin Airlift: Logistics, Humanitarian Aid, and Strategic Success''] {{Webarchive|url=https://web.archive.org/web/20070116210844/http://www.almc.army.mil/alog/issues/SepOct05/Berlinairlift.html |date=16 January 2007 }}, Major Gregory C. Tine, Army Logistician</ref>。オーストラリア空軍は2,062回の出撃で7,968 tの貨物と、6,964人を輸送した。C-47とC-54両機の飛行距離は1億4800万 kmにも及び、地球から太陽にまで到達する距離であった<ref name="tine"/>。空輸の最盛期には30秒毎に輸送機が到着していた<ref name="turner27"/>。 |
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空輸作戦に要した費用は、当時の金額で約2億2400万ドルで、これは2008年の物価に換算すると約20億ドルほどになる。作戦期間中に17機のアメリカ軍機と8機のイギリス軍機が事故を起こし、アメリカ人31人、イギリス人40人を含む合計101人が亡くなった。 |
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空輸に携わったパイロットの所属国はアメリカ、イギリス、オーストラリア、カナダ、ニュージーランド、南アフリカであった<ref name="nationalcoldwarexhibition.org">[http://www.nationalcoldwarexhibition.org/learn/berlin-airlift/berlin-airlift-fact-figures.cfm ''The Berlin Airlift – Facts & Figures'', National Cold War Exhibition]. Retrieved 2 January 2013</ref><ref>{{cite news | url=https://www.nytimes.com/2008/06/26/world/europe/26iht-berlin.4.14022335.html | title=Germany remembers Berlin airlift on 60th anniversary | newspaper=New York Times | date=26 June 2008 | access-date=6 January 2013}}</ref>。 |
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空輸にあたって101人が死亡し、その内訳はイギリス人が40人、アメリカ人が31人<ref name="turner27"/>、大多数が非飛行時の事故によるものだった<ref name="wht218">{{Harvnb|Tunner|1964|p=218}}</ref>。 |
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空輸にかかった費用についてはアメリカ、イギリス、西側占領地域のドイツ当局の間で折半された。概算では当時の金額で2億2400万ドルから5億ドルとされる<ref>{{Cite web |url = http://www.german-way.com/airlift.html |title = The Berlin Airlift – Die Luftbrücke 1948–49 |access-date = 24 June 2008 |archive-url = https://web.archive.org/web/20080516172701/http://www.german-way.com/airlift.html |archive-date = 16 May 2008 |url-status = dead }}</ref><ref name="nationalcoldwarexhibition.org"/><ref>{{cite web|url=http://www.epw.in/system/files/pdf/1949_1/8/british_exports_facing_german_competition.pdf|title=Occupation of Germany, including the Berlin air lift, cost the UK taxpayer £35 million in 1948|access-date=30 June 2019}}</ref>。 |
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== ベルリンの壁へ == |
== ベルリンの壁へ == |
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== 参考文献 == |
== 参考文献 == |
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* {{Cite journal | 和書 | author=T.Matsuzaki | year=1994 | title=空軍史に名を残す壮大なミッション 200万人の命を支えた空の懸け橋 ベルリン大空輸 | journal=エアパワー・グラフィックス季刊版 | pages=pp.36 - 41 | publisher=[[イカロス出版]]}} |
* {{Cite journal | 和書 | author=T.Matsuzaki | year=1994 | title=空軍史に名を残す壮大なミッション 200万人の命を支えた空の懸け橋 ベルリン大空輸 | journal=エアパワー・グラフィックス季刊版 | pages=pp.36 - 41 | publisher=[[イカロス出版]]}} |
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* {{ |
* {{Citation | author=Combined Airlift Task Force | year=1975 | title=A report on the airlift Berlin mission - The operational and internal aspects of the advance element | publisher=Combined Airlift Task Force}}(archive.orgにあり) |
