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「フィリブス・ウニティス (戦艦)」の版間の差分

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|30.5 cm(45口径)三連装砲4基、15 cm(50口径)単装砲12基、6.6 cm(50口径)単装砲18基、53.3cm水中魚雷発射管4基
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'''フィリブス・ウニティス''' ('''SMS Viribus Unitis''') は、[[オーストリア=ハンガリー帝国海軍]]の[[戦艦]]。[[テゲトフ級戦艦]]の1番艦。艦名の「フィリブス・ウニティス」 ({{lang|la|Viribus Unitis}}) は[[ラテン語]]で「力を合わせて」の意味であり、[[フランツ・ヨーゼフ1世]]の個人モットー。当初は「テゲトフ」と命名される予定だった。
'''フィリブス・ウニティス''' ('''SMS Viribus Unitis''') は、[[オーストリア=ハンガリー帝国海軍]]の[[戦艦]]。[[テゲトフ級戦艦]]の1番艦。艦名の「フィリブス・ウニティス」 ({{lang|la|Viribus Unitis}}) は[[ラテン語]]で「力を合わせて」の意味であり、[[フランツ・ヨーゼフ1世 (オーストリア皇帝)|フランツ・ヨーゼフ1世]]の個人モットー。当初は「テゲトフ」と命名される予定だった。


==艦歴==
==艦歴==

2022年5月28日 (土) 13:32時点における版

艦歴
発注 1908年
起工 1910年7月24日
進水 1911年6月24日
就役 1912年12月5日
退役
その後 1918年11月1日に戦没
除籍
性能諸元
排水量 20,000トン
全長 152 m (498 ft 8 in)
全幅 27.9 m (91 ft 6 in)
吃水 8.7 m (28 ft 7 in)
機関 ヤーロー式石炭・重油混焼缶12基+パーソンズ式直結タービン2基4軸推進、27,000 hp
最大速 20.4ノット(23.5 mph; 37.8 km/h)
航続距離 10ノットで4,200海里 (7,800 km)
乗員 士官32名、下士官16名、兵員993名
兵装 30.5 cm(45口径)三連装砲4基、15 cm(50口径)単装砲12基、6.6 cm(50口径)単装砲18基、53.3cm水中魚雷発射管4基

フィリブス・ウニティス (SMS Viribus Unitis) は、オーストリア=ハンガリー帝国海軍戦艦テゲトフ級戦艦の1番艦。艦名の「フィリブス・ウニティス」 (Viribus Unitis) はラテン語で「力を合わせて」の意味であり、フランツ・ヨーゼフ1世の個人モットー。当初は「テゲトフ」と命名される予定だった。

艦歴

フィリブス・ウニティスはトリエステスタビリメント・テクニコ・トリエスティーノ社で起工、1911年6月24日に進水し、1912年12月5日に就役した。

オーストリア=ハンガリー帝国第一次世界大戦で敗戦すると、オーストリア政府は艦隊の他の艦艇と共にフィリブス・ウニティスをスロベニア人・クロアチア人・セルビア人国に与えることを決定した。スロベニア人・クロアチア人・セルビア人国は中立を宣言したため、艦隊が連合国の手に渡るのは妨げられた。

1918年10月30日、プーラに停泊していたフィブリス・ウニティスはスロベニア人・クロアチア人・セルビア人国海軍に正式に移管され、クロアチア人のヤンコ・ヴコヴィッチ英語版大佐が艦長に就いた。艦名も「ユーゴスラビア」に改められた。だが新体制のもと活動できた期間はわずかだった。11月1日、フィブリス・ウニティス改めユーゴスラビアは、イタリア海軍の人間魚雷乗員による吸着機雷で沈められた。終戦3日前のことだった。

機雷は11月1日未明に2人のイタリア人ラファエル・パオルッチイタリア語版ラファエル・ロセッティ英語版により設置された。機雷は時限式で、午前6時30分に起爆する設定だった。2人はすぐに見張に見つかり、艦載艇に追われてフィブリス・ウニティスに連行された[1]。2人はオーストリアの戦艦を攻撃したつもりでいたが、既に中立国に移管されていたことを知って、爆弾を仕掛けたので逃げるように言い始めた。艦長も乗員に退艦を命じた[1]。設定時刻を少し過ぎた午前6時44分に水中で爆発が生じると、フィブリス・ウニティスは転覆し、艦長のヴコヴィッチは艦と共に沈んだ。パオルッチとロセッティは捕虜としてオーストリアの病院船に収容され、終戦後に解放された[1]

脚注

  1. ^ a b c Warhola, Brian (January 1998). “Assault on the Viribus Unitis”. Old News. 2020-06-030閲覧。

参考文献

外部リンク