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== 歴史 == |
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{{main|中央アジア史}} |
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[[File:Central Asia.svg|thumb|350px|中央アジアの国]] |
[[File:Central Asia.svg|thumb|350px|中央アジアの国]] |
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中央アジアの歴史は、「中央アジア」をどう見るかによって様相を異にするが、一般に、ユーラシア大陸内陸部を拠点とする[[遊牧民族]]、および[[オアシス国家]]<ref name="中央アジアの歴史、間野">間野英二「中央アジアの歴史」講談社</ref>の歴史を指す。 |
中央アジアの歴史は、「中央アジア」をどう見るかによって様相を異にするが、一般に、ユーラシア大陸内陸部を拠点とする[[遊牧民族]]、および[[オアシス国家]]<ref name="中央アジアの歴史、間野">間野英二「中央アジアの歴史」講談社</ref>の歴史を指す。 |
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{{Main|遊牧民}} |
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⚫ | 歴史上、中央アジアの遊牧民は、[[北アジア]]の[[モンゴル高原]]から中央アジア・[[イラン高原]]・[[アゼルバイジャン]]・[[カフカス]]・[[キプチャク草原]]・[[アナトリア]]を経て[[東ヨーロッパ]]の[[バルカン半島|バルカン]]までを活動領域としてきた。[[匈奴]]・[[サカ]]・[[スキタイ]]の時代から、[[パルティア]]・[[鮮卑]]・[[突厥]]・[[ウイグル]]・[[セルジューク]]・[[モンゴル帝国]]などを経て近代に至るまで[[ユーラシア大陸]]全域の歴史に関わり、遊牧生活によって[[涵養]]された[[馬]]の育成技術と[[騎射]]の技術、卓越した移動力、[[騎兵]]戦術に裏打ちされた軍事力、そして[[交易]]で歴史を動かしてきた。遊牧民を介してユーラシア大陸の東西は[[シルクロード]]などを用いて交流し、[[中国]]の[[火薬]]などの技術が[[モンゴル帝国]]を通じてヨーロッパに伝わってもいる<ref name=":2">{{Cite web |title=中央アジア史とは |url=https://kotobank.jp/word/%E4%B8%AD%E5%A4%AE%E3%82%A2%E3%82%B8%E3%82%A2%E5%8F%B2-1562726 |website=コトバンク |access-date=2022-06-12 |language=ja |last= |publisher=[[日本大百科全書]] (ニッポニカ)}}</ref> |
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⚫ | 歴史上、中央アジアの遊牧民は、[[北アジア]]の[[モンゴル高原]]から中央アジア・[[イラン高原]]・[[アゼルバイジャン]]・[[カフカス]]・[[キプチャク草原]]・[[アナトリア]]を経て[[東ヨーロッパ]]の[[バルカン半島|バルカン]]までを活動領域としてきた。[[匈奴]]・[[サカ]]・[[スキタイ]]の時代から、[[パルティア]]・[[鮮卑]]・[[突厥]]・[[ウイグル]]・[[セルジューク]]・[[モンゴル帝国]]などを経て近代に至るまで[[ユーラシア大陸]]全域の歴史に関わり、遊牧生活によって[[涵養]]された[[馬]]の育成技術と[[騎射]]の技術、卓越した移動力、[[騎兵]]戦術に裏打ちされた軍事力、そして[[交易]]で歴史を動かしてきた。遊牧民を介してユーラシア大陸の東西は[[シルクロード]]などを用いて交流し、[[中国]]の[[火薬]]などの技術が[[モンゴル帝国]]を通じてヨーロッパに伝わってもいる<ref name=":2">{{Cite web |title=中央アジア史とは |url=https://kotobank.jp/word/%E4%B8%AD%E5%A4%AE%E3%82%A2%E3%82%B8%E3%82%A2%E5%8F%B2-1562726 |website=コトバンク |access-date=2022-06-12 |language=ja |last= |publisher=[[日本大百科全書]] (ニッポニカ)}}</ref>。 |
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=== 古代 === |
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考古学上の発見によると、この地域には紀元前2300年頃以降、より西方([[ロシア]]南部から[[ウクライナ]]にかけての草原地帯)から移住してきた[[インド・ヨーロッパ語族]]・[[インド・イラン語派]]の話者による[[アンドロノヴォ文化]]が栄えた。彼らの中から[[インド亜大陸]]に移住した者の言語が[[インド語派]]となる一方、この地域からそれほど離れなかった者の言語が[[イラン語派]]の諸言語になり、彼らの子孫が以下紹介する諸民族になったと推定されている。その中でも最初期の[[シンタシュタ文化]]の葬儀の儀式は、インドの古典[[リグ・ヴェーダ]]に記述されているものと酷似している<ref name=":1">{{Cite web |title=history of Central Asia |url=https://www.britannica.com/topic/history-of-Central-Asia-102306 |website=www.britannica.com |access-date=2022-06-11 |language=en}}</ref>。 |
