「ジョフロワ1世・ド・ヴィルアルドゥアン」の版間の差分
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{{Infobox royalty |
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{{出典の明記|date=2012年2月|ソートキー=人1228年没___世界史}} |
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| name = ジョフロワ1世<br>{{lang|fr|Geoffroi I<sup>er</sup>}} |
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{{基礎情報 君主 |
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| title = [[アカイア公]] |
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| image = Seal of Geoffrey I of Villehardouin (Schlumberger, 1897).jpg |
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| caption = ジョフロワ1世の紋章 |
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| 君主号 = 第2代[[アカイア公国|アカイア公]] |
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| reign = 1209年/1210年– 1229年ごろ |
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| predecessor = [[ギヨーム1世・ド・シャンリット|ギヨーム1世]] |
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| 画像サイズ = |
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| successor = [[ジョフロワ2世・ド・ヴィルアルドゥアン|ジョフロワ2世]] |
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| 画像説明 = |
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| spouse = エリザベト |
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| issue = [[ジョフロワ2世・ド・ヴィルアルドゥアン|ジョフロワ2世]]<br>アリックス<br>[[ギヨーム2世・ド・ヴィルアルドゥアン|ギヨーム2世]] |
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| 戴冠日 = |
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| father = ジャン・ド・ヴィルアルドゥアン |
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| 就任式 = |
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| mother = セリーヌ・ド・ブリエル |
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| 祝祷式 = |
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| dynasty = {{仮リンク|ヴィルアルドゥアン家|en|Villehardouin}} |
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| 即位式 = |
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| birth_date = 1169年ごろ |
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| birth_place = ''不明'' |
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| death_date = 1229年ごろ |
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| death_place = ''不明'' |
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| place of burial= {{仮リンク|アンドラヴィダ|en|Andravida}}<br/>聖ジェームズ教会 |
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| 配偶別号 = |
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| 全名 = |
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[[File:Elizabeth Vill.jpg|thumb|200px|公妃エリザベトの紋章]] |
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| 出生日 = [[1170年|1170]]/[[1175年|5年]]頃 |
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'''ジョフロワ1世・ド・ヴィルアルドゥアン'''({{lang-fr|Geoffroi I<sup>er</sup> de Villehardouin}}、[[1169年]]ごろ - [[1229年]]ごろ)とは、[[第4回十字軍]]に参加した{{仮リンク|シャンパーニュ伯国|en|County of Champagne}}出身のフランス人騎士である<ref>Runciman 1951, p. 126.</ref><ref name='Evergates 246'>Evergates 2007, p. 246.</ref><ref name='Setton 24'>Setton 1976, p. 24.</ref><ref name='Longnon 242'>Longnon 1969, p. 242.</ref>。彼は[[ペロポネソス半島]]の征服遠征に参加し、戦後第2代[[アカイア公]](在位1209年/1210年 - 1229年ごろ)に即位した<ref name='Evergates 246'/>。 |
