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'''家康公の時計'''(いえやすこうのとけい)は、[[慶長]]16年([[1611年]])に[[スペイン]]国王[[フェリペ3世 (スペイン王)|フェリペ3世]]から[[徳川家康]]に贈られた洋時計であり、日本現存最古の時計である<ref>{{Cite web |title=和時計の世界 {{!}} 時と時計のエトセトラ |url=https://www.jcwa.or.jp/etc/wadokei.html |website=日本時計協会 (JCWA) |access-date=2022-08-31}}</ref>。家康の死後は[[久能山東照宮]]に保管されており、[[重要文化財]]に指定され<ref name=":0">{{Cite web |title=家康公の時計 |url=https://www.toshogu.or.jp/about/clock/ |website=久能山東照宮 |access-date=2022-09-01}}</ref>、[[国宝]]指定の申請も検討されている<ref name=":1">{{Cite web |title=家康の西洋時計「極めて希少」 大英博物館が評価 |url=https://www.nikkei.com/article/DGXNASDG17039_X10C12A5CR8000/ |website=日本経済新聞 |date=2012-05-17 |access-date=2022-09-01 |language=ja}}</ref>。また[[大英博物館]]の調査により、内部の部品がほぼ全て当時のまま残っていることが判明している<ref name=":1" />。 |
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文字盤には[[ローマ数字]]でⅠからⅫまでが記され{{Sfn|上野|1965|p=103}}、文字盤の下に鋲留めされた長円形の板には「HANS・DE・EVALO・ME・FECIT EN MADRID・A・1581」(ハンス・デ・エパロが1581年、私をマドリードで作った)と、[[スペイン語]]と[[ラテン語]]を交えて擬人的表現で彫り込まれている{{Sfn|佐々木&齋藤|2016|p=17}}{{Sfn|朝比奈|1969|p=104}}。この銘は疑う余地のないものとされてきたが、2014年(平成26年)になって、「1581」とだけ書かれた底面の銘板の下に「NICOLAVS DE TROESTENBERCH ME FECIT ANNO DNI 1573 BRVXELENCIS」(ニコラウス・ド・トロエステンベルクが西暦1573年にブリュッセルで私を作った)と記された、別の銘があることが判明した{{Sfn|佐々木&齋藤|2016|p=17-18}}。 |
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時計には携帯用の箱が付属しており、これは杉材らしい薄板に革を貼ったもの。ガラスの丸窓が付けられており、時計を格納しても時刻を読めるようになっている{{Sfn|朝比奈|1969|p=104}}。吊り手は失われているが、付け根の部分に金具が残っている{{Sfn|朝比奈|1969|p=104}}。 |
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世に仕えた名時計師だった{{Sfn|朝比奈|1969|p=106}}。スペイン国王は、フェリペ2世の前のカルロス5世の頃より、時計を珍重して蒐集しており、このコレクションのうち、現存する最古の時計も、デ・エパロの制作によるものである{{Sfn|朝比奈|1969|p=106-107}}{{Efn2|この時計は1583年製で、家康の時計よりも2年新しい。ランプ付きで、バストの牧神の像が丸い時計を頭上に掲げる形状という、家康の時計とは異なるデザインである{{Sfn|朝比奈|1969|p=107-108}}。}}。 |
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のちに発見された銘に記された「トロエステンベルク」については、ジャン・ファン・トロエステンベルクという時計師が15世紀初頭、フェリペ1世]]の王室時計師として活動していたほか、その息子のニコラウス・デ・トロエステンベルクが、カール5世の王室時計師として活動していたことが明らかとなっている{{Sfn|佐々木&齋藤|2016|p=18}}。 |
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製作されてから家康へ贈られるまでの、時計の来歴については不詳である{{Sfn|上野|1965|p=103}}。 |
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慶長14年([[1609年]])[[9月30日]]、[[フィリピン]]から[[メキシコ]]に向かっていた[[スペイン領フィリピンの総督|フィリピン総督]]・[[ロドリゴ・デ・ビベロ]]が乗っていた[[サン・フランシスコ (ガレオン)|サン・フランシスコ号]]は、日本付近で暴風雨に遭い、現[[千葉県]][[御宿町]]に漂着した。地元の村人たちは船員373名のうち317名の救助に成功した。また、地元の海女たちが仮死状態の船員たちを海から救出し、体温で蘇生させたと伝える。船員たちはその後、[[大多喜城]]主・[[本多忠朝]]の判断で大多喜城や岩井田大宮社に保護された<ref name=":0" />。 |
