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「アル=アズハル大学」の版間の差分

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| 国=エジプト
| 国=エジプト
| 大学名=アル=アズハル大学
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| ウェブサイト=http://www.azhar.edu.eg/
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== 歴史 ==
== 歴史 ==
[[970年]]に建立された{{仮リンク|アル=アズハル・モスク|en|Al-Azhar Mosque}}に付属する[[マドラサ]]として、[[ファーティマ朝]]支配下の[[カイロ]]に設立された。
アル=アズハル・[[モスク]]([[970年]]建立)に付属する[[マドラサ]]として、[[ファーティマ朝]]支配下の[[カイロ]]に設立された。


アル=アズハル・モスクは当初は街の名にちなんでアル=カーヒラ・モスク(カイロ・モスクの意)と呼ばれていたが、後にアズハルという名称で知られるようになっていった。アズハル({{Lang|la|Azhar}})の名の由来には諸説あるが、ファーティマ朝において[[カリフ]]の直系の先祖とされた[[ムハンマド・イブン=アブドゥッラーフ|預言者ムハンマド]]の娘[[ファーティマ]]の称号「アッザフラー」({{翻字併記|ar|الزهراء|Al-Zahrā'}}、「光輝く者」の意)の男性形で「光り輝ける」という意味を持つという説が有力・有名である。
アル=アズハル・モスクは当初は街の名にちなんでアル=カーヒラ・モスク(カイロ・モスクの意)と呼ばれていたが、後にアズハルという名称で知られるようになっていった。アズハル(Azhar)の名の由来には諸説あるが、ファーティマ朝において[[カリフ]]の直系の先祖とされた預言者[[ムハンマド]]の娘[[ファーティマ]]の称号「アッ=ザフラー ( الزهراء Al-Zahrā'「光輝く者」)」の男性形で「光り輝ける」という意味を持つという説が有力・有名である。


アズハルで学術研究が始まったのは975年の[[ラマダン]]月である。[[978年]]に教育活動を開始したとされる<ref name="Kotobank-2875573">{{Kotobank|アル%3Dアズハル大学}}</ref>。イスラーム神学([[カラーム]])、[[イスラム哲学]]、イスラーム法([[シャリーア]])、[[イスラム法学]]および[[法解釈]](フィクフ)、[[アラビア語]]([[フスハー|古典アラビア語]])[[文法学]]と[[言語学]](フスハー)、[[哲学]]、[[天文学]]、[[論理学]]の部門を擁し、ファーティマ朝の宗旨を反映して[[シーア派]]の学府として発足した<ref name="Kotobank-2875573"/>。同時代の他王朝の[[カリフ]]が[[ギリシ哲学]]を背教的で[[ヘレニズム]]的であるとして非難し排除していた中、ファーティマ朝のカリフはギリシ哲学を積極的に奨励し、内外から優れた著作や学者をカイロに集めた。このためアズハルはイスラーム世界における哲学研究の中心地となり、[[プラトン]]、[[アリストテレス]]などの著作の研究が行われ、哲学関連の蔵書は膨大な数を誇るようになった。
アズハルで学術研究が始まったのは975年の[[ラマダン]]月である。[[イスラーム神学]](カラーム)、[[イスラム哲学]]、[[イスラーム法]](シャリーア)、[[イスラム法学]]および[[法解釈]](フィクフ)、[[アラビア語]]([[古典アラビア語]])[[文法学]]と[[言語学]](フスハー)、[[哲学]]、[[天文学]]、[[論理学]]の部門を擁し、ファーティマ朝の宗旨を反映して[[シーア派]]の学府として発足した。同時代の他王朝のカリフが[[ギリシ哲学]]を背教的で[[ヘレニズム]]的であるとして非難し排除していた中、ファーティマ朝のカリフはギリシ哲学を積極的に奨励し、内外から優れた著作や学者をカイロに集めた。このためアズハルはイスラーム世界における哲学研究の中心地となり、[[プラトン]]、[[アリストテレス]]などの著作の研究が行われ、哲学関連の蔵書は膨大な数を誇るようになった。