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| 生地 = |
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| 死亡日 = [[1228年]] |
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| 没地 = |
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| 埋葬日 = |
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| 埋葬地 = |
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| 継承者 = |
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| 継承形式 = |
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| 配偶者1 = イザベル |
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| 子女 = [[ジョフロワ2世・ド・ヴィルアルドゥアン|ジョフロワ2世]]<br>[[ギヨーム2世・ド・ヴィルアルドゥアン|ギヨーム2世]] |
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| 王家 = ヴィルアルドゥアン家 |
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| 王朝 = |
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| 王室歌 = |
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| 父親 = ジャン・ド・ヴィルアルドゥアン |
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| 母親 = セリーヌ・ド・ブリエル |
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| 宗教 = |
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| サイン = |
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'''ジョフロワ1世・ド・ヴィルアルドゥアン'''(Geoffroi I de Villehardouin, [[1170年|1170]]/[[1175年|5年]]頃 - [[1228年]])は、[[フランス]]、[[シャンパーニュ]]の[[騎士]]、[[第4回十字軍]]参加者、第2代[[アカイア公国|アカイア公]](在位:[[1208年]] - [[1228年]])。叔父にあたる同名の歴史家[[ジョフロワ・ド・ヴィルアルドゥアン|ジョフロワ・ド・ヴィラルドゥアン]]と区別して「小ジョフロワ」と呼ばれる事もある。 |
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彼の治世下において、[[アカイア公国]]は[[ラテン帝国]]の直接的な属国という立場に置かれるようになったとされる<ref name='Longnon 239'>Longnon 1969, p. 239.</ref>。またジョフロワ1世は領域の拡大に専念したが、晩年は教会勢力と対立しその対応に追われたという<ref>Longnon 1969, pp. 240-241.</ref>。 |
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== 生涯 == |
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第4回十字軍の一団に同行し、本隊とは別に[[シリア]]へ先行。本隊の[[コンスタンティノポリス]]攻略を聞き知りそちらに向かうも、[[ペロポネソス半島]]の[[メソニ]]に漂着。土着[[ギリシア人]]有力者に招かれ、ペロポニソス征服に乗り出すが、[[1205年]]、その有力者が死に、彼の息子が敵対したため、当時中央ギリシアに遠征中の[[モンフェッラート侯]][[ボニファーチョ1世 (モンフェッラート侯)|ボニファーチョ1世]]に救援を依頼し、彼の許から派遣された[[ギヨーム1世・ド・シャンリット]]を頭として半島征服を開始。 |
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== 若年期と第4回十字軍 == |
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[[1208年]]頃、シャンリットの帰国に伴い、アカイア公国の支配権を掌握。[[ラテン帝国]]皇帝[[アンリ1世 (ラテン皇帝)|アンリ1世]]に従い、その封臣として正式に第2代アカイア公となる。半島の征服を継続し、[[1209年]]から[[1210年]]にかけて、土着ギリシア人有力者レオン・スグロスの籠城する[[アクロコリントス]]([[コリントス]]の[[アクロポリス]]の事)を攻略(スグロスは崖から身を投げ自害)。この時ジョフロワが建設した天守閣の塔が、現在もアクロコリントスに残る。 |
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ジョフロワはジャン・ド・ヴィルアルドゥアンとセリーヌ・ド・ブリエールとの間に長男として誕生した<ref name='Evergates 246'/>。ジョフロワはエリザベートと結婚した。このエリザベートはエリザベート・ド・シャップ<ref>Evergates 2007, p. 263.</ref>というヴィルアルドゥアン家と近しい十字軍貴族家の末裔だと慣例的には比定されているが、20世紀のフランス人歴史家Jean Longnonはこの説を否定している<ref>Jean Longnon, ''Les compagnons de Villehardouin'' (1978), p. 36</ref>。 |
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ジョフロワ1世の時代にペロポネソス半島の大半がアカイア公の支配下に入るが、半島南端の[[モネムヴァシア]]、[[マニ半島]]、[[タイゲトス]]山中に潜む[[スラヴ人]]部族メリング族の征服は後代に委ねられた。 |
