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「ムイッズ」の版間の差分

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| 人名 = ムイッズ
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| 画像説明 = ムイッズの治世に鋳造された金貨(969年頃)
| 画像説明 = ムイッズの金貨
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'''アル=ムイッズ・リーディン・アッラー'''({{Lang-ar|المعز لدين الله}})は、[[ファーティマ朝]]の第4代[[カリフ]](在位:[[953年]] - 975年)<ref name="Kotobank-1210179">{{Kotobank|ムイッズ}}</ref>。ファーティマ朝の版図を[[エジプトの歴史|エジプト]]にまで拡大させた。
'''ムイッズ'''({{lang|ar|المعز لدين الله}} 、生没年:[[932年]][[9月26日]] - [[975年]][[12月19日]])は、[[ファーティマ朝]]の第4代[[カリフ]](在位:[[953年]] - 975年)。ファーティマ朝の版図を[[エジプト]]にまで拡大させた。


== 生涯 ==
== 概略 ==
第4代カリフであった{{仮リンク|マンスール (ファーティマ朝)|label=マンスール|en|Al-Mansur bi-Nasr Allah}}の子。[[チュニジアの歴史|現在のチュニジアにあたる領域]]で建国されたファーティマ朝は、ムイッズの代に西部の[[ベルベル人]]や[[地中海]]の[[シチリア]]人などを軍隊に編入し、[[東ローマ帝国]]と抗争して<ref name="Kotobank-1210179"/>地中海南岸の全域へと版図を拡大させた。とりわけ部の[[ジャウハル]]が[[969年]]にエジプトを平定したこと<ref name="Kotobank-1210179"/>([[ファーティマ朝のエジプト征服]])は、ファーティマ朝発展の礎となった。[[972年]]、ジャウハルの主導で[[フスタート]]の北方に建てられた新都[[カイロ]]に入城し<ref name="Kotobank-1210179"/>カイロはファーティマ朝の新たな政治的中心地となった。ファーティマ朝は[[シーア派]]の一派である[[イスマーイール派]]を信仰していたが、エジプトの[[スンナ派]]住民に対して抑圧を加えるようなことはせず、各派の融和が図られていた。[[975年]]には[[メッカ]]への[[ハッジ|巡礼]]を行い、イスラーム世界におけるファーティマ朝カリフの地位を知らしめた。さらには[[カルマト派]]の支配下にあった[[歴史的シリア|シリア]]の征服を試みたが果たせず死去した<ref name="Kotobank-1210179"/>。死後、子の{{仮リンク|アズィーズ (ファーティマ朝)|label=アズィーズ|en|Al-Aziz Billah}}が跡を継いだ
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== 脚注 ==
== 脚注 ==
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=== 出典 ===
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== 関連項目 ==
*[[アル=アズハル大学]] - ムイッズの建設した[[アズハル・モスク]]に[[イスマーイール派]]の最高教育機関となるアズハル学院が開講された。アル=アズハル大学の前身。

== 参考文献 ==
== 参考文献 ==
*佐藤次高 編 『新版世界各国史8 西アジア史I』 [[山川出版社]]、2002年
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*佐藤次高 編 『新版世界各国史8 西アジア史I』 山川出版社、2002年


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2022年11月2日 (水) 06:05時点における版

ムイッズ
المعز لدين الله
ファーティマ朝カリフ
ムイッズの金貨
在位 953年 - 975年

出生 932年9月26日
死去 975年12月19日
子女 アズィーズ
家名 ファーティマ朝
父親 マンスール
宗教 イスラム教イスマーイール派
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ムイッズالمعز لدين الله 、生没年:932年9月26日 - 975年12月19日)は、ファーティマ朝の第4代カリフ(在位:953年 - 975年)。ファーティマ朝の版図をエジプトにまで拡大させた。

概略

チュニジアで建国されたファーティマ朝は、ムイッズの時代に西部のベルベル人や地中海のシチリア人などを軍隊に編入し、地中海南岸の全域へと版図を拡大させた。とりわけ部下のジャウハルがエジプトを平定したことは、ファーティマ朝発展の礎となり、ジャウハルの主導で建てられた新都カイロは、ファーティマ朝の新たな政治的中心地となった。ファーティマ朝はイスマーイール派シーア派の一派)を信仰していたが、エジプトのスンナ派住民に対して抑圧を加えるようなことはせず、各派の融和が図られていた。975年にはメッカ巡礼を行い、イスラーム世界におけるファーティマ朝カリフの地位を知らしめた。

脚注

関連項目

参考文献

  • 佐藤次高 編 『新版世界各国史8 西アジア史I』 山川出版社、2002年
先代
マンスール
ファーティマ朝
4代
953年 - 975年
次代
アズィーズ