創立当時のファーティマ朝下では、カリフが直接管理するか、カリフに代わる役人が統括して、大臣または国家の要人が直接教授の任にあたった。現在の大学院にあたるコースも開講しており、世界で最初の成熟した大学であったと評価されている。また創立当初からの伝統では、[[シャリーア|法学]]を志す者に対して誰にでもいつでも門戸を開放するという趣旨から、入学随時・出欠席随意・修業年限なし、という3原則を守っていた<ref>飯森、1980年、138頁。</ref>。学生は出身地・教派などでそれぞれの寮に分けられ、質素な暮らしで研究に打ち込んだとされる<ref name="Kotobank-2128148">{{Kotobank|アズハル学院}}</ref>。
現在の大学院にあたるコースも開講しており、世界で最初の成熟した大学であったと評価されている。また創立当初からの伝統では、[[シャリーア|イスラーム法学]]を志す者に対して誰にでもいつでも門戸を開放するという趣旨から、入学随時・出欠席随意・修業年限なし、という3原則を守っていた<ref>飯森、1980年、138頁。</ref>。


アズハルを現在のような[[スンナ派]]の学府へと旨替えさせ<ref name="Kotobank-2875573"/>のは[[サラーフッディーン]]である。[[12世紀]]後半にファーティマ朝を廃してエジプトにスンナ派王朝の[[アイユーブ朝]]を興した際、シーア派の学府を不要と断じ、アズハルの有していた何万冊もの蔵書を売却もしくは破棄処分させたと言われている。
アズハルを現在のような[[スンナ派]]の学府へと旨替えたのは[[サラーフッディーン]]である。彼が[[13世紀]]後半にファーティマ朝を廃してエジプトにスンナ派王朝の[[アイユーブ朝]]を興した際、シーア派の学府を不要と断じ、アズハルの有していた何万冊もの蔵書を売却もしくは破棄処分させたと言われている。


アイユーブ朝の後を嗣いだ[[マムルーク朝]]下では、[[マムルーク|マムルーク騎士団]]の[[アミール]]の一人がアズハルを統括していた<ref>飯森、1980年、140頁。</ref>。
創立当時の[[ファーティマ朝]]下では、[[カリフ]]が直接管理するか、カリフに代わる役人が統括して、大臣または国家の要人が直接教授の任にあたった。アイユーブ朝の後を嗣いだ[[マムルーク朝]]下では、[[マムルーク|マムルーク騎士団]]の[[アミール]]の一人が統括していた<ref>飯森、1980年、140頁。</ref>。


[[1517年]]、マムルーク朝を破ってカイロを手中にした[[オスマン帝国]]の[[セリム1世]]は、マムルーク時代に栄えた学校や学林モスクを次々と閉鎖したが、アズハルについては存続させ、らもエジプト滞在中にはアル=アズハルモスクの金曜礼拝に加わり、莫大な[[ザカート|喜捨]]をった<ref>飯森、1980年、136-137頁。</ref>。17世紀後半にはアズハル大学の総長職が確立した。
[[1517年]]、マムルーク朝を破ってカイロを手中にした[[オスマン帝国]]の[[セリム1世]]は、マムルーク時代に栄えた学校や学林モスクを次々と閉鎖したが、アズハルについては存続させ、みずからもエジプト滞在中にはアズハルモスクの金曜礼拝に参拝し、莫大な[[ザカート|喜捨]]をおこなった<ref>飯森、1980年、136-137頁。</ref>。このオスマン朝支配下の17世紀後半にはアズハル大学の総長職が確立した。


[[カリフ]]が廃止された現在では、アル=アズハル大学の総長が[[スンナ派]]の最高権威とされる。
イスラーム世界の各地から留学生を受け入れ<ref name="Kotobank-2875573"/>[[19世紀]]に[[グレートブリテン及びアイルランド連合王国|英]][[フランス第三共和政|仏]]影響を受けて[[自然科学]]など近代学問の要素を吸収し<ref name="Kotobank-25564">{{Kotobank|アズハル大学}}</ref>、19世紀末に[[スエズ運河]]が開通すると、[[列強]]の植民地下にあった[[東南アジア]]各地からの留学もさらに増え、反植民地運動を志すグループを生んだ<ref>Roff, 1970, p.73.</ref>。


