「カール・テオドール (バイエルン選帝侯)」の版間の差分
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プファルツ選帝侯時代のカール・テオドールは、宮廷のあったマンハイムに科学アカデミーを設立したり、宮廷楽団をヨーロッパ屈指の規模と実力を誇るものにするなど、文化や学芸の振興に熱心であった。また、[[ハイデルベルク]]に橋や門を建設したり、[[デュッセルドルフ]]にベンラート城を建設したりもしている。 |
プファルツ選帝侯時代のカール・テオドールは、宮廷のあったマンハイムに科学アカデミーを設立したり、宮廷楽団をヨーロッパ屈指の規模と実力を誇るものにするなど、文化や学芸の振興に熱心であった。また、[[ハイデルベルク]]に橋や門を建設したり、[[デュッセルドルフ]]にベンラート城を建設したりもしている。 |
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[[1777年]]、[[バイエルン選帝侯領|バイエルン]][[バイエルン大公|選帝侯]][[マクシミリアン3世ヨーゼフ (バイエルン選帝侯)|マクシミリアン3世ヨーゼフ]]が死去し、バイエルン系ヴィッテルスバッハ家が断絶した。カール・テオドールがバイエルン選帝侯を継承することとなったが、彼は[[バイエルン選帝侯領|バイエルン]]に執着しなかったため、[[ハプスブルク君主国|オーストリア]]軍のバイエルン侵入を許した上で、バイエルンと[[南ネーデルラント|オーストリア領ネーデルラント]](現在の[[ベルギー]]、[[ルクセンブルク]])を交換しようという[[神聖ローマ皇帝]][[ヨーゼフ2世]]の提案に応じた。しかしこれには妃の甥で分家筋の[[プファルツ=ツヴァイブリュッケン|ツヴァイブリュッケン公]][[カール3世アウグスト・クリスティアン (プファルツ=ツヴァイブリュッケン公)|カール3世アウグスト]]が反対し、更に[[プロイセン王国|プロイセン]][[プロイセン国王|王]][[フリードリヒ2世 (プロイセン王)|フリードリヒ2世]]が介入する事態となって、[[バイエルン継承戦争]]へと発展した。結局領地交換は成立せず、カール・テオドールの宮廷は[[ミュンヘン]]に移ったものの、バイエルンの統治には不熱心だった。 |
[[1777年]]、[[バイエルン選帝侯領|バイエルン]][[バイエルン大公|選帝侯]][[マクシミリアン3世ヨーゼフ (バイエルン選帝侯)|マクシミリアン3世ヨーゼフ]]が死去し、バイエルン系ヴィッテルスバッハ家が断絶した。カール・テオドールがバイエルン選帝侯を継承することとなったが、彼は[[バイエルン選帝侯領|バイエルン]]に執着しなかったため、[[ハプスブルク君主国|オーストリア]]軍のバイエルン侵入を許した上で、バイエルンと[[南ネーデルラント|オーストリア領ネーデルラント]](現在の[[ベルギー]]、[[ルクセンブルク]])を交換しようという[[神聖ローマ皇帝]][[ヨーゼフ2世 (神聖ローマ皇帝)|ヨーゼフ2世]]の提案に応じた。しかしこれには妃の甥で分家筋の[[プファルツ=ツヴァイブリュッケン|ツヴァイブリュッケン公]][[カール3世アウグスト・クリスティアン (プファルツ=ツヴァイブリュッケン公)|カール3世アウグスト]]が反対し、更に[[プロイセン王国|プロイセン]][[プロイセン国王|王]][[フリードリヒ2世 (プロイセン王)|フリードリヒ2世]]が介入する事態となって、[[バイエルン継承戦争]]へと発展した。結局領地交換は成立せず、カール・テオドールの宮廷は[[ミュンヘン]]に移ったものの、バイエルンの統治には不熱心だった。 |
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[[フランス革命戦争|フランス革命軍]]が[[1795年]]にプファルツへ侵入し、[[1796年]]にバイエルンに迫った時、カール・テオドールは皇帝[[フランツ2世]]に支援を求めたが、見返りにバイエルンが実質的にオーストリアの属国となるのも容認した。そのため、カール・テオドールはバイエルンの君主としては人気がなく、[[1799年]]にミュンヘンで[[卒中]]のため死去した際、ミュンヘン市民は数日間それを祝ったという。 |
[[フランス革命戦争|フランス革命軍]]が[[1795年]]にプファルツへ侵入し、[[1796年]]にバイエルンに迫った時、カール・テオドールは皇帝[[フランツ2世]]に支援を求めたが、見返りにバイエルンが実質的にオーストリアの属国となるのも容認した。そのため、カール・テオドールはバイエルンの君主としては人気がなく、[[1799年]]にミュンヘンで[[卒中]]のため死去した際、ミュンヘン市民は数日間それを祝ったという。 |
2022年5月28日 (土) 12:44時点における版
