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「マレーシアの漫画」の版間の差分

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本項では'''マレーシアの漫画'''(マレーシアのまんが、{{lang-ms|komik}})について述べる。[[マレー語]]の[[漫画]]は1930年代に新聞紙上の一コマ[[風刺漫画]]([[カートゥーン]])として始まり、1957年に植民地からの[[マラヤ連邦#歴史|独立]]を果たした後はコマ漫画([[コミックストリップ]])が新聞漫画の主流になった。1970年代末には風刺ユーモア雑誌が漫画の発表媒体として台頭した{{sfn|Muliyadi|1997|p=43}}。一般紙誌の添え物ではないストーリー漫画の出版物も1940年代から存在しており、後年には欧米や[[中華圏]]、[[日本の漫画|日本]]のような海外作品の影響を受けた作品が描かれるようになった。
'''マレーシアの漫画'''は、[[マレーシア]]で制作される[[漫画]]である。マレーシア社会が有している多言語文化を背景に、[[マレー語]]、[[中国語]]、[[英語]]と多言語で作品が発表されている。また他国に比較して、[[幼年漫画|児童漫画]]及び[[少女漫画]]の比重が極めて高い点も特徴である。


[[マレーシア]]は主に[[マレー人]]と[[中国人]]、次いで[[インド人]]などからなる多文化国家であり、漫画はそれぞれの集団の多様な言語で出版されてきた。マレーシアは地理的にも[[半島マレーシア|半島部]]と[[東マレーシア|島嶼部]]に大きく分かれており、隣接する[[シンガポール]]とも歴史的に深い関係を持ってきた。伝統的なマレーシア漫画はこれらの条件に強く規定されていた{{sfn|Lent|2015|p=153}}。それぞれのキャラクターがどの民族集団に属するかは読者にとって重要であるため、コード化された外見的特徴によって明確に表現された{{sfn|Nasir|2021|p=64}}。市場が小さい上に民族・文化ごとに細分化されていることから、マレーシア漫画は日本や米国に見られるような固有の表現形式を発達させるに至らなかったという意見もある{{sfn|Nasir|2021|p=63}}。顔暁暉は2011年に、混合文化としてのマレーシアのアイデンティティがいまだに完成しておらず、そのためマレーシアの漫画文化も発展途上だと述べている{{sfn|顔|2011|p=1}}。
== 概要 ==
[[マレー人|マレー系]]の国民的漫画家[[ラット (漫画家)|ラット]]によると、マレーシアの漫画は1950年代に始まった。そのころ民話を題材にして絵物語風の作品を描いていた漫画家にラジャ・ハムザがいる。その後1980年代前半までストーリー漫画はそれほど発展せず、新聞に載る社説漫画や4コマ漫画、あるいは米国の『[[MAD (雑誌)|MAD]]』に影響を受けた[[風刺漫画]]が中心だった。1981年時点でマレーシアにいる漫画家は全部で100人余りで、女性はおらず、有名なのは15人ほどだったという<ref>{{cite book|和書|author=小野耕世|chapter=ラットと語る(解説)|title=カンポンのガキ大将|year=1984|publisher=晶文社|isbn=978-4794940247|pages=148-153}}</ref>。ラット自身は1970年ごろから新聞漫画で活躍をはじめ、土着文化へのノスタルジーや現代史への関心をユーモラスに描いた代表作『[[カンポンボーイ]]』など、独自のスタイルのストーリー漫画を確立した。しかし、より若い世代の漫画家は、過去のマレーシア漫画の伝統よりむしろ日本漫画やアメリカの[[スーパーヒーロー]]コミックや[[オルタナティブ・コミック]]からの影響を強く受けている<ref>{{cite book|和書|title=世界のコミックスとコミックスの世界 : グローバルなマンガ研究の可能性を開くために|editor=ジャクリーヌ・ベルント|chapter=歴史的記憶のメディアとしてのマンガ/コミックス.シンガポールとマレーシアのコミック|author=チェンジュ・リム|translator=中垣恒太郎|series=国際マンガ研究1|year=2010|isbn=978-4-905187-02-8|url=http://imrc.jp/images/upload/lecture/data/%E4%B8%96%E7%95%8C%E3%81%AE%E3%82%B3%E3%83%9F%E3%83%83%E3%82%AF%E3%82%B9%E3%81%A8%E3%82%B3%E3%83%9F%E3%83%83%E3%82%AF%E3%82%B9%E3%81%AE%E4%B8%96%E7%95%8C.pdf|publisher=京都精華大学国際マンガ研究センター|accessdate=2017-11-24}}</ref>。


1980年代後半以前のマレーシア漫画は[[アメリカン・コミックス|米国コミック]]を手本にしてきたが{{sfn|Junid|Yamato|2019|p=82}}、それ以降は世界的な潮流に従って日本の影響が強まった{{sfn|Lent|2015|loc=No.166/342}}。日本の漫画や[[アニメ]]には、特定の国や人種に限定されるような文脈が排除されており「文化的に脱臭されている(岩渕、1998)」という特徴がある{{sfn|Junid|Yamato|2019|p=68}}。顔によると、日本の影響以降には{{行内引用|従来の地理的・国家的制約によってアイデンティティが縛り付けられていない}}新世代の漫画家が現れている{{sfn|顔|2011|p=1}}。それらの作家は日本漫画のスタイルを流用して民族間の緊張関係が希薄なフィクション化されたマレーシアを描く傾向がある{{sfn|顔|2011|pp=3-4}}。日本漫画にならったセクシーな服装などは、多数派であるマレー系が信仰する[[イスラム教]]の価値観に反するとして読者から反発を受けることもある{{sfn|Junid|Yamato|2019|p=69}}。
『少年週報』と『青苗週刊』が創刊された[[1985年]]が、マレーシアにおける漫画の草創期とされる<ref name="#1">『マレーシア漫画協会紀年会刊 2009』</ref>。『少年週報』の専属漫画家となった[[張瑞成]]は『神童』や『超能少年』を発表、『青苗週刊』でも[[黄奱棋]]、[[森林木]]、[[王永基]]などが作品を発表。その後、黄奱棋、森林木、[[黄瑞発]]などにより[[成人向け漫画|成年漫画]]である『正牌老夫子』が隔週刊で連載された。[[1986年]]になると『新晩報』、『中国報』、『新生活報』、『生活電視』などの多くの雑誌でマレーシア漫画家の作品が発表され、[[張少林]]、[[楊孝栄]]、[[黄寿忠]]、[[李国文]]などがこの時期にデビューしている。当時は[[日本の漫画]]を無断で翻訳した海賊版の市場が大きかったこともあり、日本の影響を強く受けた作品が主流であったが、張少林や楊孝栄などは[[香港の漫画]]の影響を強く受けた作品を発表し、特に楊孝栄はその後香港の[[黄玉郎]]の出版社に参加している<ref>『マレーシア漫画協会紀年会刊 2011』</ref>。


== 歴史 ==
[[1990年代]]に入ると、雑誌から単行本が主流となっていく。[[余有勤]]の『武神』、[[丘光耀]]の『林連玉』や『林吉祥伝』、[[陳中偉]]の『童年』、柳丁の『鳥人正伝』、[[郭豪允]]の仏教漫画シリーズなどが登場し、また後にマレーシアを代表する[[維明]]や[[杜英才]]、[[祖安]]もこの時期にデビューしている。また、[[1980年代]]に活躍した漫画家が創作活動から出版活動に転進したのもこの時期である。張瑞成は『漫画週刊』を発行するとともに集英漫画社を設立、日本からの授権を得ることなく日本の漫画を翻訳出版、そこでの収益を利用して『漫画少年』を創刊し、[[陳天星]]、[[張振怡]]、[[張桂明]]などの新人を発掘したが、その販売は不振が続き『漫画少年』は廃刊となり、マレーシア漫画家の育成計画は短期間で失敗している<ref name="#1"/>。
[[ファイル: Malaysia Cartoon & Comic House (220812).jpg|サムネイル|230ピクセル|2017年に[[クアラルンプール]]に設置されたマレーシア・カートゥーン&コミック・ハウス。第二次世界大戦期から現在までの作品が所蔵されている<ref>{{cite web|url=https://www.bernama.com/en/news.php?id=1859726|accessdate=2024-09-16|title=BERNAMA - Malaysia Cartoon And Comic House brings back nostalgia of past cartoons|date=2020-07-12|website=Bernama.com}}</ref>。]]
[[マレーシア]]は1963年にいくつかの旧英国植民地が連合して成立した国家だが、この地域の漫画出版は19世紀の[[イギリス領マラヤ|英領マラヤ]]に起源を求められる。マラヤの貿易拠点だった[[シンガポール]]と[[ペナン州|ペナン]]は出版業も盛んであり、後年まで漫画文化の中心地だった<ref name=lim1>{{cite web|url=https://sgcartoonhub.com/the-history-of-comics-and-cartoons-in-singapore-and-malaysia-part-1/|accessdate=2024-09-13|title=The History of Comics and Cartoons in Singapore and Malaysia Part 1: Introduction |website= SG Cartoon Resource Hub|date=2022-03-21|last=Lim|first=CT}}</ref>。1938年にシンガポールに設置された{{仮リンク|南洋芸術学院|en|Nanyang Academy of Fine Art }}では風刺漫画家も育成されていた<ref name=lim1/>。[[クアラルンプール]]や[[ジョホールバル]]で漫画出版が行われるようになったのは20世紀半ば以降で<ref name=lim1/>、[[東マレーシア]]では21世紀になるまで地域の漫画が発展しなかった{{sfn|Lent|2015|loc=No.153/342}}。


