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[[File:Hashimoto Yawata city.jpg|thumb|right|250px|橋本に残る遊 |
[[File:Hashimoto Yawata city.jpg|thumb|right|250px|橋本に残る遊廓時代からの建築]] |
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'''橋本遊 |
'''橋本遊廓'''(はしもとゆうかく)は、[[京都府]][[綴喜郡]]八幡町字[[橋本 (八幡市)|橋本]](現・[[八幡市]])にかつて存在した[[遊廓]]。[[1930年]]([[昭和]]5年)に刊行された『全国遊廓案内』では'''八幡町遊廓'''として記載がある<ref name="annai1930">[{{NDLDC|1453000/174}} 『全国遊廓案内』]336 - 337頁([[国立国会図書館デジタルコレクション]])。2022年4月6日閲覧。</ref>。 |
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== 概要 == |
== 概要 == |
2022年5月24日 (火) 21:30時点における版
橋本遊廓(はしもとゆうかく)は、京都府綴喜郡八幡町字橋本(現・八幡市)にかつて存在した遊廓。1930年(昭和5年)に刊行された『全国遊廓案内』では八幡町遊廓として記載がある[1]。
概要
京と大阪を結ぶ京街道の遊里として古くから栄え、1910年(明治43年)に京阪本線が開通すると電車が客を運んだ[2]。1930年(昭和5年)に刊行された『全国遊廓案内』によると、
京阪電鉄橋本駅以西が全部遊廓の許可地に成って居る。明治十年の創立で、歌舞伎で有名な「引窓」の「橋本の里」が今遊廓の在る所である。淀川、桂川、宇治川の三川の合流に沿って居るので風景もよく、夏は涼しく、多数の網船が出漁して、夜間の不夜城、川岸に絃歌のさんざめく辺りは実に別世界の感じがある。丁度京、阪の中間に位置して居るので、斯うした情景を慕ひ寄って来る者が多いので花街はめきめきと繁昌し、今では貸座敷の組合員が七十五人居り、娼妓は四百七十人、芸妓は三十名と云ふ大舞台に成って居る。女は主に中国、四国、九州方面が多い。店は陰店式で、娼妓は居稼ぎもやれば、又送り込みもやって居る。遊興は勿論時間花制又は通し花制で廻しは絶対に取らない。費用は一時間遊びが一円で、引過ぎからの一泊は五十六円だ。台の物は附かない。芸妓の玉代は一時間が一円五十銭で、二時間目からは一円宛である。附近には石清水八幡宮、淀競馬場、柳谷観世音、関西漕艇クラブコース等があり、松茸、川魚等が名物だ。主なる妓楼は第二中川楼、第一勝山楼、第一成駒楼、辻本楼、第一友榮楼、藤井楼、森田楼、辻よし、大金楼等である。 — 『全国遊廓案内』[1]
1958年(昭和33年)、売春防止法が施行された[2]。赤線が廃止され、遊廓は街から姿を消した[2]。妓楼の経営者たちは建物をそのまま再利用できるアパート経営、旅館、料亭などへ転業した[2]。
現況
駐車場になろうとしていた旧橋本遊廓の妓楼建築の旧三桝楼を、中国の東北地方出身の女性が購入した[2]。女性は「こんなに日本文化が残る建物をつぶしてはもったいない」と旧三桝楼の購入を決めたという[2]。女性は来日してから30年が過ぎ、すでに日本国籍を取得していたが、中国出身という理由で建物の売買に反対する地域住民もいた[2]。
旧三桝楼は、大掛かりな改修工事を経て2020年(令和2年)に「旅館・橋本の香」としてオープンした[2]。女性は旅館・橋本の香に続き、旧第二友栄楼という屋号の橋本遊廓で最も古い築120年の物件を借金をして購入した[2]。旧第二友栄楼だった建物は2021年(令和3年)に中国茶カフェ「美香茶楼」に生まれ変わった[2]。
脚注
参考文献
- 『全国遊廓案内』日本遊覧社、1930年。