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「ジョフロワ2世・ド・ヴィルアルドゥアン」の版間の差分

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'''ジョフロワ2世・ド・ヴィルアルドゥアン'''({{lang|fr|Geoffroi II de Villehardouin}}, [[1195年]]頃 - [[1246年]])は、[[フランス]]・[[シャンパーニュ]]出身の第3代[[アカイア公国|アカイア公]](在位:[[1228年]] - [[1246年]])。先代[[ジョフロワ1世・ド・ヴィルアルドゥアン]]の長子。


'''ジョフロワ2世・ド・ヴィルアルドゥアン'''({{lang-fr|Geoffroi II de Villehardouin}}) (1195年ごろ - 1246年5月6日以降)とは、第3代[[アカイア公]] (在位:1229年ごろ〜1246年) である<ref name='Longnon 242'>Longnon 1969, p. 242.</ref>。ジョフロワ2世はアカイア公就任期より影響力のある高評判な人物であったとされ、遥々フランスより彼に士官するためにギリシャまでやってくるフランス人騎士も多くいたという<ref name="Setton 56"/>。ジョフロワ2世は[[ラテン皇帝]]の有力家臣として注目され、結果的に現在のギリシャ地方に点在する[[十字軍国家|十字軍諸国]]が彼の元に徐々に再集結することとなった<ref name='Longnon 242'/>。またジョフロワは在位中に危機に陥った帝都コンスタンティノープルを3度に渡り救援するという活躍も見せ<ref name='Longnon 242'/>、報奨として当時ラテン皇帝であった義弟[[ボードゥアン2世 (ラテン皇帝)|ボードゥアン2世]]から[[エヴィア島]]の宗主権を与えられた<ref name='Longnon 242'/><ref name='Fine 614'>Fine 1994, p. 614.</ref>。彼は影響力がある評判の良い貴族であったのみならず、公国の一般民衆を慈悲深く公正に統べる人望に厚い貴族でもあった<ref name='Longnon 243'>Longnon 1969, p. 243.</ref>。
== 生涯 ==
父ジョフロワの十字軍出発前の[[1195年]]頃、シャンパーニュにて生まれる。[[1210年]]、父の[[ペロポネソス半島|ペロポニソス半島]]征服が一段落した頃に母イザベルと共に半島に来訪・移住。[[1217年]]には[[ラテン帝国]]皇帝[[ピエール2世・ド・クルトネー|ピエール・ド・クルトネー]]の娘アニェスと結婚し、皇帝の反東ローマ・[[ニカイア帝国|ニケア帝国]]戦線に参加。[[1236年]]、[[1238年]]、[[ヨハネス3世ドゥーカス・ヴァタツェス|ヨアニス3世ドゥカス・ヴァタヅィス]]帝と交戦。戦功により中央ギリシアの[[エヴヴィア]]島の宗主権を与えられる。


== 若年期 ==
ジョフロワ2世は子なく死去し、弟[[ギヨーム2世・ド・ヴィルアルドゥアン]]が後を継いだ。彼の時代、アカイア公国は安定と繁栄の時代を過ごし、次代ギヨーム2世の発展を準備した。


ジョフロワ2世は先代のアカイア公[[ジョフロワ1世・ド・ヴィルアルドゥアン|ジョフロワ1世]]とその公妃エリザベトとの間に長男として誕生した。ジョフロワ2世の父ジョフロワ1世は1199年に[[第4回十字軍]]に参加し、その後ペロポネソス半島の大部分を占領に成功。その後、初代アカイア公[[ギヨーム1世・ド・シャンリット|ギヨーム1世]]の死後にアカイア公の座を獲得して第2代アカイア公に就任した<ref>Fine 1994, pp. 69-72.</ref>。
(本項目のギリシア語固有名詞表記は中世ギリシア語の発音に依拠した。古典式慣例表記については各リンク先の項目を参照)


ジョフロワ1世は公爵就任後すぐにシャンパーニュ地方に留まっていた妻をペロポネソス半島に呼び寄せた<ref>Setton 1976, p. 49.</ref>。ジョフロワ1世の妃はまだ幼い息子と共にギリシャに辿り着き、現在の[[スパルティ|スパルタ]]地方・[[カラマタ]]地方にある城砦に居を構えた<ref>Setton 1976, p. 49-50.</ref>。