=== 英領マラヤ時代: 19世紀-第二次世界大戦まで ===
[[1993年]]になると漫画城出版社が香港より[[周聖]]を招聘し、マレーシアにおいて[[アシスタント (漫画)|アシスタント]]の育成を目指した。同時に[[陳永発]]の『猟魔』や『水滸外伝』、張振怡の『鬼故事』、[[蔡再鴻]]の『烏龍家族』、[[熊人]]の『鉄拳』などを出版し、マレーシア漫画産業の発展を目指した。しかし販売不振により廃刊となり、マレーシアの漫画作品を掲載した雑誌は消滅した。
近代的な漫画 ([[カートゥーン|一コマ漫画]]) は植民地主義とともに到来した。1868年にマラヤの英国商人のために創刊された英字紙『{{仮リンク|ストレーツ・プロデュース|en|Straits Produce}}』は、本国の『[[パンチ (雑誌)|パンチ]]』誌にならって[[風刺漫画]]を紙面の中心にしていた。同種の出版物としては日本で刊行された『[[ジャパン・パンチ]]』(1862)、中国の『チャイナ・パンチ』(1867) に続いてアジアで3番目だったと考えられている<ref name=lim2>{{cite web|url=https://sgcartoonhub.com/the-history-of-comics-and-cartoons-in-singapore-and-malaysia-part-2/|accessdate=2024-09-13|title=The History of Comics and Cartoons in Singapore and Malaysia Part 2: The Early Comics/Cartoons|website=SG Cartoon Resource Hub|date=2022-04-01|last=Lim|first=CT}}</ref>。


英領マラヤに流入した移民労働者はそれぞれの母語で新聞を発行した。シンガポールの華字紙『{{仮リンク|中興日報|en|Chong Shing Yit Pao}}』は1907年に最初の一コマ漫画を掲載した<ref name=lim2/>。革命家[[孫文]]の支持派が母体の新聞で、初期の漫画作品はいずれも[[清]]王朝を攻撃する内容だった{{sfn|リム|2010|p=179}}。20世紀初頭の中国語風刺漫画は主に本国の政治を題材としており、1937年の[[盧溝橋事件]]以降は日本の[[日中戦争|中国侵略]]に激しい批判が向けられた。[[太平洋戦争]]が拡大して1942年に[[日本占領時期のマラヤ|英領マラヤが占領]]されると、それらの漫画の作者は日本軍によって処刑されることになった<ref name=lim2/>{{sfn|リム|2010|p=181}}。
こうした状況の下、マレーシアの漫画家は海外市場を目指すようになり、[[1997年]]には[[シンガポール]]の亜太出版社が[[陳国勝]]、[[黄慶栄]]、[[林鉅秦]]、[[劉錦漢]]、[[張開振]]などの大量のマレーシア漫画家の作品を出版している。しかし同年に発生した[[アジア通貨危機]]により販売数量は極めて限定的となり、マレーシア漫画家の受難期は続くこととなる。こうした中、[[蔡天発]]、[[余有権]]、[[左手人]]、[[Blue (マレーシア)|Blue]]、[[史美星]]、[[JONDEP]]、[[蘇文徳]]、[[陳耀竜]]、[[黄建隆]]などは積極的な創作活動を行っていた。


マレー語の風刺漫画は中国語よりも遅れて発展した。その理由としては、手本とされていたアラブ系の新聞がイラストレーションを使用していなかったためだという説や{{sfn|Lent|2015|loc=No.153/342}}、マレー人が植民地の民族集団の中で特権的な地位におかれていたため政治風刺の動機が弱かったという説がある<ref name=lim2/>。マレー語紙{{仮リンク|ワルタ・ジェナカ|ms|Warta Jenaka}}{{Efn2|日刊紙{{仮リンク|ワルタ・マラヤ|en|Warta Malaya}}の週刊付属紙<ref name=biblioasia>{{cite web|url=https://biblioasia.nlb.gov.sg/vol-19/issue-4/jan-mar-2024/early-malay-comics/|accessdate=2024-09-17|title=Kaboom! Early Malay Comic Books Make an Impact|publisher=Singapore National Library}}</ref>。}}では1930年代にようやくS・B・アリーによる風刺漫画や、読者投稿の素朴な作品が載るようになった{{sfn|Lent|2015|loc=No.153/342}}。マレー人自身の欠点(独立心のなさ、大雑把さなど)が槍玉に挙げられる一方、植民地政府や中国系・インド系移民が批判されていた{{sfn|Muliyadi|1997|p=38}}。もう一方のマレー語メジャー紙でイスラム色の強い{{仮リンク|ウトゥサン・ザマン|ms|Utsan Zaman}}{{Efn2|{{仮リンク|ウトゥサン・マレーシア|en|Utusan Malaysia|label=ウトゥサン・ムラユ}}紙の日曜版で{{sfn|Muliyadi|1997|p=40}}、マレー人によって出版された最初の新聞だった{{sfn|Lent|2015|p=153}}。}}では、1939年にマラヤ初の漫画キャラクターの一人である ''Wak Ketok''{{翻訳|叩くおじさん}}が登場した{{sfn|Muliyadi|1997|pp=40-41}}{{sfn|Lent|2015|loc=No.153/342}}。{{仮リンク|パ・パンディル|ms|Pak Pandir}}のような伝統的な笑い話の系譜に連なるキャラクターだった{{sfn|Muliyadi|1997|p=41}}。同作は「マレー語ジャーナリズムの父{{sfn|坪井|2016}}」と呼ばれた{{仮リンク|アブドゥル・ラヒム・カジャイ|en|Abdul Rahim Kajai}}が書いたコラムにアリ・サナットがイラストを添える構成で{{sfn|Muliyadi|1997|p=53}}、マレー民族主義を鼓舞して西洋化やマレー・アラブ人を批判する内容が多かった{{sfn|Muliyadi|1997|pp=41-42}}。これら初期のマレー語漫画には伝統演劇の{{仮リンク|バンサワン|en|Bansawan}}や影絵芝居の[[ワヤン・クリ]]の影響があり、韻文の{{仮リンク|パントゥン|en|Pantun}}やことわざを取り入れた文章が特徴的だった{{sfn|Lent|2015|loc=No.154/342}}。
[[2000年代]]に入ると、多くの漫画家が海外市場を目指すようになった。その代表格が陳永発であり、[[アメリカ合衆国]]において『Doom Patrol』や『Batman』などの雑誌で多くの作品を発表している。海外での活躍によりマレーシア国内の漫画市場も再構築され、平方集団は『Gempak』を創刊、[[2003年]]6月には中国語市場を目標に『漫画王』を創刊し、[[張家輝 (漫画家)|張家輝]]、[[蔡詩中]]、[[李国靖]]、[[劉怡廷]]、[[林詩敏]]、[[BEN]]、[[李沢権]]、[[藘穏亢]]、[[丁偉光]]、[[何声超]]、[[何声強]]などの多くの漫画家を育成し、マレーシアの漫画市場の再構成に成功している。


日本占領期には英国支配のもろさを目撃したことでいずれの民族も独立意識を高めた<ref name=lim2/>。後に建国の父と言われる[[トゥンク・アブドゥル・ラーマン]]は反日的・民族主義的な漫画を描いていた{{sfn|Lent|2015|loc=No.154/342}}。その一方で、水彩画家アブドゥラ・アリフは日本軍が発行した[[日本占領時期のマラヤ|ペナン新聞]]に親日的なプロパガンダ漫画を描いた<ref name=lim2/>{{sfn|Lent|2015|loc=No.154/342}}。アブドゥラ・アリフの作品は1942年に ''Perang Pada Pandangan Juru-Lukis Kita''{{翻訳|私たちの漫画家が見た戦争}}としてマレー語・中国語・英語の文章をつけて書籍化された<ref name=lim2/>{{sfn|Lent|2015|loc=No.154/342}}。
その他、児童漫画も同時期に[[徐有利]]の『哥妹倆』及び[[呂寿聡]]の『榴槤公主』が出版され、教育的な内容により学校教育との連携に成功している。学校経由による団体定期購読というビジネスモデルが成功してからは、他の出版社からも児童漫画雑誌が続々と創刊され、[[2006年]]には漫頭社の『OKA』、平方集団の『秀逗高校』、『小班長』、『聡明世界』、彩虹漫画の『KK小超人』、嘉陽出版の『漫頭』、『GOGO学堂』などが創刊されている。


=== マレーシアの成立: 1940-1950年代 ===
マレーシアの漫画産業発展に伴い、[[2009年]]5月に「[[マレーシア中文漫画協会]]」が設立され、マレーシアにおける漫画産業の発展を目的に活動を開始した。同年11月には「第1回中文職業漫画大賞」を発表、[[2011年]]8月には「第2回中文職業漫画大賞」、2012年12月には「中文新人漫画大賞」が発表され、マレーシア独自の漫画家の育成に寄与している。また毎年クリスマス前後に[[クアラルンプール]]で開催される[[Comic Fiesta]]があり、会場では企業ブース以外に個人による同人誌、同人グッズ販売ブースが設置されている。[[2014年]][[6月7日]]から[[6月8日]]にかけてクアラルンプールで[[Comic Art Festival Kuala Lumpur]](CAFKL)が初めて開催され、商業ブースが主となるComic Fiestaに対し、同人作品を主体としたイベントが初めて開催されている。
第二次世界大戦が終結した直後の政治的空白期には共産ゲリラによる[[マラヤ危機]]が勃発し、民族間の対立が高まった。マレー人と中国人の漫画家は社会や政治を風刺する作品によって民族宥和と進歩主義を唱えた。[[ザ・ストレーツ・タイムズ]]の社説漫画家Tan Huay Pengはその代表で、英国からの独立を訴えるシンボリックな作品を残した<ref name=lim2/>。


