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[[奈良県]]出身。[[岡田藤四郎]]の息子として生まれる。[[1917年]]([[大正]]6年)11月、[[海軍兵学校 (日本)|海軍兵学校]]([[海軍兵学校卒業生一覧 (日本)#45%E6%9C%9F|45期]])を卒業。[[ハンモックナンバー|席次]]は89名中17位。[[1918年]](大正7年)8月、[[少尉|海軍少尉]]に任官。[[海軍砲術学校]]高等科で学んだ。[[1923年]](大正12年)12月、[[戦艦]]「[[比叡 (戦艦)|比叡]]」[[分隊]]長となり、[[ドイツ]]駐在、[[軍令部]]出仕、[[重巡洋艦]]「[[青葉 (重巡洋艦)|青葉]]」分隊長などを経て[[1930年]](昭和5年)11月、[[海軍大学校]](甲種28期)を卒業。 |
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1930年12月に[[第1水雷戦隊]][[参謀]]に就任し、軍令部参謀、[[第11戦隊]]参謀などを歴任する。[[1934年]](昭和9年)11月、海軍[[中佐]]に昇進。[[1935年]](昭和10年)3月、軍令部出仕となり、軍令部部員となる。([[軍令部条例|海軍軍令部条例]]の廃止にて部員と呼称変更)[[二・二六事件]]の際、 海軍に対し叛乱軍将兵が自身らの拠点に海軍将校を1名派遣することを要求してきた際に岡田が派遣された。その後、兼[[参謀本部 (日本)|参謀本部]]部員、兼[[大本営]]海軍参謀、[[航空母艦|空母]]「[[龍驤 (空母)|龍驤]]」副長などを経て、[[1938年]](昭和13年)11月に[[大佐|海軍大佐]]に進級した。 |
2022年6月11日 (土) 01:17時点における版
岡田為次 | |
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生誕 |
1895年2月19日 日本 奈良県 |
死没 |
1947年9月3日(52歳没) パプアニューギニア ラバウル |
所属組織 | 大日本帝国海軍 |
軍歴 | 1918年 - 1946年 |
最終階級 | 海軍少将 |
岡田 為次(おかだ ためつぐ、1895年(明治28年)2月19日 - 1947年(昭和22年)9月3日)は、日本の海軍軍人。最終階級は海軍少将。
経歴
奈良県出身。岡田藤四郎の息子として生まれる。1917年(大正6年)11月、海軍兵学校(45期)を卒業。席次は89名中17位。1918年(大正7年)8月、海軍少尉に任官。海軍砲術学校高等科で学んだ。1923年(大正12年)12月、戦艦「比叡」分隊長となり、ドイツ駐在、軍令部出仕、重巡洋艦「青葉」分隊長などを経て1930年(昭和5年)11月、海軍大学校(甲種28期)を卒業。
1930年12月に第1水雷戦隊参謀に就任し、軍令部参謀、第11戦隊参謀などを歴任する。1934年(昭和9年)11月、海軍中佐に昇進。1935年(昭和10年)3月、軍令部出仕となり、軍令部部員となる。(海軍軍令部条例の廃止にて部員と呼称変更)二・二六事件の際、 海軍に対し叛乱軍将兵が自身らの拠点に海軍将校を1名派遣することを要求してきた際に岡田が派遣された。その後、兼参謀本部部員、兼大本営海軍参謀、空母「龍驤」副長などを経て、1938年(昭和13年)11月に海軍大佐に進級した。
1938年12月、敷設艦「八重山」艦長となり、軍令部第1部第2課長兼大本営海軍参謀などを経て、1941年(昭和16年)9月、重巡「利根」艦長に発令され太平洋戦争を迎え、真珠湾攻撃、インド洋作戦、ミッドウェー海戦に参加。横須賀鎮守府付を経て、1942年(昭和17年)7月に空母「隼鷹」艦長に着任。第二航空戦隊司令官角田覚治少将の指揮の下、南太平洋海戦に参加した。1943年(昭和18年) 2月、空母「翔鶴」艦長に転任。11月、海軍少将に進級。その後、軍令部出仕、第4南遣艦隊参謀長、兼補給長、兼第104建設部長、第25根拠地隊司令官、軍令部出仕などを歴任。呉鎮守府参謀副長として終戦を迎えた。
1945年(昭和20年)10月に呉鎮守府参謀長となり、翌月予備役編入と同時に充員召集を受け、同年12月に呉地方復員局長官に就任。1946年(昭和21年)2月、第二復員省出仕となり、翌月充員召集解除となった。その後、第25根拠地隊司令官時代の捕虜処刑容疑により戦犯指名を受け、死刑判決を受ける。1947年(昭和22年)9月、日本からラバウルへ連行され、刑が執行された。
参考文献
- 外山操編『陸海軍将官人事総覧 海軍篇』芙蓉書房出版、1981年。
- 福川秀樹『日本海軍将官辞典』芙蓉書房出版、2000年。
- 海軍歴史保存会編『日本海軍史』第9巻、発売:第一法規出版、1995年。