コンテンツにスキップ

英文维基 | 中文维基 | 日文维基 | 草榴社区

「フランツ・カール・フォン・エスターライヒ」の版間の差分

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
削除された内容 追加された内容
Cewbot (会話 | 投稿記録)
Cewbot (会話 | 投稿記録)
m Bot作業依頼: 神聖ローマ皇帝記事等の改名に伴うリンク修正依頼 (フランツ・ヨーゼフ1世 (オーストリア皇帝)) - log
18行目: 18行目:
| 埋葬地 = {{AUT1867}}、[[ウィーン]]、[[カプツィーナー納骨堂]]
| 埋葬地 = {{AUT1867}}、[[ウィーン]]、[[カプツィーナー納骨堂]]
| 配偶者1 = [[ゾフィー (オーストリア大公妃)|ゾフィー・フォン・バイエルン]]
| 配偶者1 = [[ゾフィー (オーストリア大公妃)|ゾフィー・フォン・バイエルン]]
| 子女 = [[フランツ・ヨーゼフ1世]]<br />[[マクシミリアン (メキシコ皇帝)|マクシミリアン]]<br />[[カール・ルートヴィヒ・フォン・エスターライヒ|カール・ルートヴィヒ]]<br />マリア・アンナ<br />[[ルートヴィヒ・ヴィクトル・フォン・エスターライヒ|ルートヴィヒ・ヴィクトル]]
| 子女 = [[フランツ・ヨーゼフ1世 (オーストリア皇帝)|フランツ・ヨーゼフ1世]]<br />[[マクシミリアン (メキシコ皇帝)|マクシミリアン]]<br />[[カール・ルートヴィヒ・フォン・エスターライヒ|カール・ルートヴィヒ]]<br />マリア・アンナ<br />[[ルートヴィヒ・ヴィクトル・フォン・エスターライヒ|ルートヴィヒ・ヴィクトル]]
| 家名 = [[ハプスブルク=ロートリンゲン家]]
| 家名 = [[ハプスブルク=ロートリンゲン家]]
| 父親 = [[フランツ2世 (神聖ローマ皇帝)|フランツ2世]]
| 父親 = [[フランツ2世 (神聖ローマ皇帝)|フランツ2世]]
26行目: 26行目:
| サイン =
| サイン =
}}
}}
'''フランツ・カール'''・フォン・エスターライヒ(<span lang="de" xml:lang="de">'''Franz Karl''' von Österreich</span>, [[1802年]][[12月7日]] - [[1878年]][[3月8日]])は、[[オーストリア帝国]]の皇族。[[オーストリア大公]]。[[神聖ローマ皇帝]][[フランツ2世 (神聖ローマ皇帝)|フランツ2世]]([[オーストリア皇帝]]フランツ1世)の三男で、全名は'''フランツ・カール・ヨーゼフ'''(<span lang="de" xml:lang="de">'''''Franz Karl'' Joseph'''</span>)。息子に[[オーストリア皇帝]][[フランツ・ヨーゼフ1世]]や[[メキシコ皇帝]][[マクシミリアン (メキシコ皇帝)|マクシミリアン]]がいる。
'''フランツ・カール'''・フォン・エスターライヒ(<span lang="de" xml:lang="de">'''Franz Karl''' von Österreich</span>, [[1802年]][[12月7日]] - [[1878年]][[3月8日]])は、[[オーストリア帝国]]の皇族。[[オーストリア大公]]。[[神聖ローマ皇帝]][[フランツ2世 (神聖ローマ皇帝)|フランツ2世]]([[オーストリア皇帝]]フランツ1世)の三男で、全名は'''フランツ・カール・ヨーゼフ'''(<span lang="de" xml:lang="de">'''''Franz Karl'' Joseph'''</span>)。息子に[[オーストリア皇帝]][[フランツ・ヨーゼフ1世 (オーストリア皇帝)|フランツ・ヨーゼフ1世]]や[[メキシコ皇帝]][[マクシミリアン (メキシコ皇帝)|マクシミリアン]]がいる。