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* {{ |
* {{Citation | author=R.G.Miller | year=1998 | title=To save a city - The Berlin airlift 1948-1949 | publisher=[[U.S. Government Printing Office]]}}(archive.orgにあり) |
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* {{ |
* {{Citation | author=W.H. Tunner | year=1998 | title=Over the Hump | publisher=Air Force History and Museums Program}}(archive.orgにあり) |
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* {{Citation |last=Beschloss|first=Michael R. |title=The Conquerors: Roosevelt, Truman and the Destruction of Hitler's Germany, 1941–1945|year=2003| author-link =Michael Beschloss|publisher=Simon and Schuster|isbn=0-7432-6085-6}} |
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* {{Citation | last = Canwell | first = Diane | title = Berlin Airlift, the | year = 2008 | location = Gretna | publisher = [[Pelican Publishing]] | isbn = 978-1-58980-550-7 | url = https://archive.org/details/berlinairliftthe00dian }} |
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* {{Citation |last=Cherny |first=Andrei |title=The Candy Bombers: The Untold Story of the Berlin Airlift and America's Finest Hour |year=2008 |author-link=Andrei Cherny |location=New York |publisher=G.P. Putnam's Sons |isbn=978-0-399-15496-6 |url=https://archive.org/details/candybombersunto00cher }} |
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* {{Citation |last=Daum|first=Andreas|author-link=Andreas Daum|title=Kennedy in Berlin|location=New York|publisher=Cambridge University Press|year=2008}} |
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* {{Citation | title=Fly me, I'm Freddie | year=1980 | last1=Eglin |last2=Ritchie |first1=Roger |first2= Berry | place=London | publisher=Weidenfeld and Nicolson | isbn=0-297-77746-7}} |
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* Harrington, Daniel F. ''Berlin on the Brink: The Blockade, the Airlift, and the Early Cold War'' (2012), University of Kentucky Press, Lexington, KY, {{ISBN|978-08131-3613-4}}. |
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* Larson, Deborah Welch. "The Origins of Commitment: Truman and West Berlin," ''[[Journal of Cold War Studies]],'' 13#1 Winter 2011, pp. 180–212 |
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* {{Citation |last= Lewkowicz |first=Nicolas |title=The German Question and the Origins of the Cold War|year=2008 |location=Milan |publisher=IPOC |isbn= 978-88-95145-27-3 }} |
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* {{Citation |last=Miller|first=Roger Gene|title=To Save a City: The Berlin Airlift, 1948–1949|url=http://media.defense.gov/2010/Oct/01/2001329741/-1/-1/0/AFD-101001-053.pdf|year=1998|publisher=US Government printing office|id=1998-433-155/92107}} |
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* {{Citation |last=Miller|first=Roger Gene|title=To Save a City: The Berlin Airlift, 1948–1949|year=2000|publisher=Texas A&M University Press|isbn=0-89096-967-1}} |