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[[古代ギリシア]]・[[古代ローマ|ローマ]]の記録によると<ref>[[ヘロドトス]]『[[歴史 (ヘロドトス)|歴史]]』、[[ストラボン]]『[[地理誌]]』</ref>、[[紀元前6世紀]]の中央アジアには[[ダアイ]]、[[マッサゲタイ]]、[[サカ|サカイ]]といった、インド・ヨーロッパ語族イラン語派に属する諸言語を話す[[遊牧民族]]や、[[ソグド人|ソグディア人]]、[[バクトリア人]]といった定住民族がおり、時の[[世界帝国]]である[[アケメネス朝]]ペルシアに従属したり、敵対したりしていたという。なかでもマッサゲタイは[[トミュリス]]女王のもと、[[キュロス2世]](在位:[[紀元前550年]] - [[紀元前529年]])の侵攻に耐え、ペルシア軍を撃退し、キュロス2世を戦死させるほど強盛を誇った<ref name=":1" />。 |
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[[紀元前4世紀]]、[[マケドニア王国|マケドニア]]の[[アレクサンドロス3世]]はアケメネス朝を倒して東方へ進出、中央アジアにおいてサカイ、マッサゲタイを撃退し、[[ソグディア]]人、バクトリア人をその支配下に置いた。彼の死後、その広大な領土はギリシア系の後継王朝が支配することとなるが、特に[[グレコ・バクトリア王国]]にいたっては、東方におけるギリシア文化の発展と、北方遊牧民族から南アジア、西アジア文明を守る防壁の役割を果たした。[[紀元前2世紀]]、このギリシア国家は[[アシイ|アシオイ]]、[[パシアノイ]]、[[トハラ人|トカロイ]]、[[サカラウロイ]]といった北方の[[騎馬民族]]によって滅ぼされ、西方史料の情報もいったん途絶える<ref name=":1" />。 |
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西方史料に代わって中央アジアの歴史を伝えてくれるのが中国の歴史書である。中国の史料では、この「北方騎馬民族によるギリシア国家滅亡」によく似た事件を伝えている。紀元前2世紀に中国の[[甘粛省]]にいたとされる遊牧民族「[[月氏]]」が、[[モンゴル高原]]の遊牧民族「[[匈奴]]」によって撃退され、はるか西方の中央アジアに移動し、もともとそこにいた[[大夏]]国を征服して「大月氏」と称した。途中、月氏は[[セミレチエ地方]]において「[[塞族|塞]]」という民族を撃退したとあり、これを西方史料のいう「サカイ」に比定したり、「大夏」を「トカロイ」もしくはグレコ・バクトリア王国に比定したりする研究があったが、いずれにしても「中央アジアに北から遊牧騎馬民族が侵入してきた」という同事件を指している<ref name=":1" />。 |
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一方、中国史料は大月氏のほかに、[[カザフ草原]]の遊牧民族「[[奄蔡]]」や「[[康居]]」、[[フェルガナ盆地]]の「[[大宛]]」、天山地域の「[[烏孫]]」、[[タリム盆地]]のオアシス諸国「[[亀茲]]」「[[焉耆]]」「[[楼蘭]]」「[[車師]]」「[[于闐]]」「[[疏勒]]」「[[莎車]]」といった国々を記している。 |
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[[東トルキスタン]]には、古くは[[インド・ヨーロッパ語族]]の言葉を話す人(いわゆる[[アーリア人]])が居住していた。タリム盆地には疏勒・亀茲・焉耆・車師・楼蘭・于闐・疏勒・莎車などの[[都市国家]]が[[交易]]により栄えたが、しばしば[[遊牧国家]]の匈奴や中国の[[漢]]の支配下に入り、その[[朝貢国]]となった。天山・セミレチエ地方の烏孫はもともと匈奴の従属国であったが、半ば独立して漢帝国と友好関係を結んだ。 |
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[[1世紀]]、大月氏は[[クシャーナ朝]]に取って代わり、タリム盆地や北インドに進出し、大帝国を築いた。また、[[カニシュカ1世]]の時代に[[仏教]]を取り入れ、[[ガンダーラ美術]]を発展させた。クシャーナ朝は自身の記録を残しており、[[ギリシア文字]]/[[バクトリア語]]で書かれた『[[スルフ・コタル碑文]]』や『[[ラバータク碑文]]』は有名である。クシャーナ朝は[[3世紀]]に[[サーサーン朝]]の圧力を受けて衰退し、[[5世紀]]になって北東の遊牧民族[[エフタル]]に滅ぼされた<ref name=":1" />。 |
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=== 中世 === |
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[[4世紀]]ごろに北匈奴の残党ともいわれる遊牧民族の[[フン族]]の進出によって[[ゲルマン民族の大移動]]が引き起こされる。その後も、遊牧民族の[[柔然]]・[[突厥]]・[[回鶻]]・[[契丹]]が強大な軍事力で[[モンゴル高原]]から[[キプチャク草原]]に至るステップ地域を席巻した<ref name=":0">{{Cite web |title=Central Asia |url=https://www.britannica.com/place/Central-Asia |website=www.britannica.com |access-date=2022-06-11 |language=en}}</ref>。 |
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==== 柔然 ==== |
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5世紀、モンゴル高原で強大化した[[柔然]]はタリム盆地のオアシス諸国を支配下に入れ、紀元前2世紀以来続いた烏孫の国家を滅ぼし、中央アジアでエフタルと隣接した。エフタルは東南ではインドの[[グプタ朝]]と戦い、西ではサーサーン朝と戦って[[ペーローズ1世]](在位:[[459年]] - [[484年]])を戦死させ、北では[[高車]]と戦って高車王の[[阿伏至羅]]の弟である窮奇を殺し、その子の弥俄突らを捕えるなど、周辺の国々と絶えず戦争を行った<ref name=":0" />。 |
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==== 突厥 ==== |