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ジョフロワは1199年11月後半に{{仮リンク|アスフィル (コミューン)|label=エクリー|en|Écry-sur-Aisne}}で開催された[[馬上槍試合]]の際に、叔父で後に[[第4回十字軍]]における年代記編者として知られるようになる[[ジョフロワ・ド・ヴィルアルドゥアン]]と共に十字軍への参加を取り決めた<ref name='Setton 24'/>。ジョフロワはほかの十字軍騎士と共に直接[[シリア]]に向かった<ref name='Setton 24'/>。それ故に、ジョフロワは[[コンスタンティノープル包囲戦 (1204年)|1204年4月13日に十字軍が敢行した帝都コンスタンティノープルの占領]]に立ち会うことはなかった<ref>Setton 1976, pp. 12., 24.</ref>。 |
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{{先代次代|[[アカイア公国|アカイア公]]|第2代:1208年 - 1228年|[[ギヨーム1世・ド・シャンリット|ギヨーム1世]]|[[ジョフロワ2世・ド・ヴィルアルドゥアン|ジョフロワ2世]]}} |
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[[東ローマ帝国]]の偉大な帝都が十字軍によって征服されたとする知らせを耳にしたジョフロワは、同年夏にシリアから西に向けて出港を決意した<ref name='Setton 24'/><ref name='Fine 69'>Fine 1994, p. 69.</ref>。しかし天候が悪く、ジョフロワの船は向かい風により西方へ流されてしまった<ref name='Setton 24'/>。彼の船は[[ペロポネソス半島]]南部の{{仮リンク|メソニ (メッシニア)|label=モドン|en|Methoni, Messenia}}(現在の[[ギリシャ]]・メソニ地域)に上陸し、1204年~1205年の冬をその地で過ごした<ref name='Setton 24'/><ref name='Fine 69'/>。 |
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{{DEFAULTSORT:しよふろわ1}} |
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== ペロポネソスの征服 == |
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[[Image:Peloponnese Middle Ages map-en.svg|thumb|left|250px|中世のペロポネソス]] |
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モドンにおいて、ジョフロワはペロポネソス半島西部地域をできる限り征服するために、{{仮リンク|メッシニア|en|Messenia}}を治める[[ギリシャ人]][[アルコン|領主]]と同盟を締結した<ref name='Setton 24'/><ref name='Fine 69'/>。しかしその後すぐに同盟相手のギリシャ人領主が亡くなり、その後を彼の息子が継いだものの、彼は父とジョフロワが締結した同盟を破棄した<ref name='Fine 69'/>。ちょうどこの頃、ジョフロワは[[ナフプリオン]]に[[テッサロニキ王国|テッサロニキ王]][[ボニファーチョ1世 (モンフェッラート侯)|ボニファーチョ]]が軍勢と共に駐留しているとの報告を受けたとされる<ref name='Setton 24'/>。この報告を受けたジョフロワは、ボニファーチョ王からの支援を乞うべく1205年にナフプリオンの陣に向かい、ボニファーチョ王の軍勢に加わったという<ref name='Setton 24'/><ref name='Fine 69'/>。ジョフロワはボニファーチョ王に好意的に迎え入れられ、ボニファーチョ王は彼を家臣にしようとした<ref name='Setton 24'/>。しかし陣中でジョフロワはかつての旧友[[ギヨーム1世・ド・シャンリット]]と遭遇し、彼をペロポネソス半島征服事業に誘い入れた<ref name='Setton 24'/><ref name='Longnon 237'>Longnon 1969, p. 237.</ref>。ジョフロワは提案をのんだギヨームと共に、ボニファーチョ王から征服活動の許可を受けた<ref name='Setton 24'/>。 |
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1205年春、ギヨームとジョフロワは100騎の騎士と400騎の重装騎兵を引き連れて遠征を開始した<ref name='Setton 25'>Setton 1976, p. 25.</ref>。そして[[パトラ]]とPondikosを攻め落とし、Andravidaは住民が自ら開城して遠征軍に降伏した<ref name='Longnon 237'/>。地方の住民はギヨーム・ジョフロワの軍勢の下に馳せ参じ臣従を誓い、ギヨームは彼らの財産や現地文化を保証した<ref name='Longnon 237'/>。その後、十字軍はアルカディア地方(現在の[[:en:Kyparissia]])で唯一の抵抗を受けた<ref name='Fine 69'/>。この抵抗はアルカディア・[[ラコニア]]地方の領主、特にChamaretos家が組織していたとされ、Chamaretos家は現地[[スラブ人]]([[:en:Melingoi]]族)と同盟を結んで十字軍に対抗したのである<ref>Fine 1994, pp. 69-70.</ref>。のちにこの抵抗軍にミカエルという名の現地貴族が参加したという。このミカエルという名の貴族は、多くの歴史家によって初代[[エピロス専制侯国|エピロス領主]][[ミカエル1世コムネノス・ドゥーカス]]であると比定されている<ref>Fine 1994, pp. 70, 614.</ref>。ミカエルは5,000人の軍勢を率いてペロポネソス半島に向けて進軍し、メッシーナ北部の{{仮リンク|クントゥラスのオリーブ畑の戦い|label=クントゥラスのオリーブ畑にて十字軍と決戦した|en|Battle of the Olive Grove of Kountouras}}。ミカエル軍は十字軍と比べて多くの軍勢を擁していたが、この戦いで十字軍に敗れた<ref name='Longnon 237'/><ref name='Fine 70'>Fine 1994, p. 70.</ref>。ミカエル軍を破った十字軍は周辺地域を完全に征服したのち、半島内陸部へ進軍。結果、アルカディア地方とラコニア地方を除く前半島諸地域を征服した<ref name='Longnon 237'/>。 |
