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== 来歴 ==
== 来歴 ==
4歳の時に生家が破産し、さらに父親が他界。貧困の中、母親を手伝いながら静岡県御殿場神山の高等小学校を卒業。14歳の時奉公のため上京し、湯島付近の家で雑巾がけ、子守、主人の手伝いなどをしながら[[昌平高等学校 (1948-1969)|開成夜学校]]で学び、16歳で高等学校高等科入学資格試験(高検)に合格。翌年[[第一高等学校 (旧制)|第一高等学校]]文科甲類に入学した<ref name=":0>{{Cite web |title=武藤富雄名誉院長の教育方針と実践 |url=https://zeus.keimatsu.com/index.php/s/m6ZDXK5kHdXwaS6 |website=zeus.keimatsu.com |accessdate=2022-05-08}}</ref>''<small><sup>(P40~43)</sup></small>''<ref name=":0" />''<small><sup>(P40~45)</sup></small>''。
4歳の時に生家が破産し、さらに父親が他界。貧困の中、母親を手伝いながら静岡県御殿場神山の高等小学校を卒業。14歳の時奉公のため上京し、湯島付近の家で雑巾がけ、子守、主人の手伝いなどをしながら[[昌平高等学校 (1948-1969)|開成夜学校]]で学び、16歳で高等学校高等科入学資格試験(高検)に合格。翌年[[第一高等学校 (旧制)|第一高等学校]]文科甲類に入学した<ref name=":0">{{Cite web |title=武藤富雄名誉院長の教育方針と実践 |url=https://zeus.keimatsu.com/index.php/s/m6ZDXK5kHdXwaS6 |website=zeus.keimatsu.com |accessdate=2022-05-08}}</ref>''<small><sup>(P40~43)</sup></small>''<ref name=":0" />''<small><sup>(P40~45)</sup></small>''。


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平行四辺形の対角線とは世間や郷里の人々が期待し喜ぶ俗界の辺と牧師などの聖的な精神界の辺との対角線である裁判官を選んだことを指す。「一面において勇気と決断力のなかったことを示し、未だ信仰への志を起こしたにすぎず、使命感に徹していなかったことを示すものです。」と述べている。
平行四辺形の対角線とは世間や郷里の人々が期待し喜ぶ俗界の辺と牧師などの聖的な精神界の辺との対角線である裁判官を選んだことを指す。「一面において勇気と決断力のなかったことを示し、未だ信仰への志を起こしたにすぎず、使命感に徹していなかったことを示すものです。」と述べている。


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2022年5月29日 (日) 00:01時点における版

武藤 富男(むとう とみお、1904年明治37年)2月20日 - 1998年平成10年)2月7日[1])は、昭和戦前期日本裁判官および満州国官僚、昭和戦後期日本の実業家教育者キリスト教牧師伝道師)。明治学院院長。明治学院東村山高等学校の創設者[2](P1~5)で、同高校校長。恵泉女学園理事長、東京神学大学理事長なども歴任した[1]

来歴

4歳の時に生家が破産し、さらに父親が他界。貧困の中、母親を手伝いながら静岡県御殿場神山の高等小学校を卒業。14歳の時奉公のため上京し、湯島付近の家で雑巾がけ、子守、主人の手伝いなどをしながら開成夜学校で学び、16歳で高等学校高等科入学資格試験(高検)に合格。翌年第一高等学校文科甲類に入学した[2](P40~43)[2](P40~45)

東京帝国大学法学部卒業[1]後、裁判官となり東京地方裁判所判事を務めた。1934年(昭和9年)に渡満し、以降、満州国司法部刑事科長、国務院総務庁弘報処長、満州国協和会宣伝科長を歴任[1]した(この時期の武藤の行動については議論及び批判がある。後述)。1943年(昭和18年)に帰国し、情報局第一部長に就任[1]

終戦後、官を辞し、日米会話学院を創立。1946年(昭和21年)[1]賀川豊彦が創刊呼びかけ人の「キリスト新聞」で専務兼主筆となり、のちに社長に就任[1]。この間独学で神学を学び、1947年(昭和22年)に日本基督教団補教師となる。

1962年(昭和37年)[1]、第7代明治学院院長就任。翌年に明治学院東村山高等学校を設立、同校長に就任[2](P1~5)

1977年(昭和52年)に「日本キリスト党」を結成して第11回参議院議員通常選挙全国区に立候補し、落選している。1989年 (昭和64年)、日本キリスト教文化協会よりキリスト教功労者の表彰を受ける[1]

1998年(平成10年)死去。

人物

奉公時代に辛酸をなめ涙しながら勉学に励む。念願の高校に合格し、世間的には前途洋々の一高に入ったが、「それまでの自己中心的な考えは間もなく破綻し、内面的には不安と焦燥の生活であった。」[2](P44)