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[[6世紀]]中頃の[[555年]]、[[中央ユーラシア]]東部の覇者であった柔然可汗国はその鍛鉄奴隷であった[[突厥]]に滅ぼされる。柔然を滅ぼした[[突厥]]は西方攻略を進め、[[室点蜜]](イステミ)を中央アジアに派遣し、サーサーン朝の[[ホスロー1世]](在位:[[531年]] - [[579年]])と協同でエフタルに攻撃を仕掛け、徹底的な打撃を与えた。これによってエフタルは[[タシュケント|シャシュ]](石国)、[[フェルガナ]](破洛那国)、[[サマルカンド]](康国)、キシュ(史国)を突厥に奪われ、[[567年]]ごろまでに残りの[[ブハラ]](安国)、ウラチューブ(曹国)、マイマルグ(米国)、クーシャーニイク(何国)、カリズム(火尋国)、ベティク(戊地国)も占領され、滅亡させられた。以後、中央アジアは突厥の支配下に入り。657年、一時は唐の支配下に入ってともにアラブ・イスラーム勢力と戦うも。 |
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突厥は柔然の旧領をも凌ぐ領土を支配し、中央ユーラシアを支配した<ref group="注釈">そのため[[東ローマ帝国]]の史料、[[テオフィラクトス・シモカテス|テオフィラクト・シモカッタ]]の『歴史』にも「テュルク」として記され、その存在が東西の歴史に記される。なお突厥は自らの言語(テュルク語)を自らの文字([[突厥文字]])で記している。[[突厥碑文]]</ref>。[[582年]]に東西に分裂し、[[8世紀]]には両突厥が滅亡する。 |
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==== ウイグル可汗国 ==== |
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[[タリム盆地]]の北に位置し[[モンゴル高原]]の南西にある[[ジュンガル盆地]]には、古来より[[遊牧]]民族が暮らしており、主にモンゴル高原を支配する遊牧国家(匈奴、突厥など)の勢力圏となっていたが、[[鉄勒]]の中からウイグル([[回鶻]])が台頭し、[[8世紀]]には[[突厥]]を滅ぼした。鉄勒は突厥以外のテュルク系民族を指す概念で、九姓(トクズ・オグズ)とも呼ばれていた。鉄勒は中央ユーラシア各地に分布し、中国史書では「最多の民族」とある。鉄勒は突厥に叛服を繰り返していたが、鉄勒の一部族の回紇([[ウイグル]])が台頭し、葛邏禄([[カルルク]])、抜悉蜜([[バシュミル]])といったテュルク系民族とともに[[東突厥]]第二可汗国を滅ぼした。この時期のウイグルは、[[タリム盆地]]、ジュンガル盆地、モンゴル高原など広大な領域を勢力圏とし、多くの部族を従えたため、'''[[回鶻|ウイグル可汗国]]'''と呼ばれている。ウイグルの影響力は絶大であり、[[安史の乱]]等ではしばしば[[唐]]を助け、婚姻関係を結ぶなど関係を深めたが、両突厥の滅亡後は中央ユーラシア各地に広まったテュルク系民族がそれぞれの国を建て、細分化していった<ref name=":1" />。 |
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モンゴル高原では東突厥を滅ぼした回紇(ウイグル)が[[回鶻]]可汗国を建て、中国の唐王朝と友好関係を築き[[シルクロード]]交易で繁栄したが、内紛が頻発して[[黠戛斯]](キルギス)の侵入を招き、[[840年]]に崩壊した。モンゴル高原より逃亡したウイグル人は[[甘州ウイグル王国]]、[[天山山脈]]北麓ユルドゥズ地方の広大な牧草地を確保してこれを本拠地とし、[[天山ウイグル王国]]を建てた。天山ウイグル王国は[[東トルキスタン]](タリム盆地、[[トルファン盆地]]、ジュンガル盆地)の東半分を占領し、[[マニ教]],[[仏教]],景教([[ネストリウス派]][[キリスト教]])を信仰した。これらは東トルキスタンにおける定住型テュルク人(現代[[ウイグル人]])の祖となり、タリム盆地のテュルク化を促進した。同時期に別のテュルク系民族がタリム盆地に'''[[カラ・ハン朝]]'''を興した。この結果、東トルキスタンの住民は、次第にテュルク化に向かい、カラ・ハン朝が[[イスラム教]]に改宗すると、イスラム化が進んだ<ref name=":1" />。 |
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[[カスピ海]]以西では、[[9世紀]]に遊牧民族の[[マジャル人|マジャル]]が[[アールパード]]王に率いられ[[ハンガリー平原]]に移住したが、[[レヒフェルトの戦い]]において[[オットー1世 (神聖ローマ皇帝)|オットー1世]]に敗れると、キリスト教化政策を進め、ハンガリー平原に統一国家を建設する。ほか、[[アヴァール]]、[[ブルガール人|ブルガール]],[[ハザール]],[[ペチェネグ]]が割拠しており、南ルーシの草原で興亡を繰り広げていた。[[11世紀]]になるとキメクの構成部族であった[[キプチャク]](クマン人、ポロヴェツ)が南ルーシの[[キプチャク草原]]に侵入し、[[モンゴル]]の侵入まで勢力を保つ。 |
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==== カラハン朝とテュルク・イスラーム ==== |