そして1217年、若きジョフロワ2世はラテン皇帝[[ピエール2世・ド・クルトネー|ピエール2世]]の娘アニェスと結婚した<ref name='Longnon 242'/><ref name='Fine 614'/>。
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ジョフロワ2世はおよそ35歳の頃にアカイア公爵位を父から継承した<ref name='Longnon 242'/>。彼は高貴な生活を送ったとされ、金拍車を付けた80人の騎士に常に護衛されていたという<ref name='Longnon 242'/>。
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また、公国の繁栄により手にした富をもとに、ジョフロワは彼の主君であるラテン皇帝[[ジャン・ド・ブリエンヌ|ジャン1世]]に対する経済的支援を施した<ref name='Fine 614'/><ref name='Longnon 243'/>。1236年には東ローマ系君主である[[ニケーア帝国|ニケーア皇帝]][[ヨハネス3世ドゥーカス・ヴァタツェス|ヨハネス3世ヴァタツェス]]により包囲されていたコンスタンティノープルを自ら進んで救援した<ref name='Longnon 243'/><ref>Fine 1994, p. 613.</ref>。この時ジョフロワは100人の騎士・300人の弩兵・500人の弓兵を乗せた艦隊を率いてニケーア軍の包囲網に突っ込み、[[ヴェネツィア共和国|ヴェネツィア人]]・[[ピサ共和国|ピサ人]]・[[ジェノヴァ共和国|ジェノヴァ人]]の連合を組んでニケーア軍を駆逐することに成功し、結果コンスタンティノープルを解放することに成功した<ref name='Longnon 243'/>。また同年、ケファロニア伯マイオ1世がジョフロワ2世の宗主権を認め彼の支配下に入った<ref>Longnon 1969, pp. 243., 846-847.</ref>。1237年7月には、アンドラヴィダの病院を[[チュートン騎士団]]に寄進した記録が残されている{{Citation needed|date=November 2010}}。

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1243年、ジョフロワの義兄弟であるラテン皇帝[[ボードゥアン2世 (ラテン皇帝)|ボードゥアン2世]]が亡くなったとする誤った噂が流れたことを受けて、ジョフロワ2世はボードゥアンの息子[[フィリップ1世・ド・クルトネー|フィリップ]]の補佐を行うべくコンスタンティノープルへと向かった<ref name='Fine 614'/><ref name='Longnon 243'/>。

そして1246年、ジョフロワ2世は亡くなった。遺体はアカイア公国の首都{{仮リンク|アンドラヴィダ|en|Andravida}}の教会に埋葬された。

==脚注==
{{reflist|30em}}

==関連項目==
*[[アカイア公国]]
*{{仮リンク|モレア年代記|en|Chronicle of Morea}}

==参考文献==
* {{La Morée franque}}
* {{The Late Medieval Balkans}}
* {{Setton-A History of the Crusades | volume = 2 | chapter = The Frankish States in Greece, 1204–1311 | pages = 234–275 | last = Longnon | first = Jean | chapter-url=http://digicoll.library.wisc.edu/cgi-bin/History/History-idx?type=article&did=History.CrusTwo.i0021&id=History.CrusTwo }}
* {{The Papacy and the Levant | volume = 1}}

==外部リンク==
*[https://www.jstor.org/stable/2850425 Finley jr, John H.: ''Corinth in the Middle Ages.'' Speculum, Vol. 7, No. 4. 1932, pp. 477-499.]
*[https://www.jstor.org/stable/623369 Tozer, H. F.: ''The Franks in the Peloponnese.'' The Journal of Hellenic Studies, Vol. 4. (1883), pp. 165-236.]

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[[Category:1195年生]]
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ジョフロワ2世
Geoffroi II
アカイア公
在位期間
1229年ごろ-1246年
先代 ジョフロワ1世
次代 ギヨーム2世

出生 1195年ごろ
不明
死亡 1246年5月6日以降
不明
埋葬 アンドラヴィダ
聖ジャムス教会
父親 ジョフロワ1世
母親 エリザベト・ド・シャップ
配偶者 アニェス・ド・クルトネー
子女
なし
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ジョフロワ2世・ド・ヴィルアルドゥアン(フランス語: Geoffroi II de Villehardouin) (1195年ごろ - 1246年5月6日以降)とは、第3代アカイア公 (在位:1229年ごろ〜1246年) である[1]。ジョフロワ2世はアカイア公就任期より影響力のある高評判な人物であったとされ、遥々フランスより彼に士官するためにギリシャまでやってくるフランス人騎士も多くいたという[2]。ジョフロワ2世はラテン皇帝の有力家臣として注目され、結果的に現在のギリシャ地方に点在する十字軍諸国が彼の元に徐々に再集結することとなった[1]。またジョフロワは在位中に危機に陥った帝都コンスタンティノープルを3度に渡り救援するという活躍も見せ[1]、報奨として当時ラテン皇帝であった義弟ボードゥアン2世からエヴィア島の宗主権を与えられた[1][3]。彼は影響力がある評判の良い貴族であったのみならず、公国の一般民衆を慈悲深く公正に統べる人望に厚い貴族でもあった[4]

若年期

[編集]

ジョフロワ2世は先代のアカイア公ジョフロワ1世とその公妃エリザベトとの間に長男として誕生した。ジョフロワ2世の父ジョフロワ1世は1199年に第4回十字軍に参加し、その後ペロポネソス半島の大部分を占領に成功。その後、初代アカイア公ギヨーム1世の死後にアカイア公の座を獲得して第2代アカイア公に就任した[5]