こうした中青山学院行われたで英語スピーチコンテストに参加する。キリスト教の主催者を困らせてやろうと「暴虐にして気まぐれなる神」をテーマにスピーチ。内容は「人類をつくり、これを支配し、災害を下してこれを苦しめ、階級をつくって闘争せしめ、病気をもたらして人を死なしめ、正しき者を苦難にあわせ、赤子を母親の手から奪い、貧困のうちに人を伸吟せしめ、自らは天の玉座にあって、人間の災禍を見て楽しむ暴虐にして気紛れなる神よ、汝は人生という舞台において我らに悲劇喜劇を演じせしめる。我はここに来たって汝に挑戦する。然るに汝は我を見下して言う。汝のそこに演じるは、そもそも悲劇なりや喜劇なりやと、ああ、全能にして暴虐なる神よ、結局、人は汝の支配下にあって、如何ともなしがたく、泣きつ産まれ、つぶやきつつ生き、呻きつつ死に行くものなのだ。」というもの。実は演説会場荒らしが動機であった青山学院での英語スピーチコンテストが、思わぬ方向への転機になる。生きていく意味を見失っていた時期に、審査員であったアメリカ人との交流がはじまる[2](P45)その人物との人格的交流がキリスト教との出会いとなり、その後受洗となる。運命的な出会いの人物とは、医者であり宣教師でもあったウエンライト博士である。

職業選択に迷い、平行四辺形の対角線を選ぶ。郷里で反体制無産者政党候補の応援で動いたことがある。刑事の尾行をうけたこともある。帰宅した時母親が火鉢にあたりながら火箸を動かし「雉も鳴かずば撃たれまい」とつぶやいたのを聞く。

平行四辺形の対角線とは世間や郷里の人々が期待し喜ぶ俗界の辺と牧師などの聖的な精神界の辺との対角線である裁判官を選んだことを指す。「一面において勇気と決断力のなかったことを示し、未だ信仰への志を起こしたにすぎず、使命感に徹していなかったことを示すものです。」と述べている。

中村妙子[3]によると一高の学生時代より大森教会会員で、法務畑に入っても在京中は礼拝を欠かさず出席していた。教会の親睦会には玄人はだしの落語と漫談で周囲を笑わせていた。非常にまめで料理は勿論畑仕事も出来る。戦後公職追放の時期に農業と家庭教師で家族と焼け出された親族を含め11名を養ってる。満州国では甘粕正彦とも親交が深く、甘粕を満映の理事長に推薦した。満州国のメディア統括のトップに立っていたとき朝日新聞が満州の市場に参入しようとすると協力する姿勢を見せた。関東軍は古野伊之助正力松太郎との関係を重視する東条英機の意向に反する(「関東軍の司令の首が飛ぶ」)から止めた方がよいと注意したが、「帰国後に出世するためには新聞にも恩を売っておこう」とは本人の弁。国家と縁を切ってからは「全身全霊、世界の大きな流れとの関係で生き、大正時代につくられた理想主義を貫こうとした」(武藤一羊)。

1947年東京市ヶ谷戦犯法廷に証人として出廷し、日本人戦犯容疑者の弁護をおこなったとき、武藤は「満州国政府は宗教を圧迫しなかった、我々はヒューマニズム(人道)に基いて満州建国をやった、という二つのことを立証する意図」を方針に、被告たちを弁護した。[3]

東京裁判(極東国際軍事裁判)において、天皇をかばって絞首刑になった東條英機を評して、「忠義とか臣節とかいうものを超えて、人間的な美しさを示して居ります」と言った。

批判

在日韓国人で経営学者の裴富吉(大阪産業大学教授など)は、1951年刊の武藤富男の著書『再軍備を憤る-追放者の告白-』(文林堂)を、「戦時体制期に満洲国で武藤富男が活躍したその姿を,敗戦後に武藤自身が狡猾にもすり替え,もみ消そうとした言論」と批評し、昭和天皇崩御のときに天皇制を考えるシンポジウムを行った明治学院大学に国粋主義者が抗議活動を行ったことを、「そうした現代的な迫害行為をうけた明治学院は,過去〔戦後〕に理事長職をはたしてきた人物,しかも,同学院の発展のために顕著な寄与をなした武藤富男が,実は,このたび明治学院に迫害をくわえた勢力・組織・集団・人物たちと,時空を超えてはいるものの,そして攻守ところを替えてはいるものの,「同じ地平に立っていた」という歴史的な事実に接し,恐らく「いうべきことばもなかったもの」と指摘し、「戦争の時代,満洲国政府の高官の地位に就き,植民地的カイライ(傀儡)国家「満洲国」のお先棒担ぎをしてきた人物でもあったという事実に,いままで明治学院の関係者は気づいていなかった。」と批判している[3]