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ギヨーム・ド・シャンリットはアカイア公の称号を獲得するとともに、テッサロニキ王の宗主下の下でペロポネソス半島の領主となった<ref name='Longnon 237'/><ref name='Fine 70'/>。ジョフロワはギヨーム公から[[カラマタ]]とメッシーナを封土として授与された<ref name='Fine 70'/>。しかしながら、[[ヴェネツィア共和国]]は、1204年の第4回十字軍参加諸侯間で締結された東ローマ領分割条約([[:en:Partitio Romaniae]])で承認されていた自身の権利を主張し、1206年にはジョフロワの領土内に位置する内のモドン・{{仮リンク|コロニ|label=コロン|en|Koroni}}の2都市を奪取した<ref name='Longnon 238'/><ref name='Fine 71'/>。コンスタンティノープルを介する交易において重要な中継地点となる拠点都市であったためである<ref name='Longnon 238'>Longnon 1969, p. 238.</ref><ref name='Fine 71'>Fine 1994, p. 71.</ref>。ギヨームはその埋め合わせとして、ジョフロワに対してアルカディア地方の領有権を承認したという<ref name='Fine 71'/>。 |
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== アカイア統治期 == |
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1208年、ギヨームはフランスに残っていた兄が亡くなったことにより、大陸に残された一族の封土を継承するべくアカイアを発ち、フランスに向けて帰国した<ref name='Longnon 239'/><ref>Setton 1976, p. 33.</ref>。ギヨームはジョフロワを公爵代理に任命し、ギヨームの甥ユーグがアカイアにやってくるまでの間の代理統治をジョフロワに任せた<ref name='Fine 71'/>。しかし、ギヨームもユーグもその後まもなく亡くなった<ref>Setton 1976, pp. 33-34.</ref>。 |
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1209年5月、ジョフロワは[[ラテン皇帝]][[アンリ1世 (ラテン皇帝)|アンリ1世]]が自身の権威を確実なものにするために開催したラヴェニカ会議([[:en:Parliament of Ravennika (1209)]])に出席した<ref name='Longnon 239'/><ref name="Fine 1994, p. 614">Fine 1994, p. 614.</ref>。アンリ1世はジョフロワをアカイア公に任命し、ラテン帝国の直属家臣にするとともに<ref name='Longnon 239'/>、ジョフロワをラテン帝国の代理統治者([[:en:seneschal]])にも重ねて任命した<ref name='Setton 34'>Setton 1976, p. 34.</ref>。 |
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{{仮リンク|モレア年代記|en|Chronicle of the Morea}}によれば、ジョフロワがアカイア公に任命されたのはより後の話であったと記されている。ギヨーム1世の甥ロベールが1年かけてペロポネソス半島に辿り着き、アカイア公の爵位の継承を主張していたからであるとされる<ref>Fine 1994, pp. 71-72.</ref>。年代記に記された話なよれば、ジョフロワはありとあらゆる計略を用いてロベールの東方への旅程を遅らせ、彼がやっとペロポネソスに辿り着いた頃には、有力な騎士たちと共に半島のあちこちを移動して時を稼いだという<ref name='Fine 72'>Fine 1994, p. 72.</ref>。そしてジョフロワは議会を招集し、相続人であったロベールがアカイア公の継承権を喪失したことを宣言した上で、自らがアカイア公を継承した<ref name='Fine 72'/>。 |
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アカイア公に就任したものの、ジョフロワは1209年にヴェネツィア共和国と条約を締結しており、その条約に基づいてジョフロワ公は[[コリントス]]から[[ピュロス (ギリシャ)|ピュロス]]港に至るまでのすべての地域においてヴェネツィアに対する従属を認めていた<ref name='Longnon 239'/><ref name='Setton 34'/>。ジョフロワはこれに加えて、公国におけるヴェネツィア商人の自由貿易権をも承認していたとされる<ref name='Fine 71'/>。 |
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[[Image:Larissa2.jpg|thumb|right|250px|アルゴスのラリサ丘における中世の城塞]] |
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ジョフロワはその後の生涯を公国版図の拡大にささげた<ref name='Longnon 240'>Longnon 1969, p. 240.</ref>。[[アテネ公国|アテネ公]]{{仮リンク|オットー・ド・ラ・ロッシュ|en|Otto de la Roche}}の支援をもってして、1209年または1210年に[[アクロコリントス]]の城砦を制圧した。アクロコリントス制圧の際、最初に[[:en:Leo Sgouros]]という現地領主が抵抗し、のちにエピロス候ミカエル1世の弟である[[テオドロス1世コムネノス・ドゥーカス]]の抵抗を受けたという<ref name="Fine 1994, p. 614"/><ref name='Longnon 240'/><ref name='Setton 36'>Setton 1976, p. 36.</ref>。ジョフロワはそれから数か月の間に[[ナフプリオン]]を制圧し、1212年にはテオドロス1世がコリントス教会の財宝を保管していた[[アルゴス (ギリシャ)|アルゴス]]の要塞をも制圧し、ジョフロワとオットーはその財宝を手に入れた<ref name='Setton 36'/>。その後、ジョフロワとオットーは領主が町を放棄したことで統治者が不在となっていたテーベを制圧し、両者は対等なテーベを対等に分割しテーベの共同統治を開始した<ref name='Longnon 241'>Longnon 1969, p. 241.</ref>。 |
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ジョフロワは新しく征服した土地やフランスに帰還した貴族の領地を占領させるために、フランス(特にシャンパーニュ地方)から若い騎士を呼び寄せた<ref name='Longnon 240'/>。ジョフロワの治世下において、アンドラヴィダにて開催された会議にて貴族らに対する領邦の割り当てとそれに伴う封建的義務について取り決められた<ref>Setton 1976, p. 30.</ref>。この会議にて、アカイア公国には12前後の貴族領が誕生し、称号を得た者は家臣たちと共にアカイア高等法院のメンバーとしてこれらの統治組織を構成した<ref>Setton 1976, p. 31.</ref>。 |