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'''中央アジア'''ではカルルク、[[突騎施]](テュルギシュ),[[キメク]]、[[オグズ]]といった諸族が割拠していたが、[[10世紀]]に[[サーマーン朝]]の影響を受けてイスラーム化が進み、テュルク系民族初となる[[カラハン朝]]が誕生する。彼らはやがて'''トゥルクマーン'''(イスラームに改宗したオグズ)と呼ばれ、中央アジア各地で略奪を働き、土地を荒廃させていったが、セルジューク家の[[トゥグリル・ベグ]]によって統率されるようになると、[[1040年]]に[[ガズナ朝]]を潰滅させ、[[ホラーサーン]]の支配権を握る。[[1055年]]、トゥグリル・ベクは[[バグダード]]に入城し、[[アッバース朝]]の[[カリフ]]から正式に[[スルターン]]の称号を授与されると[[スンナ派]]の擁護者としての地位を確立する。この'''[[セルジューク朝]]'''が中央アジアから[[西アジア]]、[[アナトリア半島]]にいたる広大な領土を支配したために、テュルク系[[ムスリム]]がこれらの地域に広く分布することとなった。また、イスラーム世界において奴隷としてのテュルク([[マムルーク]])は重要な存在であり、イスラーム勢力が聖戦([[ジハード]])によって得たテュルク人捕虜は戦闘力に優れているということでサーマーン朝などで重宝され、時にはマムルーク自身の王朝([[ホラズム・シャー朝]]、ガズナ朝、[[マムルーク朝]]、[[奴隷王朝]]など)が各地に建てられることもあった。こうした中で'''テュルク・イスラーム文化'''というものが開花し、数々のイスラーム書籍がテュルク語によって書かれることとなる。こうしたことによってイスラーム世界におけるテュルク語の位置は[[アラビア語]]、[[ペルシア語]]に次ぐものとなり、テュルク人はその主要民族となった<ref name=":1" />。 |
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東トルキスタンの西半分はイスラームを受容したカラハン朝の領土となったため、[[カシュガル]]を中心に[[ホータン]]や[[クチャ県|クチャ]]もイスラーム圏となる。これら2国によって東トルキスタンは急速にテュルク化が進み、古代から[[インド・ヨーロッパ語族|印欧系の言語]]([[トカラ語]]、[[ガンダーラ語]])であったオアシス住民も11世紀後半にはテュルク民族と化した<ref name=":2" />。 |
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==== 契丹と西遼 ==== |
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カラ・ハン朝は後に東西に分裂し、東カラ・ハン朝は[[金 (王朝)|金]]に敗れて西遷してきた[[遼]]の皇族[[耶律大石]]率いる[[契丹]]族によって[[12世紀]]に滅ぼされた。彼ら契丹族がトルキスタンに建てた王朝は'''[[カラ・キタイ]]'''または'''[[西遼]]'''などと呼ばれている。カラ・キタイはさらなる勢力拡大を目指し、[[西トルキスタン]]に割拠していた西カラ・ハン朝を攻撃して服属させるとともに、その援軍として現れた[[セルジューク朝]]の軍に大勝して中央アジアでの覇権を確立した。結果、天山ウイグル王国やホラズム・シャー朝を影響下に置くこととなった<ref name=":1" />。 |
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[[ファイル:Asia 1200ad.jpg|thumb|250px|13世紀前半の世界]] |
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中央アジアの草原地帯にはカルルク、テュルギシュ、キメク、オグズといった[[西突厥]]系の諸族が割拠しており、オアシス地帯では[[イラン系]]の定住民がすでにイスラーム教を信仰していた。他言語話者がテュルク語に変更するにはテュルク語でイスラーム教を布教するのがもっとも効果的なのであるが、[[西トルキスタン]]では定住民がすでにムスリムであったり、遊牧民と定住民の住み分けがなされていたり人口が多かったために東トルキスタンほど急速にテュルク化が起きなかった。西トルキスタンの場合は、[[ホラズム・シャー朝]]、[[カラキタイ]]、[[ティムール朝]]、[[シャイバーニー朝]]といった王朝のもとでゆっくりとテュルク化が進んでいった<ref name=":1" />。 |
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==== モンゴル帝国 ==== |
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[[ファイル:Genghis Khan empire-en.svg|thumb|250px|チンギス・カン在世中の諸遠征とモンゴル帝国の拡大]] |
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13世紀ごろ、[[モンゴル帝国]]はモンゴル高原・中国・中央アジア・イラン・イラク・アナトリア・東ヨーロッパを支配するなど、強大な軍事力でユーラシア大陸を席巻した。[[モンゴル高原]]に割拠した遊牧民の部族は「モンゴル」「[[メルキト]]」「[[ナイマン]]」「[[ケレイト]]」「[[タイチウト]]」などで、[[元 (王朝)|元]]は遊牧民の帝国であるモンゴル帝国の一部である。 |
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古代からモンゴル高原には絶えず統一遊牧国家が存在してきたが、840年のウイグル可汗国(回鶻)の崩壊後は360年の長期にわたって統一政権が存在しない空白の時代が続いた。これは[[ゴビ砂漠|ゴビ]]の南(漠南)を支配した[[遼]]([[契丹]])や[[金 (王朝)|金]]([[女真]])といった王朝が、巧みに干渉して漠北に強力な遊牧政権が出現しないよう、政治工作をしていたためであった。当時、モンゴル高原には[[ケレイト]]、[[ナイマン]]、[[メルキト]]、[[モンゴル]]、[[タタル]]、[[オングト]]、[[コンギラト]]といったテュルク・モンゴル系の諸部族が割拠していたが、[[13世紀]]初頭にモンゴル出身のテムジンがその諸部族を統一して新たな政治集団を結成し、[[チンギス・カン]](在位:[[1206年]] - [[1227年]])として大モンゴル・ウルス([[モンゴル帝国]])を建国した。チンギス・カンはさらに周辺の諸民族・国家に侵攻し、北の[[バルグト]]、[[オイラト]]、[[堅昆|キルギス]]、西の[[タングート]]([[西夏]])、天山ウイグル王国、カルルク、カラキタイ(西遼)、ホラズム・シャー朝をその支配下に置き、短期間のうちに大帝国を築き上げた。チンギス・カンの後を継いだ[[オゴデイ|オゴデイ・カアン]](在位:[[1229年]] - [[1241年]])も南の金朝を滅ぼして北中国を占領し、征西軍を派遣してカスピ海以西のキプチャク、[[ヴォルガ・ブルガール]]、ルーシ諸公国を支配下に置いてヨーロッパ諸国にも侵攻した。ユーラシア大陸を覆い尽くすほどの大帝国となったモンゴルであったが、第4代[[モンケ|モンケ・カアン]](在位:[[1251年]] - [[1259年]])の死後に後継争いが起きたため、帝国は4つの国に分裂してしまう。 |