[[マラヤ連邦]]は1957年に英国からの独立を果たし、周辺地域の再編と[[シンガポール]]の脱退を経て現在の[[マレーシア]]が成立した。[[表現の自由]]を基本理念としていた植民地政府と異なり、独立政府はマスメディアを統制して統治の道具にしようとした。各言語の新聞からは政治風刺漫画が姿を消し、その代わりに冒険ものやユーモアものの海外産[[コミックストリップ]]が多数掲載された<ref name=lim3>{{cite web|url=https://sgcartoonhub.com/the-history-of-comics-and-cartoons-in-singapore-and-malaysia-part-3/|accessdate=2024-09-14|title=The History of Comics and Cartoons in Singapore and Malaysia Part 3|website= SG Cartoon Resource Hub|date=2022-04-15|last=Lim|first=CT}}</ref>。『[[フラッシュ・ゴードン]]』<ref name=lim3/>、『{{仮リンク|漫画におけるターザン|en|Tarzan in comics|label=ターザン}}』、『{{仮リンク|マンドレイク・ザ・マジシャン|en|Mandrake the Magician}}』、『{{仮リンク|聖者サイモン・テンプラー|en|The Saint (Simon Templar)}}』のような欧米作品は新聞各紙の呼び物となった{{sfn|Lent|2015|loc=No.155-156/342}}。ラジャ・ハムザ、{{仮リンク|ルジャブハッド|en|Rejabhad}}、{{仮リンク|ミシャール (漫画家)|en|Mishar (cartoonist)|label=ミシャール}}らマレー人漫画家による一コマ漫画やコマ漫画も掲載されていた{{sfn|Lent|2015|loc=No.154/342}}。ラジャ・ハムザは戦後期の重要な漫画家で{{sfn|Lent|2015|loc=No.155/342}}、{{仮リンク|BH (新聞)|en|BH (newspaper)|label=ブリタ・ハリアン}}紙の ''Keluarga Mat Jambul''{{翻訳|マット・ジャンブルの家族}}は英国の『{{仮リンク|ザ・ガンボルズ|en|The Gambols}}』を手本にした家族もののユーモア作品だった<ref name=lim3/>{{sfn|Muliyadi|1997|p=45}}。ハムザはそのほかウトゥサン・ムラユ紙の ''Dol Keropok & Wak Tempeh'' など村落生活や古典文芸を題材にした連載を多数持ち{{sfn|Lent|2015|loc=No.155/342}}、後進の[[ラット (漫画家)|ラット]]に影響を与えた<ref name=lim3/>。
== 特徴 ==
マレーシアの漫画作品の特徴は児童漫画と少女漫画に特化している点にある。児童漫画は保守的なマレーシア社会で長く漫画が受け容れられてこなかったことが原因であり、教育的な内容を中心とすることで学校教育との連携を図り、「教材」として読者を獲得することを目的とした結果である。現在マレーシアでは出版社による漫画家の学校訪問が行われており、そこで定期購読を獲得するビジネススタイルが一般的となっている。また、読者の年齢層が未だに中学生未満が主体<ref>第10回国際マンガサミット富川大会 産業報告</ref>であることから少女漫画も数多く発表されている。その少女漫画に関しては純愛をテーマとしており、イスラム教の影響を受けるマレーシア社会においてはキスシーンなどの表現はタブーである、表現方法の制限があるが、[[劉怡廷]]などにより人気ジャンルとして確立されている。[[少年漫画]]に関しては、現状ではマレーシア産の少年漫画の連載までには至っていない。


文章主体の新聞・雑誌ではない漫画主体の出版物がマラヤに入ってきたのは、1930年代に英国から雑紙として売られてきた『{{仮リンク|ザ・ビーノ|en|The Beano}}』や『{{仮リンク|ザ・ダンディ|en|The Dandy}}』などの[[コミックブック]](小冊子型式の定期刊行物)が最初だった。ラジャ・ハムザらは1940年代にマレー民話や古典文学を翻案した民族主義的な[[ジャウィ文字]]のコミックブックを描き始めた{{sfn|Lent|2015|loc=No.155/342}}。[[シンガポール]]では歴史物語 ''Pusaka Datuk Moyang'' (1952) 以降マレー語のコミックブックが盛んに出版された。米国ヒーロー・[[バットマン]]の翻案や、インドネシア人の映画監督{{仮リンク|ナス・アクナス|id|Nas Achnas|}}によるSF風味の作品もあった。1955年に15歳で伝説の女王{{仮リンク|シティ・ワン・ケンバン|en|Siti Wan Kembang}}をコミック化したノラ・アブドゥラは最初の女性マレー人漫画家で、1960年に人物画家に転向するまでに12冊以上のコミックブックを描いた。1960年代に入るとシンガポールのコミックブック出版は衰退し、シナラン・ブラザーズなどの出版社がある[[ペナン]]が中心地となったが<ref name=biblioasia/>、1960年代を過ぎるとそれも下火になった{{sfn|Gallop|2022|p=45}}。コミックの題材は伝統文化教育よりも恋愛ものや探偵ものが主流になり、表記は[[ラテン文字]]になった{{sfn|Gallop|2022|p=44}}。
また漫画の創作スタイルも日本とは異なり、出版社の中でのチーム分業制を採用している場合が一般的である。これはチームでの会議により作品の内容が決定され、それに従い漫画家が作品を創作し、アシスタント作業は出版社のアシスタントチームが請け負い、色付作業やセリフに関しては漫画家の意見は反映されるものの専門スタッフが行うというものである。これは漫画家の絶対数が不足していることと、カラー作品が一般的であるマレーシアの出版事情、更に作品を英語、マレー語、中国語の3ヶ国語で出版する必要があるマレーシア社会の特徴を反映させた結果である。


=== 黄金期: 1960-1970年代 ===
販売方法であるが一般書店流通、上記で述べた学校教育との連携以外に、ブックフェアなどでの出版社ブースによる販売も大きな地位を占めている。また頻繁にサイン会が実施されるなど、漫画家と読者の距離がきわめて近いこともその特徴である。
1960年代から1970年代にかけてはマレーシア漫画の黄金時代だとされている{{sfn|Lent|2015|loc=No.156/342}}。1970年代以降、国民的なアイデンティティを育成する文化政策によって自国産の漫画が増え始め、海外作品の掲載を止める新聞も現れた<ref name=lim3/>{{sfn|Muliyadi|1997|p=45}}。1973年には漫画家・イラストレーター協会(PERPEKSI、Persatuan Pelukis Komik Kartun dan Ilustrasi)が設立され、実作者の地位向上を訴えた{{sfn|Lent|2015|loc=No.157-8/342}}。同年に漫画家が主体となってスアラサ社が設立され、マレー文化教育を主眼とする児童向けコミックブックを刊行して3万部のヒットを生み出した。同じく1973年にはマレーシアの{{仮リンク|国立美術館 (マレーシア)|en|National Art Gallery (Malaysia)|label=国立美術館}}がアジア各国の一コマ漫画作品の展示を初めて行った{{sfn|Lent|2015|loc=No.158/342}}。