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ジョフロワの征服期において、教会勢力が有する多くの教会資産は聖職者の要求に反して世俗化され、最終的に教会に返還されることはなかった<ref name='Longnon 241'/>。''{{仮リンク|モレア年代記|en|Chronicle of the Morea}}''によれば、教会勢力が軍事支援として彼らの財産をジョフロワに提供するのを拒否した際、ジョフロワ1世は彼らの財産を押収した上で得られた資金をもとにクレルモン城を建築したという<ref name='Longnon 241'/>。それに加え、当時の高位ギリシャ人聖職者が農奴に対して封建制の縛りからの逃亡を何の戸惑いなく許容してしまうことが多かったため、彼は比較的大人数存在したギリシャ人聖職者を農奴としてこき使ったことを非難されている<ref name='Longnon 241'/>。この出来事はジョフロワ側と地元教会勢力との争いの長期化につながった<ref name='Longnon 241'/>。 |
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初め、コンスタンティノープル大司教([[:en:Latin Patriarch of Constantinople]])はこの状況を受けてジョフロワ1世を[[破門]]した上でアカイア公国領内における聖務禁止令を発布した<ref name='Setton 46'>Setton 1976, p. 46.</ref>。しかし1217年2月11日、ジョフロワの要求を受けた[[ローマ教皇]][[ホノリウス3世 (ローマ教皇)|ホノリウス3世]]は、教皇から大司教に向けて送付された書状の受け取りから1週間以内に大司教による破門宣告が解除されることを宣告した<ref name='Setton 46'/>。その後、大司教は使節を派遣してアカイア公国に対する新たな聖務禁止令を発布した<ref name='Setton 47'>Setton 1976, p. 47.</ref>。しかし彼の行動は教皇権の強奪行為だとして再びローマ教皇より宣告解除を命じられた<ref name='Setton 47'/>。 |
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次に、1218年にペロポネソス半島を巡行していた{{仮リンク|教皇特使|en|papal legate}}{{仮リンク|ジョバンニ・コロンナ (1245年没)|label=ジョバンニ・コロンナ枢機卿|en|Giovanni Colonna (died 1245)}}がジョフロワに対して破門宣告を下した。ジョフロワが修道院や教会、地方教区や教会聖具を教会勢力に抗して保持し続けたことが原因とされる<ref>Setton 1976, pp. 47-48.</ref>。地元高位聖職者からの要求に応じて、教皇は1219年1月21日にジョフロワの破門宣告を容認したという<ref name='Setton 47'/>。教皇はジョフロワを教会の敵と宣告した<ref name='Longnon 241'/>。 |
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1223年にジョフロワが[[ローマ]]に向けて配下の騎士を派遣する取り決めを行うまでの約5年間にわたって、ローマ教会とジョフロワとの抗争は続いた<ref name='Longnon 241'/>。1223年9月4日、遂に教皇ホノリウス3世はアカイア教会・ジョフロワ公間で取り決められた合意を容認した<ref name='Longnon 241'/>。協定によると、ジョフロワ1世は教会に対して土地を返還したが、毎年の賠償金の支払いと引き換えに教会財産や教会聖具の変換を拒みその後も自身が保持し続けた。また、自由を謳歌し免責特権を有するギリシャ人司教の人数も教会の規模に応じて制限されたという<ref name='Longnon 241'/>。 |
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一方その頃、隣国テッサロニキ王国はエピロス領主テオドロス・コムネノス・ドゥカスの侵攻に晒され、首都を包囲されていた<ref name='Longnon 242'/>。ジョフロワは教皇から支援に向かうよう要請されたものの、結局テッサロニキ王国の支援に向かうことはなく、1224年暮にテッサロニキ王国はテオドロスに対して降伏した<ref name='Longnon 242'/><ref>Setton 1976, p. 51.</ref>。 |
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ジョフロワは1228年から1230年の間に亡くなった<ref name='Longnon 242'/>。死後、彼はアンドラヴィダの聖ジェームズ教会に埋葬されたという。 |
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== 脚注 == |
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{{脚注ヘルプ}} |
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{{Reflist|2}} |
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== 関連項目 == |
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*[[第4回十字軍]] |
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*[[アカイア公国]] |
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*{{仮リンク|モレア年代記|en|Chronicle of Morea}} |
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*[[フランコクラティア]] |
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== 出典 == |
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* {{La Morée franque}} |
|||