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モンゴル帝国時代にテュルクのモンゴル語化はあまり起きなかった。むしろイスラーム圏に領地を持った[[チャガタイ・ウルス]](チャガタイ汗国)、[[フレグ・ウルス]](イル汗国)、[[ジョチ・ウルス]](キプチャク汗国)ではイスラームに改宗するとともにテュルク語を話すモンゴル人が現れた。こうしてモンゴル諸王朝のテュルク・イスラーム化が進んだために、モンゴル諸王朝の解体後はテュルク系の国家が次々と建設される<ref name=":1" />。 |
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天山ウイグル王国は、カラ・キタイがホラズム・シャー朝の勃興により相対的に弱体化していたため、いち早くモンゴルに服属し、その駙馬王家としてモンゴルの王族に準ずる待遇を得た。オアシス定住民の統治に長けていた天山ウイグル王国はその後もモンゴル帝国の庇護を受け、[[14世紀]]後半にいたるまでその王権が保たれた。ウイグル人は高度な知識を持ち、モンゴル帝国の官僚として活躍し、また[[ウイグル文字]]は[[モンゴル文字]]の基礎になった。モンゴルの内紛が起きると天山ウイグル政権は[[トルファン]]地域を放棄したが、その精神を受け継いだウイグル定住民たちは現在も[[ウイグル人]]として生き続けている。 |
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モンゴル帝国支配下の東トルキスタンを大きく分けると、天山ウイグル王国の領域のほか、チンギス・ハンの第三子[[オゴデイ]]系の領地('''[[オゴデイ・ハン国]]''')と第二子[[チャガタイ]]系の領地('''[[チャガタイ・ハン国]]''')に分かれていた。カラハン朝以来イスラーム圏となっていたタリム盆地西部以西にはモンゴル時代にチャガタイ・ウルス(チャガタイ・ハン国)が形成され、天山ウイグル領で[[仏教]]圏であった東部もその版図となり、イスラーム圏となる。やがてチャガタイ・ハン国は[[パミール高原|パミール]]を境に東西に分裂するが、この要因のひとつにモンゴル人のテュルク化が挙げられる。[[マー・ワラー・アンナフル]]を中心とする西側のモンゴル人はイスラームを受容してテュルク語を話し、オアシス定住民の生活に溶け込んでいった。彼ら自身は「チャガタイ」と称したが、モンゴルの伝統を重んじる東側のモンゴル人は彼らを「カラウナス(混血児)」と蔑み、自身を「モグール」と称した。そのためしばらく東トルキスタンは「[[モグーリスタン]]」と呼ばれることとなる<ref name=":1" />。 |
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やがてモンゴル帝国は王族間対立などによって徐々に解体へと向かうこととなるが、オゴデイの孫[[カイドゥ]]は、モンゴル帝国の宗主たる[[元 (王朝)|元]]の[[クビライ]]に公然と反旗を翻し、帝国の解体に大きな影響を与えた。その後、東トルキスタンは長らくモンゴル系領主の支配を受けた。 |
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==== ティムール朝 ==== |
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14世紀後半の1370年に[[ティムール朝]]が興り、トゥーラーン・マー・ワラー・アンナフル・ホラーサーン・ヒンドゥースタン・イラン・イラクを支配した。なお、それに先駆けて1299年には[[オスマン帝国]]が興り、[[東欧]]・黒海沿岸・シリア・エジプト・イラクなどを支配している。 |
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東チャガタイ・ハン国(モグーリスタン)から台頭した[[ティムール]]は西トルキスタンとイラン方面(旧フレグ・ウルス)を占領し、モグーリスタンとジョチ・ウルスをその影響下に入れて大帝国を築き上げた。彼自身がテュルク系ムスリムであったため、また西トルキスタンにテュルク人が多かったため、ティムール朝の武官たちはテュルク系で占められていた。しかし、文官はイラン系の[[タジク人|ターズィーク人]]が担っていたため、ティムール朝の公用語はイラン系の[[ペルシア語]]と、テュルク系の[[チャガタイ語]]が使われた<ref name=":1" />。 |
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=== 近世 === |
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==== ウズベク・カザフ ==== |
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[[キプチャク草原]]を根拠地とした[[ジョチ・ウルス]]はイスラームを受容し、多くのテュルク系民族を抱えていたためにテュルク化も進展した。[[15世紀]]になると、[[カザン・ハン国]]、[[アストラハン・ハン国]]、[[クリミア・ハン国]]、[[シャイバーニー朝]]、[[カザフ・ハン国]]、[[シビル・ハン国]]といったテュルク系の王朝が次々と独立したため、ジョチ・ウルスの政治的統一は完全に失われた。 |
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現在の[[ウズベク人]]と[[カザフ人]]の祖先はジョチ・ウルス東部から独立したシバン家の[[アブール=ハイル・ハーン (シャイバーニー朝)|アブール=ハイル・ハーン]](在位:[[1426年]] - [[1468年]])に率いられた集団であった。彼らは'''ウズベク'''と呼ばれ、キプチャク草原東部の統一後、[[シルダリヤ川|シル川]]中流域に根拠地を遷したが、[[ジャニベク・ハーン|ジャーニー・ベク・ハーン]]と[[ケレイ・ハーン]]がアブール=ハイル・ハーンに背いてモグーリスタン辺境へ移住したため、ウズベクは2つに分離し、前者をウズベク、後者をウズベク・カザフもしくは'''カザフ'''と呼んで区別するようになった。アブール=ハイル・ハーンの没後、ウズベク集団は分裂し、その多くは先に分離していたカザフ集団に合流した。勢力を増したカザフはキプチャク草原の遊牧民をも吸収し、強力な遊牧国家であるカザフ・ハン国を形成した。やがてウズベクの集団も[[ムハンマド・シャイバーニー・ハーン]]のもとで再統合し、マー・ワラー・アンナフル、フェルガナ、ホラズム、ホラーサーンといった各地域を占領して[[シャーバーニー朝]]と呼ばれる王朝を築いた<ref name=":1" />。 |
