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「メトコヴィチ」の版間の差分

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'''メトコヴィチ'''([[クロアチア語]]:{{lang|hr|Metković}})は、[[クロアチア]]南部、[[ドゥブロヴニク=ネレトヴァ郡]]の町(grad)、およびそれを中心とした基礎自治体である。町は[[ネレトヴァ川]]の岸に広がり、クロアチアの南端に近く、また[[ボスニア・ヘルツェゴビナ]]との国境にも接している。
'''メトコヴィチ'''([[クロアチア語]]:{{lang|hr|Metković}})は、[[クロアチア]]南部、[[ドゥブロヴニク=ネレトヴァ郡]]の町(grad)、およびそれを中心とした基礎自治体である。町は[[ネレトヴァ川]]の岸に広がり、クロアチアの南端に近く、また[[ボスニア・ヘルツェゴビナ]]との国境にも接している。


この町について記録されている最古の文献は[[1422年]]のものであり、小さな農村として記録されている。[[19世紀]]までは小さな農村であったが、その後[[ハプスブルク君主国|オーストリア帝国]]によって開発が進められた。町には郵便局や学校ができ、隣接する[[ボスニア・ヘルツェゴビナ]]([[オスマン帝国]]領)との交易が盛んになり、町は繁栄した。[[1875年]]には皇帝[[フランツ・ヨーゼフ1世]]が町を訪れている。
この町について記録されている最古の文献は[[1422年]]のものであり、小さな農村として記録されている。[[19世紀]]までは小さな農村であったが、その後[[ハプスブルク君主国|オーストリア帝国]]によって開発が進められた。町には郵便局や学校ができ、隣接する[[ボスニア・ヘルツェゴビナ]]([[オスマン帝国]]領)との交易が盛んになり、町は繁栄した。[[1875年]]には皇帝[[フランツ・ヨーゼフ1世 (オーストリア皇帝)|フランツ・ヨーゼフ1世]]が町を訪れている。


町の象徴的建築物のひとつが、聖エリヤ聖堂である。メトコヴィチの近くには[[古代ローマ]]の集落跡[[ナローナ]]([[:en:Narona|Narona]])があり、現在は[[ヴィド]]([[:en:Vid, Croatia|Vid]])と呼ばれる集落となっている。ナローナは、ローマ人が[[イリュリア人]]の部族[[ダオルス]]([[:en:Daors|Daors]])との戦いに勝利した後、交易拠点として築かれ(ダオルス族の首都の遺跡がこの近くの[[ストラツ]] [[:en:Stolac|Stolac]] に残されている)、その後紀元後[[3世紀]]まで発展を続けた。その後は[[4世紀]]の地震などの影響により、急速な衰えを見せる。[[6世紀]]中ごろに[[スラヴ人]]が到来すると町は無人となり、[[ネレトヴァ川]]の土砂の下に埋もれてしまった。これまでの発掘調査は小規模に留まっており、遺構の多くはヴィドの近くから見つかっている。
町の象徴的建築物のひとつが、聖エリヤ聖堂である。メトコヴィチの近くには[[古代ローマ]]の集落跡[[ナローナ]]([[:en:Narona|Narona]])があり、現在は[[ヴィド]]([[:en:Vid, Croatia|Vid]])と呼ばれる集落となっている。ナローナは、ローマ人が[[イリュリア人]]の部族[[ダオルス]]([[:en:Daors|Daors]])との戦いに勝利した後、交易拠点として築かれ(ダオルス族の首都の遺跡がこの近くの[[ストラツ]] [[:en:Stolac|Stolac]] に残されている)、その後紀元後[[3世紀]]まで発展を続けた。その後は[[4世紀]]の地震などの影響により、急速な衰えを見せる。[[6世紀]]中ごろに[[スラヴ人]]が到来すると町は無人となり、[[ネレトヴァ川]]の土砂の下に埋もれてしまった。これまでの発掘調査は小規模に留まっており、遺構の多くはヴィドの近くから見つかっている。

2022年5月28日 (土) 13:51時点における版

メトコヴィチ
Metković
丘の上に広がるメトコヴィチの町
丘の上に広がるメトコヴィチの町
メトコヴィチの市章
市章
位置
ドゥブロヴニク=ネレトヴァ郡におけるメトコヴィチ市の場所の位置図
ドゥブロヴニク=ネレトヴァ郡におけるメトコヴィチ市の場所
座標 : 北緯43度03分 東経17度39分 / 北緯43.050度 東経17.650度 / 43.050; 17.650
行政
クロアチアの旗 クロアチア
  ドゥブロヴニク=ネレトヴァ郡
 市 メトコヴィチ
市長 Stipe Gabrić(HSS
地理
面積  
  市域 28 km2
人口
人口 (2001年現在)
  市域 15.384人
  市街地 13,873人
その他
等時帯 中央ヨーロッパ時間 (UTC+1)
夏時間 中央ヨーロッパ夏時間 (UTC+2)
郵便番号 20340
市外局番 020
ナンバープレート DU
公式ウェブサイト : metkovic.hr
メトコヴィチの位置(クロアチア内)
メトコヴィチ
メトコヴィチ
メトコヴィチ (クロアチア)

メトコヴィチクロアチア語:Metković)は、クロアチア南部、ドゥブロヴニク=ネレトヴァ郡の町(grad)、およびそれを中心とした基礎自治体である。町はネレトヴァ川の岸に広がり、クロアチアの南端に近く、またボスニア・ヘルツェゴビナとの国境にも接している。

この町について記録されている最古の文献は1422年のものであり、小さな農村として記録されている。19世紀までは小さな農村であったが、その後オーストリア帝国によって開発が進められた。町には郵便局や学校ができ、隣接するボスニア・ヘルツェゴビナオスマン帝国領)との交易が盛んになり、町は繁栄した。1875年には皇帝フランツ・ヨーゼフ1世が町を訪れている。

町の象徴的建築物のひとつが、聖エリヤ聖堂である。メトコヴィチの近くには古代ローマの集落跡ナローナNarona)があり、現在はヴィドVid)と呼ばれる集落となっている。ナローナは、ローマ人がイリュリア人の部族ダオルスDaors)との戦いに勝利した後、交易拠点として築かれ(ダオルス族の首都の遺跡がこの近くのストラツ Stolac に残されている)、その後紀元後3世紀まで発展を続けた。その後は4世紀の地震などの影響により、急速な衰えを見せる。6世紀中ごろにスラヴ人が到来すると町は無人となり、ネレトヴァ川の土砂の下に埋もれてしまった。これまでの発掘調査は小規模に留まっており、遺構の多くはヴィドの近くから見つかっている。

著名出身者

外部リンク

座標: 北緯43度03分 東経17度39分 / 北緯43.050度 東経17.650度 / 43.050; 17.650