この時期にはまた[[ラット (漫画家)|ラット]]、ナン (Zainal Osman)、{{仮リンク|メオール・シャリマン|ms|Meor Shariman}}、{{仮リンク|ジャーファー・タイブ|ms|Jaafar Taib}}、{{仮リンク|ザイナル・ブアン・フッシン|ms|Zainal Buang Hussin}}のような新しい世代の漫画家が登場した{{sfn|Lent|2015|loc=No.156/342}}。ラットは1970年ごろからコマ漫画の {{仮リンク|クルアルガ・シ・ママット|ms|Keluarga Si Mamat|label=''Keluarga Si Mamat''}}{{翻訳|ママットの家族}}や一コマ漫画 {{仮リンク|シーンズ・オブ・マレーシアン・ライフ|en|Scenes of Malaysian Life|label=''Scenes of Malaysian Life''}}{{翻訳|マレーシアの生活風景}}を数十年にわたって新聞に連載し{{sfn|Lent|2015|loc=No.156/342}}、一般によく知られる存在となった<ref name=lim3/>。時事スケッチに風刺性を込めた ''Scenes of Malaysian Life'' が人気を博したことで、一時期姿を消していた一コマ社説漫画が新聞各紙に再び掲載されるようになった{{sfn|Muliyadi|1997|pp=43, 50}}。ラットは1980年代に新聞社専属からフリーになって自作のマーチャンダイジングを手掛け、マレーシア漫画界ではまれな経済的成功を収めた{{sfn|Lent|2015|loc=No.156/342}}。マレー伝統文化を追憶した著書『[[カンポンボーイ]]』は国際的にも広く読まれている{{sfn|リム|2010|pp=185-188}}。英字紙ニュー・ストレーツ・タイムズの系列紙で活躍したラットに対して、マレー語のウトゥサン・ムラユ社では1976年にナンが登場し、タクシードライバーが主人公の家族もの ''Din Teksi'' や、スラップスティック ''Barber's Corner'' を描いた{{sfn|Muliyadi|1997|pp=45, 50}}{{sfn|Lent|2015|loc=No.157/342}}。
== 主な出版社 ==
{{Gallery
* 平方集団
|height=180
* 青苹果工作室
|file: An Afternoon with Lat 01 cropped.jpg |国民的漫画家[[ラット (漫画家)|ラット]](写真は2009年)。代表作は1950年代の村落生活を回顧した『[[カンポンボーイ]]』。
* 元気出版
|file: AirAsia A320-200(9M-AFJ) (4428679445).jpg | ラットのキャラクターが描かれた[[エアアジア]]の旅客機 (2010)。
* 彩虹漫画
|file: Lat at ICAF 2007 (cropped).jpg | [[コミックス・スタディーズ|コミック研究]]の大会{{仮リンク|国際コミック・アーツ・フォーラム|en|International Comic Arts Forum}}にゲストとして招かれたラット (2007)<ref>{{cite web|url=http://www.internationalcomicartsforum.org/conference.html|accessdate=2024-09-19|title=Past ICAF Programs & Guests|publisher= The International Comic Arts Forum}}</ref>。
* 嘉陽出版
}}
* Gala Unggul Resources
=== ユーモア雑誌と海外コミック: 1980-1990年代 ===
* The Vision Engine
この時期に特筆すべきなのは、1978年に漫画家のミシャールらが設立したクリエイティヴ・エンタープライズから発刊された『{{仮リンク|ギラギラ (雑誌)|ms|Gila-Gila (majalah)|label=ギラギラ}}』である{{sfn|Lent|2015|loc=No.158/342}}。マレー語の「gila」は英語の「mad」に当たり{{sfn|Lent|2015|loc=No.157/342}}、米国『[[MAD (雑誌)|MAD]]』誌のひな形にならったユーモア雑誌だった。誌面はマレー語文学、民話、歴史、映画の[[パロディ]]漫画から構成されており、発行部数20万部まで拡大してマレーシア最大の雑誌となった{{sfn|Lent|2015|loc=No.158-9/342}}。同誌は漫画の原稿料を専業漫画家が成り立つ水準にまで引き上げた{{sfn|Rifas|1984|p=96}}{{Efn2|1984年時点で『ギラギラ』はページ当たり最大35[[リンギット]]の原稿料を支払っていた。これはマレーシアの平均収入と比べると米国の1000ドルに匹敵した。一方で新聞漫画の原稿料は、版権料が低い海外作品と競合していたため1作5リンギット程度であった{{sfn|Rifas|1984|p=96}}。}}。また若い漫画家を育成し、漫画家の相互交流や地位向上を促す役割も果たした。大手出版社による {{仮リンク|ゲリハティ|ms|Gelihati|label=''Gelihati''}} など後発のユーモア誌も現れ、2003年までに50誌以上が乱立した{{sfn|Lent|2015|loc=No.158-9/342}}。『ギラギラ』出身の漫画家{{仮リンク|イブラヒム・アノン|ms|Ibrahim Anon|label=ウジャン}}は80年代前半に ''Aku Budak Minang''{{翻訳|僕は[[ミナンカバウ人|ミナン]]の子ども}}や ''Atuk''{{翻訳|おじいちゃん}}をヒットさせてマレーシア漫画界を活性化させた。2作はアニメ化もされている。ウジャンは自身でもティーン向けユーモア誌 {{仮リンク|ウジャン|ms|Ujang|label=''Ujang''}} (1993) などを創刊した{{sfn|Lent|2015|loc=No.159/342}}。20世紀末までにユーモア誌の市場は飽和し、各誌は宗教テーマの ''Lanun''、芸能界テーマの ''Mangga'' などジャンルを細分化することで生き残りを図った。最初の女性向け雑誌 ''Cabai'' は希少な女性漫画家{{仮リンク|チャバイ|ms|Cabai (kartunis)}}(Sebariah Jais) を看板作家としていた。言語ごとに市場が限られていたことから、マレー語ではなく英語で出版したり、サイレント漫画に特化する雑誌も現れた{{sfn|Lent|2015|loc=No.159/342}}。


ユーモア誌以外には海外作品の出版が盛んだった{{sfn|Rifas|1984|p=101}}。[[アメリカン・コミックス|米国]]や旧宗主国である{{仮リンク|イギリスの漫画|en|British comics|label=英国}}の[[コミックブック]]は広く売られていた。また中国系やインド系の住民はそれぞれの母国で出版された作品を輸入していた。そのため地元産の作品はほぼマレー系の作家に限られていた{{sfn|Rifas|1984|p=98}}。1984年時点でマレー語コミックブック出版社はわずかな数しかなく、月刊誌の発行数は1万5千部程度で、ほとんどのタイトルが短命だった。ジャンルは歴史や冒険ものが多かった。米国のコミックを真似てマレーシア風味を加えた多様なジャンルの作品を出す出版社や、{{仮リンク|フォトコミック|en|Photo comics}}を専門とする出版社もあった{{sfn|Lent|2015|loc=No.161/342}}。1980年代後半以降には[[日本の漫画|日本]]・台湾・[[香港の漫画|香港]]作品の[[海賊版]]が大量に出回り、国内産業の発展にとっては妨げとなった。海賊版は専門の出版社から公然と刊行されていたが、市場が小さいことで政府当局や海外の著作権者から黙認されていた。主な流通ルートは中国系の[[貸本屋]](または[[漫画喫茶]])だった{{sfn|Lent|2015|loc=No.166/342}}。
== 参考文献 ==
* マレーシア漫画協会編『マレーシア漫画協会紀年会刊 2009』(2009年 クアラルンプール)
* マレーシア漫画協会編『マレーシア漫画協会紀年会刊 2011』(2011年 クアラルンプール)
* 台北市漫画従業員工会編『国際マンガサミット 台湾淡水大会 講演資料』(2009年 台北)


1980年代には一般紙ニュー・ストレーツ・タイムズに国内外のコミックを紹介するコラムが連載され、コミックの社会的認知が高まった。コラムの著者ダニエル・チャンは1984年にマレーシア初のコミック・コンベンションを開催した{{sfn|Lent|2015|loc=No.161/342}}。それを機会に、マレーシア人のファンによって米国[[マーベル・コミックス]]風の同人誌 ''APAzine'' が出版された{{Efn2|APA={{仮リンク|アマチュア・プレス・アソシエーション|en|Amateur press association}}。}}{{sfn|Lent|2015|loc=No.161/342}}<ref>{{cite news|title=A slice of Malaysian comics history|newspaper=The Star Malaysia|date=2019-03-26|accessdate=2024-09-16|url=https://www.pressreader.com/malaysia/the-star-malaysia-star2/20190326/281487867696199?srsltid=AfmBOoqpmqsfrvp4WchpKTF6y6bBQ8m7sczfF0Clhzk_SsjtCPXgHYPK}}</ref>。またクアラルンプールを中心に米国コミックの専門店が置かれるようになった{{sfn|Lent|2015|loc=No.161/342}}。
== 注釈 ==
{{脚注ヘルプ}}
{{Reflist}}


=== 成熟とグローバル化: 2000年代 ===
== 関連項目 ==
20世紀末の[[アジア通貨危機]]以降には地域の漫画文化に[[グローバリゼーション]]の波が及んだ{{sfn|リム|2010|p=188}}。この時期、インターネットの普及と軌を一にして日本の[[アニメ (日本のアニメーション作品)|アニメ]]と[[日本の漫画|漫画]]が大々的に流入した{{sfn|Rashid et al.|2022|p=1013}}。それ以降の世代は伝統文化や歴史よりもSFやファンタジーのようなジャンルに関心が高く、日本をはじめとする海外の作品から強く影響を受けている{{sfn|リム|2010|pp=188-190}}。1990年代前半以前の国内作品はほとんど復刻されず{{sfn|Kamal|Haw|Bakhir|2017|p=295}}、ラットやルジャブハッド、ジャーファー・タイブらが発展させた伝統的な作風は継承されていない{{sfn|Kamal|Haw|Bakhir|2017|p=295}}{{sfn|リム|2010|p=185}}。
* [[漫画]]
* [[マレーシア]]


このころ国内コミック出版もビジネスとして成熟し始め{{sfn|Lent|2015|loc=No.161/342}}、2000年代には漫画とアニメーション、芸能、ゲーム、広告、グッズ販売の連携が進んだ{{sfn|Lent|2015|loc=No.163/342}}。1998年設立の新興出版社{{仮リンク|ゲンパック・スターズ|en|Gempak Starz|label=アート・スクウェア・グループ}}は、月2回刊誌『{{仮リンク|ゲンパック|ms|Gempak}}』など、漫画とアニメやゲームの情報を組み合わせた雑誌をヒットさせて頭角を現した<ref name=lim3/>{{sfn|Lent|2015|loc=No.162/342}}。同社は雑誌連載作品を単行本化するモデルを取り入れ、海外漫画の正規ライセンス版のほか地元作品を数多く出版してマレーシア人作家に活躍の場を作り出した{{sfn|Lent|2015|loc=No.162/342}}。また[[韓国の漫画|韓国]]の[[学習漫画]]を出版して学校関係者や親世代にアピールしたり、デジタル展開や新人賞の設立によって漫画の普及を推し進めた{{sfn|Lent|2015|loc=No.163/342}}。多くのアート・スクウェア作品は、フラットなカラーリングの絵柄、キャラクター設定、プロットなどに日本漫画からの影響が明らかだった{{sfn|Lent|2015|loc=No.162, 166/342}}。代表的な作家には、高校生活を描いた4コマギャグ{{sfn|鵜沢|2015|p=7}}『{{仮リンク|ラワック・キャンパス|ms|Lawak Kampus}}(秀逗高校)』を描いたキース([[張家輝 (漫画家)|張家輝]])や{{sfn|Lent|2015|loc=No.162/342}}、[[少女漫画]]の第一人者で『{{仮リンク|メイド・メイデン|ms|Maid Maiden}}』など日本の流行を取り入れた作品で知られる{{仮リンク|カオル (漫画家)|ms|Kaoru (pelukis komik)|label=カオル}}がいる{{sfn|顔|2011|p=1}}{{sfn|Lent|2015|loc=No.170/342}}。米国のスーパーヒーロー・コミックに影響を受けた作家も多く、[[DCコミックス]]にスカウトされた{{仮リンク|陳永発|en|Tan Eng Huat}}などがいる<ref name=lim3/>。
{{デフォルトソート:まれえしあのまんか}}