カール・テオドール Karl Theodor | |
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バイエルン選帝侯 | |
カール・テオドール(プファルツ選帝侯時代、ツィーゼニス画) | |
在位 | 1777年12月30日 - 1799年2月16日 |
別号 | プファルツ選帝侯(ライン宮中伯) |
在位 | 1742年12月31日 - 1777年12月30日 |
出生 |
1724年12月12日 オーストリア領ネーデルラント、ブリュッセル近郊ドロヘンボス |
死去 |
1799年2月16日(74歳没) 神聖ローマ帝国 バイエルン選帝侯領、ミュンヘン |
埋葬 |
神聖ローマ帝国 バイエルン選帝侯領、ミュンヘン、テアティナー教会 |
配偶者 | エリーザベト・アウグステ・フォン・プファルツ=ズルツバッハ |
マリア・レオポルディーネ・フォン・エスターライヒ=エステ | |
家名 | プファルツ=ズルツバッハ家 |
父親 | プファルツ=ズルツバッハ公ヨハン・クリスティアン |
母親 | ベルヘン・オプ・ゾーム辺境女伯マリー・アンリエット・ド・ラ・トゥール・ドーヴェルニュ |
カール・テオドール(ドイツ語: Karl Theodor, 1724年12月12日 - 1799年2月16日)は、ライン宮中伯(在位:1743年 - 1799年)兼バイエルン選帝侯(在位:1777年 - 1799年)。カール2世・テオドール(独: Karl II. Theodor)とも。ライン宮中伯(プファルツ選帝侯、1777年以降は選帝侯の資格を喪失)としてはカール4世フィリップ・テオドール(独: Karl IV. Philipp Theodor)。
ヴィッテルスバッハ家は14世紀以降バイエルン系(ルートヴィヒ4世が祖)とプファルツ系(ルドルフ1世が祖)に家系が分かれていたが、プファルツ系のカール・テオドールがバイエルン選帝侯を継承したことで統合された。
生涯
カール・テオドールはブリュッセル近郊のドロヘンボスで生まれ、マンハイムで育った。父はプファルツ系ヴィッテルスバッハ家傍系ズルツバッハ家のヨハン・クリスティアン、母はベルヘン・オプ・ゾーム辺境女伯マリー・アンリエット・ド・ラ・トゥール・ドーヴェルニュである。1742年、父方の従姉マリア・エリーザベト・アロイス・アウグステ(1721年 - 1794年)と結婚し、1743年にプファルツ選帝侯を継承した。1742年12月31日に死去した前選帝侯カール3世フィリップには男子がなく、エリーザベトは最年長の孫だった。カール・テオドール自身は祖父テオドール・オイスタッハがカール3世フィリップの又従兄という関係にあった。
プファルツ選帝侯時代のカール・テオドールは、宮廷のあったマンハイムに科学アカデミーを設立したり、宮廷楽団をヨーロッパ屈指の規模と実力を誇るものにするなど、文化や学芸の振興に熱心であった。また、ハイデルベルクに橋や門を建設したり、デュッセルドルフにベンラート城を建設したりもしている。
1777年、バイエルン選帝侯マクシミリアン3世ヨーゼフが死去し、バイエルン系ヴィッテルスバッハ家が断絶した。カール・テオドールがバイエルン選帝侯を継承することとなったが、彼はバイエルンに執着しなかったため、オーストリア軍のバイエルン侵入を許した上で、バイエルンとオーストリア領ネーデルラント(現在のベルギー、ルクセンブルク)を交換しようという神聖ローマ皇帝ヨーゼフ2世の提案に応じた。しかしこれには妃の甥で分家筋のツヴァイブリュッケン公カール3世アウグストが反対し、更にプロイセン王フリードリヒ2世が介入する事態となって、バイエルン継承戦争へと発展した。結局領地交換は成立せず、カール・テオドールの宮廷はミュンヘンに移ったものの、バイエルンの統治には不熱心だった。
フランス革命軍が1795年にプファルツへ侵入し、1796年にバイエルンに迫った時、カール・テオドールは皇帝フランツ2世に支援を求めたが、見返りにバイエルンが実質的にオーストリアの属国となるのも容認した。そのため、カール・テオドールはバイエルンの君主としては人気がなく、1799年にミュンヘンで卒中のため死去した際、ミュンヘン市民は数日間それを祝ったという。
カール・テオドールは最初の妃エリーザベトとの間に存命の子供がなく、ハプスブルク家から後妻に迎えたマリア・レオポルディーネとも子供を儲けることがなかった。カール・テオドールの死後、選帝侯位はエリーザベトの妹の息子であるツヴァイブリュッケン公マクシミリアン・ヨーゼフ(カール3世アウグストの弟)が継承した。フランス革命戦争とナポレオン戦争の過程でプファルツは一時失ったものの、バイエルンは領土を拡大してバイエルン王国となり、マクシミリアン・ヨーゼフは初代バイエルン国王となった。
関連項目
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