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アズハル学院の前身はムイッズが建設したアズハル・モスクのイスマーイール派の最高教育機関から。と言うより最早F.M.H氏自身がMoke氏の多重アカウント或は病気その物なのでは?もし心を病んでいるのでしたら編集を控えるのもF.M.H氏自身のお体の為でもありますよF.M.H (会話) による ID:92235530 の版を取り消し タグ: 差し戻し済み |
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アル=アズハル・モスクは当初は街の名にちなんでアル=カーヒラ・モスク(カイロ・モスクの意)と呼ばれていたが、後にアズハルという名称で知られるようになっていった。アズハル(Azhar)の名の由来には諸説あるが、ファーティマ朝において[[カリフ]]の直系の先祖とされた預言者[[ムハンマド]]の娘[[ファーティマ]]の称号「アッ=ザフラー ( الزهراء Al-Zahrā'「光輝く者」)」の男性形で「光り輝ける」という意味を持つという説が有力・有名である。 |
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アズハルで学術研究が始まったのは975年の[[ラマダン]]月である。[[ |
アズハルで学術研究が始まったのは975年の[[ラマダン]]月である。[[イスラーム神学]](カラーム)、[[イスラム哲学]]、[[イスラーム法]](シャリーア)、[[イスラーム法学]]および[[法解釈]](フィクフ)、[[アラビア語]]([[古典アラビア語]])[[文法学]]と[[言語学]](フスハー)、[[哲学]]、[[天文学]]、[[論理学]]の部門を擁し、ファーティマ朝の宗旨を反映して[[シーア派]]の学府として発足した。同時代の他の王朝のカリフが[[ギリシャ哲学]]を背教的で[[ヘレニズム]]的であるとして非難し排除していた中、ファーティマ朝のカリフはギリシャ哲学を積極的に奨励し、内外から優れた著作や学者をカイロに集めた。このためアズハルはイスラーム世界における哲学研究の中心地となり、[[プラトン]]、[[アリストテレス]]などの著作の研究が行われ、哲学関連の蔵書は膨大な数を誇るようになった。 |
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現在の大学院にあたるコースも開講しており、世界で最初の成熟した大学であったと評価されている。また創立当初からの伝統では、[[シャリーア|イスラーム法学]]を志す者に対して誰にでもいつでも門戸を開放するという趣旨から、入学随時・出欠席随意・修業年限なし、という3原則を守っていた<ref>飯森、1980年、138頁。</ref>。 |
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アズハルを現在のような[[スンナ派]]の学府へと |
アズハルを現在のような[[スンナ派]]の学府へと宗旨替えしたのは[[サラーフッディーン]]である。彼が[[13世紀]]の後半にファーティマ朝を廃してエジプトにスンナ派王朝の[[アイユーブ朝]]を興した際、シーア派の学府を不要と断じ、アズハルの有していた何万冊もの蔵書を売却もしくは破棄処分させたと言われている。 |
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アイユーブ朝の後を嗣いだ[[マムルーク朝]]下では、[[マムルーク|マムルーク騎士団]]の[[アミール]]の一人が |
創立当時の[[ファーティマ朝]]下では、[[カリフ]]が直接管理するか、カリフに代わる役人が統括して、大臣または国家の要人が直接教授の任にあたった。アイユーブ朝の後を嗣いだ[[マムルーク朝]]下では、[[マムルーク|マムルーク騎士団]]の[[アミール]]の一人が統括していた<ref>飯森、1980年、140頁。</ref>。 |
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[[1517年]]、マムルーク朝を破ってカイロを手中にした[[オスマン帝国]]の[[セリム1世]]は、マムルーク |
[[1517年]]、マムルーク朝を破ってカイロを手中にした[[オスマン帝国]]の[[セリム1世]]は、マムルーク時代に栄えた学校や学林モスクを次々と閉鎖したが、アズハルについては存続させ、みずからもエジプト滞在中にはアズハルモスクの金曜礼拝に参拝し、莫大な[[ザカート|喜捨]]をおこなった<ref>飯森、1980年、136-137頁。</ref>。このオスマン朝支配下の17世紀後半には、アズハル大学の総長職が確立した。 |
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⚫ | 現在世界各地の大学で見られる、卒業式に黒い[[ガウン]]([[アカデミックドレス]])を着用する習慣は、アル=アズハル大学を卒業するイスラム学者たちのゆったりとした[[ローブ]]が起源であるといわれている<ref>http://ja.egypt.travel/mobile/attraction/index/al-azhar-mosque</ref |