== 生涯 ==
== 生涯 ==
[[1802年]][[12月7日]]、フランツ・カールはフランツ2世とその2人目の妃であった[[マリア・テレジア・フォン・ネアペル=ジツィーリエン|マリア・テレジア]]の間に第9子として[[ウィーン]]で生まれた。
[[1802年]][[12月7日]]、フランツ・カールはフランツ2世とその2人目の妃であった[[マリア・テレジア・フォン・ネアペル=ジツィーリエン|マリア・テレジア]]の間に第9子として[[ウィーン]]で生まれた。


政治的野心とは無縁の人物で、長兄[[フェルディナント1世 (オーストリア皇帝)|フェルディナント1世]]が[[1848年]]に退位した際は帝位継承権第1位であったにも関わらず即位を辞退し、長男の[[フランツ・ヨーゼフ1世|フランツ・ヨーゼフ]]に帝位を譲っている。一方で、文化活動には熱心で、[[リンツ]]にある[[オーバーエスターライヒ州立博物館]]の "Francisco-Carolinum" は支援者であった彼を記念して名付けられたものである。
政治的野心とは無縁の人物で、長兄[[フェルディナント1世 (オーストリア皇帝)|フェルディナント1世]]が[[1848年]]に退位した際は帝位継承権第1位であったにも関わらず即位を辞退し、長男の[[フランツ・ヨーゼフ1世 (オーストリア皇帝)|フランツ・ヨーゼフ]]に帝位を譲っている。一方で、文化活動には熱心で、[[リンツ]]にある[[オーバーエスターライヒ州立博物館]]の "Francisco-Carolinum" は支援者であった彼を記念して名付けられたものである。


フランツ・カールは兄や長男には及ばないものの長命で、[[1878年]][[3月8日]]にウィーンにおいて75歳で死去した。遺骨はウィーン・[[カプツィーナー教会]]の[[カプツィーナー納骨堂|皇帝納骨堂]](カイザーグルフト)に収められている。
フランツ・カールは兄や長男には及ばないものの長命で、[[1878年]][[3月8日]]にウィーンにおいて75歳で死去した。遺骨はウィーン・[[カプツィーナー教会]]の[[カプツィーナー納骨堂|皇帝納骨堂]](カイザーグルフト)に収められている。


== 子女 ==
== 子女 ==
[[ファイル:Franz Joseph Austria with Brothers.jpg|thumb|1860年ころのフランツ・カールの息子たちの写真。左から順に[[カール・ルートヴィヒ・フォン・エスターライヒ|カール・ルートヴィヒ]]、[[フランツ・ヨーゼフ1世]]、[[マクシミリアン (メキシコ皇帝)|マクシミリアン]]、[[ルートヴィヒ・ヴィクトル・フォン・エスターライヒ|ルートヴィヒ・ヴィクトル]]]]
[[ファイル:Franz Joseph Austria with Brothers.jpg|thumb|1860年ころのフランツ・カールの息子たちの写真。左から順に[[カール・ルートヴィヒ・フォン・エスターライヒ|カール・ルートヴィヒ]]、[[フランツ・ヨーゼフ1世 (オーストリア皇帝)|フランツ・ヨーゼフ1世]]、[[マクシミリアン (メキシコ皇帝)|マクシミリアン]]、[[ルートヴィヒ・ヴィクトル・フォン・エスターライヒ|ルートヴィヒ・ヴィクトル]]]]
フランツ・カールは[[バイエルン国王|バイエルン王]][[マクシミリアン1世 (バイエルン王)|マクシミリアン1世]]の王女[[ゾフィー (オーストリア大公妃)|ゾフィー]]と[[1824年]][[11月4日]]に[[ウィーン]]で結婚した。彼女との間には以下の四男一女をもうけた。
フランツ・カールは[[バイエルン国王|バイエルン王]][[マクシミリアン1世 (バイエルン王)|マクシミリアン1世]]の王女[[ゾフィー (オーストリア大公妃)|ゾフィー]]と[[1824年]][[11月4日]]に[[ウィーン]]で結婚した。彼女との間には以下の四男一女をもうけた。
* [[フランツ・ヨーゼフ1世|'''フランツ・ヨーゼフ'''・カール]] (1830年 - 1916年) - [[オーストリア皇帝]]フランツ・ヨーゼフ1世
* [[フランツ・ヨーゼフ1世 (オーストリア皇帝)|'''フランツ・ヨーゼフ'''・カール]] (1830年 - 1916年) - [[オーストリア皇帝]]フランツ・ヨーゼフ1世
* [[マクシミリアン (メキシコ皇帝)|フェルディナント・'''マクシミリアン'''・ヨーゼフ]] (1832年 - 1867年) - [[メキシコ皇帝]]マクシミリアン1世
* [[マクシミリアン (メキシコ皇帝)|フェルディナント・'''マクシミリアン'''・ヨーゼフ]] (1832年 - 1867年) - [[メキシコ皇帝]]マクシミリアン1世
* [[カール・ルートヴィヒ・フォン・エスターライヒ|'''カール・ルートヴィヒ'''・ヨーゼフ・マリア]] (1833年 - 1896年) - [[フランツ・フェルディナント大公]]の父、オーストリア皇帝[[カール1世 (オーストリア皇帝)|カール1世]]の祖父
* [[カール・ルートヴィヒ・フォン・エスターライヒ|'''カール・ルートヴィヒ'''・ヨーゼフ・マリア]] (1833年 - 1896年) - [[フランツ・フェルディナント大公]]の父、オーストリア皇帝[[カール1世 (オーストリア皇帝)|カール1世]]の祖父