* Evergates, Theodore (2007). ''The Aristocracy in the County of Champagne, 1100-1300''. University of Pennsylvania Press. {{ISBN|978-0-8122-4019-1}}. |
|||
* {{The Late Medieval Balkans}} |
|||
* {{Setton-A History of the Crusades | volume = 2 | chapter = The Frankish States in Greece, 1204–1311 | pages = 234–275 | last = Longnon | first = Jean | chapter-url=http://digicoll.library.wisc.edu/cgi-bin/History/History-idx?type=article&did=History.CrusTwo.i0021&id=History.CrusTwo }} |
|||
* {{Runciman-A History of the Crusades | volume = 3}} |
|||
* {{The Papacy and the Levant|volume=1}} |
|||
== 参考文献 == |
|||
*Bratu, Cristian. “Clerc, Chevalier, Aucteur: The Authorial Personae of French Medieval Historians from the 12th to the 15th centuries.” In Authority and Gender in Medieval and Renaissance Chronicles. Juliana Dresvina and Nicholas Sparks, eds. (Newcastle upon Tyne: Cambridge Scholars Publishing, 2012): 231-259. |
|||
*Finley Jr, John H. "[https://www.jstor.org/stable/2850425 Corinth in the Middle Ages.]" ''Speculum'', Vol. 7, No. 4. (Oct., 1932), pp. 477–499. |
|||
*Tozer, H. F. "[https://www.jstor.org/stable/623369 The Franks in the Peloponnese.]" ''The Journal of Hellenic Studies'', Vol. 4. (1883), pp. 165–236. |
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{{Normdaten}} |
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{{DEFAULTSORT:しよふろわ 1せい ういるはるとうあん}} |
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[[Category:12世紀生]] |
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[[Category:1220年代没]] |
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[[Category:中世フランス人騎士]] |
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[[Category:第4回十字軍]] |
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[[Category:ヴァルバルドゥアン家]] |
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[[Category:アカイア公]] |
[[Category:アカイア公]] |
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[[Category:ヴィルアルドゥアン家]] |
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[[Category:1228年没]] |
2023年9月22日 (金) 17:45時点における最新版
ジョフロワ1世 Geoffroi Ier | |
---|---|
アカイア公 | |
ジョフロワ1世の紋章 | |
在位期間 1209年/1210年– 1229年ごろ | |
先代 | ギヨーム1世 |
次代 | ジョフロワ2世 |
出生 |
1169年ごろ 不明 |
死亡 |
1229年ごろ 不明 |
埋葬 |
アンドラヴィダ 聖ジェームズ教会 |
父親 | ジャン・ド・ヴィルアルドゥアン |
母親 | セリーヌ・ド・ブリエル |
配偶者 | エリザベト |
子女 ジョフロワ2世 アリックス ギヨーム2世 |
ジョフロワ1世・ド・ヴィルアルドゥアン(フランス語: Geoffroi Ier de Villehardouin、1169年ごろ - 1229年ごろ)とは、第4回十字軍に参加したシャンパーニュ伯国出身のフランス人騎士である[1][2][3][4]。彼はペロポネソス半島の征服遠征に参加し、戦後第2代アカイア公(在位1209年/1210年 - 1229年ごろ)に即位した[2]。
彼の治世下において、アカイア公国はラテン帝国の直接的な属国という立場に置かれるようになったとされる[5]。またジョフロワ1世は領域の拡大に専念したが、晩年は教会勢力と対立しその対応に追われたという[6]。
若年期と第4回十字軍
[編集]ジョフロワはジャン・ド・ヴィルアルドゥアンとセリーヌ・ド・ブリエールとの間に長男として誕生した[2]。ジョフロワはエリザベートと結婚した。このエリザベートはエリザベート・ド・シャップ[7]というヴィルアルドゥアン家と近しい十字軍貴族家の末裔だと慣例的には比定されているが、20世紀のフランス人歴史家Jean Longnonはこの説を否定している[8]。
ジョフロワは1199年11月後半にエクリーで開催された馬上槍試合の際に、叔父で後に第4回十字軍における年代記編者として知られるようになるジョフロワ・ド・ヴィルアルドゥアンと共に十字軍への参加を取り決めた[3]。ジョフロワはほかの十字軍騎士と共に直接シリアに向かった[3]。それ故に、ジョフロワは1204年4月13日に十字軍が敢行した帝都コンスタンティノープルの占領に立ち会うことはなかった[9]。
東ローマ帝国の偉大な帝都が十字軍によって征服されたとする知らせを耳にしたジョフロワは、同年夏にシリアから西に向けて出港を決意した[3][10]。しかし天候が悪く、ジョフロワの船は向かい風により西方へ流されてしまった[3]。彼の船はペロポネソス半島南部のモドン(現在のギリシャ・メソニ地域)に上陸し、1204年~1205年の冬をその地で過ごした[3][10]。