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[[1599年]]にシャイバーニー朝が滅亡したあと、マー・ワラー・アンナフルの政権は[[ジャーン朝]](アストラハン朝)に移行した。ジャーン朝は[[1756年]]に[[マンギト朝]]によって滅ぼされるが、シャイバーニー朝からマンギト朝に至るまでの首都が[[ブハラ]]に置かれたため、この3王朝をあわせて[[ブハラ・ハン国]]と呼ぶ。また、ホラズム地方の[[ウルゲンチ]]を拠点とした政権(これもシャイバーニー朝)は[[17世紀]]末に[[ヒヴァ]]に遷都したため、次の[[イナク朝]]([[1804年]] - [[1920年]])とともに[[ヒヴァ・ハン国]]と呼ばれる。そして、[[18世紀]]にウズベクのミング部族によってフェルガナ地方に建てられた政権は[[コーカンド]]を首都としたため、[[コーカンド・ハン国]]と呼ばれる。これらウズベク人によって西トルキスタンに建てられた3つの国家を'''3ハーン国'''と称する<ref name=":1" />。 |
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==== ロシアの征服 ==== |
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13世紀に始まる[[モンゴルのルーシ侵攻|モンゴル人のルーシ征服]]はロシア側から「[[タタールのくびき]] ({{lang|ru|татарское иго}})」と呼ばれ、ロシア人にとっては屈辱的な時代であった。しかし、モスクワ大公の[[イヴァン4世]](在位:[[1533年]] - [[1584年]])によってカザン・ハン国、アストラハン・ハン国といったジョチ・ウルス系の国家が滅ぼされると、ロシアの中央ユーラシア征服が始まる。このときロシアに降ったテュルク系ムスリムはロシア側から「タタール人」と呼ばれていたが、異教徒である彼らはロシアの抑圧と同化政策に苦しめられ、カザフ草原やトルキスタンに移住する者が現れた<ref name=":2" />。 |
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[[16世紀]]末になって[[ロシア帝国]]は[[シベリア]]のシビル・ハン国を滅ぼし、カザフ草原より北の森林地帯を開拓していった。同じころ、カザフ草原のカザフ・ハン国は大ジュズ、中ジュズ、小ジュズと呼ばれる3つの部族連合体に分かれていたが、常に東のモンゴル系遊牧集団[[ジュンガル]]の脅威にさらされていた。[[1730年]]、その脅威を脱するべく小ジュズの[[アブル=ハイル・ハン (小ジュズ)|アブル=ハイル・ハン]]がロシア帝国に服属を表明し、中ジュズ,大ジュズもこれにならって服属を表明した<ref name=":1" />。 |
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==== ジュンガル、清の進出 ==== |
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16世紀にウイグル人国家である'''[[ヤルカンド・ハン国]]'''が成立したが、この支配者もチャガタイ系でモンゴル系であった。ヤルカンド・ハン国は、[[17世紀]]に北方からやってきた[[オイラト]]族の'''[[ジュンガル]]部'''に滅ぼされた。さらに、[[18世紀]]なかばにはジュンガルが'''[[清]]'''により征服され、その支配下に入った。清朝の支配では、[[イリ将軍]]統治下の[[回部]]として、[[藩部]]の一部を構成することとなり、その土地は「ムスリムの土地」を意味する「'''回疆'''」<ref>{{Cite web |title=回疆とは |url=https://kotobank.jp/word/%E5%9B%9E%E7%96%86-457036 |website=コトバンク |access-date=2022-06-12 |language=ja}}</ref>、もしくは「新しい土地」を意味する「'''新疆'''」と呼ばれた<ref>{{Cite web |title=新疆とは |url=https://kotobank.jp/word/%E6%96%B0%E7%96%86-81482 |website=コトバンク |access-date=2022-06-12 |language=ja}}</ref>。 |
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=== 近代 === |
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[[19世紀]]の半ば、[[バルカン半島]]から中央アジアに及ぶ広大な地域を舞台に、[[大英帝国]]とロシア帝国との「[[グレート・ゲーム]]」が展開されていた。ロシア帝国はイギリスよりも先にトルキスタンを手に入れるべく、[[1867年]]にコーカンド・ハン国を滅ぼし、[[1868年]]にブハラ・ハン国を、[[1873年]]にヒヴァ・ハン国を保護下に置き、[[1881年]]に遊牧集団[[トルクメン]]を虐殺して西トルキスタンを支配下に入れた。東トルキスタンはかつてウイグリスタン、モグーリスターンとよばれ、西トルキスタンはマー・ワラー・アンナフルと呼ばれていたが、これらの地域を「トルキスタン」と一括する慣習は19世紀以降のロシアによる<ref name=":1" />。 |
