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'''カタリーナ・シュラット'''(Katharina Schratt,[[1853年]][[9月11日]] - [[1940年]][[4月18日]])は、[[オーストリア・ハンガリー帝国|オーストリア]]皇帝[[フランツ・ヨーゼフ1世]]の友人。
'''カタリーナ・シュラット'''(Katharina Schratt,[[1853年]][[9月11日]] - [[1940年]][[4月18日]])は、[[オーストリア・ハンガリー帝国|オーストリア]]皇帝[[フランツ・ヨーゼフ1世 (オーストリア皇帝)|フランツ・ヨーゼフ1世]]の友人。


== 生涯 ==
== 生涯 ==

2022年5月28日 (土) 13:39時点における版

カタリーナ・シュラット

カタリーナ・シュラット(Katharina Schratt,1853年9月11日 - 1940年4月18日)は、オーストリア皇帝フランツ・ヨーゼフ1世の友人。

生涯

女優カタリーナ

カタリーナは1853年にウィーン近郊の都市バーデンで食料雑貨商の娘に生まれた。

彼女は舞台女優になり、1872年にベルリンの王宮劇場で初舞台に立った。1873年12月2日にカタリーナは、フランツ・ヨーゼフの即位25周年を記念してブルク劇場で催された観劇会で『じゃじゃ馬ならし』の舞台に立っていた。この舞台で、当時20歳だったカタリーナの演技を見たフランツ・ヨーゼフは、彼女に関心を持ったという。しかし、この時はまだフランツ・ヨーゼフは、彼女の1ファンに留まり、カタリーナの方も、この後10年間はウィーンを離れ、ベルリン、サンクトペテルブルクで活動していた。1879年、カタリーナはハンガリー貴族のキス・フォン・イッテベ男爵ニコラウスと結婚し、翌年には息子のアントンを出産した。やがて夫とは別居し、アントンを引き取り、女優活動を続けた。1883年の秋に、ウィーンのブルク劇場に専属女優として雇われる。そのデビューが、ビルヒ・ファイファー作『村と町』の純情娘役で、これが大当たりし、間もなく皇帝家にもその評判が届いた。それから彼女は、フランツ・ヨーゼフと謁見した。

皇后エリーザベトの計らい

1885年8月25日、オーストリア皇帝夫妻はモラヴィアの小都市クロミェルジーシュで、ロシア皇帝アレクサンドル3世と皇后マリヤの2人と、オロモウツ大司教の城館で会見した。この会見の狙いは、バルカン情勢を討議し、両国の友好を図るのが狙いだったが、難航しそうな気配であった。そのため、オーストリア側は場の雰囲気を和らげようと寸劇の上演を企画し、カタリーナを含むブルク劇場の役者4人を同伴していた。会見後、余興に名優達の達者な芸が披露され、その後で晩餐会が催された。彼らはその席にも招待され、そこで初めてエリーザベト皇后はカタリーナを紹介された。エリーザベトは彼女に好意を抱いた。先刻から夫のフランツ・ヨーゼフがカタリーナを眺めてうっとりとしているのに気付いたエリーザベトはこの時、2人の仲を取り持ち、彼らを親しくさせてあげようと思いついた。この日の会見は結局目ぼしい成果がないまま終わったが、クロミェルジーシュでカタリーナと過した2日間は、フランツ・ヨーゼフにとって忘れがたいものとなったという。

1886年、エリーザベトは早速自分の思いつきを実行に移し、カタリーナの肖像画を宮廷画家ハインリヒ・フォン・アンゲリに描かせた。そしてその肖像画をフランツ・ヨーゼフに贈る事にしたが、製作中の画家のアトリエで2人が鉢合わせするように取り計らった。5月21日、エリーザベトに付き添われてフランツ・ヨーゼフがアトリエを訪れると、カタリーナ本人がモデルとして座っていた。そんな話は事前に何一つ聞かされていなかったフランツ・ヨーゼフとカタリーナは驚いたが、エリーザベトが積極的に後押ししてくれたため、フランツ・ヨーゼフは、ばつの悪さを感じずにすみ、こうしてエリザベート公認の、2人の不思議な友達付き合いが始まった。フランツ・ヨーゼフの方は、カタリーナに恋愛感情のようなものを持っていたと思われるが、2人の付き合いは最後まで友情的なものに留まる。

公認の交際

1886年の7月、フランツ・ヨーゼフは初めて、カタリーナを貸し別荘ヴィラ・フラウエンシュタインに訪ねた。彼から報告を聞いたエリーザベトは後日、自分も娘のマリー・ヴァレリーを連れてそこを訪れ、こうして2人の交際は皇帝家公認の事実となった。この時フランツ・ヨーゼフには、1875年に知り合ったアンナ・ナホフスキーという愛人がいたが、この1886年からカタリーナとの交流が深まるにつれて、彼の気持ちはカタリーナへと移っていった。フランツ・ヨーゼフは、2年後の1888年まで、何度かカタリーナの別荘を訪れた。

1888年の8月、今度はカタリーナがバート・イシュルの、カイザー・ヴィラに招待された。皇帝夫妻はカタリーナにこの別荘の内外を案内し、3人で楽しいひと時を過した。両親と共に別荘に来ていたマリー・ヴァレリーはまだ割り切れないものを感じていたが、カタリーナが母とは違うタイプの女性で、飾り気がなく、深い思いやりを持ったすばらしい女性であり、彼女との交際が父にとって大変ありがたいものとなっている事は、認めざるをえなかった。