慶長14年([[1609年]])[[9月30日]]、[[フィリピン]]から[[メキシコ]]に向かっていた[[スペイン領フィリピンの総督|フィリピン総督]]・[[ロドリゴ・デ・ビベロ]]が乗っていた[[サン・フランシスコ (ガレオン)|サン・フランシスコ号]]は、日本付近で暴風雨に遭い、現[[千葉県]][[御宿町]]に漂着した。地元の村人たちは船員373名のうち317名の救助に成功した。また、地元の海女たちが仮死状態の船員たちを海から救出し、体温で蘇生させたと伝える。船員たちはその後、[[大多喜城]]主・[[本多忠朝]]の判断で大多喜城や岩井田大宮社に保護された<ref name=":0" />。 |
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その後、ロドリゴ・デ・ビベロは[[江戸]]で[[徳川秀忠]]に会い、[[駿府]]で徳川家康に会った。家康は、外交顧問の[[ウィリアム・アダムス|三浦按針]](ウイリアム・アダムス)に西洋型船二隻の製造を命じ、その船で[[田中勝介]]等21名の日本人にビベロ一行をメキシコまで送るよう命じた。船は[[慶長]]15年([[1610年]])[[6月13日]]に[[浦賀]]から出帆し、10月23日にメキシコに到着した<ref name=":0" />。 |
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慶長16年([[1611年]])5月、スペイン国王フェリペ3世とメキシコ統治者・[[ルイス・デ・ベラスコ・イ・カスティーリャ|ルイス・デ・ベラスコ]]は、救助の御礼と日本人を帰還させるために司令官・[[セバスティアン・ビスカイノ]]を日本に派遣した。その一行は、救助御礼として洋時計を含むお土産を家康に届けた。家康はこの時計を気に入り、部屋に飾ったが、日本の[[暦法]]と違ったため時計としては使用しなかった<ref name=":0" />。 |
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その結果、時計の手入れは[[1953年]](昭和28年)と[[1954年]](昭和29年)の両年に、家康の命日で大祭の日に当たる4月17日の前後に行われることとなった。この日が選ばれた理由は[[徳川家正]]の参拝に合わせるためで、また宝物は一切門外不出との方針から、作業は全て東照宮内で行われている{{Sfn|朝比奈|1969|p=103-104}}。 |
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== 大英博物館による調査 == |
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この際には、東京の伊佐田杉次郎ら、浜松の石津浪次郎といった時計師が手弁当で作業に当たり、時計は再び動き出すようになった{{Sfn|朝比奈|1969|p=104,114}}{{Sfn|上野|1965|p=104}}。NHKは1953年(昭和28年)4月18日夜のニュースで、自力で時を刻む音と鐘の音を全国放送している{{Sfn|朝比奈|1969|p=104}}。また[[1955年]](昭和30年)の時の記念日には、例大祭に参列した[[参議院]]議長の[[河井彌八]]の提案から、スペインにある姉妹時計との鳴き合わせが行われることとなり、朝比奈らが[[スペイン大使館]]に掛け合って、互いに交換したテープが、両国の6月10日に放送されている{{Sfn|朝比奈|1969|p=108-109}}。 |
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|title = 家康の時計 |
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*{{Cite|和書 |
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|author = 朝比奈 貞一 |
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|date = 1969-1-15 |
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|title = 家康がもらった時計 ――日本現存最古の機械時計―― |
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}} - [[吉田洋一]]、[[緒方富雄]]、[[坪井忠二]]編。 |
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*{{Cite journal|和書 |
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|author = [[佐々木勝浩|佐々木 勝浩]]、[[齋藤 曜|齋藤 曜]] |
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|date = 2016-12-22 |
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|title = 久能山東照宮に保存されている1581年ハンス・デ・エバロ銘置時計の機構と由来 |