[[Category:各国の漫画]]
2001年に発刊された『{{仮リンク|アーバン・コミックス|ms|Urban Comics}}』はインディー・コミック出版の先駆けである{{sfn|Lent|2015|loc=No.163-164/342}}。同誌の出版者ムハマド・アザール・アブドゥラは2007年に国の助成を受け、アマチュアを含めた漫画家の相互交流と漫画文化の振興を目的とした団体{{仮リンク|PeKomik|ms|PeKOMIK}}(Persatuan Penggiat Komik Malaysia、マレーシア漫画家協会)を結成した{{sfn|Lent|2015|loc=No.164-165/342}}。PeKomikは2012年に他の団体と共同でゲームと漫画の大規模なコンベンションMGCCon (Malaysian Games and Comic Convention) を開催し、コミックファンダムの存在をマレーシア社会に周知させた{{sfn|Lent|2015|loc=No.165/342}}。

=== 現代: 2010年代以降 ===
[[ファイル: Comic Fiesta 2015.jpg|サムネイル|250ピクセル|4万5千人の来場者を集めた2015年{{仮リンク|コミック・フィエスタ|en|Comic Fiesta}}<ref>{{cite web|url=https://comicfiesta.org/history|accessdate=2024-09-16|title=History|publisher= COMIC FIESTA}}</ref>。]]
2010年代以降には[[ウェブトゥーン]]のようなデジタル配信手段が登場したことで新世代の漫画家が数多く活動するようになった<ref>{{cite web|url=https://www.silvermouse.com.my/blog/popular-comic-artists-in-malaysia/|accessdate=2024-09-15|title=18 popular comic artists in Malaysia|website= Silver Mouse|date=2019-06-19}}</ref>。Twitter(現[[X (ソーシャル・ネットワーキング・サービス)|X]])や[[Facebook]]のような[[ソーシャル・ネットワーキング・サービス]]で発表された作品が書籍化される事例もある<ref>{{cite web|url=https://www.rage.com.my/comic-commentary/|accessdate=2024-09-16|title=Malaysian webcomic commentary|website= R.AGE|date=2017-02-07}}</ref>。マレーシアではほかのアジア国家と同じく伝統的に女性漫画家が少なく、2010年代までにある程度の成功を収めたのはノラ・アブドゥラ、チャバイ、カオルなど7人を数えるのみだったが{{sfn|Lent|2015|loc=No.169/342}}、近年ではインディー出版やデジタル出版で作品を発表する女性が登場している<ref>{{cite web|url=https://blog.reimenayee.com/doing-comics-malaysian/|accessdate=2024-09-16|title=How to Break Into Comics AND Succeed At It (Malaysian edition)|publisher= Reimena Yee|date=2019-04-10|last=Yee|first=Reimena}}</ref>。国際的に権威ある[[アイズナー賞]]を最初に受賞したマレーシア作品は女性漫画家{{仮リンク|エリカ・エン|fr|Erica Eng}}による自伝的作品『フライド・ライス』である(2020年ウェブコミック部門)<ref>{{cite web|url=https://www.scmp.com/news/asia/southeast-asia/article/3094991/malaysias-erica-eng-wins-prestigious-eisner-award-fried?module=perpetual_scroll_0&pgtype=article
|accessdate=2024-09-17|title=Malaysia’s Erica Eng wins prestigious Eisner Award with Fried Rice webcomic|website=South China Morning Post|date=2020-07-28}}</ref>。

2000年代以降には米国式のコミックブックに代わるオルタナティヴな出版形式として[[グラフィックノベル]](一般書店で売られる単行本)にも関心が寄せられている{{sfn|Lent|2015|loc=No.165/342}}。国の出版助成金を受けてグラフィックノベルを出すインディー作家もいる{{sfn|Lent|2015|loc=No.164/342}}。マレーシア教育省は2010年から正規の英語教育に『[[黒馬物語]]』、[[シャーロック・ホームズシリーズ|シャーロック・ホームズ]]、『[[地底旅行]]』のような古典文学のグラフィックノベル版を取り入れている{{sfn|Rajendra|2015|p=12}}。

2022年には書籍形式の漫画が一般書店でもっとも人気の高いジャンルにまで成長した。主要な出版社はカドカワ・ゲンパック・スターツとイスラム系の{{仮リンク|Komik-M|ms|Komik-M}}で、自国産と日本の作品が若い世代の人気を二分している。''Bekazon'' のようなユーモア誌も出版が続けられている<ref>{{cite web|url=https://asiawa.jpf.go.jp/culture/features/f-yomu2-malaysia-1/|accessdate=2024-09-15|title=マレーシアの書籍業界をめぐるショートツアー―ハスリ・ハサン|publisher=国際交流基金アジアセンター|date=2022-03-02}}</ref>。カドカワ・ゲンパック・スターツは2015年にアート・スクウェアが日本の[[カドカワ]]の出資を得て社名変更した会社で、漫画出版のほかアニメーション、ゲーム、小説などのマルチメディア・コンテンツ事業の展開や<ref>{{cite web|url=https://connection.com.my/companydetail/id=649|accessdate=2024-09-15|title=KADOKAWA GEMPAK STARZ SDN BHD|website=マレーシア ビジネス情報 CONNECTION}}</ref>、アニメーター学校の設立を行っている<ref>{{cite web|url=https://asia.nikkei.com/Business/Japanese-publisher-taps-Southeast-Asia-comics-market-from-Malaysia|accessdate=2015-12-10|title=Japanese publisher taps Southeast Asia comics market from Malaysia|website= Nikkei Asia}}</ref>。カドカワはこの資本提携により、マレーシアを拠点にASEANや中東諸国への進出を図っている<ref>{{cite web|url=https://newspicks.com/news/1302778/body/|accessdate=2024-09-19|title=KADOKAWA、マレーシアを拠点にASEAN・中東市場に攻勢|date=2015-12-06|website=News Picks}}</ref>。ゲンパックの学習漫画シリーズ「どっちが強い⁉」は日本で翻訳出版されて累計190万部を超えるヒットとなった<ref>{{cite web|url=https://realsound.jp/book/2020/03/post-517834.html|accessdate=2024-09-15|title=マレーシア発の学習マンガ『どっちが強い!?』が大ウケした理由 2月期月間ベストセラー時評|website=Real Sound|date=2020-03-06}}</ref><ref>{{cite web|url=https://natalie.mu/comic/pp/inboundcomic|accessdate=2024-09-16|title=インバウンドコミック編集部・奥村勝彦編集長インタビュー|website=コミックナタリー |date=2020-09-30}}</ref>。

== 作品の特徴 ==
[[ファイル: Malaysia Theme Pavilion, Taiwan Comic Festival 20191027c.jpg|サムネイル|230ピクセル|第3回台湾漫画フェスティバル(2019年10月、台北)におけるマレーシア館の展示。マレーシア漫画史の解説で『ギラギラ』や『ゲンパック』などが紹介されている。]]
=== ユーモア誌 ===
『ギラギラ』(1978) の流れを汲むユーモア誌は70~80ページ前後で、読者は男女どちらもいた。性別や民族による違い、職場、マレー文化、歴史などをテーマにしたセクションからなり、多くの漫画家が1ページずつ描いていた{{sfn|Lent|2015|loc=No.160/342}}。言語は公用語のマレー語がほとんどで、描き手もマレー人が多かった{{sfn|Lent|2015|loc=No.161/342}}。
作品の特徴としては、
* 過激さを避けた穏当なユーモア
* 愚か者が賢いふりをするがなぜか上手くいく
* 文化的ステレオタイプを笑いの種にする
* 実在人物ではなく類型的なキャラクターをパロディ化する
などが挙げられている。マレーの文化ではユーモアが重要な地位を占めており、漫画家は伝統演劇や文芸から笑いを取り入れていた{{sfn|Lent|2015|loc=No.160/342}}。

その一方で、ユーモア誌が持つ批判精神は一般のマレー社会にあまり見られないものだった{{sfn|Lent|2015|loc=No.161/342}}。『ギラギラ』が登場する1970年代以前には漫画で自由な社会批判は行われておらず、政府高官の描写や、センシティブな題材([[マレー語|公用語]]の呼称問題、マレー人の法的優位、[[マレーシアの国王|スルタン]]特権など)は避けられていた{{sfn|Lent|2015|loc=No.168/342}}。80年代に風刺漫画の表現の自由が拡大した理由としては、
* マレー人が政治的に優位な地位を占めていたから
* 漫画がマレー伝統芸能から権威への不満を解放する役割を受け継いだから
* 漫画は幼稚なメディアだと考えられていたため、政府から政治的脅威と見なされなかった
のような説がある{{sfn|Lent|2015|loc=No.168-169/342}}。

=== 公的な規制 ===
マレーシアの雑誌は「道徳を損なう」とみなされると内務省から発行許可を取り下げられる可能性がある{{sfn|Rifas|1984|p=100}}。政府は人種間の宥和を方針に掲げており{{sfn|Muliyadi|1997|p=46}}、特定の民族への加害や不利益となる表現は規制の対象となる{{sfn|Nasir|2021|p=63}}。政府批判に対して警告が行われることもある{{sfn|Rifas|1984|p=100}}。1983年に『ギラギラ』でデビューした{{仮リンク|ズルキフリー・アンワル・ウルハケ|en|Zulkiflee Anwar Haque|label=ズナール}}は辛辣な風刺で知られており、2010年ごろに当局から単行本を発禁にされたり、安全保障法に基づいて身柄を拘束されたことがある{{sfn|Lent|2015|loc=No.168/342}}。