周辺イスラーム世界の各地から留学生を集め中からアズハル大学の教授になる者もいたが、19世紀末に[[スエズ運河]]が開通すると、さらに植民地支配下にあ[[東南アジア]]各地からの留学も増え、反植民地運動を志すグループを生んだ<ref>Roff, 1970, p.73.</ref>。
現在世界各地の大学で見られる、卒業式に黒い[[ガウン]]([[アカデミックドレス]])を着用する習慣は、アル=アズハル大学を卒業するイスラム学者たちのゆったりとした[[ローブ]]が起源であるといわれている<ref>http://ja.egypt.travel/mobile/attraction/index/al-azhar-mosque</ref>。卒業者(アズハリー)にはイスラーム指導者<ref name="Kotobank-2875573"/>や裁判官、アズハル大学をはじめとする各大学の教授やアラビア語教師になる者を多数輩出した<ref name="Kotobank-25564"/>。卒業生には[[汎アラブ主義]]運動の指導者もいた<ref name="Kotobank-2128148"/>。


[[1908年]]に[[カイロ大学]]が世俗教育の最高学府として設立されて以後、カイロにおける宗教教育の最高学府として存続してい、[[1961年]][[ガマール・アブドゥル=ナーセル|ナセル]]政権下で学院は改組されて総合大学となり、伝統的なイスラーム学・[[シャリーア|イスラーム法学]]・[[アラビア語]]学の3学部に加えて、新たに医学部・工学部・農学部および女子大学が設置され、以後は世俗教育も担うようになった<ref>末近浩太著小杉江川編 「法イスラーム社会護持す」 2006年、230頁。</ref>。[[2000年]]には大学に[[キング・ファイサル国際賞]]イスラーム奉仕部門が授与された。
[[1924年]]にカリフ制が廃止されて以降は、アル=アズハル大学の総長が[[スンナ派]]の最高権威とされる。神学部と法学部は独自の自治権を有している<ref name="Kotobank-25564"/>


現在世界各地の大学で見られる、卒業式に黒い[[ガウン]]([[アカデミックドレス]])を着用する習慣は、アル=アズハル大学を卒業するイスラム学者たちのゆったりとした[[ローブ]]が起源であるといわれている<ref>http://ja.egypt.travel/mobile/attraction/index/al-azhar-mosque</ref>。
[[1908年]]に[[カイロ大学]]が世俗教育の最高学府として設立されて以後、カイロにおける宗教教育の最高学府として存続した。[[1936年]]にイスラーム神学・[[シャリーア|イスラーム法学]]・[[アラビア語]]学の3学部に再編され<ref name="Kotobank-25564"/>、[[1961年]][[ガマール・アブドゥル=ナーセル|ナセル]]政権下で{{仮リンク|高等教育省 (エジプト)|label=高等教育省|en|Ministry of Higher Education (Egypt)}}が設立されると、学院は改組されて総合大学となり、伝統的な3学部<ref name="Kotobank-2875573"/>に加えて、新たに近代的な[[医学部]][[工学部]][[農学部]]および女子カレッジが設置され、以後は世俗教育も担うようになった<ref>末近、2006年、230頁。</ref>。以後も[[商学部]][[理部]]や言語翻訳高等研究所、アラブ・イスラーム高等研究所が設置されて総合大学の度増している<ref name="Kotobank-25564"/>。[[2000年]]には大学に[[キング・ファイサル国際賞]]イスラーム奉仕部門が授与された。
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[[2011年]]の時点で、教職員数は約8,900人、学生数は約26万9000人を数える。学生のうち約10万人が女性<ref name="Kotobank-2875573"/>。現在もイスラーム世界における宗教研究・教育の中心的機関として大きな位置を占めている<ref name="Kotobank-25564"/>。


== 出身人物 ==
== 出身人物 ==
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*[[ブルハーヌッディーン・ラッバーニー]] - [[アフガニスタン・イスラム共和国]]初代大統領
*[[ブルハーヌッディーン・ラッバーニー]] - [[アフガニスタン・イスラム共和国]]初代大統領
*[[シブガトゥッラー・ムジャッディディー]] - アフガニスタン上院議長
*[[シブガトゥッラー・ムジャッディディー]] - アフガニスタン上院議長
*[[アブドゥルラフマン・ワヒド]] - [[インドネシア|インドネシア共和国]]第4代大統領
*[[アブドゥルラフマン・ワヒド]] - [[インドネシア]]第4代大統領

