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* 1722年-1729年 ロレーヌ公[[レオポルト (ロレーヌ公)|レオポルト]]
* 1722年-1729年 ロレーヌ公[[レオポルト (ロレーヌ公)|レオポルト]]
* 1729年-1765年 皇帝[[フランツ1世 (神聖ローマ皇帝)|フランツ1世]]
* 1729年-1765年 皇帝[[フランツ1世 (神聖ローマ皇帝)|フランツ1世]]
* 1765年-1766年 皇帝[[ヨーゼフ2世]]
* 1765年-1766年 皇帝[[ヨーゼフ2世 (神聖ローマ皇帝)|ヨーゼフ2世]]
* 1766年-1798年 [[マリア・クリスティーナ・フォン・エスターライヒ (1742-1798)|マリア・クリスティーナ]](共同統治)
* 1766年-1798年 [[マリア・クリスティーナ・フォン・エスターライヒ (1742-1798)|マリア・クリスティーナ]](共同統治)
* 1766年-1822年 [[アルベルト・カジミール・フォン・ザクセン=テシェン|アルベルト・カジミール]](1798年まで共同統治)
* 1766年-1822年 [[アルベルト・カジミール・フォン・ザクセン=テシェン|アルベルト・カジミール]](1798年まで共同統治)

2022年5月28日 (土) 12:51時点における版

チェシン公国
Księstwo Cieszyńskie (pl)
Těšínské knížectví (cs)
Herzogtum Teschen (de)
ポーランド王国 1281年 - 1918年 ポーランド第2共和国
チェコスロヴァキア
チェシン公国の国章
(国章)
公用語 ラテン語ドイツ語(後期)、ポーランド語(民衆語)、チェコ語
宗教 プロテスタントローマ・カトリック
首都 チェシン
チェシン公
1290年 - 1315年 ミェシュコ1世
1895年 - 1918年フリードリヒ
変遷
公国として分立 1281年
ボヘミア王冠領に臣属1327年
ハプスブルク君主国の支配1653年
スパ会議1920年7月28日

チェシン公国ないしテッシェン公国チェコ語: Těšínské knížectví; ドイツ語: Herzogtum Teschen; ラテン語: Ducatus Tessinensis; ポーランド語: Księstwo Cieszyńskie)は、高地シロンスクチェシンを首都とする独立公国で、シロンスク公国群の一つ。

歴史

公国はシロンスク南東部のチェシン・シレジアに位置していた。公国は1281年、封建的分裂状態に陥っていたポーランド王国から分立し、1290年よりピャスト家のシロンスク諸公の統治を受けた。チェシン公国からは、オシフィエンチム公国ザトル公国のような小規模な公国が何度も分立していった(オシフィエンチムは1315年に分かれ、ザトルはオシフィエンチムから1454年に分かれた)。

1327年、チェシン公カジミェシュ1世ボヘミアヨハン・フォン・ルクセンブルクに臣従した。これにより、公国は法的にはボヘミア王冠領の自治的な封土(レーエン)となった。ピャスト家の統治者達は何度か公国以外の地域を領有したこともあった。シェヴィエシュ公国や、グウォグフ公国の半分、ビトム公国の一部などである。1431年ボレスワフ1世が死ぬと、公国では公妃エウフェミアと4人の息子の共同統治が開始された。1442年には公国は4兄弟の間で分割されたため、兄弟全員が公式にはチェシンの公爵となったが、実際の統治者はボレスワフ2世プシェミスワフ2世で、後者は1452年のボレスワフの死後に単独の統治者となった。

ヴァツワフ3世アダムの統治期、公国は君臣信教一致の原則Cuius regio, eius religio)に従ってプロテスタント国家となったが、その後継者アダム・ヴァツワフは体制宗教をカトリックに戻した。1653年、ピャスト家最後の統治者だったエルジュビェタ・ルクレツィアが死ぬと、公国はハプスブルク家の支配するボヘミア王国に併合された。

18世紀初め、神聖ローマ皇帝カール6世は同盟関係を築くためサヴォイア公国モンフェッラート公国を譲渡し、同国を母方の祖母エレオノーラ・マグダレナ・ゴンザーガの血統的権利から相続するはずだった従兄のロレーヌ公レオポルトにチェシンを補償として与えた。レオポルトの死後は、その息子でカール6世の娘マリア・テレジアの夫である皇帝フランツ1世が相続した。シロンスクの大部分は1742年第一次シュレージエン戦争の結果プロイセン王国に併合されたが、チェシンはオーストリア領シュレージエンに留まった。

フランツ1世はチェシンを娘のマリア・クリスティーナとその夫のザクセン公子アルベルト・カジミールに相続させたため、夫妻はザクセン=テッシェン公爵夫妻と呼ばれた。アルベルトとマリア・クリスティーナには実子がなかったため、寡夫となったアルベルトが死ぬと、公国は夫妻が養子に迎えたマリア・クリスティーナの甥カールが相続し、ハプスブルク=ロートリンゲン家の分家である新しいチェシン公家(ハプスブルク=テッシェン家)が成立した。チェシン公(テッシェン公)の称号はカールの長男アルブレヒトに引き継がれ、1895年からはその甥フリードリヒが名乗った。

チェシン公国は1804年オーストリア帝国1867年以後はオーストリア=ハンガリー帝国)の一部となった。第一次世界大戦が終結すると、ポーランドやチェコが民族国家を成立させ、公国は1920年7月に開催されたスパ会議の結果、ポーランド第二共和国チェコスロヴァキアとの間で分割された。

人口統計

オーストリア=ハンガリー帝国政府が1910年に行った国勢調査では、公国は43万4000人の住民を抱えており、うちポーランド語話者が23万4000人(53.9%)、チェコ語話者が11万6000人(26.7%)、ドイツ語話者が7万7000人(17.7%)、その他が7000人(1.6%)であった。

チェシン公

チェシン公国のポーランド語の地図、20世紀
ヨハン・ホマンによる、1746年制作のチェシン公国の地図
シロンスク・ピャスト家
ハプスブルク家ロレーヌ家ハプスブルク=ロートリンゲン家

参考文献

  • Biermann, Gottlieb (1894) (German). Geschichte des Herzogthums Teschen (2nd edition ed.). Teschen: Verlag und Hofbuchhandlung Karl Prochaska. OCLC 34926439. http://www.kc-cieszyn.pl/biblioteka/strony/ramka.php?autor=biermann&licz=1 
  • Žáček, Rudolf (2004). Dějiny Slezska v datech. Praha: Libri. ISBN 80-7277-172-8 

外部リンク