風刺漫画以外のコミックは児童向けメディアという観点からの規制を受ける。体の線が露わになるタイトな服装や、男女間のキス、銃を人間に突きつける描写などは許可されていない{{sfn|Lent|2015|loc=No.168/342}}。2010年代以降の作家には、政府の規制や出版社のガイドラインによって創作の自由が制限されることを嫌って商業出版よりも自己出版を選ぶ者がいる{{sfn|Junid|Yamato|2019|pp=78-79}}。

== 脚注 ==
=== 注釈 ===
{{Notelist2}}
=== 出典 ===
{{Reflist|20em}}

== 参考文献 ==
* {{cite journal|title=Sustaining Malay Comic Design: Transformation From Paper To Digital |last=Kamal|first=Julina Ismail|last2=Haw|first2=Kam Chin|last3=Bakhir|first3=Norfarizah Mohd|journal=Advance in Economics, Business and Management Reserach|volume=41|pages=295-298|doi=10.2991/bcm-17.2018.57|year=2017|ref={{sfnref|Kamal|Haw|Bakhir|2017}}}}
* {{cite journal|title= Manga Influences and Local Narratives: Ambiguous Identification in Comics Production|first= Iman |last=Junid |first2=Eriko |last2=Yamato |year=2019|journal= Creative Industries Journal|volume=12|issue=1|pages= 66-85|doi=10.1080/17510694.2018.1542941|ref={{sfnref|Junid|Yamato|2019}} }}
* {{cite journal|title=Malay Comic Books from the 1950s and 1960s in the British Library|url= https://www.academia.edu/105520345/Malay_Comic_Books_from_the_1950s_and_1960s_in_the_British_Library |accessdate=2024-09-16|last=Gallop|first=Annabel Teh|journal=Southeast Asia Library Group Newsletter |issu=54|pages=44-70|doi=10.2991/bcm-17.2018.57|year=2022|ref={{sfnref|Kamal|Haw|Bakhir|2017}}}}
* {{cite book|title=Asian Comics|edition=English, Kindle|last=Lent|first=John A.|asin=B00QTYUIWG|publisher=University Press of Mississippi|year=2015|chapter=Malaysia|pages=153-174|ref={{sfnref|Lent|2015}}}}
* {{cite journal|last=Mahamood|first=Muliyadi|title=The Development of Malay Editorial Cartoons|journal=Southeast Asian Journal of Social Science|volume=25|issue=1, Special Focus: Cartooning and Comic Art in Southeast Asia|year=1997|pages=37-58|jstor=24492449|ref={{sfnref|Muliyadi|1997}}}}
* {{Cite journal|title=Understanding Manga as a “Style” through Essay Manga’s Multimodal Literacies ― And Its Relations to the Discourse on “local art style” in Malaysian Comics|first=Suraya Binti Md |last= Nasir|journal= Border Crossings The Journal of Japanese-Language Literature Studies|doi=10.22628/bcjjl.2021.13.1.61|volume=13|issue=1|pages=61-74|year=2021|ref={{sfnref|Nasir|2021}}}}
* {{Cite journal|title=Multimodality in Malaysian Schools: The Case for the Graphic Novel |first=Thusha Rani|last=Rajendra|journal=The Malaysian Online Journal of Educational Science|volume=3|issue=2|year=2015|pages=11-20|ref={{sfnref|Rajendra|2015}}|url=https://api.semanticscholar.org/CorpusID:157046409|accessdate=2024-09-26}}
* {{Cite journal|title=Acceptance of LGBT Comics and Animation among Public University Students in Malaysia|first=Roswati Abdul |last=Rashid|first2=Roslina|last2=Mamat|first3=Rokiah|last3=Paee|first4=Asmadi|last4=Hassan|first5=Muhd Zulkifli|last5=Ismail|first6=Normah|last6=Ahmad|journal= Journal of Positive School Psychology|url=http://psasir.upm.edu.my/id/eprint/100078/|accessdate=2024-09-26|volume=6|issue=4|pages=1012-1021|year=2021|ref={{sfnref|Rashid et al.|2021}}}}
* {{Cite journal|title=Comics in Malaysia|first=Leonard|last=Rifas|journal=The Comics Journal|url=https://www.tcj.com/tcj-issue/the-comics-journal-no-94-october-1984/|volume=94|issue=1984-10|year=1984|pages=96-101|ref={{sfnref|Rifas|1984}}|accessdate=2024-09-26}}
* {{cite journal|和書|title=漫画 Lawak Kampus における効果音としてのオノマトペ―マレー英語の事例―|last=鵜沢|first=洋志|journal=アジア英語研究|volume=17|pages=6-27|year=2015|doi=10.50875/asianenglishstudies.17.0_6|ref={{sfnref|鵜沢|2015}}}}
* {{cite journal|和書|title=マレーシアの漫画における混淆性 ─ 少女漫画家カオルのキャリアを通して|last=顔|first=暁暉|url=http://imrc.jp/lecture/2011/10/3.html|accessdate=2024-09-15|journal=第3回国際学術会議「マンガの社会性―経済主義を超えて―」|year=2011|ref={{sfnref|顔|2011}}}}
*{{cite journal|和書|title= 1930年代初頭の英領マラヤにおけるマレー人性をめぐる論争―ジャウィ新聞『マジュリス』の分析から|doi=10.5512/sea.2016.45_5|last=坪井|first=祐司|pages=5-24|year=2016|issue=45|journal=東南アジア—歴史と文化—}}
*{{cite book|和書|title=世界のコミックスとコミックスの世界 : グローバルなマンガ研究の可能性を開くために|editor=ジャクリーヌ・ベルント|chapter=歴史的記憶のメディアとしてのマンガ/コミックス.シンガポールとマレーシアのコミック|first=チェンジュ|last=リム|translator=中垣恒太郎|series=国際マンガ研究1|year=2010|isbn=978-4-905187-02-8|url=http://imrc.jp/images/upload/lecture/data/%E4%B8%96%E7%95%8C%E3%81%AE%E3%82%B3%E3%83%9F%E3%83%83%E3%82%AF%E3%82%B9%E3%81%A8%E3%82%B3%E3%83%9F%E3%83%83%E3%82%AF%E3%82%B9%E3%81%AE%E4%B8%96%E7%95%8C.pdf|publisher=京都精華大学国際マンガ研究センター|accessdate=2024-09-13}}

<!--== 関連文献 ==-->
== 外部リンク ==
* {{cite web|url=https://macc.bunka.go.jp/2373/|accessdate=2024-09-16|title=東南アジア最大のアニメ・マンガ・ゲームのイベント クアラルンプール「コミック・フィエスタ(Comic Fiesta)」レポート|author=渡部宏樹|website= Media Arts Current Contents|date=2023-08-04}}

{{DEFAULTSORT:まれえしあのまんか}}
[[Category:マレーシアの文化]]
[[Category:マレーシアの文化]]
[[Category:各国の漫画]]

2024年9月29日 (日) 09:51時点における版

漫画 > マレーシアの漫画

本項ではマレーシアの漫画(マレーシアのまんが、マレー語: komik)について述べる。マレー語漫画は1930年代に新聞紙上の一コマ風刺漫画カートゥーン)として始まり、1957年に植民地からの独立を果たした後はコマ漫画(コミックストリップ)が新聞漫画の主流になった。1970年代末には風刺ユーモア雑誌が漫画の発表媒体として台頭した[1]。一般紙誌の添え物ではないストーリー漫画の出版物も1940年代から存在しており、後年には欧米や中華圏日本のような海外作品の影響を受けた作品が描かれるようになった。

マレーシアは主にマレー人中国人、次いでインド人などからなる多文化国家であり、漫画はそれぞれの集団の多様な言語で出版されてきた。マレーシアは地理的にも半島部島嶼部に大きく分かれており、隣接するシンガポールとも歴史的に深い関係を持ってきた。伝統的なマレーシア漫画はこれらの条件に強く規定されていた[2]。それぞれのキャラクターがどの民族集団に属するかは読者にとって重要であるため、コード化された外見的特徴によって明確に表現された[3]。市場が小さい上に民族・文化ごとに細分化されていることから、マレーシア漫画は日本や米国に見られるような固有の表現形式を発達させるに至らなかったという意見もある[4]。顔暁暉は2011年に、混合文化としてのマレーシアのアイデンティティがいまだに完成しておらず、そのためマレーシアの漫画文化も発展途上だと述べている[5]

1980年代後半以前のマレーシア漫画は米国コミックを手本にしてきたが[6]、それ以降は世界的な潮流に従って日本の影響が強まった[7]。日本の漫画やアニメには、特定の国や人種に限定されるような文脈が排除されており「文化的に脱臭されている(岩渕、1998)」という特徴がある[8]。顔によると、日本の影響以降には従来の地理的・国家的制約によってアイデンティティが縛り付けられていない新世代の漫画家が現れている[5]。それらの作家は日本漫画のスタイルを流用して民族間の緊張関係が希薄なフィクション化されたマレーシアを描く傾向がある[9]。日本漫画にならったセクシーな服装などは、多数派であるマレー系が信仰するイスラム教の価値観に反するとして読者から反発を受けることもある[10]

歴史

2017年にクアラルンプールに設置されたマレーシア・カートゥーン&コミック・ハウス。第二次世界大戦期から現在までの作品が所蔵されている[11]

マレーシアは1963年にいくつかの旧英国植民地が連合して成立した国家だが、この地域の漫画出版は19世紀の英領マラヤに起源を求められる。マラヤの貿易拠点だったシンガポールペナンは出版業も盛んであり、後年まで漫画文化の中心地だった[12]。1938年にシンガポールに設置された南洋芸術学院英語版では風刺漫画家も育成されていた[12]クアラルンプールジョホールバルで漫画出版が行われるようになったのは20世紀半ば以降で[12]東マレーシアでは21世紀になるまで地域の漫画が発展しなかった[13]