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* Schrader, Helena P. ''The Blockade Breakers: The Berlin Airlift'' (2011) |
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* {{Citation |title= Russia and Germany Reborn: Unification, the Soviet Collapse, and the New Europe |year=2000 |last1= Stent |first1= Angela | author-link =Angela Stent|publisher=Princeton University Press |isbn= 978-0-691-05040-9}} |
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* {{Citation |last=Tunner|first=LTG (USAF) William H.|title=Over the Hump|year=1998 |ref={{sfnRef|Tunner1964}} |orig-year=1964|publisher=Duell, Sloan and Pearce (USAF History and Museums Program)|url=https://archive.org/details/OverTheHump}} |
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* {{Citation |last=Turner|first=Henry Ashby|title=The Two Germanies Since 1945: East and West|year=1987|publisher=Yale University Press|isbn=0-300-03865-8}} |
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* {{Citation |last=Wettig|first=Gerhard|title=Stalin and the Cold War in Europe |year= 2008|publisher=Rowman & Littlefield|isbn=978-0-7425-5542-6}} |
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== 関連項目 == |
== 関連項目 == |
2023年5月12日 (金) 08:43時点における版
ベルリン封鎖(ベルリンふうさ、ドイツ語: Berlin-Blockade)は、第二次世界大戦終結後の1948年6月、ソビエト連邦政府が、西ドイツの西ベルリンに向かう全ての鉄道と道路を封鎖した事件である。冷戦初期を象徴する出来事である。
背景
分割統治
1945年7月17日から8月2日まで、戦勝国は戦後ヨーロッパの構想をポツダム協定に基づいて、オーデル・ナイセ線の西側を4つに分割し、4か国で臨時統治することを決めた。その4カ国とは、アメリカ、イギリス、フランス、そしてソ連であった。これらの支配地域は都市の場所ではなく、戦勝国の軍の現在位置によって、大まかに決められた[1]。連合国統治評議委員会はベルリンについても、同様に4つに分割されることになり、160 平方キロメートルがソ連統治下に収まった。アメリカ、イギリス、フランスは都市の西側を統治下においた[1]。
東側はソ連が共産党(KPD)と社会民主党(SPD)を統合し、ドイツ社会主義統一党(SED)を結成させ、SEDはマルクス・レーニン主義であって、ソ連の傀儡ではないと主張した[2]。SEDの指導者たちは反ファシスト且つ民主主義政権、議会制民主主義の確立を要望していたものの、ソ連軍政はその他全ての政治活動を抑圧した[3]。また、ドイツの工場、設備、技術者、経営階層や、熟練工員はソ連へと接収された[4]。
1945年6月の会合で、スターリンはドイツの共産主義の指導者たちに、支配地域内のイギリスを徐々に弱体化させていき、アメリカは1年~2年以内には撤収し、影響力が無くなるだろうと語った。これによりソ連による共産主義支配が進み[5]、スターリンらは1946年初めに、ブルガリアとユーゴスラヴィアの代表団を訪れ、ドイツはソ連側に置かなければならないと語った[5]。
ベルリン封鎖に至った要因としては、ベルリンへと至る道路や鉄道について、公式協定が無かったことがあげられる。戦争終了時点で、西側指導者はソ連の良識に任せてしまっていた[6]。その時点では、西側はソ連が列車を1日に1線路10便に制限したのは一時的なものだろうと考えていたが、後に、ソ連側は輸送路の拡張には拒絶の意を示した[7]。
ソ連はベルリンへの空路はハンブルク、ビュッケブルク、そしてフランクフルトのみに限定していた[7]。1946年、ソ連軍は農作物の配送をストップさせ、アメリカ軍司令官ルシウス・D・クレイは西ドイツからソ連への解体した工業製品の輸送を止めることで応酬した。ソ連はこの措置に対して、アメリカの政策に反対するキャンペーンを行ない、占領下の行政活動を妨げる措置をとった。
1948年にベルリン封鎖が始まるまで、トルーマンは1949年に予定していた西ドイツ政府の設立後も、アメリカ軍を西ベルリンに駐留させるべきか決めかねていた[8]。
1946年の選挙とベルリン
ベルリンは間もなく、アメリカとソ連のヨーロッパ再興の思惑が交錯する中心地点となった。ソ連の外務大臣、ヴャチェスラフ・モロトフはこう記している。「ベルリンで起きることは、ドイツに影響する。ドイツで起きることはベルリンに影響する」[9]。ベルリンは戦争によりかなりの損害を受けていた。戦争前は430万の人口を誇っていたが、戦後は280万に減っていた。
1945年から1946年にかけて、ソ連領内のドイツ人は強制移住や、政治的抑圧、厳寒を耐え忍び、ソ連に対して、敵意を感じていた[5]。1946年の州議会選挙・大ベルリン(東西両地区)の市議会選挙の結果は、特にソ連支配下のベルリンにおいては反共産主義の抗議を表した投票結果となった[5]。ベルリン市民は非共産主義者に投票していた[注釈 1]。
政治的地域分布
西ドイツ移行への動き
アメリカはドイツがソ連支配下に落ちてしまうのは避けられないだろうと見ており、アメリカ大使ウォルター・ベデル・スミスはアイゼンハワーに対して「我々の要求事項をソ連の意に添うような妥協した条件で、ソ連からの合意を引き出した結果のドイツ統一は望んでもいないし受け入れない」といった。アメリカ側は極秘裏に西ヨーロッパの経済を再興するために、ドイツを取り込む必要があった[10]。
