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「フリードリヒ・フランツ・ツー・ホーエンローエ=ヴァルデンブルク=シリングスフュルスト」の版間の差分

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ホーエンローエ=ヴァルデンブルク=シリングスフュルスト侯{{仮リンク|フリードリヒ・カール1世・ツー・ホーエンローエ=ヴァルデンブルク=シリングスフュルスト|label=フリードリヒ・カール1世|de|Friedrich zu Hohenlohe-Waldenburg-Schillingsfürst}}の四男クロートヴィヒ侯子(1848年 - 1929年)とその最初の妻の伯爵令嬢フランツィスカ・エステルハージ・デ・ガランタ(1856年 - 1884年)の間の第2子、次男として生まれた<ref>シャート、P.21</ref>。母が早くに死ぬと、オーストリア皇后[[エリーザベト (オーストリア皇后)|エリーザベト]]の女官だった伯爵令嬢{{仮リンク|マイラート・シャロルタ|de|Charlotte von Majláth}}が父の後妻となった。また、オーストリアの帝位継承者[[フランツ・フェルディナント・フォン・エスターライヒ=エステ|フランツ・フェルディナント]]大公の副官{{仮リンク|フランツ・フォン・ハラハ|de|Franz von Harrach}}伯爵は義弟にあたる。こうした縁故から、[[オーストリア=ハンガリー帝国|オーストリア=ハンガリー(二重帝国)]]の帝室とつながりを持っていた。
ホーエンローエ=ヴァルデンブルク=シリングスフュルスト侯{{仮リンク|フリードリヒ・カール1世・ツー・ホーエンローエ=ヴァルデンブルク=シリングスフュルスト|label=フリードリヒ・カール1世|de|Friedrich zu Hohenlohe-Waldenburg-Schillingsfürst}}の四男クロートヴィヒ侯子(1848年 - 1929年)とその最初の妻の伯爵令嬢フランツィスカ・エステルハージ・デ・ガランタ(1856年 - 1884年)の間の第2子、次男として生まれた<ref>シャート、P.21</ref>。母が早くに死ぬと、オーストリア皇后[[エリーザベト (オーストリア皇后)|エリーザベト]]の女官だった伯爵令嬢{{仮リンク|マイラート・シャロルタ|de|Charlotte von Majláth}}が父の後妻となった。また、オーストリアの帝位継承者[[フランツ・フェルディナント・フォン・エスターライヒ=エステ|フランツ・フェルディナント]]大公の副官{{仮リンク|フランツ・フォン・ハラハ|de|Franz von Harrach}}伯爵は義弟にあたる。こうした縁故から、[[オーストリア=ハンガリー帝国|オーストリア=ハンガリー(二重帝国)]]の帝室とつながりを持っていた。


1914年5月12日に[[ロンドン]]の[[ウェストミンスター大聖堂]]において、裕福な弁護士の娘シュテファニー・リヒターと結婚した<ref>シャート、P.22</ref>。彼女は[[ユダヤ人|ユダヤ]]系の平民女性であり、[[ホーエンローエ家]]の家憲に照らしてこの結婚は[[貴賤結婚]]とされた。シュテファニーはオーストリア皇帝[[フランツ・ヨーゼフ1世]]の娘婿[[フランツ・ザルヴァトール・フォン・エスターライヒ=トスカーナ|フランツ・サルヴァトール]]大公の愛人で、当時大公の子供を妊娠したばかりだった<ref>シャート、P.22</ref>。帝室の醜聞を隠すため、皇帝がシュテファニーのお腹の子の(戸籍上の)父親として、名門出身のフリードリヒ・フランツを選んだと言われる。一方、ギャンブルで多額の借金を負っていたフリードリヒ・フランツの側も、負債を帳消しにしてくれるだけの資産を持つシュテファニーとの結婚は望ましいものだった<ref>シャート、P.22</ref>。シュテファニーは同年12月に息子を出産し、この子はフリードリヒ・フランツの長男として届出された。
1914年5月12日に[[ロンドン]]の[[ウェストミンスター大聖堂]]において、裕福な弁護士の娘シュテファニー・リヒターと結婚した<ref>シャート、P.22</ref>。彼女は[[ユダヤ人|ユダヤ]]系の平民女性であり、[[ホーエンローエ家]]の家憲に照らしてこの結婚は[[貴賤結婚]]とされた。シュテファニーはオーストリア皇帝[[フランツ・ヨーゼフ1世 (オーストリア皇帝)|フランツ・ヨーゼフ1世]]の娘婿[[フランツ・ザルヴァトール・フォン・エスターライヒ=トスカーナ|フランツ・サルヴァトール]]大公の愛人で、当時大公の子供を妊娠したばかりだった<ref>シャート、P.22</ref>。帝室の醜聞を隠すため、皇帝がシュテファニーのお腹の子の(戸籍上の)父親として、名門出身のフリードリヒ・フランツを選んだと言われる。一方、ギャンブルで多額の借金を負っていたフリードリヒ・フランツの側も、負債を帳消しにしてくれるだけの資産を持つシュテファニーとの結婚は望ましいものだった<ref>シャート、P.22</ref>。シュテファニーは同年12月に息子を出産し、この子はフリードリヒ・フランツの長男として届出された。