英領マラヤ時代: 19世紀-第二次世界大戦まで

近代的な漫画 (一コマ漫画) は植民地主義とともに到来した。1868年にマラヤの英国商人のために創刊された英字紙『ストレーツ・プロデュース英語版』は、本国の『パンチ』誌にならって風刺漫画を紙面の中心にしていた。同種の出版物としては日本で刊行された『ジャパン・パンチ』(1862)、中国の『チャイナ・パンチ』(1867) に続いてアジアで3番目だったと考えられている[14]

英領マラヤに流入した移民労働者はそれぞれの母語で新聞を発行した。シンガポールの華字紙『中興日報英語版』は1907年に最初の一コマ漫画を掲載した[14]。革命家孫文の支持派が母体の新聞で、初期の漫画作品はいずれも王朝を攻撃する内容だった[15]。20世紀初頭の中国語風刺漫画は主に本国の政治を題材としており、1937年の盧溝橋事件以降は日本の中国侵略に激しい批判が向けられた。太平洋戦争が拡大して1942年に英領マラヤが占領されると、それらの漫画の作者は日本軍によって処刑されることになった[14][16]

マレー語の風刺漫画は中国語よりも遅れて発展した。その理由としては、手本とされていたアラブ系の新聞がイラストレーションを使用していなかったためだという説や[13]、マレー人が植民地の民族集団の中で特権的な地位におかれていたため政治風刺の動機が弱かったという説がある[14]。マレー語紙ワルタ・ジェナカマレー語版[注 1]では1930年代にようやくS・B・アリーによる風刺漫画や、読者投稿の素朴な作品が載るようになった[13]。マレー人自身の欠点(独立心のなさ、大雑把さなど)が槍玉に挙げられる一方、植民地政府や中国系・インド系移民が批判されていた[18]。もう一方のマレー語メジャー紙でイスラム色の強いウトゥサン・ザマンマレー語版[注 2]では、1939年にマラヤ初の漫画キャラクターの一人である Wak Ketok(→叩くおじさん)が登場した[20][13]パ・パンディルマレー語版のような伝統的な笑い話の系譜に連なるキャラクターだった[21]。同作は「マレー語ジャーナリズムの父[22]」と呼ばれたアブドゥル・ラヒム・カジャイ英語版が書いたコラムにアリ・サナットがイラストを添える構成で[23]、マレー民族主義を鼓舞して西洋化やマレー・アラブ人を批判する内容が多かった[24]。これら初期のマレー語漫画には伝統演劇のバンサワン英語版や影絵芝居のワヤン・クリの影響があり、韻文のパントゥン英語版やことわざを取り入れた文章が特徴的だった[25]

日本占領期には英国支配のもろさを目撃したことでいずれの民族も独立意識を高めた[14]。後に建国の父と言われるトゥンク・アブドゥル・ラーマンは反日的・民族主義的な漫画を描いていた[25]。その一方で、水彩画家アブドゥラ・アリフは日本軍が発行したペナン新聞に親日的なプロパガンダ漫画を描いた[14][25]。アブドゥラ・アリフの作品は1942年に Perang Pada Pandangan Juru-Lukis Kita(→私たちの漫画家が見た戦争)としてマレー語・中国語・英語の文章をつけて書籍化された[14][25]

マレーシアの成立: 1940-1950年代

第二次世界大戦が終結した直後の政治的空白期には共産ゲリラによるマラヤ危機が勃発し、民族間の対立が高まった。マレー人と中国人の漫画家は社会や政治を風刺する作品によって民族宥和と進歩主義を唱えた。ザ・ストレーツ・タイムズの社説漫画家Tan Huay Pengはその代表で、英国からの独立を訴えるシンボリックな作品を残した[14]

マラヤ連邦は1957年に英国からの独立を果たし、周辺地域の再編とシンガポールの脱退を経て現在のマレーシアが成立した。表現の自由を基本理念としていた植民地政府と異なり、独立政府はマスメディアを統制して統治の道具にしようとした。各言語の新聞からは政治風刺漫画が姿を消し、その代わりに冒険ものやユーモアものの海外産コミックストリップが多数掲載された[26]。『フラッシュ・ゴードン[26]、『ターザン英語版』、『マンドレイク・ザ・マジシャン英語版』、『聖者サイモン・テンプラー英語版』のような欧米作品は新聞各紙の呼び物となった[27]。ラジャ・ハムザ、ルジャブハッド英語版ミシャール英語版らマレー人漫画家による一コマ漫画やコマ漫画も掲載されていた[25]。ラジャ・ハムザは戦後期の重要な漫画家で[28]ブリタ・ハリアン英語版紙の Keluarga Mat Jambul(→マット・ジャンブルの家族)は英国の『ザ・ガンボルズ英語版』を手本にした家族もののユーモア作品だった[26][29]。ハムザはそのほかウトゥサン・ムラユ紙の Dol Keropok & Wak Tempeh など村落生活や古典文芸を題材にした連載を多数持ち[28]、後進のラットに影響を与えた[26]

文章主体の新聞・雑誌ではない漫画主体の出版物がマラヤに入ってきたのは、1930年代に英国から雑紙として売られてきた『ザ・ビーノ英語版』や『ザ・ダンディ英語版』などのコミックブック(小冊子型式の定期刊行物)が最初だった。ラジャ・ハムザらは1940年代にマレー民話や古典文学を翻案した民族主義的なジャウィ文字のコミックブックを描き始めた[28]シンガポールでは歴史物語 Pusaka Datuk Moyang (1952) 以降マレー語のコミックブックが盛んに出版された。米国ヒーロー・バットマンの翻案や、インドネシア人の映画監督ナス・アクナスインドネシア語版によるSF風味の作品もあった。1955年に15歳で伝説の女王シティ・ワン・ケンバン英語版をコミック化したノラ・アブドゥラは最初の女性マレー人漫画家で、1960年に人物画家に転向するまでに12冊以上のコミックブックを描いた。1960年代に入るとシンガポールのコミックブック出版は衰退し、シナラン・ブラザーズなどの出版社があるペナンが中心地となったが[17]、1960年代を過ぎるとそれも下火になった[30]。コミックの題材は伝統文化教育よりも恋愛ものや探偵ものが主流になり、表記はラテン文字になった[31]

黄金期: 1960-1970年代

1960年代から1970年代にかけてはマレーシア漫画の黄金時代だとされている[32]。1970年代以降、国民的なアイデンティティを育成する文化政策によって自国産の漫画が増え始め、海外作品の掲載を止める新聞も現れた[26][29]。1973年には漫画家・イラストレーター協会(PERPEKSI、Persatuan Pelukis Komik Kartun dan Ilustrasi)が設立され、実作者の地位向上を訴えた[33]。同年に漫画家が主体となってスアラサ社が設立され、マレー文化教育を主眼とする児童向けコミックブックを刊行して3万部のヒットを生み出した。同じく1973年にはマレーシアの国立美術館英語版がアジア各国の一コマ漫画作品の展示を初めて行った[34]

この時期にはまたラット、ナン (Zainal Osman)、メオール・シャリマンマレー語版ジャーファー・タイブマレー語版ザイナル・ブアン・フッシンマレー語版のような新しい世代の漫画家が登場した[32]。ラットは1970年ごろからコマ漫画の Keluarga Si Mamatマレー語版(→ママットの家族)や一コマ漫画 Scenes of Malaysian Life英語版(→マレーシアの生活風景)を数十年にわたって新聞に連載し[32]、一般によく知られる存在となった[26]。時事スケッチに風刺性を込めた Scenes of Malaysian Life が人気を博したことで、一時期姿を消していた一コマ社説漫画が新聞各紙に再び掲載されるようになった[35]。ラットは1980年代に新聞社専属からフリーになって自作のマーチャンダイジングを手掛け、マレーシア漫画界ではまれな経済的成功を収めた[32]。マレー伝統文化を追憶した著書『カンポンボーイ』は国際的にも広く読まれている[36]。英字紙ニュー・ストレーツ・タイムズの系列紙で活躍したラットに対して、マレー語のウトゥサン・ムラユ社では1976年にナンが登場し、タクシードライバーが主人公の家族もの Din Teksi や、スラップスティック Barber's Corner を描いた[37][38]

ユーモア雑誌と海外コミック: 1980-1990年代

この時期に特筆すべきなのは、1978年に漫画家のミシャールらが設立したクリエイティヴ・エンタープライズから発刊された『ギラギラマレー語版』である[34]。マレー語の「gila」は英語の「mad」に当たり[38]、米国『MAD』誌のひな形にならったユーモア雑誌だった。誌面はマレー語文学、民話、歴史、映画のパロディ漫画から構成されており、発行部数20万部まで拡大してマレーシア最大の雑誌となった[40]。同誌は漫画の原稿料を専業漫画家が成り立つ水準にまで引き上げた[41][注 3]。また若い漫画家を育成し、漫画家の相互交流や地位向上を促す役割も果たした。大手出版社による Gelihatiマレー語版 など後発のユーモア誌も現れ、2003年までに50誌以上が乱立した[40]。『ギラギラ』出身の漫画家ウジャンマレー語版は80年代前半に Aku Budak Minang(→僕はミナンの子ども)Atuk(→おじいちゃん)をヒットさせてマレーシア漫画界を活性化させた。2作はアニメ化もされている。ウジャンは自身でもティーン向けユーモア誌 Ujangマレー語版 (1993) などを創刊した[42]。20世紀末までにユーモア誌の市場は飽和し、各誌は宗教テーマの Lanun、芸能界テーマの Mangga などジャンルを細分化することで生き残りを図った。最初の女性向け雑誌 Cabai は希少な女性漫画家チャバイマレー語版(Sebariah Jais) を看板作家としていた。言語ごとに市場が限られていたことから、マレー語ではなく英語で出版したり、サイレント漫画に特化する雑誌も現れた[42]