ベネルクス三国の代表者は1948年前半に2度ロンドンで会合の場を持ち、そこでの決定によって、ソ連がどう出るかは別として、ドイツの今後について議論した[11][12]。結果的にはドイツ対外債務に関するロンドン協定はロンドン債務協定として知られるようになった。1953年のロンドン債務協定に基づいて、ドイツの賠償金は50 %減の150億マルクに減らされ、支払期限は30年延長され、急速に再興するドイツ経済へのインパクトは軽微であった[13]。
この会議の声明に対して、1948年1月下旬、ソ連はベルリンへと運行しているイギリスとアメリカの列車の乗客に対して身分証の提示を求めるために停車させるといったことを始めた[14]。1948年3月7日に、マーシャルプランの延長が決まり、西側諸国のドイツの経済統合が決定し、連邦政府の設立が合意された[11][12]。
3月9日に、スターリンとその軍事アドバイザーが会議を行ない、会議のメモを1948年3月12日に、モロトフに送付、メモの内容はベルリンへの通行を規制することで、西側の政策をソ連の意に沿うようにするというものだった[15]。連合国軍評議会は1948年3月20日に最後の会議を行ない、ワシーリー・ソコロフスキーがロンドン会議の結果の共有を要求し、ロンドン会議で交渉にあたった者からは最終結果はまだであるということを聞き、ソコロフスキーは「この会議の継続に意味を見出せないので、閉会を宣言する」と言った[15]。
ソ連代表団は立ち上がり、退場した。トルーマンは後に「ドイツの大部分に関しては、以前からそうだったが、4か国による統治が決定的に機能不全となってしまった。ベルリン市にとっては、とてつもない危機になってしまった」[16]と述べている。
4月危機と少量空輸
1948年3月25日、ソ連はアメリカ、イギリス、フランスの占領下にあるドイツとベルリンの軍隊と乗客の往来を制限する命令を発行した[14]。この新しい施策は4月1日に始まり、貨物はソ連側の許可なくして、ベルリンから運び出してはならないものだった。各々の列車とトラックはソ連当局のチェックを受けることになった[14]。4月2日には、クレイ将軍は全軍用列車の停止を命令し、駐屯部隊は飛行機で移動するよう命令を下し、これは『少量空輸』と呼ばれた[14]。
ソ連は1948年4月10日、西側の軍用列車の往来の制限を緩和したものの、引き続き、75日間にわたって、一定周期で鉄道と道路網の妨害を続け、一方のアメリカは貨物輸送機で軍の派遣を続けた[17] 。6月には1日20回の飛行が行われ、ソ連の行動への備えとして、食料品を貯蔵していった[18]。ベルリン封鎖は6月の終わりに始まり、そのころには主な食料品については最低でも18日、物によってはそれ以上に供給されており、以後の空輸までの時間的余裕が構築できた[19]。
同時に、ソ連軍の飛行機が西ベルリンの空域に侵入し、嫌がらせ行為をおこなった[20]。4月9日には、ソ連空軍 Yak-3がイギリス空軍ガトゥー飛行場近くでブリティッシュ ヨーロピアン エアウェイズ ビッカース バイキング 1B 旅客機と衝突し、両方の飛行機の乗員が死亡した。この事件はソ連と西側の緊張を高める結果となった[21][22][23]。
4月のソ連内部の報告では、「我々が課した制限によって、ドイツにおけるアメリカとイギリスの威信にダメージを与えられた」としており、アメリカは空輸には高い犠牲を払うことになるだろうと認めたと報告している[24]。
4月9日、ソ連はアメリカ軍の通信設備のメンテナンス人員の退去を求め、ビーコン装置の使用を阻み、空路の利用を困難にした[17]。4月20日、ソ連は、今度は船がソ連支配区域に入る際には入域許可が無ければならないということを要求した[25]。
通貨危機
西ドイツの安定的な経済の構築のために、ライヒスマルクの改革を必要としていた。ソ連は戦争中に価値の下がったライヒスマルクを、なおも刷り続けることでインフレを悪化させ、結果的にタバコが事実上の通貨として使われたり、あるいは物々交換で商取引を行なっていた[26][27]。ソ連は西側の改革には反対していた[26][27]。新しい通貨の発行は不当で一方的であると主張し、西ベルリンと西ドイツの陸上交通の接続を全て切断した。ソ連はドイツの新しい通貨はソ連が発行する通貨が有効であると考えていた[28]。
非ソ連区域では、ソ連以外の国によって新通貨が導入されることが予期されたので、ソ連は1948年5月に軍を差し向け新しい通貨を導入し、ソ連支配下のベルリンではソ連以外の国による通貨の使用は認めないとした[26]。6月18日、アメリカ、イギリス、フランスは6月21日に、ドイツマルクを導入するとしたが、ソ連はベルリンにおいては法定通貨としては認めないとした[26]。西側は既に2億5000万ドイツマルクをベルリン市に輸送しており、すぐにベルリンの基軸通貨となった。スターリンは西側がベルリンを放棄するように仕向けようとした。
封鎖
封鎖開始
1948年6月18日にドイツマルクの導入が発表された後、ソ連の警備兵はベルリンとつながっている全旅客列車と高速道路網を封鎖し、西側の航空貨物を遅延させ、水運もソ連側の特別な許可が無ければならないとした[26]。6月21日、ドイツマルクが発行され、ソ連軍はベルリンへと向かう軍用列車を停車させ、西ドイツへと送り返した[26]。6月22日、ソ連は東ドイツマルクを導入すると発表した[29]。
同日、ソ連側の代表は、西側各国代表に対して、「貴国らとベルリン市民は、ソ連占領下にあるベルリンにおいて、通貨流通を独占しようとしている。そのため、経済制裁並びに行政的制裁を課す可能性があることを警告する。」と述べた[29]。ソ連はイギリス、アメリカ、フランス3か国に対する大規模なプロパガンダをラジオ、新聞、ラウドスピーカーを通じて行った[29]。ソ連は巧妙に喧伝された軍事作戦を実施した。ソ連の部隊がベルリンを占領するのではないかという噂が急速に広まっていた。ドイツの共産主義者は、ソ連領内の地方政府に参画している新西ドイツの指導者に対して攻撃を仕掛けていた[29]。
6月24日、ソ連は非ソ連圏とベルリン間の陸路・水路の接続を供与した[29]。同日、ソ連はベルリン内外への鉄道と水運を停止させた[29]。西側はイギリスとアメリカの区域から東ドイツへの全鉄道網を停止させるという逆封鎖に打って出た。続く数か月、この逆封鎖策は東ドイツにダメージを与え、石炭と鉄鋼の出荷が滞り、ソ連区域の産業発展を阻害させることに成功した[30][31]。6月25日ソ連はベルリンの非ソ連区域の市民への食糧供給をストップさせた[29]。ベルリンから西側への自動車での移動は許可されたが、橋の修理が必要であるのを理由として、23 km迂回する必要があった[29]。ソ連はまた、ベルリンで稼働していたメインの発電所を支配下に置いて、電力供給を停止するなどした[27]。