2022年5月28日 (土) 13:43時点における版

フランツ・カール
Franz Karl
ハプスブルク=ロートリンゲン家
フランツ・カール(1845年頃)

全名 Franz Karl Joseph
フランツ・カール・ヨーゼフ
称号 オーストリア大公
出生 (1802-12-07) 1802年12月7日
オーストリア帝国の旗 ハプスブルク帝国ウィーン
死去 (1878-03-08) 1878年3月8日(75歳没)
オーストリア=ハンガリー帝国の旗 オーストリア=ハンガリー帝国ウィーン
埋葬 オーストリア=ハンガリー帝国の旗 オーストリア=ハンガリー帝国ウィーンカプツィーナー納骨堂
配偶者 ゾフィー・フォン・バイエルン
子女 フランツ・ヨーゼフ1世
マクシミリアン
カール・ルートヴィヒ
マリア・アンナ
ルートヴィヒ・ヴィクトル
家名 ハプスブルク=ロートリンゲン家
父親 フランツ2世
母親 マリア・テレジア・フォン・ネアペル=ジツィーリエン
宗教 キリスト教カトリック教会
テンプレートを表示

フランツ・カール・フォン・エスターライヒ(Franz Karl von Österreich, 1802年12月7日 - 1878年3月8日)は、オーストリア帝国の皇族。オーストリア大公神聖ローマ皇帝フランツ2世オーストリア皇帝フランツ1世)の三男で、全名はフランツ・カール・ヨーゼフFranz Karl Joseph)。息子にオーストリア皇帝フランツ・ヨーゼフ1世メキシコ皇帝マクシミリアンがいる。

生涯

1802年12月7日、フランツ・カールはフランツ2世とその2人目の妃であったマリア・テレジアの間に第9子としてウィーンで生まれた。

政治的野心とは無縁の人物で、長兄フェルディナント1世1848年に退位した際は帝位継承権第1位であったにも関わらず即位を辞退し、長男のフランツ・ヨーゼフに帝位を譲っている。一方で、文化活動には熱心で、リンツにあるオーバーエスターライヒ州立博物館の "Francisco-Carolinum" は支援者であった彼を記念して名付けられたものである。

フランツ・カールは兄や長男には及ばないものの長命で、1878年3月8日にウィーンにおいて75歳で死去した。遺骨はウィーン・カプツィーナー教会皇帝納骨堂(カイザーグルフト)に収められている。

子女

1860年ころのフランツ・カールの息子たちの写真。左から順にカール・ルートヴィヒフランツ・ヨーゼフ1世マクシミリアンルートヴィヒ・ヴィクトル

フランツ・カールはバイエルン王マクシミリアン1世の王女ゾフィー1824年11月4日ウィーンで結婚した。彼女との間には以下の四男一女をもうけた。

系図

フランツ1世
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
フェルディナント1世フランツ・カール
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
フランツ・ヨーゼフ1世メキシコ皇帝
マクシミリアン
カール・ルートヴィヒ
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
ルドルフ
 
 
 
フランツ・フェルディナントオットー
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
貴賤結婚カール1世
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
オットー
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
カール