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⚫ | [[1908年]]に[[カイロ大学]]が世俗教育の最高学府として設立されて以後、カイロにおける宗教教育の最高学府として存続していたが、[[1961年]]、[[ガマール・アブドゥル=ナーセル|ナセル]]政権下で学院は改組されて総合大学となり、伝統的なイスラーム学・[[シャリーア|イスラーム法学]]・[[アラビア語]]学の3学部に加えて、新たに医学部・工学部・農学部および女子大学が設置され、以後は世俗教育も担うようになった<ref>末近浩太著、小杉・江川編 「法学者 イスラーム社会を護持する」 2006年、230頁。</ref>。[[2000年]]には大学に[[キング・ファイサル国際賞]]イスラーム奉仕部門が授与された。 |
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⚫ | [[1908年]]に[[カイロ大学]]が世俗教育の最高学府として設立されて以後、カイロにおける宗教教育の最高学府として存続した |
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[[2011年]]の時点で、教職員数は約8,900人、学生数は約26万9000人を数える。学生のうち約10万人が女性<ref name="Kotobank-2875573"/>。現在もイスラーム世界における宗教研究・教育の中心的機関として大きな位置を占めている<ref name="Kotobank-25564"/>。 |
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== 出身人物 == |
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*[[ブルハーヌッディーン・ラッバーニー]] - [[アフガニスタン・イスラム共和国]]初代大統領 |
*[[ブルハーヌッディーン・ラッバーニー]] - [[アフガニスタン・イスラム共和国]]初代大統領 |
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*[[シブガトゥッラー・ムジャッディディー]] - アフガニスタン上院議長 |
*[[シブガトゥッラー・ムジャッディディー]] - アフガニスタン上院議長 |
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*[[アブドゥルラフマン・ワヒド]] - [[インドネシア]]第4代大統領 |
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== 脚注 == |
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== 参考文献 == |
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* Roff, William R., ''Indonesian and Malay Students in Cairo in the 1920's'', ''indonesia'' No.9, 1970 April |
* Roff, William R., ''Indonesian and Malay Students in Cairo in the 1920's'', ''indonesia'' No.9, 1970 April |
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* [[ムイッズ]] - [[ファーティマ朝]]第4代[[カリフ]]。978年にムイッズの建設した[[アズハル・モスク]]に[[イスマーイール派]]の最高教育機関として開講。 |
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2022年11月2日 (水) 06:10時点における版
アル=アズハル大学 | |
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大学設置 | 1961年 |
創立 | 970年 |
学校種別 | 公立 |
設置者 | 不明 |
本部所在地 | カイロ |
ウェブサイト | http://www.azhar.edu.eg/ |
アル=アズハル大学(英語: Al-Azhar University、公用語表記: アラビア語: (جامعة الأزهر (الشريف Jāmiʻat al-Azhar (al-Sharīf))は、カイロに本部を置くエジプトの公立大学。970年創立、1961年大学設置。 イスラム教スンナ派の最高教育機関として有名であり、現存する世界最古の教育機関の1つである。アル=アズハル学院とも呼称される。
歴史