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|journal = Bulletin of the National Museum of Nature and Science. Series E, Physical sciences & engineering. |
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2022年10月11日 (火) 15:56時点における版
家康公の時計(いえやすこうのとけい)は、慶長16年(1611年)にスペイン国王フェリペ3世から徳川家康に贈られた洋時計であり、日本現存最古の時計である[1][注 1]。家康の死後は久能山東照宮に保管されており、重要文化財に指定され[3]、国宝指定の申請も検討されている[4]。また大英博物館の調査により、内部の部品がほぼ全て当時のまま残っていることが判明している[4]。
概観
時計は、高さ21.5センチ、幅と奥行きは10.6センチ。ぜんまい駆動、時打ち、目覚まし付きの小型の機械時計である[5]。金銅製の箱形でドーム状の屋根をつけ、左右の側面は扉造りとなっている[3]。扉と背面には、ゴシック風のアーチ門の内側から遠望する城砦風景が線彫りされ、ドーム状の上部の表面には青海波透かし彫りの金具を重ねており[3]、中には銀色の鐘が入っている[6]。正面の円形文字盤は真鍮金メッキに銀製の目盛環が一体化して付けられている[3]。
文字盤にはローマ数字でⅠからⅫまでが記され[7]、文字盤の下に鋲留めされた長円形の板には「HANS・DE・EVALO・ME・FECIT EN MADRID・A・1581」(ハンス・デ・エパロが1581年、私をマドリードで作った)と、スペイン語とラテン語を交えて擬人的表現で彫り込まれている[8][6]。この銘は疑う余地のないものとされてきたが、2014年(平成26年)になって、「1581」とだけ書かれた底面の銘板の下に「NICOLAVS DE TROESTENBERCH ME FECIT ANNO DNI 1573 BRVXELENCIS」(ニコラウス・ド・トロエステンベルクが西暦1573年にブリュッセルで私を作った)と記された、別の銘があることが判明した[9]。
時計には携帯用の箱が付属しており、これは杉材らしい薄板に革を貼ったもの。ガラスの丸窓が付けられており、時計を格納しても時刻を読めるようになっている[6]。吊り手は失われているが、付け根の部分に金具が残っている[6]。
歴史
本時計は従来、1581年に、スペイン・マドリードでスペイン国王に仕えた時計師・ハンス・デ・エバロによって製造されたとされていた[4]。デ・エパロはブリュッセル生まれのフランダース人で、1580年から1598年で死去するまで、フェリペ2 世に仕えた名時計師だった[10]。スペイン国王は、フェリペ2世の前のカルロス5世の頃より、時計を珍重して蒐集しており、このコレクションのうち、現存する最古の時計も、デ・エパロの制作によるものである[11][注 2]。
のちに発見された銘に記された「トロエステンベルク」については、ジャン・ファン・トロエステンベルクという時計師が15世紀初頭、フェリペ1世]]の王室時計師として活動していたほか、その息子のニコラウス・デ・トロエステンベルクが、カール5世の王室時計師として活動していたことが明らかとなっている[13]。
製作されてから家康へ贈られるまでの、時計の来歴については不詳である[7]。
渡来
慶長14年(1609年)9月30日、フィリピンからメキシコに向かっていたフィリピン総督・ロドリゴ・デ・ビベロが乗っていたサン・フランシスコ号は、日本付近で暴風雨に遭い、現千葉県御宿町に漂着した。地元の村人たちは船員373名のうち317名の救助に成功した。また、地元の海女たちが仮死状態の船員たちを海から救出し、体温で蘇生させたと伝える。船員たちはその後、大多喜城主・本多忠朝の判断で大多喜城や岩井田大宮社に保護された[3]。
その後、ロドリゴ・デ・ビベロは江戸で徳川秀忠に会い、駿府で徳川家康に会った。家康は、外交顧問の三浦按針(ウイリアム・アダムス)に西洋型船二隻の製造を命じ、その船で田中勝介等21名の日本人にビベロ一行をメキシコまで送るよう命じた。船は慶長15年(1610年)6月13日に浦賀から出帆し、10月23日にメキシコに到着した[3]。
慶長16年(1611年)5月、スペイン国王フェリペ3世とメキシコ統治者・ルイス・デ・ベラスコは、救助の御礼と日本人を帰還させるために司令官・セバスティアン・ビスカイノを日本に派遣した。その一行は、救助御礼として洋時計を含むお土産を家康に届けた。家康はこの時計を気に入り、部屋に飾ったが、日本の暦法と違ったため時計としては使用しなかった[3]。
家康の死後、時計は動かされることも部品が交換されることもないまま、元和2年(1616年)に久能山東照宮に神宝として保管された[3]。
修理と復活
1948年(昭和23年)6月10日(時の記念日)に日本放送協会(NHK)は、この時計が時を打つ音を、ラジオ放送で初めて全国に紹介している。しかし、朝比奈貞一が放送の翌春に東照宮を訪ねて実際の時計を確認したところ、鉄の部品にはかなりの赤錆が出ており、油も切れていて動かない状態だった。前年の放送も時計を動かしたのではなく手で鳴らして録音したと聞いた朝比奈は、東照宮側に繰り返し手入れを勧めた[14][注 3]。
その結果、時計の手入れは1953年(昭和28年)と1954年(昭和29年)の両年に、家康の命日で大祭の日に当たる4月17日の前後に行われることとなった。この日が選ばれた理由は徳川家正の参拝に合わせるためで、また宝物は一切門外不出との方針から、作業は全て東照宮内で行われている[15]。