== 関連人物 ==
* [[アル・ジャバルティー]] - 19世紀エジプトの歴史家。大学の博士。
* [[ムハンマド・タンターウィー]] - 総長
* [[ムハンマド・ベルタギー]] - 同大医学部教授、[[自由公正党]]所属議員。


== 脚注 ==
== 脚注 ==
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=== 出典 ===
{{精度|date=2016年10月}}
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== 参考文献 ==
== 参考文献 ==
* [[飯森嘉助]] 「オスマン朝支配下のアズハル大学 (1517-1798)」『現代思想』1980年2月号、[[青土社]]、1980年2月。
{{Wikinewslang|en|Category:Al-Azhar University}}
* [[小杉泰]]・江川ひかり編 『イスラーム 社会生活・思想・歴史』 新曜社〈ワードマップ〉、2006年 ISBN 4788510057
{{Wikiquotelang|fa|دانشگاه الازهر}}
{{Commonscat|Al-Azhar University}}
* [[飯森嘉助]]「オスマン朝支配下のアズハル大学 (1517-1798)」『現代思想』1980年2月号、[[青土社]]、1980年2月。
* 末近浩太著「法学者 イスラーム社会を護持する」[[小杉泰]]・江川ひかり編 『イスラーム 社会生活・思想・歴史』 新曜社〈ワードマップ〉、2006年 ISBN 4788510057
* Roff, William R., ''Indonesian and Malay Students in Cairo in the 1920's'', ''indonesia'' No.9, 1970 April
* Roff, William R., ''Indonesian and Malay Students in Cairo in the 1920's'', ''indonesia'' No.9, 1970 April


== 外部リンク ==
== 関連項目 ==
* {{Twitter|AlAzharUniv|جامعة الأزهر Al-Azhar University}}
{{commonscat|Al-Azhar University}}
* [[ムイッズ]] - [[ファーティマ朝]]第4代[[カリフ]]。978年にムイッズの建設した[[アズハル・モスク]]に[[イスマーイール派]]の最高教育機関として開講。
* [[アル・ジャバルティー]] 19世紀エジプトの歴史家。大学の博士。
* [[ムハンマド・タンターウィー]] アル=アズハル大学総長
* [[ムハンマド・ベルタギー]] 同大医学部教授、[[自由公正党]]所属議員。
* [[飯森嘉助]]
* [[小杉泰]]


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2022年11月2日 (水) 06:10時点における版

アル=アズハル大学
大学設置 1961年
創立 970年
学校種別 公立
設置者 不明
本部所在地 カイロ
ウェブサイト http://www.azhar.edu.eg/
テンプレートを表示

アル=アズハル大学英語: Al-Azhar University、公用語表記: アラビア語: (جامعة الأزهر (الشريف‎ Jāmiʻat al-Azhar (al-Sharīf))は、カイロに本部を置くエジプト公立大学970年創立、1961年大学設置。 イスラム教スンナ派の最高教育機関として有名であり、現存する世界最古の教育機関の1つである。アル=アズハル学院とも呼称される。

歴史

アル=アズハル・モスク970年建立)に付属するマドラサとして、ファーティマ朝支配下のカイロに設立された。

アル=アズハル・モスクは当初は街の名にちなんでアル=カーヒラ・モスク(カイロ・モスクの意)と呼ばれていたが、後にアズハルという名称で知られるようになっていった。アズハル(Azhar)の名の由来には諸説あるが、ファーティマ朝においてカリフの直系の先祖とされた預言者ムハンマドの娘ファーティマの称号「アッ=ザフラー ( الزهراء Al-Zahrā'「光輝く者」)」の男性形で「光り輝ける」という意味を持つという説が有力・有名である。