ジョフロワ1世は公爵就任後すぐにシャンパーニュ地方に留まっていた妻をペロポネソス半島に呼び寄せた[6]。ジョフロワ1世の妃はまだ幼い息子と共にギリシャに辿り着き、現在のスパルタ地方・カラマタ地方にある城砦に居を構えた[7]

そして1217年、若きジョフロワ2世はラテン皇帝ピエール2世の娘アニェスと結婚した[1][3]

治世

[編集]

ジョフロワ2世はおよそ35歳の頃にアカイア公爵位を父から継承した[1]。彼は高貴な生活を送ったとされ、金拍車を付けた80人の騎士に常に護衛されていたという[1]

彼の治世初期頃は激動の時代であった。というのも、1224年にギリシャ北部を治めていた十字軍国家「テッサロニキ王国」がエピロス専制侯国によって滅ぼされ、アカイア公国をはじめとするギリシャ地方の十字軍国家とラテン帝国との間に強力な敵国が誕生したからである[2][8]。しかし1230年4月、エピロス皇帝テオドロス1世クロコトニツァの戦いブルガリア皇帝イヴァン・アセン2世の軍勢に敗れたことで、十字軍国家は辛うじて危機を免れた[2][9]

1204年のギリシャ地域の勢力図
・濃緑色:テッサロニキ王国
・右側の薄緑色:ラテン帝国
・下側の薄緑色:アカイア公国
テッサロニキ王国は両地域間に位置していた。

ジョフロワ2世は地元ギリシャ人たちと友好的な関係を構築する政策を採り、公国は平和を謳歌し大いに繁栄した[4][10]。また彼は配下の男爵のもとに頻繁に家臣を派遣し、男爵たちの生活や彼らの家臣たちに対する処遇などといった情報を探ることで彼らをよく統治した[4]

また、公国の繁栄により手にした富をもとに、ジョフロワは彼の主君であるラテン皇帝ジャン1世に対する経済的支援を施した[3][4]。1236年には東ローマ系君主であるニケーア皇帝ヨハネス3世ヴァタツェスにより包囲されていたコンスタンティノープルを自ら進んで救援した[4][11]。この時ジョフロワは100人の騎士・300人の弩兵・500人の弓兵を乗せた艦隊を率いてニケーア軍の包囲網に突っ込み、ヴェネツィア人ピサ人ジェノヴァ人の連合を組んでニケーア軍を駆逐することに成功し、結果コンスタンティノープルを解放することに成功した[4]。また同年、ケファロニア伯マイオ1世がジョフロワ2世の宗主権を認め彼の支配下に入った[12]。1237年7月には、アンドラヴィダの病院をチュートン騎士団に寄進した記録が残されている[要出典]

1238年、ジョフロワ2世はヴェネツィア共和国とともに軍船を率いて、再びニケーア帝国に包囲されていたコンスタンティノープルの救援に向かった[4]。翌年には、ジョフロワ2世は彼の上級君主であるテオバルド詩人王に従って聖地遠征英語版への参加を熱望したとされるが、ローマ教皇グレゴリウス9世からコンスタンティノープルの死守を目標としてギリシャ人に対する遠征を行うようにとの命を受けて、聖地遠征への参加を取りやめたという[4]。1240年2月9日、教皇はジョフロワに対して、「聖地に向かうというジョフロワの誓いは、窮地の立場に置かれたラテン帝国に対する継続的な支援という彼の功績によって、すべての利益とともに果たされたものとみなす」という決議を発布した[13]

1243年、ジョフロワの義兄弟であるラテン皇帝ボードゥアン2世が亡くなったとする誤った噂が流れたことを受けて、ジョフロワ2世はボードゥアンの息子フィリップの補佐を行うべくコンスタンティノープルへと向かった[3][4]

そして1246年、ジョフロワ2世は亡くなった。遺体はアカイア公国の首都アンドラヴィダ英語版の教会に埋葬された。

脚注

[編集]
  1. ^ a b c d e f g Longnon 1969, p. 242.
  2. ^ a b c Setton 1976, p. 56.
  3. ^ a b c d Fine 1994, p. 614.
  4. ^ a b c d e f g h i Longnon 1969, p. 243.
  5. ^ Fine 1994, pp. 69-72.
  6. ^ Setton 1976, p. 49.
  7. ^ Setton 1976, p. 49-50.
  8. ^ Fine 1994, p. 119.
  9. ^ Fine 1994, pp. 120., 614., 616.
  10. ^ Fine 1994, p. 122.
  11. ^ Fine 1994, p. 613.
  12. ^ Longnon 1969, pp. 243., 846-847.
  13. ^ Setton 1976, p. 63.

関連項目

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参考文献

[編集]
  • Template:La Morée franque
  • Template:The Late Medieval Balkans
  • Template:Setton-A History of the Crusades
  • Setton, Kenneth M. (1976). The Papacy and the Levant (1204–1571), Volume I: The Thirteenth and Fourteenth Centuries. Philadelphia: The American Philosophical Society. ISBN 0-87169-114-0. https://books.google.co.jp/books?id=i4OPORrVeXQC 

外部リンク

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