オーストリア=ハンガリーの在ロシア大使館付きの陸軍武官として仕えた<ref>シャート、P.21</ref>。[[第一次世界大戦]]中は、[[スイス]]におけるドイツ人スパイ機関の責任者として、[[中央同盟国]]側のプロパガンダ戦略に深く関わっていたとされている。第一次大戦直後に二重帝国が崩壊すると、母方の血縁から妻子とともにハンガリー国籍を取得した<ref>シャート、P.23</ref>。1920年7月にシュテファニーと離婚し、同年12月に伯爵令嬢エマヌエラ・バッチャーニ(1883年 - 1964年)と再婚する<ref>シャート、P.29</ref>。[[第二次世界大戦]]直前、再婚相手と一緒にブラジルに移住し、同国で余生を送った。
オーストリア=ハンガリーの在ロシア大使館付きの陸軍武官として仕えた<ref>シャート、P.21</ref>。[[第一次世界大戦]]中は、[[スイス]]におけるドイツ人スパイ機関の責任者として、[[中央同盟国]]側のプロパガンダ戦略に深く関わっていたとされている。第一次大戦直後に二重帝国が崩壊すると、母方の血縁から妻子とともにハンガリー国籍を取得した<ref>シャート、P.23</ref>。1920年7月にシュテファニーと離婚し、同年12月に伯爵令嬢エマヌエラ・バッチャーニ(1883年 - 1964年)と再婚する<ref>シャート、P.29</ref>。[[第二次世界大戦]]直前、再婚相手と一緒にブラジルに移住し、同国で余生を送った。

2022年5月28日 (土) 14:04時点における版

フリードリヒ・フランツ・ツー・ホーエンローエ=ヴァルデンブルク=シリングスフュルスト
Friedrich Franz zu Hohenlohe-Waldenburg-Schillingsfürst

出生 (1879-02-15) 1879年2月15日
オーストリア=ハンガリー帝国の旗 オーストリア=ハンガリー帝国ハンガリー王国の旗 ハンガリー王国ブダペスト
死去 (1958-05-24) 1958年5月24日(79歳没)
ブラジルの旗 ブラジルクリチバ
配偶者 シュテファニー・リヒター
  エマヌエラ・バッチャーニ
家名 ホーエンローエ=ヴァルデンブルク=シリングスフュルスト家
父親 クロートヴィヒ・ツー・ホーエンローエ=ヴァルデンブルク=シリングスフュルスト
母親 フランツィスカ・エステルハージ・デ・ガランタ
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フリードリヒ・フランツ・アウグスティン・マリア・ツー・ホーエンローエ=ヴァルデンブルク=シリングスフュルストFriedrich Franz Augustin Maria Prinz zu Hohenlohe-Waldenburg-Schillingsfürst, 1879年2月15日 - 1958年5月24日)は、ドイツの旧諸侯ホーエンローエ家の侯子、軍人。シュテファニー・ツー・ホーエンローエの夫だった人物として知られる。

生涯

ホーエンローエ=ヴァルデンブルク=シリングスフュルスト侯フリードリヒ・カール1世ドイツ語版の四男クロートヴィヒ侯子(1848年 - 1929年)とその最初の妻の伯爵令嬢フランツィスカ・エステルハージ・デ・ガランタ(1856年 - 1884年)の間の第2子、次男として生まれた[1]。母が早くに死ぬと、オーストリア皇后エリーザベトの女官だった伯爵令嬢マイラート・シャロルタドイツ語版が父の後妻となった。また、オーストリアの帝位継承者フランツ・フェルディナント大公の副官フランツ・フォン・ハラハドイツ語版伯爵は義弟にあたる。こうした縁故から、オーストリア=ハンガリー(二重帝国)の帝室とつながりを持っていた。

1914年5月12日にロンドンウェストミンスター大聖堂において、裕福な弁護士の娘シュテファニー・リヒターと結婚した[2]。彼女はユダヤ系の平民女性であり、ホーエンローエ家の家憲に照らしてこの結婚は貴賤結婚とされた。シュテファニーはオーストリア皇帝フランツ・ヨーゼフ1世の娘婿フランツ・サルヴァトール大公の愛人で、当時大公の子供を妊娠したばかりだった[3]。帝室の醜聞を隠すため、皇帝がシュテファニーのお腹の子の(戸籍上の)父親として、名門出身のフリードリヒ・フランツを選んだと言われる。一方、ギャンブルで多額の借金を負っていたフリードリヒ・フランツの側も、負債を帳消しにしてくれるだけの資産を持つシュテファニーとの結婚は望ましいものだった[4]。シュテファニーは同年12月に息子を出産し、この子はフリードリヒ・フランツの長男として届出された。

オーストリア=ハンガリーの在ロシア大使館付きの陸軍武官として仕えた[5]第一次世界大戦中は、スイスにおけるドイツ人スパイ機関の責任者として、中央同盟国側のプロパガンダ戦略に深く関わっていたとされている。第一次大戦直後に二重帝国が崩壊すると、母方の血縁から妻子とともにハンガリー国籍を取得した[6]。1920年7月にシュテファニーと離婚し、同年12月に伯爵令嬢エマヌエラ・バッチャーニ(1883年 - 1964年)と再婚する[7]第二次世界大戦直前、再婚相手と一緒にブラジルに移住し、同国で余生を送った。

引用・脚注

  1. ^ シャート、P.21
  2. ^ シャート、P.22
  3. ^ シャート、P.22
  4. ^ シャート、P.22
  5. ^ シャート、P.21
  6. ^ シャート、P.23
  7. ^ シャート、P.29

参考文献

  • Jim Wilson: Nazi Princess. Hitler, Lord Rothermere and Princess Stephanie von Hohenlohe, The History Press, 2011, ISBN 0752461141
  • Martha Schad: Hitlers Spionin. Das Leben der Stephanie von Hohenlohe. Heyne, München 2002, ISBN 3-453-21165-0
    • マルタ・シャート(著)・菅谷亜紀(訳)『ヒトラーの女スパイ』小学館、2006年