アズハルで学術研究が始まったのは975年のラマダン月である。イスラーム神学(カラーム)、イスラム哲学イスラーム法(シャリーア)、イスラーム法学および法解釈(フィクフ)、アラビア語古典アラビア語文法学言語学(フスハー)、哲学天文学論理学の部門を擁し、ファーティマ朝の宗旨を反映してシーア派の学府として発足した。同時代の他の王朝のカリフがギリシャ哲学を背教的でヘレニズム的であるとして非難し排除していた中、ファーティマ朝のカリフはギリシャ哲学を積極的に奨励し、内外から優れた著作や学者をカイロに集めた。このためアズハルはイスラーム世界における哲学研究の中心地となり、プラトンアリストテレスなどの著作の研究が行われ、哲学関連の蔵書は膨大な数を誇るようになった。

現在の大学院にあたるコースも開講しており、世界で最初の成熟した大学であったと評価されている。また創立当初からの伝統では、イスラーム法学を志す者に対して誰にでもいつでも門戸を開放するという趣旨から、入学随時・出欠席随意・修業年限なし、という3原則を守っていた[1]

アズハルを現在のようなスンナ派の学府へと宗旨替えしたのはサラーフッディーンである。彼が13世紀の後半にファーティマ朝を廃してエジプトにスンナ派王朝のアイユーブ朝を興した際、シーア派の学府を不要と断じ、アズハルの有していた何万冊もの蔵書を売却もしくは破棄処分させたと言われている。

創立当時のファーティマ朝下では、カリフが直接管理するか、カリフに代わる役人が統括して、大臣または国家の要人が直接教授の任にあたった。アイユーブ朝の後を嗣いだマムルーク朝下では、マムルーク騎士団アミールの一人が統括していた[2]

1517年、マムルーク朝を破ってカイロを手中にしたオスマン帝国セリム1世は、マムルーク時代に栄えた学校や学林モスクを次々と閉鎖したが、アズハルについては存続させ、みずからもエジプト滞在中にはアズハルモスクの金曜礼拝に参拝し、莫大な喜捨をおこなった[3]。このオスマン朝支配下の17世紀後半には、アズハル大学の総長職が確立した。

カリフ制度が廃止された現在では、アル=アズハル大学の総長がスンナ派の最高権威とされる。

周辺イスラーム世界の各地から留学生を集め、その中からアズハル大学の教授になる者もいたが、19世紀末にスエズ運河が開通すると、さらに植民地支配下にある東南アジアの各地からの留学も増え、反植民地運動を志すグループを生んだ[4]

1908年カイロ大学が世俗教育の最高学府として設立されて以後、カイロにおける宗教教育の最高学府として存続していたが、1961年ナセル政権下で学院は改組されて総合大学となり、伝統的なイスラーム学・イスラーム法学アラビア語学の3学部に加えて、新たに医学部・工学部・農学部および女子大学が設置され、以後は世俗教育も担うようになった[5]2000年には大学にキング・ファイサル国際賞イスラーム奉仕部門が授与された。

現在世界各地の大学で見られる、卒業式に黒いガウンアカデミックドレス)を着用する習慣は、アル=アズハル大学を卒業するイスラム学者たちのゆったりとしたローブが起源であるといわれている[6]

出身人物

脚注

  1. ^ 飯森、1980年、138頁。
  2. ^ 飯森、1980年、140頁。
  3. ^ 飯森、1980年、136-137頁。
  4. ^ Roff, 1970, p.73.
  5. ^ 末近浩太著、小杉・江川編 「法学者 イスラーム社会を護持する」 2006年、230頁。
  6. ^ http://ja.egypt.travel/mobile/attraction/index/al-azhar-mosque

参考文献

  • 飯森嘉助 「オスマン朝支配下のアズハル大学 (1517-1798)」『現代思想』1980年2月号、青土社、1980年2月。
  • 小杉泰・江川ひかり編 『イスラーム 社会生活・思想・歴史』 新曜社〈ワードマップ〉、2006年 ISBN 4788510057
  • Roff, William R., Indonesian and Malay Students in Cairo in the 1920's, indonesia No.9, 1970 April

関連項目

座標: 北緯30度2分45秒 東経31度15分45秒 / 北緯30.04583度 東経31.26250度 / 30.04583; 31.26250