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[[19世紀]]の後期、西トルキスタンの[[フェルガナ盆地]]を支配していた[[コーカンド・ハン国]]の軍人[[ヤクブ・ベク]]の手によっていったん東トルキスタンの大半が清から離脱する。しかし、まもなく清は[[欽差大臣]]の[[左宗棠]]を派遣して再征服に成功した。この時期になると列強が積極的に東アジアに進出してきており、清は[[ヤクブ・ベクの乱]]をきっかけに[[ロシア帝国]]との国境地帯にあたる東トルキスタンの支配を重視し、[[1884年]]に清朝内地並の行政制度が敷かれることとなった('''[[新疆省]]''')<ref name=":2" />。 |
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また、ロシア領内のテュルク人の間では、[[19世紀]]末から[[ムスリム]]の民族的覚醒を促す運動が起こり、オスマン帝国を含めてテュルク人の幅広い連帯を目指す'''[[汎テュルク主義]]'''(汎トルコ主義)が生まれた。しかし、[[ロシア革命]]が成功すると、旧ロシア帝国領内に住むテュルク系諸民族は個々の共和国や民族自治区に細分化されるに至った。一方、[[トルコ革命]]が旧オスマン帝国であるアナトリアに住むトルコ人だけのための国民国家であるトルコ共和国を誕生させた結果、汎テュルク主義は否定される形となった<ref name=":1" />。 |
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==== 20-21世紀 ==== |
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[[ロシア帝国|帝政ロシア]]の支配下にあった[[#西トルキスタン|西トルキスタン]]は、[[ロシア帝国|帝国]]が[[ロシア革命]]で倒されたあとは社会主義共和国が作られ、ソビエト連邦の傘下に組み込まれた<ref>[https://jp.rbth.com/history/83752-soren-jidai-chuou-ajia-hitobito-kurashi ソ連時代の中央アジアの人々の暮らし(写真特集)] 2020年5月27日 ロシア・ビヨンド</ref>。その際、各共和国の国境線は人為的に引かれたため、民族分布とは必ずしも合っていない。[[1991年]]のソビエト連邦崩壊後、旧ソ連から5つのテュルク系民族の共和国が悲願の独立を果たす。これら諸共和国や[[タタール人]]などのロシア領内のテュルク系諸民族と、トルコ共和国のトルコ人たちとの間で、汎テュルク主義の再台頭ともみなしうる新たな協力関係が構築されつつある一方、独立以降も経済的・軍事的にはいまだにロシアの影響は強い。また[[中央アジア連合]]創設への提案も行われている。 |
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[[東トルキスタン]]は[[清]]の[[乾隆帝]]に征服されて以来、清朝→[[中華民国]]→[[中華人民共和国]]と異民族による支配が続いている。[[辛亥革命]]によって清が滅亡した際、東トルキスタンはイリ地方の軍事政権、東部の新疆省勢力圏などに分かれたが、やがて漢人勢力の新疆省がイリ地方を取り込んだ。この結果、[[藩部]]のうち、民族政権が維持されていた[[チベット]]と[[モンゴル]]は手をたずさえて「中国とは別個の国家」であることを宣言([[チベット・モンゴル相互承認条約]])したのに対し、漢人科挙官僚によって直接支配が維持された東トルキスタンは、[[中華民国]]への合流を表明することとなった。ただし、中華民国中央が[[軍閥]]による内戦状態にあったため、新疆省は以後数十年にわたり事実上の独立国のような状態であった<ref name=":1" />。 |
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[[1933年]]および[[1944年]]から [[1946年]]にかけてソ連の後援でウイグル人主体の独立政権である[[東トルキスタン共和国]]の建国が試みられたが、[[1949年]]の[[中国共産党]]による[[中華人民共和国]]成立および[[ウイグル侵攻]]によって併合され、その支配下に入った。その後大量の漢民族が国策的に移民してきており、駐留する[[人民解放軍]]とあわせるとウイグル人よりも多くなると言われている<ref>[http://www.kashghar.org/studyinfo/abouthistory.htm 新疆における歴史とその研究状況|新疆研究情報|新疆研究サイト] {{webarchive|url=https://web.archive.org/web/20141223142314/http://www.kashghar.org/studyinfo/abouthistory.htm |date=2014年12月23日 }}</ref>。[[1955年]]には'''[[新疆ウイグル自治区]]'''が設置された<ref name=":2" /><ref>{{Cite web |title=新疆ウイグル自治区とは |url=https://kotobank.jp/word/%E6%96%B0%E7%96%86%E3%82%A6%E3%82%A4%E3%82%B0%E3%83%AB%E8%87%AA%E6%B2%BB%E5%8C%BA-81487 |website=コトバンク |access-date=2022-06-12 |language=ja}}</ref>。 |
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==== ソ連崩壊後 ==== |
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1991年12月、ソ連が崩壊した。これにより完全な独立を果たした中央アジア諸国は、資本主義経済へ移行していくこととなるが、そのためには経済システムの刷新が不可避であった。特にカザフスタン・ウズベキスタン・トルクメニスタンの3か国は現在もこの刷新のためのさまざまな計画を推し進めており、開発や整備、環境改善、専門施設の設立など多方面に至る改新プロジェクトを打ち立て続けている<ref>{{Cite web|url=http://www.adca.or.jp/page/pf/info_PF_H11/11PF13.pdf|title=プロジェクト・ファインディング調査報告書|publisher=一般社団法人 海外農業開発コンサルタンツ協会|accessdate=2016-10-04}}</ref><ref name="ruvr">{{Cite web|url=http://www.adca.or.jp/page/pf/info_PF_H11/info_PF_H11.html|title=情報公開 平成11年度|publisher=一般社団法人 海外農業開発コンサルタンツ協会|accessdate=2016-10-04}}</ref>。 |