非ソ連区域からベルリンへの地上を使った通行は封鎖されていたが、唯一空路は開かれていた[29]。ソ連は過去3年間ベルリンの非ソ連区域において、イギリス、フランス、アメリカに道路、トンネル、鉄道、運河の使用許可の法的な要求を突っぱねていた。ソ連の善意に頼っていた3か国はベルリンに入るまでにソ連区域を通る権利を保障する交渉も行わなかった[6]。
その時点では、西ベルリンの各物資の備蓄状況は、食料は36日分、石炭は45日分があった。軍事的には、アメリカとイギリスは戦後復員を進めており、人員が少なくなっていた。アメリカは他の西側と同様に、多数の部隊を解体し、ヨーロッパ戦域ではかなり小規模になっていた[32]。アメリカ陸軍は1948年2月までには552,000人にまで人員を減らされていた[33]。ベルリンの西側の人員はアメリカ軍は8,973人、イギリス軍は7,606人、フランス軍は6,100人であった[34]。1948年3月、西ドイツのアメリカ軍の98,000人の内、31,000人だけが戦闘部隊であり、予備1個師団があるのみだった[35]。一方のソ連軍は150万にも上る兵力でベルリンを包囲していた[36]。ベルリンのアメリカ軍2連隊はソ連軍の攻撃に対して、太刀打ちできそうもなかった[37]。アメリカの戦争計画は数百の原子力爆弾に基づいたものであったが、1948年半ば時点でわずか50基のファットマン級の原子力爆弾があるだけであった。1947年の終わりまでには65機のシルバープレートB-29を製造予定であったが、1948年3月時点で、当初目標の65機があるのみで、パイロットも不足していた。1948年7月、8月には3機のB-29が到着した[38]。必要であれば核兵器での報復も辞さないとする姿勢を示す意図があったものの、ソ連側は恐らくは原子力爆弾が搭載されていないことを知っていた。最初のシルバープレートの爆撃機が到着したのは、ベルリン封鎖も終わりになろうかという1949年4月のことであった[39]。
クレイ将軍は、ドイツのアメリカ占領地域の責任者で、1948年6月13日、ワシントンDCにドイツから撤退すべきではない旨を要約した内容の電報を送った。
「ベルリンで我々アメリカが現在の立ち位置を維持することは難しいが、それを基に決断を下してはならない。我々はベルリンにとどまり続けなくてはならず、そしてそれがドイツ並びにヨーロッパでの威信を明示することになる。善かれ悪しかれ、アメリカの意図を知らしめることになる」[40]
ドイツのソ連軍政府はイギリス、フランス、アメリカには黙認する以外選択肢がないと考え、ベルリン封鎖の開始を祝った[41]。 クレイ将軍は、ソ連が第三次世界大戦を始めるとみられなくないため、ハッタリを掛けているのだろうと考えた。クレイの見立ては、スターリンは戦争を望んでおらず、西側は慎重であり、戦争回避の道を選択し、西側から譲歩を得ることを目的としているとした[34]。 アメリカ空軍司令官のカーティス・ルメイは、地上部隊がベルリンへの到達を試みている間、護衛戦闘機を伴ったB-29をソ連空軍基地に接近させ、封鎖への抗議行動を支持したとされるが、ワシントン側は却下した[39]。
「ベルリン大空輸」開始
地上ルートに関しては交渉されたことはなかったが、空路についてはそうではなかった。1945年11月30日、3つの25マイル幅のベルリンへの空中回廊が合意に至っていた[42]。
空輸を行なうか否かは、効果と規模にかかっていた。もし、物資が迅速かつ十二分に供給できなければ、ベルリン市民の餓死を避けるためにはソ連に頼らざるをえなくなる。クレイはルメイから空輸が可能かどうかアドバイスを得てはどうかと相談された。当初は、石炭を運べるかという質問に対して、ルメイは驚いたものの、「何であっても運べる」と答えた[42]。
アメリカ軍がイギリス空軍に共同空輸の可能性を相談したところ、イギリス空軍はすでにベルリンでイギリス軍への空輸を実施していた。クレイ将軍の仲間であるブライアン・ロバートソン将軍は、空輸に必要な物資の具体的な量の算出を準備していた。1948年4月の小規模空輸の際[14]、イギリスのレジナルド・ウェイト空軍准将は、都市全体を空輸するのに必要な資源を計算していた[43]。
アメリカ軍政府は、1日の最低配給量1,990キロカロリー(1948年7月)に基づき[44]、1日に必要な物資の合計を、小麦粉と小麦が646 t、穀物125 t、脂肪64 t、肉・魚109 t、乾燥芋180 t、砂糖180 t、コーヒー11 t、粉ミルク19 t、赤ちゃん用ミルク 5 t、生イースト3 t、乾燥野菜144 t、塩38 t、チーズ10 tとしている。200万人以上のベルリン市民を維持するには、合計で1,534トンが毎日必要だった[42][45]。さらに、電力や暖房のために、石炭、軽油、ガソリンも毎日3,475 tが必要だった[46]。
これら物資を輸送するのは簡単ではなかった。戦後動員解除が進んだため、ヨーロッパに駐留しているアメリカ軍にはC-47がわずか2グループ[47]、公称では96機の航空機が3.5 tだけを輸送できる状態だった。ルメイは全力を尽くして1日100往復の輸送を行ない、1日300 tの物資を輸送できると考えていた[48]。イギリス空軍はドイツの方に航空機を配置していたため、アメリカ軍よりは備えがあり、1日400 tの輸送ができる見込みだった。
イギリスは短期的にはベルリン空輸のため、あらゆる航空輸送を一時停止することで1日750 tの輸送が期待された[48]。長期間の作戦のため、アメリカは可及的速やかに航空機を追加し、ベルリンの空港への飛行量を増やす必要があった。唯一適した航空機が、4発エンジンのC-54スカイマスターとアメリカ海軍のR5Dで、そのうち、565機を保有しており、軍事航空輸送部には、268機があり、兵員輸送団には168機、その他80機がアメリカ海軍にあった。そして、ドイツ向けに発注しているC-54に加え、民間で運用中のC-54、447機が緊急時に備えて飛行可能な状態であった[49]。
イギリスよりベルリン空輸が実現可能である裏付けが取られ、ベルリン空輸が最良の手段と思われた。唯一の懸念点はベルリンの人口の多さにあった。クレイはベルリン市長のエルンスト・ロイターと彼の側近ヴィリー・ブラントを招集した。クレイはロイターに「この通り、空輸を行う予定ですが、うまくいくかどうかは保証しかねます。うまくいったとしても、ベルリン市民が寒さと飢えに苦しむとは思います。そして、ベルリン市民が耐え抜くことができなければ失敗に終わります。私はベルリン市民がこの空輸を受け入れるというあなたの保証がなければ、実行に移したくありません。」といった。ロイターは、疑念を抱いたものの、クレイにベルリンは必要な犠牲を被る覚悟があり、ベルリン市民はクレイの行動を支援する用意があると保証した[40]。