アル=アズハル・モスク(970年建立)に付属するマドラサとして、ファーティマ朝支配下のカイロに設立された。
アル=アズハル・モスクは当初は街の名にちなんでアル=カーヒラ・モスク(カイロ・モスクの意)と呼ばれていたが、後にアズハルという名称で知られるようになっていった。アズハル(Azhar)の名の由来には諸説あるが、ファーティマ朝においてカリフの直系の先祖とされた預言者ムハンマドの娘ファーティマの称号「アッ=ザフラー ( الزهراء Al-Zahrā'「光輝く者」)」の男性形で「光り輝ける」という意味を持つという説が有力・有名である。
アズハルで学術研究が始まったのは975年のラマダン月である。イスラーム神学(カラーム)、イスラム哲学、イスラーム法(シャリーア)、イスラーム法学および法解釈(フィクフ)、アラビア語(古典アラビア語)文法学と言語学(フスハー)、哲学、天文学、論理学の部門を擁し、ファーティマ朝の宗旨を反映してシーア派の学府として発足した。同時代の他の王朝のカリフがギリシャ哲学を背教的でヘレニズム的であるとして非難し排除していた中、ファーティマ朝のカリフはギリシャ哲学を積極的に奨励し、内外から優れた著作や学者をカイロに集めた。このためアズハルはイスラーム世界における哲学研究の中心地となり、プラトン、アリストテレスなどの著作の研究が行われ、哲学関連の蔵書は膨大な数を誇るようになった。
現在の大学院にあたるコースも開講しており、世界で最初の成熟した大学であったと評価されている。また創立当初からの伝統では、イスラーム法学を志す者に対して誰にでもいつでも門戸を開放するという趣旨から、入学随時・出欠席随意・修業年限なし、という3原則を守っていた[1]。
アズハルを現在のようなスンナ派の学府へと宗旨替えしたのはサラーフッディーンである。彼が13世紀の後半にファーティマ朝を廃してエジプトにスンナ派王朝のアイユーブ朝を興した際、シーア派の学府を不要と断じ、アズハルの有していた何万冊もの蔵書を売却もしくは破棄処分させたと言われている。
創立当時のファーティマ朝下では、カリフが直接管理するか、カリフに代わる役人が統括して、大臣または国家の要人が直接教授の任にあたった。アイユーブ朝の後を嗣いだマムルーク朝下では、マムルーク騎士団のアミールの一人が統括していた[2]。
1517年、マムルーク朝を破ってカイロを手中にしたオスマン帝国のセリム1世は、マムルーク時代に栄えた学校や学林モスクを次々と閉鎖したが、アズハルについては存続させ、みずからもエジプト滞在中にはアズハルモスクの金曜礼拝に参拝し、莫大な喜捨をおこなった[3]。このオスマン朝支配下の17世紀後半には、アズハル大学の総長職が確立した。
カリフ制度が廃止された現在では、アル=アズハル大学の総長がスンナ派の最高権威とされる。
周辺イスラーム世界の各地から留学生を集め、その中からアズハル大学の教授になる者もいたが、19世紀末にスエズ運河が開通すると、さらに植民地支配下にある東南アジアの各地からの留学も増え、反植民地運動を志すグループを生んだ[4]。
1908年にカイロ大学が世俗教育の最高学府として設立されて以後、カイロにおける宗教教育の最高学府として存続していたが、1961年、ナセル政権下で学院は改組されて総合大学となり、伝統的なイスラーム学・イスラーム法学・アラビア語学の3学部に加えて、新たに医学部・工学部・農学部および女子大学が設置され、以後は世俗教育も担うようになった[5]。2000年には大学にキング・ファイサル国際賞イスラーム奉仕部門が授与された。
現在世界各地の大学で見られる、卒業式に黒いガウン(アカデミックドレス)を着用する習慣は、アル=アズハル大学を卒業するイスラム学者たちのゆったりとしたローブが起源であるといわれている[6]。
この記事の出典は、Wikipedia:信頼できる情報源に合致していないおそれがあります。 |
出身人物
- 小杉泰 - イスラム研究者、京都大学教授
- 飯森嘉助 - 中東研究、拓殖大学名誉教授
- ブルハーヌッディーン・ラッバーニー - アフガニスタン・イスラム共和国初代大統領
- シブガトゥッラー・ムジャッディディー - アフガニスタン上院議長
- アブドゥルラフマン・ワヒド - インドネシア第4代大統領
脚注
参考文献
- 飯森嘉助 「オスマン朝支配下のアズハル大学 (1517-1798)」『現代思想』1980年2月号、青土社、1980年2月。
- 小杉泰・江川ひかり編 『イスラーム 社会生活・思想・歴史』 新曜社〈ワードマップ〉、2006年 ISBN 4788510057
- Roff, William R., Indonesian and Malay Students in Cairo in the 1920's, indonesia No.9, 1970 April
関連項目
- ムイッズ - ファーティマ朝第4代カリフ。978年にムイッズの建設したアズハル・モスクにイスマーイール派の最高教育機関として開講。
- アル・ジャバルティー 19世紀エジプトの歴史家。大学の博士。
- ムハンマド・タンターウィー アル=アズハル大学総長
- ムハンマド・ベルタギー 同大医学部教授、自由公正党所属議員。
- 飯森嘉助
- 小杉泰