ペロポネソスの征服
[編集]モドンにおいて、ジョフロワはペロポネソス半島西部地域をできる限り征服するために、メッシニアを治めるギリシャ人領主と同盟を締結した[3][10]。しかしその後すぐに同盟相手のギリシャ人領主が亡くなり、その後を彼の息子が継いだものの、彼は父とジョフロワが締結した同盟を破棄した[10]。ちょうどこの頃、ジョフロワはナフプリオンにテッサロニキ王ボニファーチョが軍勢と共に駐留しているとの報告を受けたとされる[3]。この報告を受けたジョフロワは、ボニファーチョ王からの支援を乞うべく1205年にナフプリオンの陣に向かい、ボニファーチョ王の軍勢に加わったという[3][10]。ジョフロワはボニファーチョ王に好意的に迎え入れられ、ボニファーチョ王は彼を家臣にしようとした[3]。しかし陣中でジョフロワはかつての旧友ギヨーム1世・ド・シャンリットと遭遇し、彼をペロポネソス半島征服事業に誘い入れた[3][11]。ジョフロワは提案をのんだギヨームと共に、ボニファーチョ王から征服活動の許可を受けた[3]。
1205年春、ギヨームとジョフロワは100騎の騎士と400騎の重装騎兵を引き連れて遠征を開始した[12]。そしてパトラとPondikosを攻め落とし、Andravidaは住民が自ら開城して遠征軍に降伏した[11]。地方の住民はギヨーム・ジョフロワの軍勢の下に馳せ参じ臣従を誓い、ギヨームは彼らの財産や現地文化を保証した[11]。その後、十字軍はアルカディア地方(現在のen:Kyparissia)で唯一の抵抗を受けた[10]。この抵抗はアルカディア・ラコニア地方の領主、特にChamaretos家が組織していたとされ、Chamaretos家は現地スラブ人(en:Melingoi族)と同盟を結んで十字軍に対抗したのである[13]。のちにこの抵抗軍にミカエルという名の現地貴族が参加したという。このミカエルという名の貴族は、多くの歴史家によって初代エピロス領主ミカエル1世コムネノス・ドゥーカスであると比定されている[14]。ミカエルは5,000人の軍勢を率いてペロポネソス半島に向けて進軍し、メッシーナ北部のクントゥラスのオリーブ畑にて十字軍と決戦した。ミカエル軍は十字軍と比べて多くの軍勢を擁していたが、この戦いで十字軍に敗れた[11][15]。ミカエル軍を破った十字軍は周辺地域を完全に征服したのち、半島内陸部へ進軍。結果、アルカディア地方とラコニア地方を除く前半島諸地域を征服した[11]。
ギヨーム・ド・シャンリットはアカイア公の称号を獲得するとともに、テッサロニキ王の宗主下の下でペロポネソス半島の領主となった[11][15]。ジョフロワはギヨーム公からカラマタとメッシーナを封土として授与された[15]。しかしながら、ヴェネツィア共和国は、1204年の第4回十字軍参加諸侯間で締結された東ローマ領分割条約(en:Partitio Romaniae)で承認されていた自身の権利を主張し、1206年にはジョフロワの領土内に位置する内のモドン・コロンの2都市を奪取した[16][17]。コンスタンティノープルを介する交易において重要な中継地点となる拠点都市であったためである[16][17]。ギヨームはその埋め合わせとして、ジョフロワに対してアルカディア地方の領有権を承認したという[17]。
アカイア統治期
[編集]1208年、ギヨームはフランスに残っていた兄が亡くなったことにより、大陸に残された一族の封土を継承するべくアカイアを発ち、フランスに向けて帰国した[5][18]。ギヨームはジョフロワを公爵代理に任命し、ギヨームの甥ユーグがアカイアにやってくるまでの間の代理統治をジョフロワに任せた[17]。しかし、ギヨームもユーグもその後まもなく亡くなった[19]。
1209年5月、ジョフロワはラテン皇帝アンリ1世が自身の権威を確実なものにするために開催したラヴェニカ会議(en:Parliament of Ravennika (1209))に出席した[5][20]。アンリ1世はジョフロワをアカイア公に任命し、ラテン帝国の直属家臣にするとともに[5]、ジョフロワをラテン帝国の代理統治者(en:seneschal)にも重ねて任命した[21]。
モレア年代記によれば、ジョフロワがアカイア公に任命されたのはより後の話であったと記されている。ギヨーム1世の甥ロベールが1年かけてペロポネソス半島に辿り着き、アカイア公の爵位の継承を主張していたからであるとされる[22]。年代記に記された話なよれば、ジョフロワはありとあらゆる計略を用いてロベールの東方への旅程を遅らせ、彼がやっとペロポネソスに辿り着いた頃には、有力な騎士たちと共に半島のあちこちを移動して時を稼いだという[23]。そしてジョフロワは議会を招集し、相続人であったロベールがアカイア公の継承権を喪失したことを宣言した上で、自らがアカイア公を継承した[23]。
アカイア公に就任したものの、ジョフロワは1209年にヴェネツィア共和国と条約を締結しており、その条約に基づいてジョフロワ公はコリントスからピュロス港に至るまでのすべての地域においてヴェネツィアに対する従属を認めていた[5][21]。ジョフロワはこれに加えて、公国におけるヴェネツィア商人の自由貿易権をも承認していたとされる[17]。
ジョフロワはその後の生涯を公国版図の拡大にささげた[24]。アテネ公オットー・ド・ラ・ロッシュの支援をもってして、1209年または1210年にアクロコリントスの城砦を制圧した。アクロコリントス制圧の際、最初にen:Leo Sgourosという現地領主が抵抗し、のちにエピロス候ミカエル1世の弟であるテオドロス1世コムネノス・ドゥーカスの抵抗を受けたという[20][24][25]。ジョフロワはそれから数か月の間にナフプリオンを制圧し、1212年にはテオドロス1世がコリントス教会の財宝を保管していたアルゴスの要塞をも制圧し、ジョフロワとオットーはその財宝を手に入れた[25]。その後、ジョフロワとオットーは領主が町を放棄したことで統治者が不在となっていたテーベを制圧し、両者は対等なテーベを対等に分割しテーベの共同統治を開始した[26]。
ジョフロワは新しく征服した土地やフランスに帰還した貴族の領地を占領させるために、フランス(特にシャンパーニュ地方)から若い騎士を呼び寄せた[24]。ジョフロワの治世下において、アンドラヴィダにて開催された会議にて貴族らに対する領邦の割り当てとそれに伴う封建的義務について取り決められた[27]。この会議にて、アカイア公国には12前後の貴族領が誕生し、称号を得た者は家臣たちと共にアカイア高等法院のメンバーとしてこれらの統治組織を構成した[28]。
ジョフロワの征服期において、教会勢力が有する多くの教会資産は聖職者の要求に反して世俗化され、最終的に教会に返還されることはなかった[26]。モレア年代記によれば、教会勢力が軍事支援として彼らの財産をジョフロワに提供するのを拒否した際、ジョフロワ1世は彼らの財産を押収した上で得られた資金をもとにクレルモン城を建築したという[26]。それに加え、当時の高位ギリシャ人聖職者が農奴に対して封建制の縛りからの逃亡を何の戸惑いなく許容してしまうことが多かったため、彼は比較的大人数存在したギリシャ人聖職者を農奴としてこき使ったことを非難されている[26]。この出来事はジョフロワ側と地元教会勢力との争いの長期化につながった[26]。