アルバート・ウェデマイヤー将軍は、ベルリン封鎖が起きたとき、視察のためヨーロッパにいた。彼は1944年から1945年まで中国・ビルマ・インド戦線の司令官で、インドからヒマラヤ山脈のハンプを越えて、中国への空輸を行ったことがあった。彼はベルリンの空輸に賛同し、強力な後押しを得た[40]。イギリスとアメリカは直ちに共同作戦を開始することに同意した。アメリカはヴィタル作戦[50]と名付け、イギリスはプレインフェア作戦[51]と名付けた。オーストラリア軍による空輸の参加は1948年9月に始まり、これはペリカン作戦と名付けられた[52]。
イギリスはカナダに飛行機と乗組員の供与を求めたが、カナダは戦争のリスクと事前に相談を受けていないとして却下されてしまった[53]。
6月27日、クレイはウィリアム・ドラッパーに現在の状況を要約した電報を打った。
既に、6月28日月曜日に最大規模の空輸が開始するよう手配しております。我々は70機のC-47を利用可能で、これによって空輸が持続できます。イギリスが利用可能な機数につきましては不明ではありますが、ロバートソン将軍は本当にそれだけの機数が利用できるか懐疑的であります。我々ベルリンの2つの空港は一日につき50機の追加の航空機が利用できる状態です。空輸に使用する航空機はC-47、C-54ないしそれに類似する着陸特性をもった航空機でなければならず、サイズが大きい航空機は欲しておりません。ルメイは2つのC-54のグループを編成するよう促しました。この空輸でもって、我々は1日に600ないし700 tを輸送できなくてはなりません。通常の食料で1日2000 tが必要でありますが、1日に600 tの輸送(輸送効率を最大限に活用するため乾燥食品)は、ドイツ国民の士気を高め、ソ連の封鎖に対して、妨害することにつながります。これを達成するためにも、ドイツへ最速で50機の追加輸送機を送って下さい。一日一日の遅れが、我が国のベルリンでの地位を低下させることにつながります。これら輸送機を最大限に生かすためにも乗組員も必要です。クレイ、1948年6月[40]。
イギリス軍は、ハンブルク地域のいくつかの飛行場から南東へと飛行し、イギリス支配地域のガートーへと飛行し、ハンブルクへと帰還もしくはハノーヴァーへと着陸した。しかし、アメリカとは異なり、イギリスは南東の飛行回廊を使って、往復飛行を行なった。時間節約のために、ベルリンに着陸せず、石炭といった物資を空中から飛行場に向けて投下したこともあった。7月6日、ショート ヒースも加わった。ハンブルク近くのエルベ川のフィンケンヴェルダーからガートー近くのハーフェル川へと着陸し、機体の腐食の強さを生かして、粉ミルクと塩の輸送任務にあてがうことができた[54]。オーストラリア空軍も、イギリス軍に貢献した。
様々な飛行特性を持ち、かつ多数のフライトを行うためには、緊密な連携が必要であった。スミスとそのスタッフはブロックシステムと呼ばれる複雑な航空タイムテーブルを構築した。C-54とC-47のベルリン空輸を8時間3シフトで構成した。輸送機は4分毎に離陸し、1,500 m上空の飛行を始点として、次に飛行する航空機は、その300 m上空を飛ぶというサイクルを5回繰り返した。この積み重ねた飛行システムは後に梯子と呼ばれた[55][56][57]。
空輸の第1週目は一日平均して90 tの輸送にとどまっていたが、第2週目は1,000 tに達した。これにより、当初考えられていたわずか2週間では十分な量となった。東ベルリンの共産主義の新聞は、この計画を一蹴し、アメリカの面目とベルリンにおける地位を保つだけの無駄な試みと報じている[58]。
乗組員の奮闘と日々日々増える輸送量を華々しく報道していたにもかかわらず、USAFEは空輸の専門知識を持っていないために、空輸が機能していたとは言えない状況だった。メンテナンスはおざなりで、乗組員は効率よく使われていたとはいえず、輸送機も十二分に活用されておらず、飛行記録もきちんととっていなかった。目立ちたがりな一時乗組員が実務的な空気を阻害していた[59]。この問題については、1948年7月22日のクレイとの会議で、長期間の空輸が不可欠であることが明らかになった時、アメリカ国家安全保障会議によって把握された。ウェデマイヤーは軍事航空輸送局(MATS)の作戦で副司令官のウィリアム・H・ターナーをベルリン空輸作戦の司令官に推薦した。ウェデマイヤーは、第二次世界大戦中、中国戦線のアメリカ軍の司令官を務めていたが、航空輸送司令部のインド・中国区域の司令官であったターナーはインドと中国間のハンプ空輸の再編を行い、輸送量と時間数を効率化させた実績があった。アメリカ空軍のホイト・S・ヴァンデンバーはウェデマイヤーの推薦に同意した[55]。
ブラックフライデー
1948年7月28日、ターナーは作戦を引き継ぐために、ヴィースバーデンに到着した[60]。彼はアメリカ軍とイギリス軍の両軍の空輸を統合することでルメイと合意に至り、1948年10月中旬に実行に移された。MATSは直ちに 8つのC-54の飛行隊(72機)をヴィースバーデンにラインマインの空軍基地に派遣し、既に派遣済みの54機を増強し、最初の飛行隊は7月30日までに、残りは8月中旬までに合流し、世界中からかき集めてきたC-54の全乗組員の3分の2に当たる人員は輸送機1機につき3人の乗組員を割り当てるべくドイツへと移送が始まった[61]。
ターナー到着後の2週間後の、8月13日、ターナーは、その時点でベルリンへの空輸回数が一番多かったポール・O・ライキンズに叙勲を与えるためにベルリン行きを決断した[62]。ベルリンの雲は建物の高さくらいにまで落ち、大雨によりレーダーの視認性が悪かった。C-54が墜落し、滑走路の端で炎上し、その後ろの輸送機も避けようとしてタイヤをパンクさせてしまった。3機目の輸送機は誤って建設中の滑走路に着陸した後、地上を旋回して移動した。発効した標準手順に従って、ターナーの飛行機を含む全飛行機は悪天候下で910 mから3,700 mの高さにまで待機を命じられ、空中衝突の危険性が高まっていた。新たに投入された飛行機は空中衝突を避けるために、離陸が許可されず、地上で支援を行った。誰も死亡することはなかった一方で、ターナーはテンペルホーフの管制塔がターナーが上空をぐるぐる回っているときに、状況を制御できなかったことに戸惑いを感じた。ターナーは自機を除く全飛行機に対して即刻帰投することを無線で命令した。これはブラックフライデーと呼ばれ、ターナーは空輸の成功が始まったのはこの日以降だと述べている[63][64]。