この際には、東京の伊佐田杉次郎ら、浜松の石津浪次郎といった時計師が手弁当で作業に当たり、時計は再び動き出すようになった[16][17]。NHKは1953年(昭和28年)4月18日夜のニュースで、自力で時を刻む音と鐘の音を全国放送している[6]。また1955年(昭和30年)の時の記念日には、例大祭に参列した参議院議長の河井彌八の提案から、スペインにある姉妹時計との鳴き合わせが行われることとなり、朝比奈らがスペイン大使館に掛け合って、互いに交換したテープが、両国の6月10日に放送されている[18]。
1955年(昭和30年)11月には、19日から20日にかけての夜間に、陳列館から他の宝物12点と共に、時計が盗み出されるという事件も発生した。この事件は外国の時計雑誌にも取り上げられる事件となったが、翌1956年(昭和31年)2月1日の夜に、時計は古新聞に包まれて静岡市内の新聞社に届けられた。のちに犯人は逮捕されたが、他の宝物12点は三保の松原の海中から漁の網にかかる形で発見されており、全て損傷していたにも拘わらず、時計だけが無傷で戻った形となった[19][注 4]。
近年の調査
1979年(昭和54年)、家康公の時計は、全169点からなる「徳川家康関係資料」の一つとして他の家康の手沢品とともに重要文化財に指定され[20]、2022年(令和4年)現在は、久能山東照宮博物館に常時展示されている[3]。
2012年(平成24年)には、イギリス大英博物館の時計部門責任者・デービット・トンプソンが時計の内部を調査した[3][4]。トンプソンは記者会見で「この時代の同様の時計は世界に20個程しか現存せず、内部のぜんまいなどがほぼ全て交換されずに残っている、革張りの外箱を含めて保存状態が非常によい」と述べ、希少価値が高いと評価した[4]。
2014年(平成26年)には前述の通り、従来考えられていたものとは別の時計師・製作年・製作地という「衝撃的事実」が記された銘が発見された。佐々木勝浩と齋藤曜は、ドン・ロドリゴがアカプルコに帰還してから日本へ向けて出発するまでには5ヶ月弱しかなく、この短い準備期間の中で、家康への充分な謝意と共にスペイン王国の権威を示す贈り物として、王室の公式王室時計師の作品が求められたが、本土から時計を運ぶ時間的余裕はなかたたため、副王の手元にあった時計の銘を、1580年に公式王室時計師に昇進したばかりのデ・エパロのものに貼り替えたのではないかと推測している[21]。
脚注
注釈
- ^ 本時計以前にも、フランシスコ・ザビエルや天正遣欧少年使節等による西洋の時計の日本への渡来はあったが、いずれも失われている[2]。
- ^ この時計は1583年製で、家康の時計よりも2年新しい。ランプ付きで、バストの牧神の像が丸い時計を頭上に掲げる形状という、家康の時計とは異なるデザインである[12]。
- ^ この際、東照宮側の腰が重かった理由について、朝比奈は以前に「家康の眼鏡」を調査に来た大学教授が、誤って眼鏡を落として割ってしまい、更にその際、レンズが水晶でなくガラスと判明した事件が理由であったと述べている[14]。
- ^ 犯人が時計を返却したのは小学2年生の新聞投書に動かされたほか、父親が時計屋であったため潰すに忍びなかったためであるとされる[19]。
出典
- ^ “和時計の世界 | 時と時計のエトセトラ”. 日本時計協会 (JCWA). 2022年8月31日閲覧。
- ^ 佐々木&齋藤 2016, p. 2.
- ^ a b c d e f g h i j “家康公の時計”. 久能山東照宮. 2022年9月1日閲覧。
- ^ a b c d e “家康の西洋時計「極めて希少」 大英博物館が評価”. 日本経済新聞 (2012年5月17日). 2022年9月1日閲覧。
- ^ 佐々木&齋藤 2016, p. 5.
- ^ a b c d e 朝比奈 1969, p. 104.
- ^ a b 上野 1965, p. 103.
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- ^ 朝比奈 1969, p. 106.
- ^ 朝比奈 1969, p. 106-107.
- ^ 朝比奈 1969, p. 107-108.
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- ^ a b 朝比奈 1969, p. 103.
- ^ 朝比奈 1969, p. 103-104.
- ^ 朝比奈 1969, p. 104,114.
- ^ 上野 1965, p. 104.
- ^ 朝比奈 1969, p. 108-109.
- ^ a b 朝比奈 1969, p. 109-111.
- ^ 徳川家康関係資料 - 国指定文化財等データベース(文化庁)、2022年9月3日閲覧。
- ^ 佐々木&齋藤 2016, p. 23-24.
参考文献
- 上野 益男「家康の時計」『時計の話』、ハヤカワ・ライブラリ、早川書房、102-104頁、1965年6月15日。
- 朝比奈 貞一「家康がもらった時計 ――日本現存最古の機械時計――」『化学の小径』、続・科学随筆全集2、学生社、101-114頁、1969年1月15日。 - 吉田洋一、緒方富雄、坪井忠二編。
- 佐々木 勝浩、齋藤 曜「久能山東照宮に保存されている1581年ハンス・デ・エバロ銘置時計の機構と由来」『Bulletin of the National Museum of Nature and Science. Series E, Physical sciences & engineering.』第39号、国立科学博物館、2016年12月22日、1-26頁。