明治学院大学自体は、1989年に昭和天皇崩御のおりに、天皇制を考えるシンポジウムを行い、1995年に戦争責任の告白と謝罪を行っている。

武藤自身による自己批判

一方武藤富男は満州時代を振り返り、次のように自分には増長慢があったと書いている。「三十五歳で、新聞、放送、映画の指導権を握り、周囲からちやほやされ、新官僚群の一人として、日本政府や日本ジャーナリズムからも嘱目されるようになった時、私の心に、傲慢が招じた。いわゆる増長慢である。そして少年時代、郷里神山の人々の人生観ー人生の目的は権力を得るか金をうるか、いずれかであるという人生観は、聖者になり、キリストの如くなるという私の志望を心の隅におしやってしまった。」

また教会新設資金集めに渡米し講演した際「私は満州国のゲッペルスであった」と述べるなど満州時代の自己を客観視している。

明治学院東村山高校創立50周年会で一期生生徒会長が当時礼拝で武藤校長が「愛国心は一国だけからとらえるのでなく世界から見ても通用するものでなければならない。」と言ったと話している。

親族

息子・武藤一羊は社会運動家。ベトナムに平和を!市民連合を経て、「ピープルズ・プラン研究所」を創設。

著書

  • 戯曲 発明と自由恋愛(満日文化協会 1937年)
  • 満洲讃歌(吐風書房 1941年)
  • 小説 求道者 ウエンライト先生のことども(キリスト新聞社 1951年)
  • 再軍備を憤る 追放者の告白(文林堂 1951年)
  • 満洲国の断面 甘粕正彦の生涯(近代社 1956年)
    • 再刊(西北商事 1967年)
  • 私と聖書 1 - 3(キリスト新聞社 1958年)
  • 百三人の賀川伝 上・下(キリスト新聞社 1960年)
  • 使徒パウロと賀川豊彦(キリスト新聞社 1961年)
  • 愛 コリント前書十三章の生活体験による釈義(キリスト新聞社 1961年)
  • キリスト教入門(講談社 1965年)
    • 再刊(善本社 1974年)
  • 賀川豊彦の六面 賀川全集24巻の解説を完了して(キリスト新聞社 1965年)
  • 救いの歴史 マタイ伝の系図(キリスト新聞社 1966年)
  • 賀川豊彦全集ダイジェスト(キリスト新聞社 1966年)
  • 神の国を体験する(キリスト新聞社 1966年)
  • 恩師二人 ウェンライトと佐波亘(キリスト新聞社 1967年)
  • 信仰生活の利益(キリスト新聞社 1967年)
  • 聖書の逆説と私たちの生活(キリスト新聞社 1968年)
  • 教育の改革 実務者の提言(国民協会 1968年)
  • 人間像修復(時事通信社 1970年)
  • 聖霊の宗教と聖霊による生活(キリスト新聞社 1970年)
  • 洗足の心 ヨハネ福音書十三章の生活経験による解説(キリスト新聞社 1973年)
  • 社説三十年 わが戦後史 第1部 昭和21-30年(キリスト新聞社 1975年)
    • 再刊(キリスト新聞社 2016年)
  • 社説三十年 わが戦後史 第2部 昭和31-36年(キリスト新聞社 1976年)
  • 日本キリスト党(仮称)結成の提唱(キリスト新聞社 1976年)
  • 評伝賀川豊彦(キリスト新聞社 1981年)
  • 私と満州国(文藝春秋 1988年)

訳書

  • 祈りは聴かれる 1(キリスト新聞社 1957年)
  • 祈りは聴かれる 2(キリスト新聞社 1958年)
  • 両手の勇気(アラン A・ハンター キリスト新聞社 1960年) - 佐藤茂久治と共訳

共著

  • 強制執行競売法判例総覧 上・下(帝国判例法規出版社 1933年)
  • 聖書談義(大賀捨二 日米書院 1947年)
  • 口語訳新約聖書渡瀬主一郎 キリスト新聞社 1952年)
  • えほんせいしょ 1・2(藤山一雄 キリスト新聞社 1953年)

関連図書

  • 穂積与四郎『評伝 武藤富男』コイノニヤ社 1977年
  • 貴志俊彦『満洲国のビジュアル・メディア――ポスター・絵はがき・切手吉川弘文館 2010年

脚注

  1. ^ a b c d e f g h i 武藤 富男』 - コトバンク
  2. ^ a b c d e f 武藤富雄名誉院長の教育方針と実践”. zeus.keimatsu.com. 2022年5月8日閲覧。
  3. ^ a b c 武藤富男の告白”. centuryago.sakura.ne.jp. 2019年12月15日閲覧。

関連項目

外部リンク