ブラックフライデーの結果、ターナーは新しいルールを制定した。計器飛行方式は視界に関わらず、常に動作させること、そして、出撃時のベルリン着陸は一度で行い、アプローチに失敗した場合は反転し帰投することとした。これによりスタックは完全になくなった。直線進入であれば、9機の輸送機を着陸させる時間で30機の輸送機を着陸させられること、300 tの貨物を輸送することができることがわかった[65]。事故発生率と遅延は即時に降下した。ターナーは、C-54で10 tの貨物を降ろせる時間は、C-47の3.5 tの貨物を降ろす時間と同じくらいだったことに気づき、C-47輸送機からC-54輸送機への切り替えを行なうことにした。この効率性の原因としては、C-47の荷下ろしをする場所は傾斜があるためだった。三輪ギアのC-54の貨物デッキは水平に作られており、これにより、トラックがバックして素早く荷下ろしができた。輸送機の切り替えは1948年9月28日以降に実施された[66]。
7月31日、ターナーは、乗組員達が空港で食事をとってから、輸送機に戻るのに時間がかかり過ぎていることに気づき、ターナーはベルリン赴任中はいかなる理由があっても輸送機を離れてはならないと命じた。その代わり、ジープにスナックバー機能を備え付け、荷下ろし中でも、輸送機で食事がとれるようにした。輸送機のパイロット、ゲイル・ハルボーセンは後に、「ターナーはスナックバーにはきれいなドイツ人女性達を配属していた。彼女らは私たちが忙しくてデートできないのを知っていた。そんなわけで、彼女はとてもフレンドリーだった」と述べている[46]。作戦将校はパイロットが食事中に滑走許可やその他諸々の情報を渡していた。エンジンが停止するとすぐに荷下ろしが始まり、ラインマイン又はヴィースバーデンに帰投する、離陸前のターンアラウンド時間は30分に短縮された[67]。
イギリス空軍はショートサンダーランドをベルリン近くハーフェル川に係留し、塩を荷下ろししていた。限られた輸送機を最大限に活用するために、ターナーはこれまでの輸送間隔を、3分、150 mごととして、高度の上限も1,800 mにした[56]。メンテナンスは25時間、200時間、1000時間での点検が最優先事項となり、より一層輸送機が有効活用されるようになった[68]。ターナーはシフトも6時間に変更し、1日に1,440回着陸させた。
1948年8月の終わりまでには、空輸は成功したと言えた。一日に1,500回以上の飛行をこなし、西ベルリンへの供給を十二分に維持できる4,500 t以上の貨物を輸送していた。1949年1月から、225機のC-54機が空輸任務に従事していた[61][69]。空輸の量は1日に5,000 tにも達した。
Operation Little Vittles
アメリカ空軍のパイロット、ゲイル・ハルボーセンがキャンディとチューインガムを手製のパラシュートで投下することを思いついた。これは後に、Operation Little Vittlesといわれた。ゲイルは公休時にベルリンへと飛び、カメラで映画を作ることにした。彼は1948年7月17日、テンペルホーフ空港へと到着し、輸送機を見ている滑走路の端に集まった子供たちのところへ行った。彼は自己紹介し、輸送機についてどう思うか尋ね始めた。友好のしるしとして、彼は2本のチューインガムを差し出した。子供たちはチューインガムを分け、紙包みの匂いも嗅いでいた。ゲイルは子供たちの感謝する様子と、我先にチューインガムを奪い合うこともなかったため、感銘を受け、子供たちに、今度はもっと持ってくると言い残した。ゲイルが立ち去る前、1人の子供がどうやったらゲイルが飛んできたことがわかるのか尋ねた。ゲイルは、「飛行機の翼を揺らしているのが、僕の飛行機だよ」と答えた[42]。
翌日、ゲイルは約束通り、輸送機を揺らして、地上にいる子供たちに向かって、パラシュートにチョコレートを括り付けて、投下した。この後毎日子供の数は増えていき、ゲイルはたくさんお菓子を落とすようになった。まもなく、「翼を揺らすおじさん」や「チョコレートおじさん」、「空飛ぶチョコレート」といった宛名で手紙が基地に届くようになった。他のパイロットも参加するようになり、このニュースがアメリカで報道されるや、世界中の子供がキャンディを差し出した[70]。まもなく、大手キャンディメーカーも協力するようになった。最終的に、3 t以上のキャンディがベルリンにばらまかれ[42]、作戦はプロパガンダの面で大成功に終わった。ドイツの子供はキャンディをばらまいた輸送機をロジーネン・ボンバーやキャンディー・ボンバーと命名した[71]。
ソ連側の対応
ソ連は軍事面では優位に立っていたが、戦争で疲弊した経済と社会の復興に専念していた。アメリカはより強力な海軍と空軍があり、核兵器も所有していた。両国は戦争は最早望んでおらず、ソ連は空輸の停止は求めなかった[72]。
当初の反応
空輸が盛んになるにつれて、西側は不可能とされていた空輸も可能になっていた。それに対して、1948年8月1日、ソ連は東ベルリンへ来た者に対して、無料で食料を提供し、配給カードの登録を行なうようにした結果、1948年8月4日までで2万2000人のベルリン市民がこのカードを受け取っていた[73]。1949年には10万人の西ベルリン市民が東ベルリンでソ連の配給を受け取っていた。西ベルリン市民にはソ連の食料の配給を拒絶したものもいた[74]。
空輸の間、ソ連とドイツの共産主義者は窮地にある西ベルリン市民に対して、心理戦を仕掛けていた[74]。ラジオ放送では、全ベルリンはソ連当局の元にあり、西側はまもなく占領を放棄し立ち去ると放送していた[74]。ソ連は、民主的に選出された行政府のメンバーに対して、ソ連領内にある市民ホールで執務しなければならないと嫌がらせをしてきた[74]。
空輸の最初の数か月は、ソ連は西側の空輸を様々な手段で嫌がらせをした。例えば、ソ連の飛行機による妨害行為、空中回廊内でのパラシュート降下での妨害、そして、夜間航行中の西側パイロットに対して、サーチライトで照らすなどと言った、嫌がらせ行為をしてきた。西側によると、対空攻撃などを含む733件の嫌がらせ行為があったとしているが、これについては誇張も含まれている。妨害行為は有効に機能しなかった[75][76]。イギリス空軍パイロットのディック・アルスコットは1件の妨害行為について、「ソ連の航空機が自機の20フィート上空につけてきて、いやな気分になった。ある日なんか3回も妨害飛行を受けた。次の日2回出くわした時点で、いい加減私はうんざりした。そんなわけで3回目の時は、機首を反転させ、奴の飛行機に向けた。幸いにも奴はおじけづいてどっかへ行った」と語った[77]。
ベルリン市政府における、共産主義者による一揆(プッチ)未遂
1948年の秋、ソ連支配下内での市民ホールで開催されるベルリン市議会で非共産系が大多数を占めるのは不可能であった[74]。議会は1946年10月20日のベルリン暫定憲法によって選出されていた。SEDの息のかかった警察官が見守る中、共産主義者が市庁舎にある市民ホールへと侵入し、議会の妨害を行い、非共産主義者を脅した[74]。ソ連はSEDによる市民ホールの乗っ取りを行う計画的な一揆を計画した[78]。