エリーザベトは、シェーンブルン宮殿にもよくカタリーナを招待した。フランツ・ヨーゼフは、エリザベートに対するのと同様に、カタリーナに対しても大変に気前がよかった。街中に住居を世話してやった上に、シェーンブルン宮殿のそばにもこぢんまりとした別宅を用意してやった。他にも、アクセサリー、ドレス、家具などをふんだんに贈ったのはもちろん、年間手当として約3万グルデンを自由に使わせた。エリーザベトは、旅先にあってもカタリーナの事をよく気にかけていたらしい。自分の方からは鉱泉地を紹介したり、各種の療法を勧めたりし、その代わりにカタリーナの近況を絶えず知りたがった。フランツ・ヨーゼフは妻には何一つ隠し立てせず、カタリーナと2人で散歩や外出した事や、今度の芝居の役、病気はもちろん、彼女の体調の細々とした変化まで報告した。フランツ・ヨーゼフの妻エリーザベトが取り持ち、公認している、この3人の不思議な関係は、マリー・ヴァレリーだけでなく、カタリーナの息子のアントンをも困惑させたという。

エリーザベトのからかい

しかし、カタリーナに好意を抱き、彼女に対して親切だったエリーザベトだが、カタリーナに対して心底好意を抱いてはいなかったらしい。彼女のその気持ちは、例えば肉付きの良かった彼女をからかう

『慰め』
ほらほら来たわよ おデブの天使が 夏に薔薇持って 我慢なさいな オベロンさん、そんなやけは起こすんじゃないの!
彼女 バター桶を運んできて バターを作ってもらってる コニャックなんか髪にふりかけ あげくには乗馬まで習ってる 
お腹を縛ってコルセットに入れたら みんなバリッと破けちゃうわ それでも背筋をしゃんと伸ばして 他にもいろいろ猿真似するのね 
隅から隅まで繊細・上品なゼラニウムのお家にいるとティタニア(エリーザベト)そっくりになった気がするんでしょ
哀れなおデブのシュラットさん

という詩や、カタリーナに夢中のフランツ・ヨーゼフをもからかう

『夕方のお散歩』
五十八回の冬が あなたの頭上を 跡形もなく過ぎ去ったはずはない 現にふさふさしていた金髪の髪はとうにはげてしまったもの 
五十八年という歳月は 飾りのほおひげも白くした 夕日を受けて それが純銀さながら ただ光ってる
でもあなたは その夕日を浴び うれしそうに悠々と歩んでくる あなたのために今日は日没が遅れるよう 願うとしましょう 
せっかく連れ立っているんだもの あなたの心の女王様が あれはタレイアの優しい娘 あなたがぞっこんまいった人
五十八回の冬が あなたの心を 跡形もなく通り過ぎたはずがない 今日五月 恋のカッコウさながら 心は高鳴っているに違いない

という詩にも表されている。

皇帝の慰め

1889年1月30日ルドルフ皇太子マリー・ヴェッツェラとマイヤーリンクで心中した後には、カタリーナはすぐさま皇帝夫妻の許に駆けつけ、2人にお悔やみを言った。弟マクシミリアン、息子ルドルフと、フランツ・ヨーゼフに肉親の悲劇の死が相次いだが、1898年9月10日には、エリーザベトがジュネーヴ無政府主義者ルイジ・ルケーニに暗殺された。フランツ・ヨーゼフは、今のスイスには無政府主義者が多く潜伏しているとして、エリーザベトがスイスに旅行に行く事を止めていたのだった。

エリーザベトが暗殺された当日、カタリーナは、ザルツブルク州山間部のツェル・アム・ゼーで静養中だったが、エリーザベト暗殺の知らせを聞くとすぐにウィーンにとって返した。フランツ・ヨーゼフはカタリーナに深く感謝し、「かけがえのない友! 帰って来て下さり、どうもありがとう。故人をしのぶ話し相手として、あなたの他に誰がいるでしょう。11時からお待ちしておりますので、どうぞ庭を通らず、私の続き部屋を通ってお越しください。ではまた、あなたのフランツ・ヨーゼフ」という電報を打っている。エリーザベトの形見としてカタリーナは、金製の聖ゲオルギウス記念メダルが付いたブローチを賜った。エリーザベトの死後もフランツ・ヨーゼフとカタリーナ・シュラットの付き合いは続き、カタリーナは苦労の多い孤独な皇帝を労わり、慰めた。晩年のフランツ・ヨーゼフの楽しみは、シェーンブルン宮殿にあった旧オランダ庭園の敷地内にある、棕櫚園をカタリーナ・シュラットと連れ立って見て回る事だった。1916年11月16日にはフランツ・ヨーゼフが死去する。

カタリーナ・シュラットは1940年に死去した。

参考文献

  • ゲオルク・マルクス『ハプスブルク夜話』江村洋訳、河出書房新社、1992年、293頁。
  • ブリギッテ・ハーマン『エリーザベト 美しき皇妃の伝説』下巻、中村康之訳、朝日新聞社、2001年、336頁。
  • マルタ・シャート『皇妃エリザベートの生涯』西川賢一訳、集英社、2000年、245頁。