初め、コンスタンティノープル大司教(en:Latin Patriarch of Constantinople)はこの状況を受けてジョフロワ1世を破門した上でアカイア公国領内における聖務禁止令を発布した[29]。しかし1217年2月11日、ジョフロワの要求を受けたローマ教皇ホノリウス3世は、教皇から大司教に向けて送付された書状の受け取りから1週間以内に大司教による破門宣告が解除されることを宣告した[29]。その後、大司教は使節を派遣してアカイア公国に対する新たな聖務禁止令を発布した[30]。しかし彼の行動は教皇権の強奪行為だとして再びローマ教皇より宣告解除を命じられた[30]。
次に、1218年にペロポネソス半島を巡行していた教皇特使ジョバンニ・コロンナ枢機卿がジョフロワに対して破門宣告を下した。ジョフロワが修道院や教会、地方教区や教会聖具を教会勢力に抗して保持し続けたことが原因とされる[31]。地元高位聖職者からの要求に応じて、教皇は1219年1月21日にジョフロワの破門宣告を容認したという[30]。教皇はジョフロワを教会の敵と宣告した[26]。
1223年にジョフロワがローマに向けて配下の騎士を派遣する取り決めを行うまでの約5年間にわたって、ローマ教会とジョフロワとの抗争は続いた[26]。1223年9月4日、遂に教皇ホノリウス3世はアカイア教会・ジョフロワ公間で取り決められた合意を容認した[26]。協定によると、ジョフロワ1世は教会に対して土地を返還したが、毎年の賠償金の支払いと引き換えに教会財産や教会聖具の変換を拒みその後も自身が保持し続けた。また、自由を謳歌し免責特権を有するギリシャ人司教の人数も教会の規模に応じて制限されたという[26]。
一方その頃、隣国テッサロニキ王国はエピロス領主テオドロス・コムネノス・ドゥカスの侵攻に晒され、首都を包囲されていた[4]。ジョフロワは教皇から支援に向かうよう要請されたものの、結局テッサロニキ王国の支援に向かうことはなく、1224年暮にテッサロニキ王国はテオドロスに対して降伏した[4][32]。
ジョフロワは1228年から1230年の間に亡くなった[4]。死後、彼はアンドラヴィダの聖ジェームズ教会に埋葬されたという。
脚注
[編集]- ^ Runciman 1951, p. 126.
- ^ a b c Evergates 2007, p. 246.
- ^ a b c d e f g h i j k l Setton 1976, p. 24.
- ^ a b c d Longnon 1969, p. 242.
- ^ a b c d e Longnon 1969, p. 239.
- ^ Longnon 1969, pp. 240-241.
- ^ Evergates 2007, p. 263.
- ^ Jean Longnon, Les compagnons de Villehardouin (1978), p. 36
- ^ Setton 1976, pp. 12., 24.
- ^ a b c d e f Fine 1994, p. 69.
- ^ a b c d e f Longnon 1969, p. 237.
- ^ Setton 1976, p. 25.
- ^ Fine 1994, pp. 69-70.
- ^ Fine 1994, pp. 70, 614.
- ^ a b c Fine 1994, p. 70.
- ^ a b Longnon 1969, p. 238.
- ^ a b c d e Fine 1994, p. 71.
- ^ Setton 1976, p. 33.
- ^ Setton 1976, pp. 33-34.
- ^ a b Fine 1994, p. 614.
- ^ a b Setton 1976, p. 34.
- ^ Fine 1994, pp. 71-72.
- ^ a b Fine 1994, p. 72.
- ^ a b c Longnon 1969, p. 240.
- ^ a b Setton 1976, p. 36.
- ^ a b c d e f g h i Longnon 1969, p. 241.
- ^ Setton 1976, p. 30.
- ^ Setton 1976, p. 31.
- ^ a b Setton 1976, p. 46.
- ^ a b c Setton 1976, p. 47.
- ^ Setton 1976, pp. 47-48.
- ^ Setton 1976, p. 51.
関連項目
[編集]出典
[編集]- Template:La Morée franque
- Evergates, Theodore (2007). The Aristocracy in the County of Champagne, 1100-1300. University of Pennsylvania Press. ISBN 978-0-8122-4019-1.
- Template:The Late Medieval Balkans
- Template:Setton-A History of the Crusades
- Template:Runciman-A History of the Crusades
- Setton, Kenneth M. (1976). The Papacy and the Levant (1204–1571), Volume I: The Thirteenth and Fourteenth Centuries. Philadelphia: The American Philosophical Society. ISBN 0-87169-114-0
参考文献
[編集]- Bratu, Cristian. “Clerc, Chevalier, Aucteur: The Authorial Personae of French Medieval Historians from the 12th to the 15th centuries.” In Authority and Gender in Medieval and Renaissance Chronicles. Juliana Dresvina and Nicholas Sparks, eds. (Newcastle upon Tyne: Cambridge Scholars Publishing, 2012): 231-259.
- Finley Jr, John H. "Corinth in the Middle Ages." Speculum, Vol. 7, No. 4. (Oct., 1932), pp. 477–499.
- Tozer, H. F. "The Franks in the Peloponnese." The Journal of Hellenic Studies, Vol. 4. (1883), pp. 165–236.