3日後、アメリカ軍占領地区放送局はベルリン市民に抗議を行なうよう呼びかけた。1948年9月9日、ブランデンブルク門で50万人が集まった。空輸はその時点ではうまくいっていたが、西ベルリン市民は西側が空輸を止めてしまうのではないかということを危惧していた。SPDの市議会議員であったエルンスト・ロイターはマイクを持ち、「世界の人々よ!アメリカ、イギリス、フランスの人々よ!この街を見よ!この街のベルリン市民を見捨ててはならないし、見捨てられるはずもないと理解してくれ!」と述べた[46]。
抗議活動の参加者はソ連占領地区に殺到し、ブランデンブルク門にかかっているソ連国旗を引きはがした。ソ連の憲兵は素早く対応し、抗議に参加した者の内1人が死亡した[46]。張り詰めた状況はますます深刻化し、さらなる流血沙汰もあったが、イギリスが介入し、ソ連の憲兵隊を追い払った[79]。これほど多くのベルリン市民が一同に会することはなかった。世界的な反響を呼び、とくにアメリカでは、ベルリン市民の強固な団結に対して、見捨てずに空輸を続けるべきだいうことが確立された[78]。
ベルリン議会は19.8 %の議席を占めるSEDがボイコットしてしまい、ベルリン工科大学の食堂で開催することを決定した。1948年11月30日、SEDが選出した議員と1,100人の共産主義者をかき集め、東ベルリンのメトロポル劇場で、選出済みの市政府と民主的に選出された市議会議員を解任し、フリードリヒ・エーベルト率いる共産主義者にとって変えるという、違憲の臨時市議会を開催した[78]。このような動きに対して、西ベルリンでは法的には有効と見なされなかったが、ソ連側は東側での活動を妨害してきた。
11月の選挙結果
市議会はSEDによってボイコットされ、1948年11月5日に再選挙が開かれたものの、分離選挙として、SEDから貶められ、東側では選挙の妨害が行われた。民主系の政党が議席を獲得するために立候補する一方で、SEDはこの選挙には誰も候補者は立てず、選挙のボイコットを西側で呼びかけた。しかし、選挙の結果は、西側の有権者の投票率は86.3 %で、社会民主党(SPD)が64.5 %(=76議席)を得票し、ドイツキリスト教民主同盟(CDU)は19.4 %(26議席)、LDP(ドイツ自由民主党)は16.1 %(17議席)を獲得した[74]。
12月7日、新しい西ベルリン市議会が事実上の西ベルリン市の政府となり、市長はソ連の妨害にはあったものの、1946年初めに着任していたエルンスト・ロイターが再度市長を務めることになった[78]。このように東西2つに分断された市政府が公認されることになった。東側では、家、通り、区単位の首長によって、共産主義体制が構築された。
西ベルリン議会はベルリンの事実上の分断を公表し、1950年10月1日発効のベルリン暫定憲法の実行範囲を西側に限定し、その他市議会、市政府、政府首長の名称を変更していった[80]。
イースター祭
1949年4月までには、空輸はスムーズにいくようになったものの、ターナーは慢心しないように司令部にはっぱをかけようと考えた。彼は部隊間の競争精神を信じて、ビッグイベントのアイディアと相まって、より一層の成果を出せると感じた。ターナーはイースター時に、空輸の最高記録を更新することを決定した。これを成し遂げるためには、最大最高の効率が求められ、貨物の取り扱いを簡略化し、石炭のみを空輸した。石炭はこのために貯蔵され、メンテナンススケジュールは輸送機の最大数が利用できるように変更された[81]。
1949年4月15日の正午から、4月16日の正午まで、乗組員は懸命に働いた。そして、4月16日が終わった時には、事故もなく12,941 tの石炭が1,383回のフライトで輸送された[81]。この成果の副次的な結果として、輸送作戦が全体的に活発化し、1日の輸送量が6,729 tから8,893 tへと増えた。4月トータルで234,476 t輸送することができた[58]。
封鎖の終了
1949年4月15日、ソ連のタス通信がソ連による封鎖解除を報道した。次の日、アメリカ合衆国国務省が、封鎖解除への道が開かれたと述べた。まもなく、4か国が交渉を開始し、西側が提示した条件で決着を見た。1949年5月4日、西側は8日以内に封鎖を終了すると声明を発表した。
ソ連によるベルリン封鎖は1949年5月12日午前0時1分に解除された[83]。イギリスの輸送部隊はすぐにベルリンへと向かい、西ドイツからの最初の列車は午前5時32分にベルリンに到着した。その日の遅く、大群衆が封鎖の終了を祝った。1949年5月3日にクレイ将軍の退役がトルーマン大統領によって公表されており、11,000人の米兵と数十機の航空機によって、敬礼された。帰国後、クレイはニューヨークでパレードで歓待され、アメリカの国会での演説を求められ、トルーマン大統領から勲章を授与された。
しかし、空輸については、余裕を見るためにしばらく続けられ、夜間飛行と週末の飛行については十二分に物資が整えば廃止される予定であった。1949年7月24日までには、物資は3ヶ月分が集められ、必要に応じて空輸を再開する十分な時間ができた。
ベルリン空輸は1949年9月30日に公的に終了し、実に15か月に及んだ。アメリカ空軍とイギリス空軍の輸送量は、それぞれ、前者が1,783,573 t、後者が541,937 tに及び、合計で2,326,406 tのおよそ3分の2の輸送貨物は石炭であり、合計の飛行回数は278,228回に及んだ[84]。オーストラリア空軍は2,062回の出撃で7,968 tの貨物と、6,964人を輸送した。C-47とC-54両機の飛行距離は1億4800万 kmにも及び、地球から太陽にまで到達する距離であった[84]。空輸の最盛期には30秒毎に輸送機が到着していた[83]。
空輸に携わったパイロットの所属国はアメリカ、イギリス、オーストラリア、カナダ、ニュージーランド、南アフリカであった[85][86]。
空輸にあたって101人が死亡し、その内訳はイギリス人が40人、アメリカ人が31人[83]、大多数が非飛行時の事故によるものだった[87]。
空輸にかかった費用についてはアメリカ、イギリス、西側占領地域のドイツ当局の間で折半された。概算では当時の金額で2億2400万ドルから5億ドルとされる[88][85][89]。
ベルリンの壁へ
冷戦状態はこの後も長引き、英米仏は統一ドイツ建設の試みをあきらめた。1949年5月にドイツ連邦共和国(西ドイツ)が、10月にドイツ民主共和国(東ドイツ)がそれぞれ建国されるが、東ドイツ(とソ連)は自国民の西ベルリンへの脱走を防止するため、1961年8月13日に突如ベルリンの壁を建設した。
ベルリン封鎖を題材とした作品
脚注
注釈
- ^ 西側の社会民主党(当時は東ベルリンでの活動も許されていた)が第一党、ドイツキリスト教民主同盟が第二党となり、社会主義統一党は第三党にとどまった。
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