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2022年6月12日 (日) 08:38時点における版
中央アジア(ちゅうおうアジア、英語: Central Asia)は、ユーラシア大陸またアジア中央部の内陸地域である。18世紀から19世紀にかけては一般にトルキスタンを指したが[1]、現在でも使用される。トルキスタンとは「テュルクの土地」を意味し、テュルク(突厥他)系民族が居住しており、西トルキスタンと東トルキスタンの東西に分割している。
西トルキスタンには、旧ソ連諸国のうちカザフスタン、キルギス、タジキスタン、トルクメニスタン、ウズベキスタンの5か国が含まれる(以下、中央アジア5か国と記す)。
東トルキスタンは中華民国に併合されて以降、新疆省となり、中華人民共和国に併合されて以降は新疆ウイグル自治区となった。中国領トルキスタン、ウイグリスタンともいう。
広義には、「アジアの中央部」を意味し、東西トルキスタンのほか、カザフステップ、ジュンガル盆地、チベット、モンゴル高原、アフガニスタン北部、イラン東部、南ロシア草原を含む[2]。UNESCOはトルキスタン以外にも、モンゴル地域、チベット地域、アフガニスタン、イラン北東部、パキスタン北部、インド北部、ロシアのシベリア南部などを中央アジア概念の中に含めている。
定義
中央アジアの概念はドイツのアレクサンダー・フォン・フンボルトが1843年に提唱した。その他、古生物学などでは、モンゴルを中央アジア、中央アジア5か国を中部アジアと言って区別することがある。
旧ソ連における定義
ソビエト連邦は、現代の中央アジア5か国からカザフスタンを除いた地域にあたる、キルギスССР、タジクССР、トルクメンССР、ウズベクССРの4共和国をСредняя Азияと定めていた。一方、より広い範囲(歴史的ロシアに含まれない範囲)を示すЦентральная Азияという語もあった。これらはともに中央アジア (Central Asia) と訳された。
ソビエト連邦の崩壊後、中央アジア5か国はカザフスタンが中央アジアに含まれると宣言した。これが現在もっともよく使われる中央アジアの定義である。
旧ソ連の文献では「スレドニャヤ・アジア(ミドルアジア)」と「ツェントラリナヤ・アジア(中央アジア)」とが使い分けられてもいた[2]。「ソ連中央アジア(ソビエツカヤ・スレドニャヤ・アジア)」という言い方もあった。
UNESCOにおける定義
UNESCOは、より広い範囲を中央アジアと定めている。それには中央アジア5か国のほか、中国の新疆ウイグル自治区、モンゴル地域(モンゴル国、内蒙古自治区など)、チベット地域(チベット自治区、青海省など)、アフガニスタン、イラン北東部、パキスタン北部、インドのジャム・カシミール、ロシアのシベリア南部が含まれる。なお、この範囲が定められたのはソ連崩壊前である。
東洋史研究における定義など
日本をはじめとする東洋史研究においては従来、中央アジアという概念は、次の3つの観点から用いられてきた[4]。
- シルクロードなどの東西交渉史
- 中国による西域統治史
- トルコ民族史
このような「東西」軸の見方に対して、歴史家間野英二は中央アジア住民が意識していたのはむしろ、北方遊牧民との関係であり、南北軸の見方を提唱しながら、東のゴビ砂漠、西のカスピ海、南のコペト・ダウ、ヒンドゥークシュ山脈、コンロン山脈、北のアルタイ山脈とカザーフ草原に囲まれた地域を、中央アジアとした[5]。
日本の外務省における定義
日本の外務省は、中央アジア5か国について、ヨーロッパの一部として定義している。[6]
西トルキスタン
西トルキスタンには、以下の国がある。いずれの国名も「スタン (stan)」で終わっているが、これは「国」を表す語であり、それぞれ特定の民族の国を意味している。
- カザフスタン - カザフ人の国。ウラル山脈より西側はヨーロッパ地域に属している。北部地域を北アジアに含む場合もある。
- キルギス(クルグズスタン) - クルグズ人(キルギス人)の国
- タジキスタン - タジク人の国。ゴルノ・バダフシャン自治州は民族的には南アジアに近く、地理的区分では西アジアに属す。
- トルクメニスタン - トルクメン人の国
- ウズベキスタン - ウズベク人の国
東トルキスタン
東トルキスタンに含まれる地域
歴史
中央アジアの歴史は、「中央アジア」をどう見るかによって様相を異にするが、一般に、ユーラシア大陸内陸部を拠点とする遊牧民族、およびオアシス国家[4]の歴史を指す。
歴史上、中央アジアの遊牧民は、北アジアのモンゴル高原から中央アジア・イラン高原・アゼルバイジャン・カフカス・キプチャク草原・アナトリアを経て東ヨーロッパのバルカンまでを活動領域としてきた。匈奴・サカ・スキタイの時代から、パルティア・鮮卑・突厥・ウイグル・セルジューク・モンゴル帝国などを経て近代に至るまでユーラシア大陸全域の歴史に関わり、遊牧生活によって涵養された馬の育成技術と騎射の技術、卓越した移動力、騎兵戦術に裏打ちされた軍事力、そして交易で歴史を動かしてきた。遊牧民を介してユーラシア大陸の東西はシルクロードなどを用いて交流し、中国の火薬などの技術がモンゴル帝国を通じてヨーロッパに伝わってもいる[7]。
言語
脚注
注釈
出典
関連項目
- グレート・ゲーム
- マー・ワラー・アンナフル
- ソグディアナ
- トゥーラーン
- 色目人
- 西域
- 社会主義法
- 中央アジア協力機構
- 中央アジア出身者の一覧
- 中央アジアの人口統計
- 中央アジアの映画
- 中央アジアのスポーツ
- 中央アジアの農業
- 中央アジアの美術
- 中央アジアにおける被服
外部リンク
- ウィキボヤージュには、中央アジアに関する旅行情報があります。
- 一橋大学経済学部 水岡ゼミナール巡検報告 中央アジア2003夏
- 斎藤稔、「ソ連解体後の中央アジア諸国」『経済志林』 1997年 65巻 1号 p.111-140, 法政大学経済学部学会, NCID AN00071028
- JETROアジア経済研究所 中央アジアリンク集
- 日本中央アジア学会
- 中央アジア・コーカサス研究所
- 国際協力銀行 中央アジアへの円借款業務 (PDF)
- 『中央アジア』 - コトバンク