ユーモア誌以外には海外作品の出版が盛んだった[43]米国や旧宗主国である英国英語版コミックブックは広く売られていた。また中国系やインド系の住民はそれぞれの母国で出版された作品を輸入していた。そのため地元産の作品はほぼマレー系の作家に限られていた[44]。1984年時点でマレー語コミックブック出版社はわずかな数しかなく、月刊誌の発行数は1万5千部程度で、ほとんどのタイトルが短命だった。ジャンルは歴史や冒険ものが多かった。米国のコミックを真似てマレーシア風味を加えた多様なジャンルの作品を出す出版社や、フォトコミック英語版を専門とする出版社もあった[45]。1980年代後半以降には日本・台湾・香港作品の海賊版が大量に出回り、国内産業の発展にとっては妨げとなった。海賊版は専門の出版社から公然と刊行されていたが、市場が小さいことで政府当局や海外の著作権者から黙認されていた。主な流通ルートは中国系の貸本屋(または漫画喫茶)だった[7]

1980年代には一般紙ニュー・ストレーツ・タイムズに国内外のコミックを紹介するコラムが連載され、コミックの社会的認知が高まった。コラムの著者ダニエル・チャンは1984年にマレーシア初のコミック・コンベンションを開催した[45]。それを機会に、マレーシア人のファンによって米国マーベル・コミックス風の同人誌 APAzine が出版された[注 4][45][46]。またクアラルンプールを中心に米国コミックの専門店が置かれるようになった[45]

成熟とグローバル化: 2000年代

20世紀末のアジア通貨危機以降には地域の漫画文化にグローバリゼーションの波が及んだ[47]。この時期、インターネットの普及と軌を一にして日本のアニメ漫画が大々的に流入した[48]。それ以降の世代は伝統文化や歴史よりもSFやファンタジーのようなジャンルに関心が高く、日本をはじめとする海外の作品から強く影響を受けている[49]。1990年代前半以前の国内作品はほとんど復刻されず[50]、ラットやルジャブハッド、ジャーファー・タイブらが発展させた伝統的な作風は継承されていない[50][51]

このころ国内コミック出版もビジネスとして成熟し始め[45]、2000年代には漫画とアニメーション、芸能、ゲーム、広告、グッズ販売の連携が進んだ[52]。1998年設立の新興出版社アート・スクウェア・グループ英語版は、月2回刊誌『ゲンパックマレー語版』など、漫画とアニメやゲームの情報を組み合わせた雑誌をヒットさせて頭角を現した[26][53]。同社は雑誌連載作品を単行本化するモデルを取り入れ、海外漫画の正規ライセンス版のほか地元作品を数多く出版してマレーシア人作家に活躍の場を作り出した[53]。また韓国学習漫画を出版して学校関係者や親世代にアピールしたり、デジタル展開や新人賞の設立によって漫画の普及を推し進めた[52]。多くのアート・スクウェア作品は、フラットなカラーリングの絵柄、キャラクター設定、プロットなどに日本漫画からの影響が明らかだった[54]。代表的な作家には、高校生活を描いた4コマギャグ[55]ラワック・キャンパスマレー語版(秀逗高校)』を描いたキース(張家輝)や[53]少女漫画の第一人者で『メイド・メイデンマレー語版』など日本の流行を取り入れた作品で知られるカオルマレー語版がいる[5][56]。米国のスーパーヒーロー・コミックに影響を受けた作家も多く、DCコミックスにスカウトされた陳永発英語版などがいる[26]

2001年に発刊された『アーバン・コミックスマレー語版』はインディー・コミック出版の先駆けである[57]。同誌の出版者ムハマド・アザール・アブドゥラは2007年に国の助成を受け、アマチュアを含めた漫画家の相互交流と漫画文化の振興を目的とした団体PeKomikマレー語版(Persatuan Penggiat Komik Malaysia、マレーシア漫画家協会)を結成した[58]。PeKomikは2012年に他の団体と共同でゲームと漫画の大規模なコンベンションMGCCon (Malaysian Games and Comic Convention) を開催し、コミックファンダムの存在をマレーシア社会に周知させた[59]

現代: 2010年代以降

4万5千人の来場者を集めた2015年コミック・フィエスタ英語版[60]

2010年代以降にはウェブトゥーンのようなデジタル配信手段が登場したことで新世代の漫画家が数多く活動するようになった[61]。Twitter(現X)やFacebookのようなソーシャル・ネットワーキング・サービスで発表された作品が書籍化される事例もある[62]。マレーシアではほかのアジア国家と同じく伝統的に女性漫画家が少なく、2010年代までにある程度の成功を収めたのはノラ・アブドゥラ、チャバイ、カオルなど7人を数えるのみだったが[63]、近年ではインディー出版やデジタル出版で作品を発表する女性が登場している[64]。国際的に権威あるアイズナー賞を最初に受賞したマレーシア作品は女性漫画家エリカ・エンフランス語版による自伝的作品『フライド・ライス』である(2020年ウェブコミック部門)[65]

2000年代以降には米国式のコミックブックに代わるオルタナティヴな出版形式としてグラフィックノベル(一般書店で売られる単行本)にも関心が寄せられている[59]。国の出版助成金を受けてグラフィックノベルを出すインディー作家もいる[66]。マレーシア教育省は2010年から正規の英語教育に『黒馬物語』、シャーロック・ホームズ、『地底旅行』のような古典文学のグラフィックノベル版を取り入れている[67]

2022年には書籍形式の漫画が一般書店でもっとも人気の高いジャンルにまで成長した。主要な出版社はカドカワ・ゲンパック・スターツとイスラム系のKomik-Mマレー語版で、自国産と日本の作品が若い世代の人気を二分している。Bekazon のようなユーモア誌も出版が続けられている[68]。カドカワ・ゲンパック・スターツは2015年にアート・スクウェアが日本のカドカワの出資を得て社名変更した会社で、漫画出版のほかアニメーション、ゲーム、小説などのマルチメディア・コンテンツ事業の展開や[69]、アニメーター学校の設立を行っている[70]。カドカワはこの資本提携により、マレーシアを拠点にASEANや中東諸国への進出を図っている[71]。ゲンパックの学習漫画シリーズ「どっちが強い⁉」は日本で翻訳出版されて累計190万部を超えるヒットとなった[72][73]

作品の特徴

第3回台湾漫画フェスティバル(2019年10月、台北)におけるマレーシア館の展示。マレーシア漫画史の解説で『ギラギラ』や『ゲンパック』などが紹介されている。

ユーモア誌

『ギラギラ』(1978) の流れを汲むユーモア誌は70~80ページ前後で、読者は男女どちらもいた。性別や民族による違い、職場、マレー文化、歴史などをテーマにしたセクションからなり、多くの漫画家が1ページずつ描いていた[74]。言語は公用語のマレー語がほとんどで、描き手もマレー人が多かった[45]。 作品の特徴としては、

  • 過激さを避けた穏当なユーモア
  • 愚か者が賢いふりをするがなぜか上手くいく
  • 文化的ステレオタイプを笑いの種にする
  • 実在人物ではなく類型的なキャラクターをパロディ化する

などが挙げられている。マレーの文化ではユーモアが重要な地位を占めており、漫画家は伝統演劇や文芸から笑いを取り入れていた[74]

その一方で、ユーモア誌が持つ批判精神は一般のマレー社会にあまり見られないものだった[45]。『ギラギラ』が登場する1970年代以前には漫画で自由な社会批判は行われておらず、政府高官の描写や、センシティブな題材(公用語の呼称問題、マレー人の法的優位、スルタン特権など)は避けられていた[75]。80年代に風刺漫画の表現の自由が拡大した理由としては、

  • マレー人が政治的に優位な地位を占めていたから
  • 漫画がマレー伝統芸能から権威への不満を解放する役割を受け継いだから
  • 漫画は幼稚なメディアだと考えられていたため、政府から政治的脅威と見なされなかった

のような説がある[76]

公的な規制

マレーシアの雑誌は「道徳を損なう」とみなされると内務省から発行許可を取り下げられる可能性がある[77]。政府は人種間の宥和を方針に掲げており[78]、特定の民族への加害や不利益となる表現は規制の対象となる[4]。政府批判に対して警告が行われることもある[77]。1983年に『ギラギラ』でデビューしたズナール英語版は辛辣な風刺で知られており、2010年ごろに当局から単行本を発禁にされたり、安全保障法に基づいて身柄を拘束されたことがある[75]

風刺漫画以外のコミックは児童向けメディアという観点からの規制を受ける。体の線が露わになるタイトな服装や、男女間のキス、銃を人間に突きつける描写などは許可されていない[75]。2010年代以降の作家には、政府の規制や出版社のガイドラインによって創作の自由が制限されることを嫌って商業出版よりも自己出版を選ぶ者がいる[79]

脚注

注釈

  1. ^ 日刊紙ワルタ・マラヤ英語版の週刊付属紙[17]
  2. ^ ウトゥサン・ムラユ英語版紙の日曜版で[19]、マレー人によって出版された最初の新聞だった[2]
  3. ^ 1984年時点で『ギラギラ』はページ当たり最大35リンギットの原稿料を支払っていた。これはマレーシアの平均収入と比べると米国の1000ドルに匹敵した。一方で新聞漫画の原稿料は、版権料が低い海外作品と競合していたため1作5リンギット程度であった[41]
  4. ^ APA=アマチュア・プレス・アソシエーション英語版

出典

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参考文献

外部リンク